ブックレビュー
『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』(文藝春秋)は、1970年代から80年代にかけて日本を席巻した大スター、沢田研二を描いた渾身の評伝である。 評伝というと、糸井重里が矢沢永吉によるロングインタビューをまとめた『成りあがり』(現角川文庫)のような本を思い浮かべる人も多いかもしれないが、それとは別に本人へのインタビューではなく、周辺の人物への取材をもとに構成した評伝にも名作はたくさんある。 本作は後者にあたる評伝で、バンドメンバー、マネージャー、プロデューサーなど、69人もの証言と当時の文献をもとに構成された力作だ。 ジュリーという大スターの存在を通じて、彼を生んだ「昭和」という時代の空気を思い出してみようではないか。 『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』 著者:島崎今日子 発行:文藝春秋 定価:1800円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ ドタキャン騒動でメディアに再登場したジュリーの素顔とは? 2018年の暮れ、久しくテレビに顔を出していなかったジュリーこと、沢田研二の名が衝撃をもってクローズアップされた事件を覚えている人は、まだ多いだろう。 同年10月17日のさいたまスーパーアリーナ公演を開演30分前で突如中止し、渦中の人となった沢田は、自宅近くの公園で報道陣に対し、「事前の説明では集客数が9000人と聞いていたが、実際は7000人だった」と中止の理由を説明し、「客席がスカスカの状態でやるのは酷なこと。『ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』といつも(事務所やイベンターに)言ってる。僕にも意地がある」と語った。 当時70歳という年齢を差しおいても、無造作に伸ばしたかに見える白髪に白髭、そして蝶ネクタイとジャケットの下に隠された、ふっくらした体型は、和製カーネル・サンダースを彷彿とさせる風貌で、かつての大スターの面影は感じられなかった。 実際、全盛期ほど新曲が売れなくなった1990年代以降、沢田は「ナツメロ歌手になりたくない」という理由で音楽番組にも過去の映像を放映する許可を与えなかったり、「昔のように若々しく派手にといわれるのがイヤ」と発言して、過去のカバー曲制作を拒んだりしていたという。 その話を聞いて、なるほど、年をとってもジュリーはジュリー、いまだに大スターのプライドを捨てていないんだなと感心させられたものだ(ちなみに沢田は5年後の2023年6月25日、因縁のさいたまスーパーアリーナで開催された『まだまだ一生懸命』公演でチケット1万9000枚を完売して汚名を返上し、ますます感心させられたものだ)。 「沢田研二とならば一緒に死んでもいい」と思わせる理由 本書によると、沢田は60歳で車の運転をやめ、70歳を過ぎてからは20年続けたトークショーに区切りをつけ、主要な活動をシングル制作とツアーに絞るようになったそうだが、そうした“高齢者”になってからの記述は終盤の数ページに過ぎず、その大部分は「彼はいかにして大スターになったのか?」ということに割かれている。 本書の冒頭で紹介されるのは、そんな沢田に惚れ込んだアーティストたちの証言だ。 まずは、テレビプロデューサー、演出家として1975年のTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』で沢田を三億円事件の犯人役として主演させた久世光彦は、ある雑誌にこう語っているという。 「とにかく色っぽいんだよ。どんな女優をもってきても沢田のほうが色っぽい」「目の色変わってるって言われるけれど、実際ドキドキして(演出を)やってるからね。もう、最高の至福の状態になれるわけ」「オレは沢田研二とならばいつでも一緒に死んでもいい、と思っているわけよ」 また、日本のロック界の首領(ドン)として知られた内田裕也も、自著『俺は最低な奴さ』で沢田をこう評している。 「沢田は偉いやつだよ。『戦場のメリークリスマス』ね、あいつ断ったんだよ。あのときのデヴィッド・ボウイと沢田研二って、あれ以外ないキャスティングなのよ、わかんだろ。両方ともキラキラして、キラキラ星だよ、わかる? あの当時、沢田はいまのキムタクの十倍くらい人気あるんだからね」 出典:「俺は最低な奴さ」(白夜書房)より抜粋 同じグループサウンズで注目を浴びてスターとなったという点で、沢田と並べて語られることの多かった萩原健一も自著『ショーケン』で次のように語っている。 「PYGをやっていて、改めて気づかされたことがひとつあります。歌に関しては、ぼくは沢田研二と張り合えない、ということ」「『歌が命だ』沢田研二は、はっきりそう言った。ぼくのように決して自ら主張せず、誰かが創作した歌を与えられ、それを誠実に歌う。プロデューサーがつくりあげたイメージを存分に表現してみせる」「おれは違う。自分のイメージは自分でつくって、たとえ与えられた歌でも歌いたいように歌いたい。自分は創作家であって、創作をしたかった」 出典:「ショーケン」(講談社)より抜粋 PYGとは、沢田がザ・タイガース、萩原がザ・テンプターズ解散後に参加したバンドのことだが、ここで沢田の歌の才能の差を痛感した萩原は、俳優の道を模索していくことになる。 本書を読んで初めて知ったが、萩原がマカロニ刑事に扮して出世作となった日本テレビドラマ『太陽にほえろ!』は当初、沢田に出演オファーがあったものの、彼はコンサートの予定がぎっしり入っていて受けられず、その替わりとして萩原が起用されたのだという。 「見世物」を自認していたトリックスター ところで、内田裕也の証言にある、「戦場のメリークリスマス」の出演オファーを沢田が断ったのは、「1年前から決まっているライブを映画のためにとりやめると、500人のスタッフが生活に困る。撮影スケジュールを変えてくれないか」という提案を、大島渚監督が一蹴したからだった。 また、萩原健一が指摘しているように、沢田がスターになれたのは優れた楽曲提供者がいて、優れたプロデューサーが絵に描いたイメージを沢田が誠実に表現したことが大きい。沢田は決して自分ひとりの力でのし上がったスターではなかった。 ザ・ワイルドワンズで「想い出の渚」をヒットさせたミュージシャンの加瀬邦彦は、沢田がソロデビューした1971年から13年間にわたって音楽プロデューサーをつとめ、楽曲提供だけでなく、つねに生活をともにして健康管理にも口を出すほど沢田に入れあげていたという。なかでも、食事の管理は、重要な仕事だったようだ。 「僕がプロデュースをやっている間は絶対太らせなかった。二人でヨーロッパに行った時も、俺も付き合うからって一人前頼んで二人で半分ずつ食べてた。僕だけ食べて、あいつに食べるなって言うのも可哀想だもん」「だから僕がプロデュースをやめた後、太ったの。酒も食べることも好きだからね。それまで太りやすい体質でずっといろんなことを我慢していたから、僕は『もういいんじゃない。一時代築いたし、太って声が出て歌はどんどんうまくなってきてる。太ったから嫌だとか、ファンやめるとか、それはそれでいいじゃない。これからはルックスより歌で勝負すればいいじゃないか』って言ってたの」 ルックスと言えば、ソロデビュー後の沢田の衣裳デザインをはじめ、レコードジャケットのアートディレクションを担当した早川テツジの功績について、著者の島崎今日子は「(沢田研二の歴史は)早川登場以前と以降で区切っていいかもしれない」と最大限の評価をしている。 「愛の嵐」のシャーロット・ランプリングをイメージした衣裳の「憎みきれないろくでなし」、腕章のハーケンクロイツが問題となりリニューアルした、革の軍服と素肌につけたビーズの入れ墨の「サムライ」、ジーン・ケリーのような水兵服の「ダーリング」、黒の革のコートを着て血のついた帯を巻いて雨に濡れながら歌った「LOVE(抱きしめたい)」、唇を真っ赤に塗ったメイクでディートリッヒ風の白い船長の制服を着た「OH!ギャル」。テレビ局のプロデューサーに「口紅の色が……」と難色を示され、レコード会社から「化粧しなければもう十万枚伸びたのに」と言われても、沢田は動じなかった。 と、沢田自身も早川の才能を信頼しきっていた様子がうかがわれる。 その極めつけが1980年の「TOKIO」における、電飾のついたミリタリースーツに赤と白のパラシュートを背負った奇抜なコスチュームだろう。 これが逆に沢田のバックバンドを長年つとめた本格音楽志向の井上堯之バンド(ショーケン主演の「太陽にほえろ!」、「傷だらけの天使」の音楽を担当したことでも有名)の離脱を招く原因になってしまうのだが、沢田はそれについて、デビュー25周年のテレビ番組で「僕は見世物でいいってやりだしたわけです」と、自嘲ぎみに説明している。 「僕にも意地がある」発言の真意は? この本を読んで、心動かされたのは、沢田自身がスターとして「売れる」ことについて、実に真面目に取り組んでいたという点である。 1977年5月に発売された「勝手にしやがれ」はその年の大晦日、沢田に初のレコード大賞をもたらしたが、受賞後、マネージャーをつとめていた森本精人が紅白歌合戦の会場であるNHKホールに向かう車中、「おめでとうございます」と祝意を口にすると、沢田は「喜ぶなっ。来年の大晦日にまた喜べるかが問題やろ」と怒られたという。 「ジュリーはそれぐらい自分に厳しい人なんです。実は、オリコン1位を続けていた『勝手にしやがれ』が一度二位に落ちたことがありました。どうしても言いにくくて報告しなかったら、『なんで正直に言わないんや。悪いことも報告してくれ』と、怒られています。僕も意地がありますから紅白に出演している間に策を練り、終わってから『来年は1年365日歌いましょう』と言いました。ジュリーも『よっしゃっ!!』って」 そんな沢田研二も人気のピークを過ぎれば、あとは世間から緩やかに忘れられていく流れには抗しきれない。 前述のデビュー25周年のテレビ番組(NHK-BS2の5日間計25時間の特集番組「沢田研二スペシャル・美しき偶像」)では「見世物でいい」発言に加えて、こんなことも言っている。 「やっぱり自分のいる場所はテレビの中ではなくなってきましたね」「今求められるとしたら『昔の歌を歌ってください』で、それと交換条件に今の歌を歌うみたいな、そういうのは出たくないし。今回のこのプロジェクトにしたって、ほとんどが昔の話になるわけでしょ」 デビュー25周年といえば、沢田は43歳。そこから1990年代の「ナツメロ歌手にはなりたくない」発言や、70歳のさいたまスーパーアリーナのドタキャン公演での「僕にも意地がある」発言までの長い、長い時間を彼がどうやって過ごしてきたのか? そのことについて、本書はあまりくわしく語らない。ジュリーファンにとって、そのことを言語化するのは野暮なことだと言わんばかりに。 でも、野暮は承知で行間を読みたくなる。そして、大スターとて残酷にも年齢を重ねていかねばならないのだという厳しい現実について考えざるを得ない。 その意味で本書は、忘れていた昭和から平成にかけての記憶を呼び覚ますとともに、人生における「老い」というものに深く考えさせられた本だった。
2023/07/07
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