ブックレビュー
「悪意」は一般的に、「他人に害を与えようとする心」と理解されている。つまり、普段は自制していなければならない心、片隅にしまっておかねばならない心なのだが、人間関係やビジネス、宗教間、SNSなどでのやりとりを見てみると、「悪意」はむしろ、ありきたりなものとして存在している。なぜだ? 進化論的に見ても、これはおかしい。嫌がらせや意地悪といった悪意ある行為は、他人に害をおよぼすのだから、自然選択の力がはたらいて淘汰されるはずである。どういうことなんだ? 本書は、そんな疑問を出発点にして、悪意を行動経済学、心理学、遺伝学、脳科学、ゲーム理論など、さまざまな視点から分析していく。悪意とは何か? 悪意をコントロールする術はあるのか? そのスリリングな問いをレビューしていこう。 『悪意の科学 意地悪な行動はなぜ進化し社会を動かしているのか? 』 著者:サイモン・マッカーシー=ジョーンズ/著、プレシ南日子/訳 発行:インターシフト 定価:2200円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 死角にあった悪意をあぶりだす「最後通牒ゲーム」とは? まずは本書において、スルメを噛むかのように繰り返し語られる「最後通牒ゲーム」という心理実験を紹介しよう。 このゲームは、隣の部屋にいる相手とペアになってプレイする。プレイヤーのひとりは、10ドルほどのお金を与えられ、「このお金を隣の部屋にいる相手と分けあってください」と指示される。そして、もう一方のプレイヤーは、こんなルールを説明される。 「隣の部屋にいる人は10ドル持っていて、あなたと分けあうことになっています。そのとき、あなたにはお金を受けとることを拒否するという選択肢があります。拒否したら、あなただけでなく、相手の人もお金はもらえなくなります。ゲームをプレイするのは1回だけなので、その選択が最後通牒になります」と。 そのお金は、人生ゲームやモノポリーなどで使うゲーム用のニセ金ではない。日本円に換金すれば、だいたい1300円になる正真正銘の現ナマである。 お金の価値をわかっている人なら、隣の部屋の相手が不公平な配分をしても、「受け取りを拒否する」という選択はしにくいだろう。例えば、相手が2ドルを寄こしてきた場合、「自分より6ドルも余計にもらうのかよ」とイラッとはするかもしれないが、2ドルは確実に自分の手元に残るのだから。 ところが結果は、その予想を裏切るものだった。10ドル中2ドル以下の配分に対して、受け取りを拒否した人が50%に及んだというのだ。つまり、半数の人が1~2ドルを捨て、自分より儲けようとする相手への悪意を発動させてゲームをご破算にしたのだ。 日本には「肉を斬らせて骨を断つ」というサムライ由来の言葉があるが、どうやらこれは日本オリジナルではないようだ。 このゲームを考えたのは、ドイツ・ケルン大学教授の33歳の経済学者のヴェルナー・ギュートらの研究チーム。彼は子どもの頃、ひとつのケーキを兄弟と分けあうとき、ナイフの当て方に対していつもいちゃもんがついたという経験から着想したのだという。 悪意を剥きだしにした被験者に対してギュートは、どのように実験結果を報告したのだろう。本書はそのことに触れていないが、「相手に罰を与えるために自分も損するなんて、君はなんて大人気ないんだ」などと言っていたとしたら、被験者はさらにイラくか、赤面したのではないか。そういう意味では、かなり意地悪な実験である。 だが、1977年にギュートが報告したこの論文が発表されると、たちまち多くの研究者が自分の論文に引用したばかりか、以後、さまざまな工夫をこらして再実験をアレンジしたそうだ。 悪意を持つか持たないかは「人間の証明」にかかわる問題 アメリカの経済学者のエリザベス・ホフマンらは「最後通牒ゲーム」の結果が、金額が低いためにそうなったのではないかと考えた。1~2ドルほどのはした金なら、もらえなくても大した損にはならない。ならばそれより、不公平な配分をした相手を懲らしめるほうに使ったほうがいいと判断したのではないかと。 そこでホフマンらは、5000ドルの予算をつぎ込んで再実験を設定した。各ゲームにおいて、被験者たちが現金100ドルを分けあうことにしたのだ。 その結果、低額オファーに悪意を発動した人の数はさらに増えた。なんと、100ドル中10ドルの配分をした相手のオファーを75%が拒否し、さらに100ドル中30ドルのオファーに対しても50%が拒否したという。 さらにインドネシアでおこなわれた「最後通牒ゲーム」は、ホフマンの実験よりも規模が大きく、被験者には平均的な学生が1ヵ月に使う金額の3倍のお金が渡された。 相手の配分が20~30%だったとしても、1ヵ月弱の生活費が浮くのだから拒否する人は少なくなるはずだ。実際、その通りになったが、それでも10人に1人がその大金の受けとりを拒否したのだという。人は、悪意に大金をつぎ込む生き物なのだ。なんて罪深い存在なんだ。なんて残酷な実験なんだ! 1995年には、人類学者のジョセフ・ヘンリックが社会の違いに着目して再実験をした。ヘンリックはペルーを訪れ、マチュピチュ遺跡の近くで暮らすマチゲンカ族という先住民を被験者にして「最後通牒ゲーム」をおこなった。すると、20%以下の低額オファーを受けた10人のうち、それを拒否したのは1人だけだった。つまり、マチゲンカ族の人たちは、タダでもらえるお金を拒否するなんてばかげていると判断できる現実主義者だったのだ。 かつて私は、奥野克巳『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』(辰巳出版)のレビューをしたが 、そこではボルネオ島の狩猟民プナンの人たちがお互いの所有物を惜しげもなく分け与えている暮らしが紹介されていた。従って、ヘンリックの検証結果には、さもありなんと大いにうなずくことができる。 ちなみに、チンパンジーに「最後通牒ゲーム」に似た実験をした例があるそうだが、低額オファー(ここではお金ではなくバナナ)を拒否したチンパンジーは1頭もいなかったという。どうやら悪意があるかないかは、「人間の証明」にもかかわってくるらしい。 トランプ大統領の登場もイギリスのEU離脱も、国民の悪意が政治を動かした結果である 本書は、前半部を通じて「最後通牒ゲーム」のさまざまなバリエーションを紹介しているが、主眼はそこだけにはない。人間の悪意が、実際に現実社会の政治や宗教に影響を与えた事例を分析する後半部で、その内容はさらに説得力を増していく。言うなれば、前半部は基礎研究の紹介で、後半部はその応用を展開しているのだ。 著者のサイモン氏が最初に選んだ事例が、2016年のアメリカの大統領選挙だ。当初、圧倒的に有利と見られていた民主党候補のヒラリー・クリントンが、エキセントリックな問題児として知られる共和党候補のドナルド・トランプに破れた珍事である。 その原因について、アメリカから遠く離れたアイルランド・ダブリン大学の准教授のサイモン氏は次のように述べている。引用しよう。 アメリカ政治を外から見ると、2016年の大統領選はまるで罰を与えるための選挙のようだった。投票所を訪れた有権者は「誰を支持しよう?」というより、「誰を傷付けよう?」と考えていたと思われても仕方がない。こうした罰はしばしばヒラリー・クリントンに向けられた。 選挙戦中、ヒラリーが「私は家にいてクッキーを焼いてお茶を飲んでいることもできましたが、自分の職業を全うすることを選びました」という発言が、米国初の女性大統領の誕生を望む女性たちの票を失ったことは有名だが、その他にも数々の要素がはたらいて、ヒラリーはアメリカ国民の多くを見下す、セレブで傲慢な人物という印象が形成されていった。 予備選でヒラリーといい勝負をしてきたバーニー・サンダースは敗戦後、民主党の勢力維持のために自らの支持者にヒラリーへの投票を呼びかけなければならなかったが、選挙戦で「どちらが公平か? 不公平か?」というキャンペーンを張っていただけに説得力のある弁護ができなかった。 そのため、「最後通牒のゲーム」の法則でいえば、サンダースを支持していた多くの人は「選挙に行かずに票を減らす」という低リスクの罰をヒラリーに与えるか、あるいはメキシコとの国境に壁を作るといったトンデモ政策を打ち出している「トランプに投票する」という高リスクの投票行動に走った。 実際、この高リスクに掛け金を投じた人の多くはトランプの大統領就任後、「ベットに失敗した!」と、覚ったはずだ。もともとヒラリー支持者だった人々にとって、トランプへの投票は自傷行為だったのだ。 くわしい経緯については、本書を読んでいただくとして、有力候補と見られていた初の女性大統領の誕生を阻んだ原因がアメリカ国民の「悪意」のみにあるとは言わないまでも、多くの要因において、それが示された疑いようのない証拠が本書には並べられている。 国民の悪意が政治を動かしたもうひとつの事例として紹介されるのは、先に述べたアメリカ大統領選と同年の2016年におこなわれた、イギリスのEU離脱の是非を問う国民投票である。この投票では、52%の国民が離脱に賛成票を投じたことは、記憶に新しい。 投票に向けたキャンペーンでは、離脱が多大な経済的コスト負担につながることを多くの人が訴えた。保守党のデイヴィッド・キャメロン首相は、EUの離脱は「イギリス経済の真下に爆弾を仕掛ける」ことになると主張した。スコットランド独立を訴え続けているスコットランド国民党のニコラ・スタージョンも「悪意から自分の損になることをしてはいけません。不満や怒りに駆られて未来を決定しないでください」と訴えた。 にもかかわらず、52%の賛成票が集まったのは、当時のイギリス社会に「EUは不公平だ」という強固な世論が形成されていたからだ。そして、それに対する抗議の賛成票がかなりのコストをともなうことが再三にわたって告知されたものの、半数以上の国民が自分をも傷つける可能性のある悪意を発動させたのだ。 SNS中では、人間の悪意は自由に動きまわる 本書はこのあと、宗教に目をつけて9.11の自爆テロの論理に言及していくが、デリケートな話なのでここでの紹介は避けておこう。私が興味をかきたてられたのは、インターネットのなかでの悪意のふるまいだ。 ソーシャルネットワークは悪意のコストを減らし、利益を倍増させる。ソーシャルメディアは悪意がはびこる最悪の状況を生み出すのだ。現実世界には悪意を抑えるブレーキが存在するが、オンラインの匿名性はこの必要不可欠なブレーキを外してしまう。そして、報復の脅威を消し去る。報復の不安から解放された人々は、自分たちよりも地位が高い、または豊かな人々にためらうことなく反支配的悪意を向ける。そして、熱狂的に正義を訴え、ほかの人々を傷付け、破壊の喜びにひたる。ターゲットにされる人々が努力によって利益を得たかどうかは関係ない。有能なおかげで出世した人は、さらに嫌われるのだ。 いやはや、恐ろしい世の中になったものだ。 本書はこうした悪意を自制し、コントロールする手段として瞑想などの方法を提案しているが、あまり説得力を感じなかった。それよりむしろ、本書の読者が本を読んだあとに自らの胸に手を当てて、どれほどの悪意が心の中にあるかを考えることが、もっとも最善の方法なのではないかと思った。
2023/04/14
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