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“今”の体力はこれまで継続してきた財産 ― 榊原さんも、もう64歳になるんですね。そんなふうに、年齢を実感する瞬間なんかはありますか? うーん、改めて年齢を意識して何かするっていうことはないです…けど、あ!この前ジェットコースターの仕事があったんですが、65歳が年齢制限となっていて、そのときは意識しましたね(笑)。 ― 榊原さんにジェットコースターに乗るお仕事の依頼が来るんですね(笑)。 来ます、来ます。小さなお子さんから若夫婦、おばあちゃんまで幅広い年齢層で楽しめますよ、なんていう紹介をしたいときは、間違いなく私は“おばあちゃん枠”ですから。 ― 見た目にはすごく若々しく感じられるんですが、例えば肉体的な“老い”なんかはあったりしますか? 年齢を意識して「老いたな」と感じることはないです。60歳の手前…例えば50代の頃に「疲れがなかなか取れないな」と感じることはあったかもしれません。だけど、もうそこは通り過ぎていて、生きてるのは“今”ですからね。特別に意識することは… ― そんなに意識することでもないですよね。 あ!でも。ありがたいことに、これまで継続的にお仕事をいただいているんですが、その中には舞台もあるんですね。この前も舞台をやらせていただいたんですが、そのときはちょっと年齢を感じたかもしれません。舞台っていろんな世代の方々とともにひとつの作品を作り上げていくんですが、“みんなでひとつのカンパニー”というような意識でやっているので、足並みを揃えるためにも一緒にウォーミングアップをしたりするんですね。そんなとき、他の演者さんを見て「若いときは、あれくらいできてたなー」と思ったりはしましたね。 ― 年をとるにつれて、そう思うタイミングは増えてきそうです。 でも一方では、若いときあれだけやっといてよかったな、だから今も少しは動けるな、とも思っています。“今”の体力はこれまで継続してきた財産ですね。 若い感覚に負けたくない!とは思わないけど、柔軟に受け入れられるような気持ちではいたい ― では、“精神的な老い”みたいなものは、いかがですか? そっちの方が感じるかもしれないですね。バラエティー番組に出させてもらったりすると、アンテナの高さとか、アンテナの感度の鋭さっていうのはもう、ものすごく鈍った感覚はあります。TikTokとか、やっぱり時代的なものすべてについていくのは難しいです(苦笑)。 ― ただ一方で、バラエティー番組なんかでは“ついていく”ことが求められたりしませんか?そういうときはどうするんでしょう? これでいいの、って受け入れることですかね~。あんまり無理して若い人たちのテンポに合わせようとしたって息苦しいだけですから。酸欠状態になってまでついていこうとは思っていないんです。 ― すごい。自然体ですね。 自分がそこに到達できていないのは、それはもう自分の勉強不足だなと思っています。足りてないと思った部分に関しては皆さんに教えてもらって。ファッションや言葉、それから、歌やリズムのようなのも。自分から率先して食いつくエネルギーが持てないものに対しては、「へー、そうなんだー」なんて言いながら柔軟に受け入れられるような気持ちでいたいなと思っています。 ― そういう自然体なスタンスが人を惹きつける榊原さんならではの魅力なんでしょうね。 自分ではよくわからないです(笑)。 ― 一般的には…ですよ?今の時代だったらスマホでもなんでも調べようと思えば簡単に調べられるところを、“教えてちゃん”になるとてうっとうしがられちゃうような面もあると思うんです。 私としては、知っている人が目の前にいたら聞いた方が早いと思っちゃいますし、あとは人が検索してくれたのを覗き見させてもらったり、そういう方法もありますから(笑)。 ― それが許される人と、そうでない人もいるんですよね。榊原さんは間違いなく前者で、それは自然体かつ広い心をもって生きてきた蓄積なんだろうなぁと思います。 息子にはよく、「自分で調べろよ」って言われますけどね(笑)。 私は“巻き込まれ力”が強いのかな ― 話は変わりますが、榊原さんといえば初代・ピーターパンとしても有名ですが、そのほかにも“初代”“第一回目”が多いそうですね。 そもそもデビューのきっかけがホリプロタレントスカウトキャラバンの第1回でしたし、あとは…『さんまのまんま』の第1回目のゲストとしても呼んでもらえましたね。そういう、「ゼロから作り出そう」っていう場によく呼んでいただけたのは、本当に運が良かったな~と思っています。 ― 運…もあるでしょうし、あとは榊原さんの類まれなる“巻き込まれ力”もあるんだと思います。 “巻き込み”っていう話で言うと、渡辺は“巻き込み力”が強い人でしたね。自分から人を寄せつけて、その人たちと何かを始めよう!っていうエネルギーに満ちた人でした。私はどちらかというと、何かに引っ張られて、巻き込まれて…自分から発信して巻き込んで…じゃないところはありますね。 ― それでも決して“他人事”にはしないんですよね? そりゃそうですよ~。巻き込まれた側なりに、すごい場にいるなってことには気づいているわけです。そんな現場で他人事ヅラはしてられないですし、自分ができる範囲のことはしっかりやるしかないです。なんでもそうですけど、終わりって来るじゃないですか。そのときに「自分は精一杯やったんだ」「もし泣くとしても、嬉し涙や感動の涙にしたいな」という思いは持っています。 ― 精一杯やりきるって簡単におっしゃいますが、実はかなりストイックな言葉ですよね。 しんどい…ですね、確かに。でも性格だから仕方ないです(笑)。 そうそう、ピーターパンをやっているときに、とある人に言われたんです。「長く続けたいんだったら、ある程度は余力を残しながら、やった方がいいよ」って。自分の力が100%あるとしたら70~80%でやりなさい…って、私にとってはその方がよっぽどしんどくて。 だって、自分にわかりやすく目盛りがついているんだったらわかりやすいですよ?でも、人間にはそんな目盛りはないじゃないですか。目盛りがあったら「今70%だな。ここらへんで止めとこう」なんてできますけど、それがないんだから、そういう調節を考えることの方が疲れちゃって。 ― 確かに、それはそうですね。 それだったら、自分がその日、その1回、そのときで出し切れた方が気持ちがいいですよね。疲れるけど、同じ疲れるんだったら気持ちいい方がいいですよね。 一緒に仕事をする周りの仲間に、本当に恵まれた ― 私は個人的に、榊原さんの代表番組といえば『郁恵・井森のお料理BAN!BAN!』だと思っているんですが、出ていらした郁恵さん御本人がそんな気持ちで臨んでいたとは…。 あの番組は、本当に視聴者目線を大事にされるスタッフさんが作っていらして、その仲間に入れてもらって。そんな環境にいたら、やっぱりこっちも気持ちが入りますよね。実は当時の私はまったく料理ができなかったので、そういう意味ではとても大変でしたけど。でも楽しかったな~。 ― 井森美幸さんとお2人で、なんというかドタバタ喜劇を観ているような感じでした(笑)。 本編がNG集みたいなところもありましたからね(笑)。でも、あの感じこそが日常だったりするじゃないですか、家庭で料理するのって。 ― そうですね。 そもそものスタートが“嘘をつかない料理番組”のような感じだったんです。料理のできない私たちが中華や和食を作るのですが、料理研究家の先生方に教えてもらって、段取りから調理の工程まで全てを見せちゃうのが基本スタンスだったんですよね。お料理番組って、「はい、これとこれを5分間煮込みます。煮込んだものがこちらです」なんて出来上がりをパッと差し替えたりするのが普通なんですが、そんなのは一切なしで。 ― 放送時間がきっちり決まっているテレビ番組だと、その方が効率的ですしね。 でもそれって、観てくださる方にとっては現実味がないというか、「私も作ってみよう」という気持ちにつながりづらいですよね。例えば、近所のスーパーで売ってないような高級食材を使うレシピだと、「先生、こんなの手に入らないですよ~」なんて言って、代用できるものがないかみんなで考えたりしていましたね。あとは、収録中にフライパンの油がうわぁ~!って跳ねたりしても、それはそれでOKで、「そういうときはこうしましょう」なんて言って対処法を考えたり。 ― NGにはならないんですね(笑)。 そういう事態だって生活の一部だったりするわけですからね。「嘘のない料理番組」ではそれらも全然NGではなく、むしろ歓迎的なOK要素だったんですよね。「家庭で簡単に再現できる料理を作ろう」って、制作に関わった全員が同じ方向を向いていたんです。皆が一丸となった現場をご一緒させていただいて幸せでしたね。 [衣装]Kinoshita Pearl、BELLE MARIEE 榊原郁恵1959年5月8日生まれ、神奈川県出身。「第1回ホリプロタレントスカウトキャラバン」で優勝して芸能界入り。歌手として『夏のお嬢さん』などヒット曲多数。一方で、7年間にわたって舞台『ピーター・パン』の座長を務めるなど女優としても活躍。1987年に渡辺徹さんと結婚してからはタレントとしてバラエティ番組にも活躍の場を広げ、『ものまね王座決定戦』(フジテレビ)の総合司会を1987~2000年の13年間にわたって務めた他、数々の番組に出演。2023年11月からは、息子の渡辺裕太さんと2人で朗読劇『続・家庭内文通』を全国6ヵ所(東京、愛知、山形、宮城、茨城、岩手)にて公演予定。岡田惠和さん脚本、鵜山仁さん演出でお届けします。
2023/11/02
仕事から趣味へ。趣味がもたらす充実した日々 ― You Tubeチャンネル「やっちゃえ伊藤かずえ」では、ハードなエクササイズをされていますが、プライベートでもスポーツジムに通われていますか? ダイエット企画動画の撮影で、とあるジムに通っていますが、近所のジムにも通っているので、週に数回はジムで運動しています。動画撮影用のジムでは、筋力トレーニングをメインに指導してもらっているので、毎回いろんなところが筋肉痛になっちゃって(笑)。そのジムに通う最高齢は70代の女性だと聞いたので、私も負けないように頑張りたいですね。 ― スポーツジム以外に、続けている趣味はありますか? 50歳のときにテレビ番組で書道対決に参加することになり、急きょ娘が通っていた書道教室に飛び入り参加しました。それから6年間、その教室に通い続けています。毎回、3種類の書を書くのですが、5〜6時間書き続ける日もあって。 ― 5〜6時間も書道を続けるとなると、相当な集中力が必要そうですね? 書道が好きなんです。書いた文字を消せないからこそ間違えないようにと精神統一にもなるし、墨をすったときの香りにも癒やされます。私が通っている教室は、小学生から高齢の方まで幅広く、いろんな世代の人との会話も楽しくて、最高のリフレッシュになっています。 ― 楽しそうな書道教室で、長く続けられそうですね。 運動が苦手な方や高齢の方でも始めやすいと思うので、熟年世代の趣味に書道はおすすめです。ジムとはまた違う、マインドフルネスな時間にもなるので、ずっと続けたいなあと思っています。 ― スポーツジムも書道も仕事がきっかけですが、元々興味があったのでしょうか? いや、そんなことは全然なくて。仕事でやってみるか!となり、始めたら楽しくなって続けている。そういうことが多いです。まずは「何でもやってみる」、受け入れてみるようにしています。 50代で考える「老い」へのアプローチとは? ― 伊藤さんは、スポーツジムで体力を鍛え、書道教室で精神を鍛えていますが、この先の健康や生活についてどのように考えていますか? 父が90代、母が80代で健在でして。特に父の長寿の秘訣は、数年前まで長らく飼っていた愛犬との散歩習慣だったのかなと思っています。愛犬のためなら、どんな天気の日でも毎日散歩に行っていましたから。 ― 愛犬と散歩をすることで、足腰が鍛えられていたんでしょうね。 散歩以外の運動はしていなかったので、散歩で鍛えられたんでしょうね(笑)。そんな父を見ていると、毎日コツコツと続けられる健康法を実践するのがいいのかなと思っています。 ― 例えば、どんな健康法を実践したいですか? 天気に左右されず、室内でできることを考えれば、階段で踏み台昇降運動を行ったり、ラジオ体操を行ったりすることでしょうか。続けられなければ意味がないと思うので、コツコツと続けられることが大切だと思います。 ― 俳優業にも関わることだと思いますが、美容面で気をつけていることはありますか? 私、あんまり美容系のケアはやっていなくて…。スポーツジムで汗をかいたあとも、手洗い用の泡石鹸で顔を洗って、化粧水も何もつけずに帰ってくるくらい、何もケアしていません(笑)。 ― そのくらい何もしなくてもいいお肌をお持ちだってことですよね? 肌が丈夫なのかもしれません。メイクさんから「肌に合わない化粧品とかありますか?」と聞かれますが、毎度「何でも大丈夫!」と答えるほど、本当に何をつけても肌トラブルがないんです。俳優にとっては、喜ばしいことですね。 ― でも、若い頃とは違うなあと感じることもありますよね? みんな生きていれば、年をとるものだから、それに逆らってもどうなんだろうなあと思います。病気じゃなくても、いつ何が起こるかわからないからこそ、老いていくことを嘆くよりも、毎日楽しく過ごすことに集中したいです。 ― 今のうちにやっておきたい!やらなきゃ!と思うことはありますか? 断捨離ですかね…。娘にとって不要なものがたくさんあるので片付けないと!って思うんですけど、まだ使えると思うと処分できないんです。1つ買うなら、2つ処分しなきゃ…と毎度自分に言い聞かせているのですが、なかなか難しいです。 健康を大切に、仲間と一緒に楽しく生きていく ― この先の人生をどんな心持ちで歩んでいきたいと考えていますか? 精神と体は繋がっていると思うんです。風邪で寝込んだだけでも、気持ちって落ちるじゃないですか? だから、気持ちが落ちないように、常に健康でいるために運動や食事に気をつけたいと思います。 ― 健康にも気をつけつつ、大好きなお酒も楽しみたい!といったところでしょうか? 20代の頃、いろんな方たちと飲み歩いていて(笑)。そのときの飲み仲間は今でも友達で、You Tubeのハシゴ酒企画にも快く出演してくれます。お酒で結ばれた縁が、未だに続いていることは、ありがたいことですね。 ― 長く続く人間関係が、伊藤さんの幸福度をさらに高めているように見えるのですが? You Tubeのハシゴ酒企画も、最初はひとりで飲んでいたのですが、やっぱり誰かと飲むほうが楽しいなあと思って、ゲストを呼ぶことに。そんなふうに楽しいなあと思える日々が、ただただ続くこと。それが私の人生!と言えたら、とても幸せなことですね。 伊藤かずえ1966年12月7日生まれ、神奈川県出身。1981年に映画『燃える勇者』で真田広之とのW主演を務め、注目を集める。その後、1984年の大映ドラマ『不良少女とよばれて』で不良少女役を演じ、大ブレイク。『スクール☆ウォーズ』、『ポニーテールはふり向かない』、『ナースのお仕事』など大ヒットドラマに多数出演し、幅広い層から絶大な人気を得る。現在は、You Tube「やっちゃえ伊藤かずえ」も好調で、活動の幅を広げている。
2023/06/30
俳優業を続けられるのは、ヒットドラマのおかげ ― 伊藤さんの代表作に1985年の大映ドラマ『ポニーテールはふり向かない』がありますが、当時の思い出をお聞かせください。 当時の連続ドラマは6ヵ月間にわたって放送されていたので、一度撮影が始まったら半年間は風邪を引かないようにしなければならないという…、厳しい現場でした。休みも今より少なくて、休日になると誰にも会いたくないほど、連日、共演者やスタッフと一緒に過ごしていましたね。 ― それだけ一緒にいると自然に仲良くなりますよね? しかも、当時の共演者さんたちはほぼ全員がいまだ現役。長く芸能界で活躍される秘訣は何でしょう? やっぱり大映ドラマの影響は大きかったと思います。4〜5年間ヒット作に出続けることができて、当時一緒だった同世代のスタッフさんたちがプロデューサーや監督として活躍されていて、声をかけてくださるのはもちろん、年下のスタッフさんでも「大映ドラマ、見てました!」と仰ってくださる方もいます。いまだに大映ドラマの恩恵を受けていることに感謝しています。撮影は大変だったけど(笑)。 ― 今では若い世代の俳優さんたちと共演することも多いと思います。自分の時代と比べてどう感じられますか? 皆さん目的意識が強く、情熱もあって素晴らしいですよね。私たちの時代とは違って、SNSを通じて誰とでもすぐに繋がれたり、発信できたり。俳優業に限らず、YouTuberとして活躍する方も増えました。制作スタッフがいなくても、自分の手で“自分”を発信できるのは恵まれているなあと思いますね。 まさか50代でYouTuberになるなんて! ― かく言う伊藤さんも、2022年からYouTubeチャンネル『やっちゃえ伊藤かずえ』をスタートされました。こんな未来を想像されていましたか? まったく想像していませんでした(笑)。今のマネージャーさんに「やってみませんか?」と提案されて最初は悩みましたが、「ダメならやめればいいですし」とも言ってくれたので、それもそうだと思って。 ― わずか10カ月で登録者数が5万人近くに達しているのは、かなりいいペースではないでしょうか?(2023年6月時点) みなさんそう言ってくれますが、登録者数や再生回数を増やすのは想像以上に大変ですね…。現在、週に3本の動画をアップしていますが、ドラマや映画の撮影スケジュールよりも、ハードかもしれません。俳優業よりYou Tubeが忙しいってどういうこと?って、笑っちゃいます。 ― You Tubeチャンネルでは、30年以上乗り続けた愛車の日産「シーマ」を元の姿に復活させた関連動画がたくさんありますよね。反響はいかがですか? Instagramで車検時の写真を投稿したら、たくさんの「いいね」をいただいて。それだけでなく、みなさんの声が日産自動車さんにまで届いて、車のレストアをしていただける機会までもらえました。 ― いわゆる“バズる”という経験をされたということですよね? そうなんです! レストア後のシーマを自分の愛車のように思ってくださる方々がたくさんいて。その方たちに近況報告として、シーマ関連の動画を撮影しています。先日、故障箇所が見つかり、部品を交換することができないかもしれない…という状況になりましたが、Twitterでつぶやいたら、ここで扱っているよ!と教えてくれる親切な方もいました。本当にSNSってすごいですよね! 熟年世代にもおすすめしたいYou Tubeの魅力とは? ― 50代以上の方々にとっては、YouTubeを見ることはあるかもしれませんが、YouTuberになるのは難しいのかなと思います。実際に50代でYouTuberになってみて、どうお考えですか? もし少しでもやってみたいと思っているのなら、ぜひ挑戦してみてください! 自分の趣味を撮影してアップするだけでも素晴らしいと思います。 ― 動画編集などは難しそうですが、それについてどう思いますか? ほとんどの方がスマホを持っているでしょうから、DIYや楽器演奏、盆栽の手入れなど、日常の様子をスマホで撮影し、そのままアップしてみてもいいのでは? ― そう言われると、すぐにでも始められそうですね! 私もそうですが、YouTubeで何か発信することを決めると、企画を考えたり、どこに行って何をするか計画したりすることになります。それによって頭を使うことができ、行動範囲や交友関係も広がるんです。時間に余裕のあるリタイア世代には、ぴったりの趣味になるのでは? ― さらにYou Tubeなら、収益化も見込めるかもしれませんね。 You TubeはSNSとは違い、多くの利点があると思います。老後の足しになる可能性もありますし、アップした動画は思い出のアルバムのように残ります。さまざまな良い点が詰まっていますので、ぜひ皆さんもトライしてみてください。 ― YouTuberとしての伊藤さんの現在の目標は何ですか? もうすぐ60歳になりますが、自分が60歳のときにはYou Tubeで成功しているといいなぁと思います。2023年以内に登録者数が10万人を超えたら、とてもうれしいです! 伊藤かずえ1966年12月7日生まれ、神奈川県出身。1981年に映画『燃える勇者』で真田広之とのW主演を務め、注目を集める。その後、1984年の大映ドラマ『不良少女とよばれて』で不良少女役を演じ、大ブレイク。『スクール☆ウォーズ』、『ポニーテールはふり向かない』、『ナースのお仕事』など大ヒットドラマに多数出演し、幅広い層から絶大な人気を得る。現在は、You Tube「やっちゃえ伊藤かずえ」も好調で、活動の幅を広げている。
2023/06/23
小学生の頃から今も変わらず、マンガを愛し続けている ― ご自身のYouTubeチャンネルでコーヒーについて熱く語っていらっしゃいますが、それ以外にご趣味はありますか? 子どもの頃からマンガが大好きで、「週刊少年ジャンプ」はいまだに毎週読み続けてますよ。「HUNTER×HUNTER」なんて何回読んでも飽きないし、「ワンパンマン」は何回読み返したかわからないです。 ― 今でこそ日本のマンガは海外でも高い評価を受けていますが、斉木さんが子どもの頃は「マンガは害悪だ」なんて言われていた時代ですよね? そうですよ。「大学生はマンガなんて読むな!」の時代で。「何言ってるんだ、僕は小学生の頃からずっと読み続けているんだ」って、マンガを馬鹿にする人が許せなかった。僕はマンガからいろいろなことを学んだと思っていますから。 ― 感性が若いと言いますか、本当に年齢を感じさせないですよね。 だから、がっかりしますよ、鏡を見ると(笑)。「あれっ? こんなはずじゃないのに」って。年食っちゃったな。髪も白くなっちゃってとかね。 ― でも、73歳という実年齢よりも十分に若々しく見えます。 それは無理してるから(笑)。実は昨年、腰を痛めて、やっと最近治ってきたんですよ。今、ドラマの撮影中なんですけど、仕事している時は痛みがあまり苦にならない。やっぱり仕事をしているのが好きなんでしょうね。 過去を羨むのではなく、「今」を生きることが大切なんだと思う ― 斉木さんは、自分の若い頃の映像をご覧になったとき、どういう感情になるんですか? もう他人だね(笑)。「ああ、こんなことをやっていたんだ」とは思いますけど、そこにいるのは他人ですよ。別にその当時を羨ましいとも思わない。むしろ今の方がまともな感性になっているなとは感じますけどね。 ― まさに、「今」を生きるってことですね。 そういうことだと思います。中学生の時に「自分の存在とは何か?」と突き詰めて考えたことがあるんですよ。それ以来、常に何かしら自分に対して問うようになったんです。 ― 物事に対して、じっくり深い考えるタイプなんですね。 厭世的とも言えるんだけれども、人生の虚しさ、空虚感がつねにつきまとう。でもその一方で、もっと現実に目を向けて積極的に生きてみようと思う自分もいる。すごい哲学的でしょ? 昔から仲間には「おまえは何を考えているのかわからん」って、よく言われます。 身体を整えて、一人舞台に立てる自分でありたい ― その仲間とは、大竹まことさんやきたろうさんなのではないかと思うのですが、出会いから50年以上になるお二人。斉木さんにとって、どのような存在ですか? 何だろうね。いや、なくてはならない人たちですよ。恥ずかしいけれど、あの二人がいて自分がいる。だから感謝しなければいけないですね。なかなか感謝できないけど(笑)。あの二人に関しては兄弟以上の思いがありますね。尊敬できる存在でもありますし。 ― さまざまなジャンルで活動されていますが、これからやってみたいことはありますか? やっぱり一人舞台ですね。小さな劇場でもいいから。やりたいテーマがあって、ずっとコロナ前から考えていたんですが、もう自分の肉体とのご相談で。お客さんが来てくれるかなって心配もありますけど(笑)。 [衣装]ジャケット、Tシャツ、シャツ、ストール:【PAPAS(パパス)】その他スタイリスト私物 ― やりたいこと、目標があるから元気でいられるんですかね? 確かに目標って大事ですよ。僕も、やりたいテーマがなかったら一人舞台をやりたいなんて考えませんから。普通、役者さんが舞台に出演するのは台本があって依頼を受けるわけですよね。もちろん依頼があれば出ますよ。でも、それは僕にとって「仕事」。 ― たしかに、自分のやりたいものばかりできる仕事はないですよね。 そうそう。そうではなく、自分のやりたいことをやる芝居があってもいいと思うんですよ。まあ、まだ未定ではありますけど、これから身体を整えて一人舞台に立てる自分でありたいと思います。 斉木しげる1949年11月18日生まれ、静岡県出身。1979年、劇団仲間だった大竹まこと、きたろうと共にコントグループ「シティボーイズ」を結成。1981年に「お笑いスター誕生」(日本テレビ系)でグランプリに輝き、一躍人気グループに。俳優としては、1989年に「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」(フジテレビ系)でテレビドラマに初のレギュラー出演。以後、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」「篤姫」「龍馬伝」など数多くのドラマをはじめ、2014年「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」、2016年「サブイボマスク」、2018年「人魚の眠る家」など映画にも多数出演。現在もバイプレイヤーとして多くの映像作品に出演する一方、文化放送で毎週土曜19時~「SAYONARAシティボーイズ」、YouTube「斉木しげるチャンネル」、トークショー「しげるの素」など多方面で活躍中。 ▶斉木しげるさんインタビューの前編はこちらです
2023/04/28
何かを目指したことはない。「面白い」と感じた道を歩み続けた ― コントグループ「シティボーイズ」としてデビューし、数々の映画やドラマにも出演されているので、斉木さんを俳優と認識されている方が多いと思います。ご自身ではどうですか? 僕はコメディアンです。それを誇りに思っていますし、そうあり続けたいと思っています。映画やドラマでは、なかなかコメディをやらせてもらえないけれど、舞台では真面目な役柄はほとんどやっていませんよ。 ― 意外でした。高校時代は演劇部、早稲田大学中退後は養成所で役者の修行をされていたので、もともとは役者志望だったのかと思っていました。 いや、役者を目指そうとは思っていなかったんですよ。確かに早稲田を選んだのは大学の中で一番劇団が多かったからではあるんですけどね。入学式の日、演劇サークルの稽古場にふらっと行ったら先輩に「おまえ、これに名前を書け」って言われて。 ― それが劇団に入るための申し込み書類だったわけですね。 そうなんですよ。「じゃあ、とりあえず」と。僕は何かを目指したことがなくて、行く先々で導かれると言うか…。 ― 導かれるままに、現在までたどり着いた、と。 努力して自分の道を選ぶ人がいる一方で、そんなに努力しているつもりはないけれど、自分が決めた道に進める人がいる。自分の適正というのは、何か進むべき道を決める時に「面白いな」と思えて、そのことのためなら全然苦にならないってことだと思うんです。 若さゆえの傲慢さから「シティボーイズ」を結成 ― 「面白い」と感じられるかどうかで、進む道を決めてきたわけですね。 そうですね。養成所を中退後、大竹まことやきたろうと一緒に自分たちで劇団を結成しました。そのメンバーには今も仲の良い風間杜夫もいて、いろいろなオーディションに行ったけれど、誰も受からないって時が続きましたね。 ― オーディションに落ち続けた理由はあったんですか? 当時のプロデューサーに「君たちはまだ顔ができていない」とか、訳のわからないことを言われてましたよ(笑)。結局、4〜5年で風間は、つかこうへいさんの劇団に移って、すぐに売れて、僕らは僕らで「シティボーイズ」を結成して劇団活動から離れました。 ― 「シティボーイズ」を結成されたのは30歳の時ですよね? 世間一般で言うと微妙な年齢だと思うのですが。 今はどうか知らないですけど、僕たちの時代、男の30歳は大きな岐路。当時は終身雇用制だったので、辞めるか、続けるかを考えるわけですよね。その頃、僕はもう結婚していて子どももいましたから。 ― 若い時に結婚されたんですね。 そう、僕らの時代はね、ちゃんとした職に就いてからとかじゃなくて、とにかく結婚しちゃう。事実が先なの(笑)。 ― いまとは逆ですね。 ある人に言われたんです、「子どもは米櫃背負って生まれてくるんだよ」と。つまり、子どものために頑張ろうという気になれば自然とお金が入ってくるという例えなんだろうけど、僕には「わからない将来のことを考えて物事を決めんじゃない」という言葉に思えた。 ― 後戻りできない年齢になっていたこともあり、やりたいことに向かって突き進む決心をされたということでしょうか? そういうことなんです。それまで劇団でやっていた芝居は常にお笑い、喜劇だったので大竹まことが「コント、やろうか?」と言い出してね。 ― それが「シティボーイズ」の始まりですか? 当時、ツービートのたけしさんたちが少し名を上げて来た頃で、「今、お笑い界であまり目立っている人がいない。俺たちがやっている世界観の方が面白い。俺たちはもっと面白いことができる」と。 ― 強い想いがあったわけですね。 今考えると本当に傲慢ですけどね(笑)。でも、その想いだけが唯一の拠り所でもありました。 [衣装]ジャケット、Tシャツ、シャツ、ストール:【PAPAS(パパス)】その他スタイリスト私物 斉木しげる1949年11月18日生まれ、静岡県出身。1979年、劇団仲間だった大竹まこと、きたろうと共にコントグループ「シティボーイズ」を結成。1981年に「お笑いスター誕生」(日本テレビ系)でグランプリに輝き、一躍人気グループに。俳優としては、1989年に「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」(フジテレビ系)でテレビドラマに初のレギュラー出演。以後、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」「篤姫」「龍馬伝」など数多くのドラマをはじめ、2014年「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」、2016年「サブイボマスク」、2018年「人魚の眠る家」など映画にも多数出演。現在もバイプレイヤーとして多くの映像作品に出演する一方、文化放送で毎週土曜19時~「SAYONARAシティボーイズ」、YouTube「斉木しげるチャンネル」、トークショー「しげるの素」など多方面で活躍中。 ▶斉木しげるさんのインタビュー後編もぜひご覧ください!
2023/04/27
小堺くんと友だちだったから、早期に病気を見つけられました ― テレビでいつも元気なイメージがありますが、関根さんご自身は年齢を感じることってあるんですか? ありますよありますよ。冠動脈狭窄が発覚した時は、さすがに年を取ったなって思いました。 ― 冠動脈狭窄がわかったのは、何歳の頃だったんでしょう? 62歳の時ですね。実は、その10年くらい前から、悪玉コレステロール値が高いっていうのは自分でもわかっていました。でも、別にどこも悪くならなかったんで放置していたんです。それが悪かったんでしょうね。 ― 病気がわかったのも偶然だったとか。 小堺君のやっていた『サタデープラス』っていう番組の企画で、2人で心臓の検査を受けたんですけど、最初は何ともないだろうと思っていたから、オープニングからすっごいボケまくってね(笑)。色んな人のモノマネもして「いいロケが撮れたぞ!」って帰った次の日に「再検査を受けてください」って。 ― 不安になりませんでしたか? あんまり(笑)。大したことないだろうって思いながら精密検査をしたら「62歳を無作為に100人集めた中で4番目に悪いですよ」って言われました。 ― 4番目!っていうことは、相当悪い方じゃないですか! 「70%詰まっています」って言われました。しかも冠状大動脈の一番太いところが2ヵ所。詰まりが70%以上になると、何かしらの症状が出るらしくて、僕はギリギリ手前で見つかったわけ。 ― ひいぃぃぃぃぃっ!! 「検査の当日に手術もできますが、後日、気持ちを整えてからでも大丈夫です」と。でも、10年くらい前に出た番組で、カテーテル手術がいかに優れた手術なのかを学んでいました。そこから、さらに進歩しているだろうっていうのもあったし、また手術するために来るなんて面倒くさいじゃないですか。だから、その日にお願いしました。 ― 手術は……いかがでしたか? 全然大したことはなかったですね。手首の動脈からカテーテルを入れて、詰まっている部分に、血管を広げるステントっていう金属性の器具をポンって入れるだけ。麻酔も手首だけの局部麻酔でしたし、ほかはどこも痛くないんですよ。 ― 早めに見つかって良かったですね。 本当に。小堺くんの友だちで良かったです。あの時に番組で検査しなかったら、2年後に倒れていたかもしれない。 孫との時間が、自分が子育てをしていた時代に連れ戻してくれる ― そのほか、日常の中で“老い”を感じることはありますか? ギックリ腰ですね。65歳を過ぎてから、何回かなりました。ただ、僕の場合は、まったく動けなくなる100%のギックリ腰じゃなくて、いつもの3倍くらい時間をかけてだったら歩ける70%くらいのギックリ腰です(笑)。 ― それはそれで辛そうです(笑)。 ゆ~っくり移動して整体に行って治療してもらって、何とかしのいでいます(笑)。 ― ギックリ腰にならないように、気を付けていることはありますか? ストレッチはじめましたね。太ももの前と裏と股関節を。それやるようになってからは、ギックリ腰もめったにならなくなったし、腰痛もだいぶ楽になりましたね。 ― 多くの方が心配される「物忘れ」は大丈夫ですか? もうね、全然人の名前が出てこない(苦笑)。ところが、その人の周辺情報は出てくるんですよ。「えーっと、●●●っていう番組に出ていて、誰々さんのお嬢さんで……」って。映像は頭に浮かぶんだけど、名前が出てこないわけ。だから、僕なりの記憶法を考えました。 ― どんな記憶法ですか? ちょっと気になります。 例えば「ブラッド・ピットは、F1レースのスポンサーの息子」って覚えたんです。スポンサーの息子だから、ブラっとピットに入ってきちゃう。 ― そうか! F1会場とピットの映像から「ブラッド・ピット」になるんですね(笑)。 そうそう! 自分に合った記憶法を作ればいいんだって思って、55歳ぐらいの時に編み出しました。 ― なんかダジャレっぽくて、関根さんっぽいです。 あとは、孫と一緒にいることがボケ防止になっているのかな~。 ― たしか、女の子のお孫さんが2人いらっしゃるんですよね。 いま、7歳と3歳。一緒に遊んだり、お風呂で髪を洗っていたりすると「あれ?これ、前もやったことあるぞ?」って思うんです。麻里を育てていた頃と重なるんですよ。だから、孫たちと一緒にいると30代の気持ちに戻れるんですよね。 理想は生涯現役、引退は「オファーがなくなったら」 ― ステキなボケ防止法ですね。ちなみに、お仕事はいつまで続けようとか考えていますか? 個人的には、死ぬまでやりたいですね。 ― 芸人の理想ですよね。 まぁ、オファーがなくなった時が引退かな、というのはありますね。もしかしたら今後、本を出版したりして「もう一度頑張りたい!」って思うこともあるかもしれませんが……。でも、これから麻里が頑張ってくれたら、バーターとしてテレビに出られますし(笑)。 ― 麻里さんのバーター(笑)。ちなみに、趣味のゴルフはいつまで? ゴルフはずーっとやり続けたいですね。今後、車は自動運転になるだろうし、それに乗れば自分で運転しなくてもゴルフ場に行けます。80歳を過ぎたら、そういったテクノロジーに頼りながらゴルフやりたいですね。 ― マイペースに仕事と趣味を楽しむ。いい老後ですね。 21歳でこの仕事をはじめて、ゆっくり山を登っていって、51歳で30年。本当はね、ここからゆっくり30年かけて下っていって、81歳のゴールデンウィーク明けにぽっくり逝くのが夢なんです(笑)。最後は隔週のラジオ番組が残っていたらうれしいですね。 ― かなり具体的に考えていらっしゃるんですね。 だけど、孫娘の成人式を見たいっていうのもあるんだよね。下の子の成人式となると、僕は86歳。それまでは死ねないですね(笑)。 ― きっと86歳は、芸能界の中でも長生きされた方になるんですよね? そうですね。でもね、意外と80歳を超えても現役で続けている方ってたくさんいらっしゃるんですよ。伊東四朗さんに欽ちゃん、大村崑さんは90歳を超えています。 ― 本当ですね! 欽ちゃんは80歳になってからYouTubeを始めてますし! あとデヴィ夫人ですね。夫人は本当にすごいですよ。いまでも現役で輝いていますし、我が道を行っている。 ― たしかに!デヴィ夫人はお年を聞いて驚いてしまうほど、精力的ですよね。 僕も、80歳を過ぎたら「あーたねぇ」って言おうかな(笑)。それは冗談だけど、芸能界には尊敬すべき先輩方がいらっしゃるんで、みなさんを目標に、力の続く限りやっていきたいですね。 関根勤1953年生まれ、東京都出身。大学3年生の夏休みに、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンに輝き芸能界デビュー。「ラビット関根」という芸名でピン芸人として活動するかたわら、同じ浅井企画所属の小堺一機と組んだ「コサキン」で注目を浴びるように。代表作は『カックラキン大放送!!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『コサキンDEワァオ!』『笑っていいとも!』など多数。現在でも、バラエティー番組の第一線で活躍している。 約4年ぶりに開催が決定しました!「徹底してバカなことをやる!」とはじめて、今年で34回目。コロナ禍の影響で3年連続公演中止となっていましたが、4年ぶりに開催が決定しました。「みんな年を取ってきて、真夏の舞台が厳しくなってしまったからね」ということで、今年から4月に変更となりました。『カンコンキンシアター34 クドい!~飯尾和樹スターに成りました~』 会場:銀座 博品館劇場 日程:2023年4月21日(金)~30日(日) 11回公演 ▶関根さんのインタビューの前編はこちらです
2023/02/28
小堺くんといると、28歳の“バカバカしい” 自分に戻れる ― 昔からテレビ等で拝見していますが、関根さんは全く印象が変わっていないな、と。何か、年を感じさせない秘訣はあるんですか? 今でも時々、小堺くんと会っているからかな? 2人でやっていたラジオは、「中2男子の放課後の雑談」って言われるくらいバカバカしい放送だったんですよ。僕が28歳の時に始めて、そこから27年半続けました。今でも年に1~2回、特番として放送していますよ。 ― 28歳の自分に戻れる場所なんですね。 そうですね。あとは、小堺くん、欽ちゃん、さんまさん、タモリさんとかに出会えたのも大きいですね。運がよかったのもあるとは思いますが、自分の仕事を邁進していたから、同じ志の人と合流できたんだと思います。 ― みなさん、それぞれ自分の道を歩いていらっしゃいますが、そうか……その道を一生懸命生きていく事が大切なんですね。 そうだと思います。自分の道を一生懸命歩いているから、みなさん今でも元気で楽しくやっているんじゃないでしょうか。 ― “楽しくやっている”、と言えば、昨年は『お笑いの日2022』で、久しぶりにコントをされていましたね。 最初は、若手の中に僕らが入って浮くんじゃないかって、ちょっと心配していました。だから、小堺くんに相談して、一番ベテランっぽくない、一番バカバカしいコントにしようって。 ― こう言っては失礼ですが、くだらないことを心から楽しんでいるな、と思ってしまいました。 ベテランのくせにイキっちゃって……と思われたくなかったのと、やっぱり小堺くんと出られるのが単純にうれしかったね。 デビューからの10年間は、思えば公開修行だった ― 今年でデビュー49年目。1974年の『ぎんざNOW!』で、いきなりテレビデビューされましたが、その時はどんなお気持ちでしたか? 当時は普通の大学生だったので、今思えば乱暴ですよね(笑)。 ― 確かに、いきなりレギュラーですもんね。(笑)。 僕は、もともと芸人さんたちを尊敬していたので、浅井企画の社長にスカウトされた時も「僕じゃ通用しません」ってお答えしたんですよ。でも「いや、コント55号を育てたこの浅井が保証する」って言われて、浮かれちゃってね(笑)。 ― その『ぎんざNOW!』から今まで、レギュラーが切れたことがないとか? 実はそうなんですよ! ― そこまでレギュラーが途切れない方って、あんまりいないですよね。 うーん、どうだろうね…。でも、はじめの10年くらいはうちの社長の力だね。『ぎんざNOW!』は自力で「しろうとコメディアン道場」を5週勝ち抜いてレギュラーになったんだけど、『カックラキン大放送!!』も『欽ちゃんのどこまでやるの!』も社長がきっかけ。 ― 小堺一機さんとのコサキンコンビの「クロ子とグレ子」ですね。 最高視聴率40%を超える人気番組でね、僕たちは一番下っ端で出させてもらっていて「5分やるから2人で何かやれ」と。で、面白ければオンエア、つまらなければカットっていう、毎週オーディションみたいなことをしていました。 ― そこから欽ちゃんファミリーに入られたんですよね。 運が良かったですね。その後が『笑っていいとも!』。これは29年間、出ていました。ここぐらいからですね、自分の力でやっていけるようになったのは。32歳の時だから、10年以上はかかりました。 ― 意外です。関根さんには、苦労されているイメージがなかったので……。 僕の場合は、本番中に修行していたような感じで、番組のカラーがうまく隠してくれてたんでしょうね(笑)。 その場に適応していくために、自分のお笑いを変えなければいけないと思った ― 『笑っていいとも!』に出演されたきっかけは何だったのでしょう? 小堺くんの『小堺クンのおすましでSHOW』っていう舞台のコントに出ていたんだけど、それを見たテレビ局の人が「関根くん、けっこうやるじゃん」って。だから、これは自分の実力ですね。まぁ、本当のところは小堺くんのおかげかもしれないですけど(笑)。 ― やはり小堺さんの存在は大きいんですね。 小堺くんは、僕の2年後に『ぎんざNOW!』を勝ち抜いて浅井企画に入ったんで、その頃からの付き合いですね。28歳の時に、2人で『夜はともだち コサラビ絶好調!』っていうラジオ番組をはじめて、これが僕のお笑いのベースになっています。 ― ベースがラジオというのも、また意外ですね。 当時、TBSラジオで松宮一彦アナウンサーが月曜から金曜まで帯番組をやっていたんですが、ひょんなことから木曜日だけ僕らが担当することになって。その時間帯のリスナーは松宮さんのファンばかりだから、完全にアウェイ。はじめは、ハガキが2枚しか来ませんでした(笑)。 ― えっ!? それは大問題じゃないですか? 番組が成り立たない(苦笑)。 だから、1~2ヵ月経った時に、小堺くんに「ラジオに行くのが嫌だ」と言ったんです。芸能生活の中で、初めて逃げたいと思いました。 ― 追い詰められてしまったんですね……。 ですね。でも、新人の僕らが辞めたいと言っても、事務所が許さないと思ったんで、好き勝手やってクビになろうと決めたんです。 ― そうすれば、「頑張ったけど、実力が足りませんでした」ってことになりますね。 そう。だから、普段から小堺くんとやっているような、ふざけたことばっかりしていたのに、全然クビにならないんですよ。ラジオで「ハガキが2枚しか来ない」と、グチってたら、ハガキの枚数もどんどん増えていって。 ― すごい! そのうち、リスナーの方が僕らの上をいく、くだらない妄想話を送ってくれるようになってね。そこで「ナンセンス」っていう僕のお笑いのベースが出来上がりましたね。 ― それ以前から、関根さん自身がシュールとかナンセンスっぽさを持っていたんでしょうね。 そうだと思います。1989年に、ナンセンスとクドさを詰め込んだ舞台『カンコンキンシアター』をスタートしました。 ― 今年の4月にも新しい公演をされる、毎年恒例の舞台ですね。 そうです。でも、同時期にスタートした『ギャグ満点』っていう深夜番組でも、舞台と似たようなことをしていたら、それは3ヵ月で終わりました。 ― ドラマみたいに1クールで……。 結局、僕のお笑いはテレビには向かないんだ、テレビ用に変えなきゃいけないんだっていうのを学びましたね。 ― 失礼ながら……、自分の笑いはテレビ向きじゃないって自覚した時は、やっぱりショックでしたか? 「あ、やっぱりな!」って感じ。すぐに切り替えましたね。芸能界は適応しないといけませんから。それで言ったら、モノマネもそうかもしれませんね。 ― 関根さんのモノマネにも、独特なエッセンスが入っていますよね。 声やしぐさを完全に真似するプロと比べると、やっぱり僕のクオリティーは低いんですよ。それで、何か足さなきゃと思って「情報」を入れることにしました。 ― ひとつお願いしてもいいですか(笑)? (千葉真一さんのモノマネで)私の妻の野際陽子は、日本で初めてミニスカートを履いた女優です。 ― 注目する点をズラしちゃうんですね(笑)。 そう! 似ているかどうかは、二の次になるんです(笑)。もちろん、嘘は言ってないですよ、嘘は。 関根勤1953年生まれ、東京都出身。大学3年生の夏休みに、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンに輝き芸能界デビュー。「ラビット関根」という芸名でピン芸人として活動するかたわら、同じ浅井企画所属の小堺一機と組んだ「コサキン」で注目を浴びるように。代表作は『カックラキン大放送!!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『コサキンDEワァオ!』『笑っていいとも!』など多数。現在でも、バラエティー番組の第一線で活躍している。 『カンコンキンシアター』が約4年ぶりに開催決定!「徹底してバカなことをやる!」とはじめて、今年で34回目。コロナ禍の影響で3年連続公演中止となっていましたが、4年ぶりに開催が決定しました。「みんな年を取ってきて、真夏の舞台が厳しくなってしまったからね」ということで、今年から4月に変更となりました。『カンコンキンシアター34 クドい!~飯尾和樹スターに成りました~』 会場:銀座 博品館劇場 日程:2023年4月21日(金)~30日(日) 11回公演 ▶関根さんのインタビュー後編もぜひご覧ください!
2023/02/27
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