ブックレビュー
2024年のNHK大河ドラマが紫式部を主人公にした『光る君へ』になると聞いたときはブッ飛んだ。なぜ令和の今に平安時代? 源氏物語は2008年の平成時代に成立1000年を記念した「千年紀プロジェクト」をやっていたから、そのときのほうがタイムリーだったんじゃないの? などと、しきりに首をかしげたのだが、大河ドラマというのは時代の流れに迎合するのではなくて、自ら流れをつくるという気概に満ちた国民的ドラマなのだから、まぁそういうものかとも思う。 現在放送中の『どうする家康』が終盤に近づく年末あたりになると、大河マニア、ならびに源氏ファンがそわそわしだして「どんな大河になるんだろうね」などと噂話が始まるのが目に見えている。 で、そんなとき、「ああ、『源氏物語』ね。まぁ、いちおう僕も読んでみたけど、おもしろいと思うよ。現代語訳だけどね」くらいのセリフは言ってみたい。そう思っている人は多いと思う。 『源氏物語』は世界最古の長編小説と言われるが、ただ古いだけでなくて、小説として読んでも本当におもしろい。ただネックなのが「長い」ということだ。意気込んで読みはじめて、平安貴族の風俗とか雰囲気に馴染めずに挫折してしまう人も多いだろう。だが、作品中の世界観が理解できるようになると俄然、読むのが楽しくなるのだ。 というわけで今回は、「『源氏物語』を最後まで読む」という目標にゴールするためのアプローチ法を提案したいと思う。 『源氏物語 解剖図鑑 』 著者:佐藤晃子/文、伊藤ハムスター/イラスト 発行:エクスナレッジ 定価:1600円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 挫折して途中から再読しても、ガイドブックがあれば大丈夫 現代語訳にこだわらないのならば、「最後まで読む」にたどりつく最も手っとり早い手段が大和和紀による漫画『あさきゆめみし』を読むことだ。ストーリーはほぼ忠実に描かれていて、古文の受験対策として予備校も推奨しているらしいし、平安時代の衣服や建築なども膨大な資料をもとに考証されて描かれている。 同時期に現代語訳を手掛けた瀬戸内寂聴も、この漫画の完成度には高い評価をしている(ちなみに同じ漫画版では江川達也によるものがあって、こちらも評判が高い)。 でも、やっぱり漫画じゃなくて現代語訳で読みたい、という人もいるだろう。私もそうだった。 だが、その道を選んだ結果として、54帖にも及ぶ長大な物語に出てくる、430人もの登場人物を把握するという難題に直面することになる。ちょっと気を抜くと、「あれっ? このキャラクターって前にも出てきたけど、どんな人だったっけ?」と、すでに読んだところに戻ったりしているうちに、筋がわからなくなるのである。 そこでお薦めしたいのが、『源氏物語 解剖図鑑』(エクスナレッジ)のようなガイドブックを座右に置きながら読むことである。 さすがのエクスナレッジ「解剖図鑑」シリーズ この本の優れているところは、巻ごとのストーリーと、そこに登場する人物の関係性がコンパクトにまとめられているところ。「この人誰だっけ?」という疑問に即座に応えてくれるのである。さらに親切なことに、複雑にからみあった人間関係が図で説明されていたりもする。 要するに「この巻では、これだけの知識があればいいですよ」と必要な部分を強調してくれるので、読むガイド役として非常に優秀な仕事をしてくれるのだ。 途中で挫折してしまった場合、再チャレンジまでの時間が長くなるにつれ、記憶は定かでなくなり、結局「また最初から読み直さねばならなくなる→再度の挫折をうながす」という悪循環につながるが、このガイドブックがあれば途中からでも再チャレンジできる。これは大きい(巻末に索引があって、知りたいことにすぐにアクセスできる親切設計)。 また、平安貴族の風習や信仰など、必要な基礎知識をコンパクトに説明してくれているのも、物語の理解を助けてくれる。 こうしたガイドブックは、これまでにたくさん出版されてきたが、エクスナレッジの『解剖図鑑』シリーズの一冊である本書は、過去50冊以上作られたきたシリーズのノウハウが生かされていて、よくできていると思う。 与謝野訳、谷崎訳はなぜ読みにくいのか? ガイドブックの次に選ぶべきは、「誰の現代語訳で読むか?」ということ。実はこの選択こそ、ガイドブック選び以上に重要なのだ。 「いちおう読んでみたけどね」などと偉そうに語った私だが、実は過去には与謝野晶子訳、谷崎潤一郎訳という2つの現代語訳に挑んでいずれも挫折し、2013年に出版された林望訳『謹訳 源氏物語』の最終巻でようやく全巻を読破したヘタレ源氏読みである。 与謝野訳、谷崎訳は、自身も現代語訳を手掛けた橋本治が「2大クラシック現代語訳」と評する名作だが、すでに訳業から70年以上も経っているので、それぞれに読みにくさがあるのだ。 強いてどちらがとっつきやすいかと言えば、与謝野訳だ。 与謝野晶子訳の「源氏物語」は和歌が訳されていない!? それには2種類があって、ひとつは1913(大正2)年に完成したダイジェスト版で、角川文庫ソフィアから『与謝野晶子の源氏物語』として全3冊で出ている。 もうひとつは1939年(昭和14年)に完成させた「新訳」で、そのあとがきに与謝野は前作の「略述」が「粗雑な解と訳文」だったので、より原文に近い形で書き直したと書いている。 とはいえ、ダイジェスト版が現在も出版されているということは、読みやすいからで、いずれも著作権フリーになっているので青空文庫などで無料で読めるという手軽さもある。 与謝野訳の唯一の欠点は、和歌が訳されていないということ。 実は『源氏物語』には795もの和歌が収録されていて、なかには登場人物が自分の心情を歌に託すシーンも多い。従って、和歌の意味がわからないとストーリーの理解があいまいになってしまうところがあるのである。 与謝野は自身も歌人だったから、当時の読者の和歌リテラシーを信用していたのかもしれないが、令和を生きる人にその能力を求めるのはむずかしいだろう。 谷崎潤一郎訳の「源氏物語」は文章自体が難解という致命的弱点が 谷崎訳について言えば、和歌がどうとかいう問題だけでなく、原文に近い形で訳されているので文章全体が難解そのものなのだ。 谷崎は序文で「あまり学究的にならずに、普通の人が普通の現代小説を読むやうな風に読んで頂きたい」とか、「原文と対照して読むためのものではない」と書いているが、「原文と対照して読むのにも役立たなくはない筈であり」などとも書いていて、結果的にその文章を読みにくくしているようだ。 円地訳、田辺訳、瀬戸内訳。女流作家3人による絢爛豪華な世界 昭和の時代に出版された現代語訳されたものには、円地文子、田辺聖子、瀬戸内寂聴の3作がある。 もちろん、私はこれら全文を読んだわけではないので、『痛快!寂聴源氏塾』(集英社文庫)のなかの寂聴の解説をここに紹介しよう。 「円地源氏」は、与謝野源氏とも、また谷崎の源氏とも違ったスタンスで書かれています。そのことについて、円地さんは、「人の愛し方には、相手をそっと床の間に置くように大切にする愛し方と、一方的な略奪結婚があるけれども、私の訳はその略奪結婚のほうね」とおっしゃっていました。「あくまでも原文に忠実に」をモットーにした谷崎源氏とは対極的に、円地さんはたとえ紫式部の原文には書かれていなくても、「私ならば、こう書く」と思ったところは自由に加筆されています。光源氏と女たちのベッドシーンなどがその例です。 ようするに谷崎のコンセプト、「普通の人が普通の現代小説を読むやうな風に」読めるものを円地流に実現したものだということがわかる。 次に、田辺聖子訳の寂聴評はどうだろう。こちらは『わたしの源氏物語』(小学館)からの引用だ。 古典を愛し、古典にいれあげて、広く深く読みこなし、しっかりと噛みくだき食べてしまって、自分の血や肉にしてしまった女流作家に田辺聖子さんがいる。おそらく当代女流の中では 田辺さんほど古典を読みこんでいる人はいないだろう。その田辺さんにも源氏物語を現代語訳ではなく、すっかり自分のものとして食べてしまった後で、改めて、繭糸を吐き出すようにして織りあげた『新源氏物語』という大作がある。これは源氏を下じきにした田辺さんの全く新しい小説といっていいだろう。面白さでは円地源氏よりずっと這入(はい)りやすい。 この田辺訳は、エピソードをばっさり切って、読みやすく、ドラマチックに並べ替えたりしてもいるので、現代語訳というよりは、翻案小説とも言えるだろう。 では、自身の現代語訳について、寂聴はどのように発言しているのか? そこで訳にあたっては、毛糸のようにもつれている源氏物語の長い文章のところどころにハサミを入れ、また主語もくどいほどに追加しました。また、源氏物語にかぎらず、古典の文章には敬語が多用されているのですが、これは読みやすく省略することにしました。しかし、それ以外は、原文にできるかぎり忠実に訳しています。(『痛快!寂聴源氏塾』) なかでも寂聴訳の特徴は、和歌を五行詩で訳しているところ。学校で古文を習ったことのある人なら、和歌の現代語訳が説明的で味気ないものだと知っていると思うが、これが興趣ある現代風の詩で味わえるのはありがたいかもしれない。 橋本訳、林望訳の男目線の魅力 続いては、男性作家による現代語訳を見ていこう。橋本治訳、林望訳の2つである。 橋本治訳『窯変 源氏物語』(中公文庫)の最大の特徴は、物語全体が主人公である光源氏、および薫の一人称で語られているという点である。これについて橋本はエッセイ集『源氏供養』(中公文庫)で次のように説明している。 私が源氏物語を「光源氏の一人称で語り直してしまえ」と思った最大の理由は、「自分がどこまで魅力的な“悪い男”になれるか試してみたい」ということです。こういうことが物語作者の特権です。「女流作家の完成させた女の世界を、“男の世界” として取り戻してやる」という、『ぼんち』の主人公のような気持が私の“悪”の正体なのですが、ということになると、文体というものを考えなければなりません。 私がリンボウ先生こと、林望訳『謹訳 源氏物語』(祥伝社)で初めて全巻読破を達成したことは前述したが、そのウラには、訳業が完成する前後に私が先生にインタビューしたことがある。現在、その記事はサイト閉鎖によって閲覧できないが、その一部をここに再現することにしよう。 作家が書いたもの、学者が書いたもの、そのふたつの現代語訳には特徴があって、簡単に言ってしまうと、前者が作家らしい大胆さで自由に訳したものだとすると、後者は学術的な解釈で厳密に訳されたものです。どちらにも長所と短所があって、一概に「これがいい」とは決めかねます。そこで私はそのふたつの特徴を統合してみようと思いました。つまり、作家の書き方で面白く、学者の分析力で正確に訳してみようというわけです。説明が必要な部分は書き足し、敬語など古文特有のまわりくどい言い回しなどは省略し、現代人が面白く読むことができて、なおかつ源氏物語の格調高い文学のエッセンスをわかりやすく伝えられるようなものにしたいと考えました。 リンボウ先生と言えば、デビュー作でありベストセラーにもなったエッセイ『イギリスはおいしい』(文春文庫)のイメージが強いからか、しばしば英米文学者だと誤解されることがあったそうだが、実は先生の専門は国文学、書誌学であり、「『源氏物語』の現代語訳に取り組みたい」という願望は作家デビューしたばかりのころから持っていたそうだ。 とにかく、その先生の労作のおかげで私は「源氏の現代語訳読破」を何とか達成できたわけである。感謝しかない。 まだまだあるぞ現代語訳。できれば2周目、3周目に挑戦したい さて、最後に特徴的でユニークな現代語訳3つを紹介しよう。 『大塚ひかり全訳 源氏物語』(ちくま文庫) 『源氏の男はみんなサイテー』『カラダで感じる源氏物語』(ともにちくま文庫)などの傑作古典エッセイで知られる大塚ひかりの全訳版。長年、原文に親しんできた大塚は「古典は原文を読むべき。だから私は現代語訳は基本的に読まない」と発言しているが、そんな彼女自身が「欲しかった逐語全訳」なのだという。 筑摩書房のホームページによると、「原文を重視し、原文のリズムを極力重んじ、また『要注目』の原文はそのまま本文に取り込みつつ、『するする分かる』訳」とある。 また、随所に「ひかりナビ」というコラムを差しはさみ、、読み取るべき「ツボ」がわかりやすく解説されているという。 『A・ウェイリー版 源氏物語』(左右社) 近代に入って初めて源氏の現代語訳をしたのは、与謝野晶子だが、それに続くのは谷崎潤一郎ではなく、イギリス人の東洋学者アーサー・ウェイリーだった。それが『The Tale of Genji』で、完成したのは1933(昭和8)年のこと。英米で紹介されるやたちまちベストセラーになり、「文学において時として起こる奇跡のひとつ」「疑いもなく最高の文学」と絶賛されたという。 本書は、そのウェイリー版の現代語訳を毬矢まりえ+森山恵姉妹がさらに日本語に訳した逆輸入版。光源氏が「ゲンジ」「シャイニング・プリンス」とカタカナ表記される、ちょっと不思議な世界である。90歳をこえる瀬戸内寂聴も、第一巻を徹夜で読了し、その後も丁寧に読み直したという。非常に興味がそそられる現代語訳である。 角田光代訳『源氏物語』 河出書房新社より出版された『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集』に収められた源氏の現代語訳を手掛けたのは、売れっ子小説家の角田光代。日本人が手掛けた現代語訳は、原稿用紙4000枚を超える大著だったが、この角田版はコンパクトにまとまっていて、「イッキ読み」にふさわしいものになっている。河出書房新社の公式ホームページによると、角田版には次のような特徴があるという。 原文に忠実に沿いながらも現代的で歯切れがよく、心の襞に入り込む自然な訳文 地の文の敬語をほぼ廃したことで細部まで分かりやすい 生き生きとした会話文 草子地(そうしじ)の文と呼ばれる第三者の声を魅力的に訳して挿入 和歌や漢詩などの引用は全文を補って紹介 さて、『源氏物語』の現代語訳について、できるだけ網羅的に紹介してきたつもりだが、私自身、「読了したのがまだ一冊」という超初心者である。 できれば今後、原文にも触れながら、2種類、3種類と別の現代語訳に触れて、「源氏好き」を公然と名乗れるほどになっていたい。そうなれば、大河ドラマ『光る君へ』が放送されている2024年は、秘かな優越感に浸りながら過ごせるはずだ。
2023/04/21
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