今回取りあげるのは、稲田豊史氏の最新刊。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)で新書大賞2023第2位を獲得した著者である。
「日本においてポテトチップスは、スナック菓子売り場でもっとも良い場所に陳列されていて、その種類は目移りするほど豊富だ」と語るポテチが、いかにして「日本人の国民食」となっていったかを丁寧に追った労作だ。
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本書の冒頭で明かされるのは、ポテチの原料であるじゃがいもが、世界において蔑視される食材だったという意外な事実である。
16世紀頃、原産地の南米アンデス山脈からヨーロッパに渡ったジャガイモは、生産効率が高く、栽培もしやすいことからまたたく間に各地へ広がったが、その地位は低かったという。その理由は、次のように説明される。
なぜなら当時のヨーロッパでは、人間が食すことのできる植物はすべて種から育てるものであり、「雌雄が受精によって結ばれ実を結ぶのではなく、種芋が自己増殖する」という“異常な性質”がキリスト教的に“不潔” である、とする考え方があったからだ。
(中略)
英語圏においてはジャガイモ (potato) はネガティブな言い回しとして使用されている。 「hot potato」 は「誰も責任を取ろうとしない企画」、「meat-and-potatoes man」 は 「単純な味覚の持ち主の男性」、「potato head」 は 「愚かな人」、「potato nose」は「魅力的でない鼻」といった具合。 あまりといえば、あまりだ。
そんなじゃがいを「ポテトチップ」として調理し、ひと山当てたのがアフリカ系アメリカ人のジョージ・クラムという料理人だった。
1853年、「じゃがいもだけをどっさり食べたい」という客のオーダーな応じて、薄切りにしたじゃがいもを油で揚げて塩をかけるという奇妙な料理が生まれ、全米に広がっていった。
日本で最初にポテチの商品化に取り組んだのは、戦前にハワイに渡たり、戦後になって日本に帰国した濱田音四郎という人で、進駐軍の米兵から「故郷で食べていたポテトチップスを日本でも食べたい」との要望を受けてポテチの製造が始まった。1948年のことである。
ポテチは米兵たちに大いに歓迎されたそうだが、彼らが故郷に引き揚げていくと深刻な顧客不足に悩むことになる。当時の日本人にとって、じゃがいもはサツマイモやカボチャなどとともに米の代用食として盛んに食べられた食材だったが、戦後の復興が整う時期に入ると「もうイモなんか食べたくない」という気分が蔓延していたのだ。
そこで音四郎は、顧客を夜の酒場に求めた。ホテルのビアガーデンなどを回り、「アメリカではビールといえばポテトチップス。このふたつは切っても離せないものです」とアピールした。
1950年に売り出した商品名も「フラ印アメリカンポテトチップ」という“舶来”を強調したものだった。値段も現在の物価に換算すると800円前後と高価で、その販路はホテルやデパート、高級スーパーや高級バーなどに限られていた。
「高級な酒のつまみ」としてかろうじて居場所を確保したポテチだったが、これを「おやつ」としてヒットさせようと考えたのが、湖池屋の初代社長の小池和夫だった。
もともと和菓子屋勤めのセールスマンだった和夫は、独立して店を構えるにあたって、古巣と競合となる甘いものではなく、しょっぱいもので売れる商品を模索していたのだ。「高価なポテチをお菓子くらいの安い値段で売れば、ヒットするに違いない」と目論んだのだ。
4年ほどの研究を経て、「湖池屋ポテトチップス のり塩」が発売されたのは1962年のこと。そのフレーバーを、アメリカで一般的な「塩味」ではなく、「のり塩」に決めたのは、日本風にしなければ日本人には受け入れられないと考えたからだという。値段は150円と、当時の一般的なスナック菓子よりは割高だったが、高級バーで食される「フラ印」のポテチと比べればずっと安かった。
現在、ポテトチップスのメーカーシェアの5割を占めるカルビーの参入は、湖池屋から13年遅れて1975年9月、「カルビーポテトチップス うすしお味」の発売によって始まる。
1949年に広島で創業したカルビーは、1960年代にアメリカから大量に輸入されていた小麦を原料にした「かっぱえびせん」を大ヒットさせ、西日本のローカル企業から全国区の菓子メーカーになっていた。
そんなカルビーがポテチの製造販売に手をつけたきっかけは、北海道庁幹部から「北海道にはじゃがいもがあり余っている。それを利用した加工食品はできないか」と相談を持ちかけられたことだという。つまり、カルビーのポテチ市場参入は、国策がきっかけだったのだ。
カルビー参入以前のポテチ市場は本書によれば、次のような状態だったという。
メーカーは地方ごとに所在しており、基本的にはその地方だけをカバーする流通。業界トップの湖池屋ですら東日本中心の流通で、全国をカバーできてはいなかった。また、ジャガイモが手配できない時期は生産を止めていた。
だが、カルビーの参入によって、その様相はガラリと変わる。「スナック菓子も生鮮食品と同じで、昨日つくったのを今日売るというような流通政策をしないといけない」というカルビー哲学のもと、専用の生産ラインを開発して、100円という安価で高品質なポテチを全国で売り始めると、ポテチ市場でのカルビーの存在感は他の追従を許さないほどになっていくのだ。
カルビーの快進撃によって、ポテチは1980年代にはスナック菓子のなかでも王者の位置を占めていくのだが、その受け皿となったのが1971(昭和46)年から1974(昭和49)年に生まれた「団塊ジュニア」だったとの著者の稲田氏の指摘はおもしろい。
実は稲田氏も1974年生まれの団塊ジュニアで、小学生から中学生に至る1980年代には、「おやつ」としてポテチを盛んに食べてきたようだ。稲田氏は自身の母や同世代の女性のヒアリングを通じて、ポテチの優れた点を分析する。
ひとつは、100円と安いのに、食べ盛りの子どもたちも満足するほどの量があったこと。「学校から帰宅後に与えておけば夕食までの間おとなしくなる」のは主婦としてありがたい。
もうひとつは、準備と片づけに手間がかからないこと。団塊ジュニアはとにかく人数が多く、家に呼ぶ友だちの人数も必然的に多くなる。専業主婦率が高かった時代、家にいる「お母さん」たちは彼らにお菓子をふるまわなければならないが、袋を開けて出すだけのポテチは重宝されたのだという。
ポテチと団塊ジュニアとの関係は、彼らが成長して、大人になっても続く。
団塊ジュニアは受難の世代だとよく言われる。
第1の受難は、人数が多い故の過酷な受験戦争である。深夜まで続く受験勉強を強いられた彼らのお腹を満たすポテチは、ありがたい伴走者だったのではないか(にもかかわらず、大学志願者の半数は不合格になっていった)。
第2の受難が、就職活動が就職氷河期(1993~2004年)に重なったことだ。血のにじむような努力を経て就職できたとしても、「平均給与があがらない」という第3の受難が彼らを直撃する。
実はポテトチップスは、1980年代後半から2000年代まで「塩分やカロリーが高い、不健康なジャンクフード」というイメージがゆるやかに形成されていく、ネガティブなイメージで語られることが多くなるのだが、さまざまな受難に苦しむ団塊ジュニアは「ジャンク」で「不健康」なポテチに癒やしを求めた。
稲田氏は、自身の経験と照らし合わせてこう語る。
ポテトチップスがドラッグだとは言わないまでも、ドラッグ的な側面があることは認めよう。実際、筆者(稲田)が過去、ポテトチップスを異常なほどバカ食いしていたのは、会社員時代のうちもっともストレスを溜めていた時期だった。現在でも、深夜に突如ポテトチップスを食べたくなるのは、思うように仕事が進んでいない時である。
ポテチはその後、「ヘルシー」と「ジャンク」の二極化を果たしてさらに進化していくのだが、著者は「団塊ジュニア」の視点からその様子を分析していく。
その後半部には、さらに興味深い出来事が起こるのだが、そのへんのところは実際に本書を手にとって確かめてほしい。
ポテチはなぜ、日本人の国民食になったのか?
その疑問を解く過程で日本社会の変容と特色が見えてくる。非常にスリリングでおもしろい「目からウロコ本」のひとつだった。
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