漫才師・ナイツの塙宣之さんが、『静夫さんと僕』(徳間書店)という本を上梓した。2014年から同居を始めた、義理の父の静夫さんとのハチャメチャな二世帯暮らしを描いた爆笑エッセイだ。
家のなかに雑草を持ち込む、耳が遠いのに補聴器を嫌がる、ラーメンの袋麺しか食べたがらないなど、超マイペースな生活をしている静夫さんに翻弄される塙さんの様子がおもしろおかしく語られている。
この本を読んでわかるのは、塙さんが「変なお爺ちゃん」との付きあい方の達人だということだ。
ただ、漫才師としてデビューしてからの話を聞いてみると、そのスキルは持って生まれた才能なのではなく、さまざまな葛藤を抱えるなかで少しずつ身につけていったのだということがわかってきた。
果たして、「変なお爺ちゃん」と付き合うには、どんな心構えが必要なのか? 塙さんにじっくり聞いてみよう。
Contents
―まずは、塙さんがお笑い芸人を目指したきっかけからお聞きしていいですか?
きっかけですか。ルーツをさかのぼれば、幼稚園に通っていたころになっちゃうんですけどね。
たぶん、3月生まれだったことが大きいと思うんですけど、まわりの子と比べて僕は、理解力がないというか、そうとうトロい子どもだったんです。幼稚園のトイレの小便器が家の便器と違うので戸惑ってしまい、床に出っ張ったところにウンチをしてしまったりね。
昼寝の時間もよくおねしょをしていたので、僕だけ途中で起こされてトイレに行かされてましたし、みんながいる前でウンチをもらしてしまったこともあります。
―自分でも「僕はダメな子だ」という自覚はあったんでしょうか?
ありました。小学生になっても幼稚園時代に僕が粗相をしたことを知ってる友だちがいて、「ウンコ、ウンコ」とからかわれたりするので、ますます自信を失って引っ込み思案でおとなしい子どもになっていました。
小学4年生のときまでは、ずっとそんな感じでした。
―小4のとき、何が起こったんですか?
志村けんさんか加藤茶さんだったと思うんですけど、家ではこのおふたりがテレビで「ウンコ」とか「チンチン」をネタにしたコントを見て大笑いしたんです。ある日、それを真似して「ウンコの歌」という曲を作ったんですよ。
そして、友だちが「ウンコ」のことでからかってきたとき、勇気を出してその歌を大声で歌ったんです。すると、クラスは大爆笑。人前で初めてウケた瞬間であり、同時に笑いというもののすごいパワーを思い知った出来事でした。
その1年後、僕ら家族は佐賀県に移って、そこで8年ほど暮らすんですけど、転校先では「千葉にいたころは、ウンコの歌をうたってクラスの人気者でした」と自己紹介して大ウケし、お笑い好きの明るい子に大変身していました。
―高校2年生のとき、塙さんは『激辛!? お笑いめんたい子』(テレビ西日本)というオーディション番組に出場して優勝したそうですが、このときの原体験が大きく影響しているんでしょうね。
そうですね。それは間違いないことだと思います。
―話は少し先に飛んでしまいますが、土屋伸之さんとナイツを結成した塙さんは、2002年に漫才協会に所属して、寄席で活動するようになります。これにはどんないきさつがあったんですか?
マセキ芸能社の社長の「浅草からスターを出したい」という考えがあって、その対象者に選ばれてしまったんですね。嫌だったんですけど、僕らにそれを拒否する権利は与えられていませんでした。
おかげで最初のころは、いろいろな苦労がありました。
昼間は寄席で高齢者を相手にし、夜は小さなライブハウスで若い人を相手にするわけですが、お客さんの求めるものにギャップがあり過ぎて、テンポもネタもいっこうに定まりません。その結果、どちらの舞台に立ってもウケなくなるという悪循環にハマっていた時期もありました。
―若手のころから高齢者を相手に漫才をするというのは、かなりツラいことですよね?
でも、居心地がいいのは、寄席のほうだったんですよ。
若手のライブハウスに行くと、先輩といっても年の近い人たちがたくさんいて、向こうもこちらをライバルだと思っているところがあるから、いつもピリピリした雰囲気だったんです。
なかには自分より年下なのに、キャリアが1~2年くらい長いだけで先輩ヅラをしてくる人もいて、こっちにもプライドがありますから、そういう先輩にペコペコと頭を下げるのもおもしろくないわけです。
その一方、「浅草の師匠」たちは70代、80代の人が中心ですから、孫の世代にあたる僕のような若者にやさしく接してくれるんです。コンクールのようなものに出場させて、「ライバルを蹴落としていかないと生き残れないぞ」なんてプレッシャーをかけてくる人は、一人もいません。
―具体的には、どんなふうに接してくれたんでしょう?
当時、漫才協会には専属の事務員がいなくて、理事をつとめるチャンス青木という師匠が僕ら若手の入会手続きとか、面倒を見てくれていたんです。だからてっきり、僕は師匠のことを漫才協会の事務員さんだと勘違いしていたんだけど、ある日、その事務のお爺さんだと思っていた人がラメ入りのスーツを着て舞台にあがって漫談をし始めたので、もうビックリして。
こうした「浅草の師匠」たちは、テレビに出ているわけではないから、あわてて浅草ROXの本屋さんで芸人名鑑みたいな本を買ってきました。だけど、そこに載ってるプロフィール写真がずいぶん昔に撮った若いころの写真だったりして、師匠たちの顔と名前を覚えるのにエライ苦労をしました。
―そのほか、印象に残っているのは、どんな師匠ですか?
最初に度肝を抜かれたのは、東寿美・日の本光子師匠のお婆ちゃんコンビです。光子師匠は、すごく声が大きな人なんですけど、その反対に東師匠の声がすごく小さいんです。それで、客席から「ババア、聞こえねぇぞ」とヤジが飛んだのを袖から見たときは、すごいところに来ちゃったなと思いました。
当時の浅草は、つくばエクスプレスもまだ開通していない、寂れた街だったので、東洋館の客席はいつもガラガラでした。
しかも、数少ないお客さんも特別にお笑い好きというわけではなく、ただ涼みに来ている人もいれば、お酒を飲んでいたりして、漫才を真剣に聞いている人なんて、ほとんどいなかったように思われました。
ある日、イビキをかいて寝ているお客さんがいて、漫才の途中、そのイビキが止まっちゃって、客席が「大丈夫?」みたいな感じでザワザワし出したりしたこともありました。
そんなふうに浅草では、毎日がカルチャーショックでしたね。
―そのころの塙さんの心のなかには、「いつか浅草を飛び出してテレビで売れてやる」みたいな野心はあったんですか?
最初に言った通り、浅草は自分にとって居心地のいい場所だったので、そこから飛び出してやろうという気持ちはあんまりありませんでした。
そもそも、浅草の師匠たちというのは若いころ、コンクールで優勝したり、いい結果を残した実績のある人たちなんです。つまり、師匠たちは70代、80代になるまで惰性で舞台に立っているわけでは決してなくて、それほど長い間、芸人を続けていくにはよほどの実力を持った人でなければ無理なんですね。
はじめは、加齢によるポンコツエピソードを笑いのネタにしていた僕も、そういうことに気づいていくと、なんの実績もない自分のほうがちっぽけな人間に思えてきました。自分なんて、師匠たちの足下にも及ばない存在じゃないかと。
M-1グランプリに挑戦して、結果を残すことに本気で取り組むようになったのは、そのときの気づきが大きく影響していると思います。
―実際のところ、浅草の師匠たちから塙さんは、どんなことを学びましたか?
例えば、年をとると「入れ歯の噛みあわせが悪くてカツゼツが悪い」といったハンデがあったりしますよね。テレビ向きの芸をするなら、歯の治療とかリハビリとかをしてベストなパフォーマンスをする努力をすると思うんですけど、浅草の師匠たちはそのまんまの状態で舞台に出るんです。
で、声の音量がふたりで合っていなくても、お客さんから「ババア、聞こえねぇぞ」とヤジられるところで笑いが生まれたりするんです。
ネタのおもしろさとか、構成力とかを超えて、「人間味」のようなもので笑いをとっているんですね。それは、僕がクラスメートの前で勇気を出して「ウンコの歌」をうたうことで幼稚園時代のトラウマを克服したときのカタルシスに通じるものがあると思うんです。
つまり、「笑い」には「老い」のようなネガティブな状況をもエネルギーにすることができる、絶大なパワーがあるってことですよ。僕はそのことを、漫才協会の師匠たちと接することによって、再確認することができました。
―ナイツのおふたりは、漫才協会に所属すると同時に、内海桂子さんに師事し、2022年8月に師匠が97歳で亡くなるまでの18年間をお弟子さんとして過ごしています。どんな18年間でしたか?
漫才協会に所属することと同じく、桂子師匠に弟子入りしたのは自分たちの希望ではなく、マセキ芸能社の社長が決めたことだったので、最初はピンときませんでした。
芸人の弟子というと、師匠の家に住みこんで身のまわりの世話や、寄席通いのカバン持ちをしたりするイメージがありますが、そのような義務はいっさいなく、桂子師匠自身が「アンタたち、あたしの弟子なんだってね?」と聞き返してくるくらいでしたから、師匠のほうでも僕ら以上にピンときてなかったんじゃないでしょうか。
―でも、寄席の楽屋では、師匠の着物をたたんだりはするわけでしょ?
着物のたたみ方についてはいちおう、先輩に教えてもらってはいたんですけど、桂子師匠は家から着物姿で寄席にやってきますから、たたむ機会なんてないんです(笑)。
だから、最初の1~2年は、師弟らしい交流はありませんでした。
ただその後、師匠が僕らに目をかけてくれるようになって、営業先に同行させてもらうようになると、地獄のような日々が始まりました。
―地獄のような日々、というと?
僕らは芸人として師匠と営業先に行くわけですから、前座でお客さんに漫才を披露することになります。すると、「あなたたちのやってるのは漫才じゃない」とか、「こういうのはぞんざい(物事をいいかげんにする様)ですから」といった数々のダメ出しをされるんです。
これ、舞台を降りた場でやってくれる分にはありがたいんですが、お客さんの前でそのままやられちゃうんですよ。一度、「言葉で絵を描きなさい」と言われて、意味がまったくわからなくて絶句したこともありました。
―お客さんの前で恥をかかされるというのは、新人の芸人さんにとってはツラいことかもしれませんね。
実際、僕らの漫才はスベりにスベっていましたから、お客さんの前でのダメ出しは、傷口に塩を塗るようなものです。このころは、師匠に恨みのような感情を煮えたぎらせていましたね。
ただ、先ほど言った、僕らがM-1グランプリに挑戦して、テレビに少しずつ出られるようになって自信をつけ始めたころ、勇気を出して師匠のダメ出しに「うるせぇ、このクソババァ!」と突っ込んだことがあるんです。
すると、間髪入れずに「誰がババァだ!」と師匠から返ってきて、それからはマシンガンのような言葉の応酬。それで客席はドッカンドッカンとウケたんです。
そのとき一瞬、師匠がうれしそうな表情を浮かべたのを今でも鮮明に覚えています。師匠もずっと、こういうことを僕らとしたいと待ち構えていたんだと思います。当時はその真意を理解できませんでしたけど、ここ最近になってみるとわかります。
そう思うと、師匠には感謝してもしきれないなぁと思いますね。
―桂子師匠の教えで印象的なものを挙げていただくとすれば、何でしょうか?
師匠がよく言っていたのは、「いろんな経験を積みなさい。それが漫才に生きるんだから」ということ。なんてことのない言葉なんだけど、僕は漫才というものの本質を突いた言葉だと思っています。
というのも、若いうちはお客さんにウケたネタも、年をとるとできなくなっていくものなんです。
例えば、結婚して家庭を持てば、「女の子にモテたい」とか、「彼女がほしい」というネタはやれなくなります。俳優さんなら独身でモテない男の役を演じられるんだけど、漫才師の場合、それが成立しないんです。
―つまり、漫才師は、自分の生き様をそのままネタにしていくしかないわけですね?
そうです、そうです。
だから、2018年に『警視庁・捜査一課長』(テレビ朝日系)という連続ドラマの出演オファーをいただいたとき、「漫才師の自分がドラマに出ても、うまい演技なんてできるわけない」と思って躊躇したんですけど、師匠の教えを思い出してお受けすることにしたんです。
その結果、僕の「棒読み演技」がいろんなところでいじられることになったわけですけど、それがまた漫才の要素として生かされるわけですよ。
僕は今、ニッポン放送の月曜から木曜日の『ナイツ・ザ・ラジオショー』と『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』の木曜レギュラー、それからTBSラジオでは毎週土曜の『ナイツのちゃきちゃき大放送』と、週に5日間はラジオに出演しているんですけど、もし僕が漫才しかやらない人間だったら、しゃべるネタはとっくに尽きてしまったはずです。
だから、師匠の「いろんな経験を積みなさい」という言葉は、僕の中でますます重い意味を持ってきています。
―今回、同居している奥さんのお父さんとの交流を描いたエッセイ『静夫さんと僕』を出版されたわけですが、この話も聞かせてください。同居のきっかけは、どんなことだったのですか?
2014年に最初の子どもが生まれることになって、広い家に引っ越したいという話を夫婦でしていたんですね。ちょうどそのころ、奥さんのお父さん、すなわち静夫さんが脳梗塞を患い、足腰を悪くしたこともあって、一緒に住んだらお世話もできるし、ちょうどいいんじゃないかという話になったんです。
それまで、静夫さん夫婦はエレベータのない団地の4階に住んでいて、奥さんの妹ふたりの家族が集まったりすると、ギュウギュウ詰めになってしまうような環境でしたし。
―いざ同居をはじめてみると、超マイペースな静夫さんの生活に振りまわされていく様子がおもしろおかしく書かれていますが、これを実際に体験する本人にとっては、かなりのストレスだったんじゃないですか?
それまで静夫さんの近くに住んでいて、いろいろ世話をしていた奥さんの妹ふたりからは「静夫さんと付き合うのは大変だよ」と言われていたんですが、最初のころはそんなふうに思ったことはありませんでした。
静夫さんは自然が好きで、野生で生えてる雑草を見ると、家に持ち込んで飾る、という癖があるんですけど、その雑草に家がちょっとずつ浸食されていって、半年も経つと家中がジャングルのようになっていました。
―「家のなかが汚くなるからやめてほしい」と言っても、聞いてもらえないんですか?
そうなんです。とにかく性格は頑固。そして、しつこい。自分の言いたいこと、やりたいことを誰が嫌がろうが押しつけてくるんです。
例えば、宇宙の話。静夫さんはサイエンスが大好きで、日ごろから専門書をたくさん読んで、「宇宙の構造は、どうなっているか知ってるか?」と質問してくるんですけど、難解な上に、あっちこっちに話が飛ぶので同じ話がループしたりするんです。
そもそも、耳が遠いので、「その話、もう聞きましたよ」と言ってもおかまいなし。補聴器をつければいいんじゃないかと薦めても、つけるのを嫌がるんですね。
―いろいろな点で、矛盾したところがあるようですね。
それで結局、静夫さんにこっちのペースに合わせてもらうことを途中からあきらめました。コントロールしようとすればするほど、静夫さんは頑固に我を通してくるので、かえってストレスが増してしまうんです。
要するに、「静夫さんは、そういう人なんだ」ということを受け入れるってことです。
―高齢者施設だと、食事の時間とか、起床と消灯時間とかが決められてしまいますが、おそらく静夫さんは、そういう生活を受け入れてくれないでしょうね?
絶対に無理ですね。
静夫さんは、超がつくほどの偏食家。サッポロ一番の醤油味の袋麺が大好きで、毎日そればかり食べています。家には大量の空き袋が散乱しているので、僕らはそれを「ポロイチ」と呼んでいます。
睡眠時間も、いつ寝ているかわからないほど変則的です。おそらく昔、タクシーの運転手をしていたころからの習慣だと思うんですけど、基本的に夕方の3時とか4時ごろに寝て、深夜の2時ごろに起きてくるみたいです。
ある日、朝の飛行機に乗らなきゃいけない日があって、早朝4時に身支度をして玄関に行ったとき、靴箱の隣の椅子に座った静夫さんが無表情でボーッとしているのに出くわして、「うわっ!」と声をあげてしまったこともあります。
―そういう静夫さんの生活のすべてを、受け入れていく姿勢が大事なんですね。
その通りです。
もしかすると、漫才協会の数々の個性的なお爺ちゃんとの接し方が上手くなった点があるとすれば、そのスキルは静夫さんとの生活のなかで、少しずつ磨かれていったのかもしれません。
例えば僕は、漫才協会の師匠に向かって、「何度も同じネタをやるんじゃなくて、新作を作ってください」なんてことは、口が裂けても言えません。なぜなら、今、僕らが寄席で漫才を披露できているのは、師匠たちがずっとその場所を守り続けてきてくれたおかげなんですから。
お年寄りに対しては、そういうリスペクトの気持ちが大事だと思うんです。もし静夫さんがいなければ、僕は奥さんと出会って家庭を持つこともできなかったわけで、そう思ってみれば、静夫さんを邪魔者扱いするほうが間違っているということがよくわかりますよね。
―ところで、静夫さんは本になった『静夫さんと僕』を読んで、どんな感想をおっしゃっていましたか?
「おもしろかったよ」って、言ってくれました。
静夫さんとのエピソードは、ラジオのトークのネタにもさせてもらったし、こうして本にすることもできて、僕にとって静夫さんはとてもありがたい存在なんですけど、そんな静夫さんに喜んでもらえたことは、素直にうれしかったです。
それと、書いてみてわかりましたけど、日常生活のエピソードって、時間が経つと忘れていくじゃないですか。でも、こうして文章にしておくと、いつでも思い出すことができます。そういう意味で、この本を書くことができて、本当によかったと思っています。
―最後に、塙さん自身の老後の話をお聞かせください。漫才師には定年がありませんが、塙さんは何歳まで漫才を続けたいと思っていますか?
「生涯現役」って言葉がありますよね。しかも、そのことをポジティブなことのように語られることが多いと思いますが、意味がわからない。
だって、人間は誰しも、自分の寿命が何年あるかを知ることはできないわけですから、「生涯現役」というのは、とても曖昧な目標のように思えるんです。それよりも、「65歳になったら引退する」と決めておいたほうが、張りのある毎日をおくれるんじゃないかと思うんですよね。
―でも、現代は人生100年時代だと言われます。65歳で引退すると、その後の20年、30年を持て余してしまうのではないですか?
いや、そんなことはないと思います。これまで世間からずっと、「ナイツの塙」として見られてきただけに、「塙宣之」というイチお爺ちゃんになったときの世界を、きっと新鮮に受け入れられるはずです。
そうなれば、静夫さんのように自分の言いたいこと、やりたいことを素直にやるだけの日々をおくりたいですね。今までできなかったプライベート旅行とか、いろんな遊びを試してみたい。そう思うと、今からワクワクするじゃないですか。
やろうと思えば、自分の人生を思い通りに生きるって、きっとできることだと思うんですよ。そう思いません?
撮影/八木虎造
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。