【コラムニスト・泉麻人】昔の記憶を旅する「時代トリップ」は、年齢を重ねた人ならではの愉しみ

【コラムニスト・泉麻人】昔の記憶を旅する「時代トリップ」は、年齢を重ねた人ならではの愉しみ

更新日 2023/03/27

銀座は表通りの広々とした歩道を散歩するのもいいけれど、ちょっと横道にそれるとホッとする。西五番街、みゆき通り、交詢社通り、タテヨコの静かな道を歩いていると、なんとなく銀座の通人になった気分になれるものだ」

泉麻人さんの近著『銀ぶら百年』(文藝春秋)からの一節だ。

これまで「東京」をテーマにした本を多く書いてきた泉さんだが、銀座というひとつの町にテーマを限定した本は、これが初めてだという。

そこで今回は、街歩きの愉しみについて語っていただきながら、今年の4月で67歳になる「老いの心境」についてもじっくり話を聞いていこう。

銀ぶら百年

  • 著者:泉麻人
  • 発行:文藝春秋
  • 定価:2000円(税別)

80年代の東京には、イジリ甲斐のある個性があった

コラムニストの泉麻人が上梓した新著『銀ぶら百年』の書影

―『銀ぶら百年』(文藝春秋)のあとがきで泉さんは「『東京』と銘打った本は、これまでいくつも書いてきた(20冊くらいはあるのではないか?)」と書いています。そんな泉さんにとって、東京とはどんな存在なのでしょう?

生まれ育ったのが新宿区の端っこの落合というところで、子どもの頃から東京の地図を見て細かいところを調べたり、知っているバス停を書き入れたりするのが好きでした。

小学生の低学年の頃は、自転車で行ける範囲を探検してましたけど、学年が上がっていくとバスとか地下鉄といった公共交通機関を使っていろいろ行くようになりました。

よく覚えているのが1969年、中1の夏に都営三田線の巣鴨と志村(その後、高島平に改名)の間が開通して、初日を狙って乗りに行ったことです。

高島平団地はまだできてなくて、駅を降りると田んぼをつぶして造成した、だだっ広い土地が広がっていて、成増あたりの丘が見えたのを覚えています。

―そのような趣味を活かして東京についての文章を書き始めたのは、いつ頃ですか?

1980年くらいに流行通信社(現・INFASパブリケーションズ)の「スタジオボイス」という雑誌に泉麻人というペンネームを使って初めて書いたのが東京についての文章だったし、マガジンハウスの「POPEYE」では、後に本にもなった『街のオキテ』(新潮文庫)という企画を連載しました。

1回目のネタが、「東京23区の偉い順」というランキング遊び。そのほか、「喫茶店でウンコをした場合の正しい言い訳」とか「ゲロのカッコイイ吐き方」と、モヤモヤとした街の約束事について書いていくうちに主婦の友社の編集者が声をかけてくれて『東京23区物語』を書くことになりました。

―『東京23区物語』は1985年に単行本になって、その16年後の2001年には改訂版となる『新・東京23区物語』(ともに新潮文庫)を書くことになりますね。

最初の本を書いた頃は、日本がまだ景気のよかった時代で東京自体、地域によっていろんな個性を持ってました。そこで「隅田川をわたると住民のパンチパーマ占有率が高くなる」とか、「練馬、杉並、中野は水原弘・由美かおる看板の残存率が高い」なんて、その違いをちゃかして書いたんです。

ところが、2001年にその新版を書いた頃は東京の平板化が進んでいて、以前のような個性が薄れていました。僕自身、ギャグっぽい文章を書くのに飽きていたこともあるけど、新版では東京の変化をマジメに記録しようという意識で書いた覚えがあります。

その後、自転車に乗って東京を探訪した『東京自転車日記』(新潮文庫)、路線バスの乗り歩きエッセー『大東京バス案内』(講談社文庫)、知る人ぞ知る宿に泊まって町歩きを愉しむ『東京ディープな宿』(中公文庫)、喫茶店探しにポイントを置いた『東京ふつうの喫茶店』(平凡社)、七福神巡りに特化した『東京・七福神の町あるき』(‎淡交社)と、手を変え品を変えて東京についての本を書いてきました。

僕にとって銀座は「近くて遠い都会」だった

―『銀ぶら百年』(文藝春秋)もそうした東京本のひとつだと思いますが、ひとつの街をテーマにした本は初めてだったそうですね?

銀座の商店会が中心となって運営している「GINZA OFFICIAL」というWebサイトに書いた連載コラムが元になっているのでそうなったんですけどね。

「銀ぶら」という言葉が生まれたといわれている大正4、5年から現在に至る約100年の歴史をふまえつつ、銀座の魅力を再考する内容にしてほしい、といわれても、銀座は数えきれないほどの老舗がある街だし、これを網羅的に取りあげるのはむずかしい。そこで、銀座のなかでも自分との関わりのある店やスポットから取りあげていくことにしました。

―泉さんが最初に銀座と関わりをもったのは、いつ頃なんでしょう?

幼稚園児の頃、母に連れられて銀座のデパートに買い物に来たとき、数寄屋橋の不二家でプリンやチョコレートパフェなんかをおねだりして食べた思い出が強く残っていますね。

買い物といっても、ショッピングだけが目的なんじゃなくて、「銀座に行く」こと自体が今思えば一種の娯楽のようなものでした。

というのも、僕みたいな山手線の外側の落合という場所に住んでいる者にとって、銀座という街には「近くて遠い都会」というイメージがあったんです。

地下鉄に乗れば30~40分くらいで着いてしまうんだけど、駅から降りて見た都会の風景はまったくの別世界。「ビル」と呼ばれる建物がザーッと並んでいる街並みは、落合界隈では絶対に見られない景色でした。

―銀座が今でいう、テーマパークのように見えていたんですね。

実際、銀座には生まれて初めて見るものがあふれていました。

今、ティファニー銀座本店がある場所にはかつて、「オリンピック」という洋食レストランがあって、店の片隅に見たこともないような大きなオーブンがありました。母はこれを日本式に天火(てんぴ)と呼んでましたけど、そこに皿ごと入れて焼いたアツアツのマカロニグラタンの焦げ皮の味は忘れられないものがあります。

そういう記憶のなかの空気感を足掛かりにして、銀座の魅力をひもといていこうとしたわけです。

衝撃的な出会い!マクドナルドのハンバーガー

―中学生になって、慶應義塾中等部に進学した泉さんにとって、銀座は学校帰りの寄り道スポットになるわけですよね?

そうですね。慶應の中等部というのは、前身が商工学校だったこともあって、人形町や浅草で商店を営む家に生まれた子が多かったんです。僕はサッカー部に入っていたんだけど、チームメイトにはカバン屋さん、靴屋さん、ハンカチ屋さんの子がいました。

で、そういう下町育ちの子は、出入りの職人さんから小遣いをもらっていたりして日銭を持っているので、買い食いにも慣れているんです。1971年に銀座三越の1階に開業したマクドナルドに行っても、平気な顔でビッグマックなんかを食べているわけ。

―1971年というと、泉さんが中学3年生のときですね。

当時の僕にとってハンバーガーは、未知の食べ物でした。たまに三笠会館などのレストランに連れていってもらったとき、普通に作ったハンバーグをパンではさんだ分厚いサンドイッチ風のものを見たことはあったんだけど、アメコミの『ポパイ』でウィンピーおじさんが食べているハンバーガーとはほど遠いものでした。

だから、マクドナルドに行って初めてハンバーガーを見たときは強い印象を受けました。薄いバンズにはさまれていて、なるほど、こんなにおいしいものならウィンピーおじさんが好物にするのも納得できるなと、腑に落ちました。

―日本初出店のマクドナルドは、日本人にハンバーガーの味を知らしめた存在だったんですね。

ハンバーガーのほかには、シェイクも衝撃的でした。ジュースともアイスクリームとも違う、太いストローを挿して思いきり吸い込む、新しいスタイルの飲み物。

ちなみに、マクドナルドが開店した前年の1970年は銀座を始めとする繁華街で「歩行者天国」が始まった年でもあるんですが、いつもはクルマが通っている道路を友だち連中と歩きながら、マックシェイクの早飲み競争をしたものです。

歩行者天国といえば、マクドナルドが開店した同年に日清食品がカップヌードルの実演販売をした場所としても有名です。当時の銀座は、それまで日本になかった新商品の市場調査をするマーケティングの場でもあったんですね。

「変わっていく」ことそのものが東京の特色

―その後は、どんな風に銀座と関わりを持っていったのですか?

高校時代は、銀座に行った記憶はそんなにないんだけど、大学時代の後半には「コピーライター養成講座」の夜間コースに週1~2回ほど通い始めて、その会場が銀座2丁目にある横長の中小企業会館ビルにありました。

その後、東京ニュース通信社に就職して『週刊TVガイド』の記者になってからは、社屋が築地にあったので銀座は近い存在でしたね。

それから、会社に内緒でライターの副業をやるようになってからは、東銀座のマガジンハウスにも足繁く通うようになりました。

当時、駆け出しのライターにはFAXで原稿を送ることなんか許されていなくて、編集者に原稿を手渡ししていたんです。東銀座の周辺にはまだ老舗旅館がいくつも残っていて、そこの大広間を貸し切って編集者とライターが特集の記事づくりをしたりしていました。

こうしてふり返ってみると、僕は人生のいろいろな場面で銀座と関わってきたことになりますね。

―『銀ぶら百年』で紹介されたお店のなかには、本の出版後に閉店してしまったお店がありますね。

アイビールックの牽引役だった「テイメン(テイジンメンズショップ)」が、本の発売から2カ月後に閉店してしまったのにはショックを受けましたね。

それから、銀座4丁目交差点で「和光」と並んでシンボリックな建物だった「三愛」の円筒形ビルも今朝(2023年3月14日)の新聞を読んでいたら老朽化で建て壊しになるという記事が載ってました。

本で紹介したときは、婦人服の三愛はすでに撤退していて、創業者の会社のリコーの歴代カメラが展示されている様子を書きました。ビルは銀座のランドマークとして残されていくんだろうな思っていたけど、なくなっちゃうんだね。

―そのように銀座が、東京が、めまぐるしく変わっていくことについて、泉さんはどう思っていますか?

ヨーロッパだと、100年以上も経つ建物が普通に立ちならんでいる街が当たり前だけど、日本の場合、そのへんの考え方が根本的に違うみたいですね。

銀座は明治5年の大火、大正12年の関東大震災、昭和20年の空襲と、3度にわたって壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、その度に復興してきました。

でも、なかには三愛ビルのように、そういう人災や災害とは関係なしに変わっちゃう建物もたくさんあります。ということは、「変わっていく」というのが銀座とか東京の特色なんじゃないかなぁ、とも思います。

―東京が変わっていくことは、「いいこと」でも「悪いこと」でもない、ということですか?

そうだと思います。だって、人々の記憶のなかにはその街の風景が残り続けるわけだから。

最近、書店に行くと、昔の街並みを写真とか絵葉書とかで再現している写真集をよく見かけるようになりましたよね。東京は変化のサイクルが早いだけに、なくなってしまった風景を記憶のなかから掘り起こす愉しみがあるとも言える。

―そういえば、介護の現場では「回想法」といって、昔の街並みの写真を見ながら会話をすることで認知症の予防やリハビリにつなげる手法を導入している施設があるそうです。

97歳になった僕の母は、家から300~400メートル先のサービス付き高齢者向け住宅で暮らしているんだけど、血圧の薬とか飲まなきゃならないから毎朝、訪ねていくのが日課なんです。

もう年相応にぼけてはいるんだけど、僕が幼稚園児や小学生だったりする頃の話をすると、元気に言葉をかえしてくれます。閉店してしまった銀座の洋食レストラン「オリンピック」の話や、実家のまわりの風景の変わり方まで、話題は豊富にあります。こういう話ができるのは、変化の激しい東京ならではですよね。

年寄りを笑ってた自分が「笑われる年寄り」になっちゃった

―2015年に泉さんは『還暦シェアハウス』(中公文庫)を出版しました。60歳の還暦を1年後に控えたフリーライターの松木を主人公にしたこの小説は、泉さんが「老い」というテーマに初めて向き合った本だと思うんですが、いかがでしょう?

僕は文章を書くとき、自分と同じ年代の人たちをつねに意識してきました。20代のときは20代の人たちに向けて、30代では30代の人たちに向けて。40歳になったときには、『新中年手帳』(幻冬舎)という本を書いています。

音楽のほうでも、自分の年齢にこだわらず、普遍的なラブソングをつくり続けているユーミン(松任谷由実)みたいな人もいれば、竹内まりやさんのように子育てとかの人生経験を曲づくりに生かしている人もいますよね。僕の場合、竹内さんと同じスタイルだといえるのかもしれない。

―『還暦シェアハウス』も、還暦前後の自分と同じ年代の人を意識して書いたものなんですね?

そう。だから、必ずしも「老い」をテーマとして描こうとしていたわけではないんです。でも、結果的には「老い」のリアルな実態を描かざるを得ませんでした。

同窓会とかで昔の友人と会って近況報告をすると、その半分は病院通いしている話だったり、持病の話です。『還暦シェアハウス』の冒頭で主人公が前立腺炎にかかって渋谷の泌尿器科に通うシーンから始まるのは、そのときの話から発想したんじゃないのかな。

あと、主人公たちが後半で山登りをするシーンでは、糖尿病を持病に持つ同行者がインシュリン切れになって大騒ぎになるシーンもあります。

最初に『街のオキテ』の話をしたけど、ネタのなかには「オシッコのシミの隠し方」なんてのがあって、20代の僕は尿漏れする年代の人をちゃかしたりしていたけど、自分自身が若いときの自分に笑われる対象になっていたわけです。

50代の老いはショックだったけど60代の老いは自然に受け入れられた

―泉さんが自身の「老い」を実感するようになったのは、何がきっかけですか?

やはり、老眼でしょうね。40代後半で、職業柄、普通の人より早く来たんじゃないかと思います。徹夜で原稿を書く、なんてこともできなくなりました。

ただ、年をとっても趣味の町歩きを続けたいと思って、40歳を過ぎた頃から週1でジムに通ってトレーニングを続けたおかげで、足腰の衰えを防ぐことができたのは幸いでした。

それで、中高とサッカー部だった体育会魂がぶり返して、フットサルを始めたりね。若い頃、バンドを組んでいたオヤジがエレキを買い直すようなノリです。

ただ、数年前、試合中にふくらはぎが肉離れを起こしたのをきっかけにフットサルはやめちゃったんだけど。

―さすがに還暦を過ぎてフットサルというのは、ハードかもしれませんね。

自分自身の「老い」というものをふり返ってみると、50代で老眼がいよいよ進んだ頃はショックを受けたけど、60代になったときは自分の体の衰えをナイーブに考えるのではなく、自然に受け入れるような気持ちになっていたように思います。

―『還暦シェアハウス』が明るい雰囲気の冒険小説になっているのは、60代をむかえた泉さんのそんな心境が反映されているからなのかもしれませんね。

ええ、そうですね。

「記憶をめぐる旅」は年をとればとるほどおもしろくなる

―『還暦シェアハウス』の主人公の松木は、国会図書館に行って新聞縮刷版を読むのを趣味にしていますが、これは泉さんご自身の趣味を反映しているのでしょうか?

そうです。『銀ぶら百年』を書くときも、国会図書館の新聞資料室にはだいぶお世話になりました。

新聞縮刷版は、仕事のために読むというより、純粋な愉しみとして読むこともよくあります。原紙やマイクロフィルムとして所蔵されているのもあるんだけど、縮刷版は年代順に並べて開架されているから、パラパラめくって読みたい記事を探しやすいんです。

複写する場所がけっこう離れてて、資料室と複写カウンターとのあいだを行ったり来たりするのにけっこうな体力を要するのが玉にキズなんだけどね。

―松木は、気まぐれにある年の縮刷版を取り出して、その時代の気分にひたることを「時代トリップ」と呼んでいますね。

年をとると、1面を飾るニュースとか社会面だけじゃなくて、スポーツ欄やテレビ番組表なんかにも目がいくようになります。思い出がたくさん蓄積されているだけに、何気ない広告ひとつで新鮮な記憶がよみがえってくることがある。

こういう愉しみは、年をとることのポジティブな一面なんじゃないのかな。

―「時代トリップ」をするには、昔の写真や新聞縮刷版以外にも方法がありますか?

日記をつけてると、だいぶいいんですけどね。僕は小学4年生のときに担任の先生から「日記をつけなさい」と言われて、中学生の頃まで毎日書いていたんだけど、子どもの頃のエピソードを思い出す資料になりますよね。

あと、『銀ぶら百年』の第1回目の記事は、銀座2丁目の「銀座・伊東屋」という文具店の紹介から始めていますが、それは僕がこの店で毎年、スケジュール帳を買いに銀座散歩をしているからなんです。

いちばん古いのは、1986年のもの。5年勤めた会社を辞めて、フリーのライターになって2年目の30歳のときの手帳です。

今日は、この場に持ってきてあるので開いてみましょう。

えんぴつで書き入れているので、だいぶかすれていますが、1ヵ月のあいだに3つも結婚式の予定が入っている月があったりします。

そんなの忘れていたけど、1986年は長女が生まれた年だから、まわりが結婚適齢期だったのは不思議ではありません。

―お葬式の予定とかもわかるんですか?

たぶん、その後の30数冊のスケジュール帳を見てみれば、書き込みしているはずです。

お葬式というと、40代後半までは友だちの親が多いんだけど、50代後半になると友だち本人のお葬式に参列するようになる。

日記だと、後で読むことを想定して書くから記述が具体的になりますよね。でも、スケジュール帳だと、その日に予定している行動が素っ気ない単語で書かれているだけだから、記憶の圧縮率が日記より高いんです。なかには、日記では思い出せなかったような記憶が出てくることもありますよね。

―お葬式の話が出たところで最後に質問です。「死」は誰にも平等にやってきますが、泉さんはどのようにそのときを迎えたいですか?

そういうことについては、あんまり考えたことがないなぁ。

でも、やっぱり長年、馴染んだ環境で普通に死にたいですね。「子どもの頃の思い出のある実家で死にたい」と思ったところで、昔の建物がそのまま残っているわけではないし、ましてや「海を見ながら死にたい」なんて思ったりはしないでしょう。強いていえば、いつも寝ているベッドの上で静かに眠りながら死んでいくのが理想といえるでしょうか。

最近、つげ義春さんの日記や漫画作品を読み返したりして、僕のなかでちょっとした「つげブーム」が起こっているんですが、初期の若い頃の作品を読んでもつげさんは「死」について、いろんなことを語っているんです。

でも、ご本人は85歳を過ぎた今も、元気にご存命でしょ?こういう大先輩の存在は大きな励みになりますよね。

―とても楽しいお話、どうもありがとうございます。

撮影/八木虎造

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