三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)は、彼のジェットコースター人生を、素直に赤裸々に語った感動の一冊。映像関係のプロデューサーに出会ったら、ドラマ化、映画化を提案したくなるようなドラマチックな本だ。
表紙がまた、いい。三國シェフは照れ笑いして「そんなにいいとは思わない」と言っていたが、客観的な目で見れば、「男の生き様」を表現した見事な表紙である。
左半分の写真は、彼が1985年に30歳で四谷の住宅街、新宿区若葉に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店した翌年に出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙に使われた、森川昇氏の撮影による写真。フランス料理界の異端児として、ギラギラした目をして尖っていたころの挑戦的な表情である。
対する右半分の写真は、ここ数年の写真で、人生経験を経て、年輪を重ねてきた人物特有のいぶし銀のような表情がよく表われている(幻冬舎の『GOETHE』の2020年2月号での古谷利幸氏の撮影)。
そこで今回は、本に書かれたことをシェフと一緒におさらいしながら、店を閉店するまでのいきさつ、70歳以降に計画している新たな夢などについて話を聞いていこう。
Contents
―三國さんの著書『三流シェフ』には、貧しさから中卒以上の学歴しか得られなかったにもかかわらず、わずかなチャンスをたぐり寄せるようにして札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きとして雇われ、その後、18歳で日本のレストランの頂点である帝国ホテルの洗い場のパートタイマーになる様子が描かれています。その情熱は、どこから湧いてきたのでしょう?
情熱も何も、ぼくにとってはそれが普通のことでした。自分の家が貧しいことは子ども心にわかっていたけど、そのことで親を恨んだりすることはなかったし、学校を休んで働かなくて済むような生活をしている友だちをうらやむこともありませんでした。
とにかく、選択肢がすごく少なかったんです。コックになろうと思っても、中卒の学歴しかないぼくはホテルに就職できません。ならば、どこかにスキマが空いてないかを探して、そこに入り込むしかない。
そんなぼくが、パートタイマーとはいえ、帝国ホテルのレストランの洗い場で働けるようになったのは、今思えば奇跡のようなことです。
ぼくができることは、皿や鍋を洗うことだけ。だから、誰よりも早く、誰よりも綺麗に洗うことがぼくに課された唯一の選択肢でした。洗って、洗って、洗うものがなくなったら、厨房を見渡して忙しそうにしている人を手伝って他の仕事を覚えた。
―選択肢が少なかったからこそ、それを一所懸命にやった、ということなんですね。
一所懸命にやったのは、皿洗いだけじゃありません。
当時、帝国ホテルにはレストランが18店舗もあって、そこで520人ほどの料理人がいました。その頂点に君臨しているのが、総料理長の村上信夫さんです。
ぼくにとっては雲の上のような人で、札幌グランドホテルの総料理長の紹介状を持って面接してもらったときから数えて2回くらいしか会ったことがない。その村上さんの目にとまって社員にしてもらうために、ぼくは奥の手を使いました。
村上さんのオフィスは中2階にあって、18店舗のすべての店を巡回するのが毎朝の習慣なんです。その様子を観察していると、すべての店を巡回したあと、最後に同じ中2階にある、ぼくが働いていた「グリル」という店に顔を出して、トイレに立ち寄ることがわかりました。
そこで、村上さんがトイレに入るたび、洗い場を抜けだして隣に立つんです。
「あ、総料理長、おはようございます」って、偶然を装ってあいさつをする。
「おう、君か。元気にやってるか」
「はい」
会話はそれだけなんだけど、そんなことをして、少しでも自分の存在をアピールしようとしたんですね。
当時、帝国ホテルの製菓部長をしていた加藤信さんという方がいるんだけど、数年前にお会いしたときにこの思い出話をすると、「知ってたよ」と言われました。
誰にも見られずにこっそりやっていたつもりが、見え見えだったんだね。先輩たちは、ぼくの涙ぐましい努力を知っていながら、見て見ぬふりをしてくれていたというわけ。
―ただ、そうした努力もむなしく、2年後に三國さんは「正規の社員にはなれない」ことを告げられてしまいますね?
そうなんだよね。帝国ホテルには、パートタイマーから社員になる制度がなかったわけではないんだけど、同じ洗い場で働いていたシノハラ君という同僚が社員になったあとに、その制度がなくなっちゃったんです。
シノハラ君は27番目に履歴書を提出していた人で、ぼくは28番目。あと一歩のところで、チャンスを逃してしまった。そのことを知って、札幌を立つ前の晩に先輩たちが送別会を開いてくれたときのことを思い出しました。
ぼくの上京はすでに決まっていることなのに、「札幌グランドホテルは天皇陛下も宿泊する格式高いホテルだ。お前はせっかくそのホテルの社員になれたのに、チャンスを無駄にするのか」と最後の最後までぼくを引き留める先輩がいました。
「東京では、お前みたいな田舎者は米の飯も食わせてもらえないぞ」とか、「外国人にさらわれてどこかの国に売られてしまうぞ」なんて、脅し文句も使ってね。
そんな先輩たちの言うことを振りきって上京してきたんだから、札幌に戻って「すみません、また社員にしてください」なんて頼むわけにはいきません。
当時の日本のフランス料理界は「ホテルの時代」でしたから、一人前のフランス料理の料理人になろうと思ったら、ホテルに就職する道しかなかったんです。
ホテル以外では、銀座のソニービルの地下3階にある「マキシム・ド・パリ」というレストランがあって、それが唯一の道だったけれども、丁重な断りの手紙がきて、あきらめがつきました。
それまで必死になってしがみついてきた選択肢が断たれたわけです。
そこで、振り出しに戻ったつもりで、故郷の増毛に帰ろう、そう決心しました。そのとき、ぼくは20歳になったばかりで、それが人生で初めての挫折でした。
―で、それからどうなったんですか?
故郷に帰ることを決めたのが、20歳の誕生日の8月で、その年の12月に帰ることにしました。退職まで3カ月あったから、洗い場の仕事が終わる18時から、ホテル内の18店舗ある店を訪ねて「鍋磨きをさせてください」と頼んでまわりました。
少しでも爪痕を残しておきたかったんです。料理人になる夢をあきらめたことの証拠としてね。とにかく、ピカピカになるまで毎日、何十個もの鍋を磨いて、磨きました。
鍋磨きをはじめて3カ月くらいが経ったとき、総料理長室から呼び出しがかかりました。いよいよ引導を渡されるんだなと思うと同時に、村上シェフに「これまでお世話になりました。ありがとうございました」とお礼を言えるいい機会だと思って、シェフの前に立ったんです。
すると、村上シェフは驚きの言葉を口にしたんです。
「三國君、ジュネーブに行きなさい。君を在外大使館の料理人に推薦しました」と。
―ジュネーブと聞いて、そこがスイスの都市であることを知っていましたか?
いや、知りませんでした。まったく。
でもそのとき、貧しい漁師町の増毛の風景が頭に浮かんで、「あそこに戻るよりは見知らぬ土地のほうがいいだろう」と、咄嗟に頭が切り替わりました。
実際、村上シェフも「やってみる気はないか」という誘い口調ではなく、「君に決めたから」と命令口調でした。断るという選択肢は、ありませんでした。
ジュネーブに赴任する大使というのは、小木曽本雄さんという人。普通の大使ではなく、ジュネーブの軍縮会議日本政府代表部に派遣された特命全権大使でした。
そんなすごい仕事をしている大使の料理人になるということは、どういうことなのか? 最初のうちは、何もわかっていませんでした。
事の重大さに気づかされたのは、ジュネーブの大使公邸で小木曽大使夫妻にあいさつをしたときのことです。大使からこう言われたんです。「アメリカの大使を招いて正式な晩餐会を開きます。人数は12名です。そのディナーの準備をしてください」と。
おそるおそる、それがいつなのか聞くと「1週間後です」と大使は答えました。上辺では平気を装っていましたが、「これはとんでもないことになったぞ」と冷や冷やものでした。
大使公邸で働く料理人は、ぼくひとりです。しかも、フランス料理のフルコースなんて作ったこともなければ、食べたことさえない。そんなぼくに、大使が招いた賓客をもてなす料理がつくれるのか?
ぼくは、頭をフル回転させて、1週間後のディナーまでに何ができるのかを考えました。
幸いだったのは、大使公邸には通訳として現地採用された山田さんという世話役の人がいたことです。ぼくは山田さんに頼んで、アメリカ大使がスイス滞在中によく通っているレストランを調べてもらうことにしました。
そして、「長旅の疲れもあるし、厨房の整理もあるから、3日だけお暇をください」と大使に嘘のお願いして、山田さんに教わったレストランで研修させてもらうことにしたんです。それは、「リオン・ドール」という、レマン湖の近くのジュネーブの一等地に建っているレストランでした。
―研修のお願いなんかして、「はい、どうぞ」と引き受けてもらえるものですか?
日本にいたころのぼくは料理人としてまったくの無名だったけど、このときのぼくには「日本の在外大使館のコック長」という肩書きがありました。電話一本で、すぐに引き受けてくれましたよ。
しかも、アメリカ大使が好んで食べているコース料理の材料から仕入れ先、料理法に至るまで、包み隠さず教えてくれました。まるでVIP待遇です。「大使館の料理人」という肩書きがこんなに尊重されるのかと驚きました。
それもそのはず、大使公邸で開かれる晩餐会というのは大使にとって、とても重要な場なんです。
軍縮会議は、核兵器の不拡散などの国際的な枠組みを決める大事な会議ですが、それぞれの国にはそれぞれの思惑があるから公的な場での話し合いではなかなか結論が出ません。
そこで、各国の代表は水面下で非公式な場で話をして根回しをしたり、交渉したりします。その舞台となるのが、大使館で開かれる晩餐会やレストランでの会食の場なんです。
―ものすごい大役を任されたわけですね。で、1週間後のディナーは、どうなったんですか?
「リオン・ドール」で教わった料理を完璧にコピーして臨んだけど、最後のデザートまで、すべての料理を出し終えたときは、フラフラの放心状態でした。
それでも力を振りしぼって戦場のようになった厨房を片づけていると、小木曽大使がふらりと顔を出しました。
何かやらかしたか?と一瞬ヒヤリとしたけど、大使は笑顔でこう言いました。
「ありがとう、三國君。上出来だったよ」と。そして、愉快そうな口調でこう言いました。
「アメリカ大使が不思議な顔をしていたよ。『あなたの料理人は1週間前にあなたと一緒に日本から来たんだろう? それなのに、どうして私の好きな料理を知っているんだ?』とね」
このときはまだ、はっきりとは気づいていなかったけど、実は、大使館の料理人には大きな役得があるんです。レストランで働く料理人は、その店がどんな高級店であっても材料費というコストがかかります。
でも、大使館の料理人にはそのことを考える必要はありません。賓客をもてなすのが最大の目的だから、与えられた予算のほとんどを材料費につぎ込むことができる。
実際、このときのメインディッシュは、マスタードソースを添えたウサギ料理でしたが、「リオン・ドール」で出しているウサギより、質の高いものでした。
―大使館では、どれくらいの期間、働いたんですか?
最初の契約期間は2年だったけど、大使の仕事が伸びて、契約を延長してくれないかと頼まれました。「君のような料理人はいない。私は鼻が高い」なんて、身に余るお褒めのお言葉をいただいて。
それで結果的には3年と8カ月、大使がジュネーブでの任期を終えるまで料理人をつとめました。
大使館での最後の仕事が終わったとき、ぼくは小木曽夫妻に呼ばれて、奥様からこんな話を聞きました。
「帝国ホテルの村上さんに『あなたの厨房でいちばん腕の立つ料理人を紹介してください』と頼んだのに、息子と同じ年のあなたがやってきて、あまりに頼りなく感じてお断りを入れたんです。すると、村上さんは『あの若者なら大丈夫です。私を信用してください』とおっしゃるので断れなくなりました。三國さん、あなたは村上料理長の恩を一生忘れてはいけませんよ」と。
目頭が熱くなって、しばらく下げた頭をあげられませんでした。
実は、在外大使館の料理人を経験し、帰国してさらに出世するというのは、帝国ホテルの伝統的なエリートコースなんです。
ぼくは中卒であることを恨んだりしたけど、両親を早くに亡くされた村上さんは小学校の卒業証書さえもらっていません。帝国ホテルに見習いとして入社したのがぼくと同じ18歳のときで、それから戦争をはさんで復職後にヨーロッパに渡り、ベルギーの日本大使館で料理長になりました。
村上さんは、自分がたどってきた道と同じ道に至る片道切符を、ぼくに渡してくれたんですね。
村上さんはぼくをヨーロッパに送り出すとき、3つのことを守りなさいと言いました。
ひとつは、10年修行してくること。「10年後には、必ず君たちの時代が来ます」と言われました。もうひとつは、働いて得た収入で美術館や劇場に行って、ヨーロッパの文化を学ぶ自己投資にまわすこと。
3つめが何より大切で、それは、いいレストランで食事をすること、でした。
もしかすると、ぼくが大使館でヘマをして、首になることも村上さんは想定していたかもしれない。そうなったらそうなったで、体はジュネーブにあるんだから、そこからヨーロッパのレストランでの仕事探しもできる。
つまり、村上さんが渡してくれた選択肢は、一人前の料理人になるための最良の道だったわけです。そのことへの感謝の気持ちを、ぼくは一生忘れないでしょう。
―興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、「オテル・ドゥ・ミクニ」の開店のいきさつ、そして、2022年12月に同店を閉店した理由などについて、お聞きしていきたいと思います。
三國シェフの生涯の愛読書は、松下幸之助の『道をひらく』(PHP)。「人生のなかで、壁にぶつかるたびにこの本を開くと、不思議にそれを解決するヒントになるページにたどり着いた」という。
撮影/八木虎造
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。