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ブックレビュー

片岡鶴太郎

インタビュー 定年 片岡鶴太郎

【俳優、画家・片岡鶴太郎】人生後半を思いきり楽しむ、「老いては『好き』にしたがえ!」の流儀

片岡鶴太郎さんは、つねに新しいことにチャレンジし続けている「挑戦者」である。 芸人として売れっ子の道を歩んでいた30代に突如、ボクシングに挑戦してプロライセンスを取得。それと同時に、仕事の比重を芸人から俳優へと移していった。かと思えば40代からは絵の道に手を広げ、個展をひらくほどの人気を博すように。 さらには50代後半でヨガを始め、インド政府公認のヨガインストラクターになるほど道を究めた。2017年6月、インストラクター就任の発表記者会見で体重43キロの痩身で現れた彼の姿を見て、衝撃を受けた人は多いだろう。 そんなふうに1度だけの人生を、5回分、6回分も楽しんでいるように見えるのが鶴太郎さんという人である。 そんな鶴太郎さんが上梓した『老いては「好き」にしたがえ!』(幻冬舎新書)には、人生100年時代を生き抜くヒントに満ちている。この本を読むと、人生の節目、節目で彼がもがき苦しみながら「新しいことへのチャレンジ」をしていった経緯がわかる。 2023年の12月21日で69歳になる鶴太郎さんのこれまでの人生をふり返っていただくと共に、70代以降の生き方についてのビジョンをうかがってみよう。 『老いては「好き」にしたがえ!』 著者:片岡鶴太郎 発行:幻冬舎新書 定価:900円(税別) 人として売れるには、「弟子入り」という道しかなかった ―鶴太郎さんが芸人を志したきっかけは、何だったのですか? 最初は、芸能界に対する漠然とした憧れがあって、はっきりと形になったものではありませんでした。実際に行動を起こしたのは高校卒業後のことなんですが、女優の清川虹子さんのご自宅に押しかけて門前払いをくらったり、俳優の松村達雄さんのもとを訪ねたりしました。いずれも「弟子入り」をお願いしたんですが、松村さんには「演劇の世界に弟子をとるという制度はないからね。もし俳優になりたいのであれば劇団に入りなさい」と諭されてしまいました。「弟子入り」にこだわったのは、1日24時間365日、芸能の水に浸りたかったからです。今のように各芸能プロダクションがいろんな養成所を構えていて、プロになるための道を作ってくれるような時代じゃなかった。誰かの弟子になって、その道に進んでいくのが唯一の方法だったんです。結果的に私の希望に応えてくれたのが、声帯模写を得意とする片岡鶴八師匠で、これをきっかけにものまね芸人としての道を歩むことになりました。 ―でも、そこから売れっ子の芸人になるには、かなりの紆余曲折があったようですね。 そうですねぇ。鶴八師匠の弟子として過ごしたのは、3年ほどでした。住み込みの弟子として師匠の身のまわりの世話からカバン持ちをする生活を期待していたんですが、師匠からは「うちは狭いからそういうのは面倒だ。通いで来てくれ」と言われてしまいました。その後は、隼ジュンとガンリーズというコントグループの一員になったり、四国の大衆演劇一座の舞台に立ったり、文字通りの紆余曲折です。隼ジュンとガンリーズは「キャバレーの王様」という異名があるほど、キャバレーやホテルの巡業で絶大な人気を誇るグループでした。 ―ここでようやく“人気”という言葉が出てきましたが……。 でも、テレビで売れる芸人を目指していた自分には違和感があって、2年ほどたったころに逃げ出すような形で脱退してしまったんです。そこで東京にはいられなくなって、四国の大衆演劇一座のお世話にすがったわけです。その一座とは半年でお別れして、東京に戻って芸能プロダクションに所属することができたんですが、主な舞台は錦糸町のサパークラブ。深夜0時から朝5時まで営業していて、キャバレーやクラブで働くホステスさんがアフターで利用するようなお店で、そこのステージで司会をしたり、ものまね芸を披露する仕事です。 ―やっぱり「売れる」道筋が、なかなか見えてきませんね……。 自分でもそう思って、一念発起して挑戦したのが、「東宝名人会」のオーディションです。1934年から2005年まで1200回以上、開催された演芸公演で、この舞台を踏むことは、芸能の世界で名前を認めてもらう重要なステップだったんです。 一夜にして売れっ子に。そうなるまで9年かかった ―結果的に鶴太郎さんはこのオーディションに合格して、テレビにも出演するような芸人の道を歩むことになるわけですね。 そうです。24歳のとき、フジテレビのお笑い番組からお声がかかりました。『お笑い大集合』という番組で、タモリさん司会の『笑っていいとも!』の前身にあたる番組です。この番組のプロデューサーをつとめた横澤彪さんは若いころ、同じくフジテレビの『しろうと寄席』のアシスタントディレクターをつとめていたんですが、実は私、小学5年生のときにこの番組に出演したことがあるんです。横澤さんはそのときのことを覚えてくださっていて、「鶴太郎って、あのときの荻野くん(私の本名です)でしょ?」と声をかけてくれたんです。 ―横澤彪さんというと、1980年に『THE MANZAI』を起ちあげて、ツービートや島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、B&Bといったスターを世に出す漫才ブームの立役者として有名ですね。 すごかったですよねぇ、漫才ブーム。ただ、ブームのメインストリームにいたのは漫才師の人たちですから、私のようなものまねの「ピン芸人」は、ブームの端っこのところで指をくわえて見ているしかありませんでした。ただ、その1年後の1981年に『オレたちひょうきん族』がスタートするんです。漫才ブームでブレイクしたコンビをバラして、みんながピンになってコントやパロディを演じるスタイルのバラエティ番組です。この「コンビをバラしてピンにする」というのは非常に画期的な試みで、私のような芸人にもテレビのメインストリームで活躍する場が与えられたんです。 ―鶴太郎さんご自身、「売れた」と実感したのは、いつごろですか? それに関しては明確な記憶がありまして、それが番組内の「ひょうきんベストテン」というコーナーで、マッチ(近藤真彦さん)に扮してゲスト出演したときです。後に番組内で「ビビンバ」の愛称で知られることになるディレクターの荻野繁さんに持ちかけられたネタで、近藤真彦さんのものまねは、私のレパートリーにはありませんでした。でも、「似てる似てないなんて関係ないから。マッチは元気がいいから、元気がよすぎてセットを壊しながら暴れに暴れて最後に死ぬ。これで行こう」という無茶苦茶なノリで生まれたネタです。ですから、やっている本人も「本当におもしろいんだろうか」と半信半疑でした。 ―でも、そのネタが見事にハネるわけですね。 そのことを実感したのは、そのマッチのネタが放送されて数日後、『笑ってる場合ですよ!』というお昼の生放送のバラエティ番組に出演したときでした。この番組は、先ほど述べた『お笑い大集合』と同様、『笑っていいとも!』の前身にあたる番組で、エンディングで5分くらいのゲストコーナーがあるんです。私は1カ月に1度くらいのペースでこのコーナーに呼ばれていたんですが、マッチ放送後に出たときの反響には、すさまじいものがありました。それまでは、「鶴ちゃーん」という声援もまばらにかかる程度だったんですが、このときは客席から「キャー!マッチ!!」という怒濤のようなどよめきが起こったんです。 ―アイドル並みの騒ぎですね。 サブコントロールルームから、横澤さんが駆け下りてきて、「鶴ちゃん来てるよ!来てるよこれ!絶対逃しちゃダメだよ」と興奮ぎみに語ってくれたのを覚えています。自分の感覚としては、一夜にしてまわりの世界が一変してしまったような感じでした。テレビの影響力のすごさを実感しましたね。このとき、私は27歳。鶴八師匠に弟子入りして、9年の月日が経ってました。 ポッチャリ型の芸人からスリムなボクサー体型に肉体改造 ―30代前半の鶴太郎さんはレギュラー番組を10本も抱え、文字通り、全国区に名前を知られる売れっ子になるわけですが、32歳のとき、突如としてプロボクサーのライセンス取得に挑戦しています。これには、どんなきっかけがあったのでしょう? 周囲の人たちにとっては「突如として」と見えていたかもしれませんが、自分としてはちゃんとした理由があるんです。テレビで売れたことへのうれしさはありましたが、レギュラー番組が10本になると寝る間もないほどの忙しさに追われて、ストレスが溜まっていきます。でも、充分な休養をとる暇もないので、すき間の時間で好きなものをお腹いっぱい食べ、酒を飲み、女性と遊ぶという毎日で、不健康そのもの。おかげで、身長161センチにして体重65キロの、ブクブクとむくんだ体型になっていました。ちょうどそのころ、明石家さんまさん主演の恋愛群像ドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)に出演する機会をいただいて、俳優という仕事に魅力を感じていた時期でもありました。 ―いわゆる“転機”、ですね。 でも、当時の私のポッチャリ体型では、似たような役のオファーしか来なくて、「いろんな役を演じられる俳優になるには、肉体改造をするしかない」と思っていました。その数年前に見た映画『レイジング・ブル』で、主演のロバート・デ・ニーロが鍛え上げられた現役時代のプロボクサーと、引退後の27キロも太った姿を同時に演じるという俳優魂に触れて、「海外の一流の俳優は、そこまでやるのか!」と衝撃を受けたことも大きかったですね。ボクサーはお笑い芸人と同様、子どものころからの憧れの存在でしたから、そのプロライセンス取得に挑戦することは、それまでの自堕落な生活をリセットしてくれる、絶好なチャンスだと思ったんですね。 ―でも、ボクシングのプロライセンスに挑戦するには、売れっ子芸人としての多忙な仕事を大幅にセーブしなければ不可能ですよね。周囲から反対はありませんでしたか? 実際、所属事務所からは「2年先までスケジュールが埋まっているんだよ。なぜ、その仕事をセーブしてまでボクシングに専念しなければいけないの?」と問い詰められました。それでも私は「2年先まで仕事があったとしても、3年先の保証はありませんよね。ボクシングのプロライセンスの取得には年齢制限があります。今、挑戦しないと、チャンスはもうやって来ないんです」と主張して、思い通りにさせてくれるように頼んだのです。現在、プロボクサーのライセンスの受験資格は32歳なんですが、当時の規定では33歳でした。私がボクシングへの挑戦を始めたのは32歳のときでしたから、1年しか準備期間がなかったわけですが、役者とボクシングのダブルチャレンジというのは私にとって、挑み甲斐のある挑戦だと思いました。 人生に行き詰まった40代を救ってくれたのは絵を描くことだった ―ボクシングのプロテストに合格すると同時に、ものまね芸人から俳優へ仕事の比重を移すことに成功した鶴太郎さん。大きな人生の転機だったと思いますが、その後、絵画という新しいことへのチャレンジが始まります。どんなきっかけがあったのでしょう? 33歳でボクシングのライセンスをとり、世界チャンピオンの鬼塚勝也選手のセコンドについて二人三脚で防衛戦に臨む日々は、充実していました。ところが1994年、鬼塚選手は6度目の防衛戦で世界タイトルを失い、以前から網膜剥離であったことを明かして現役を引退したんです。それと時を同じくして、私の俳優としての仕事にも変化がありました。長く主演をつとめていた金田一耕助シリーズ、海岸物語シリーズが終了して、潮目が変わっていくのを感じたんです。では、次に何をするべきか、いろいろ考えてみるんだけど、答えが見つからない。間もなく40歳の不惑の年をむかえるというのに、惑ってばかりの日々が始まりました。 ―その惑いのなかから、「絵を描く」という道に行き着くわけですね? 半年くらい、ジタバタした結果ですけどね。周囲にいる40代の人に「不惑の年ってどうですか?」と聞いてみたり、京都のお寺に坐禅を組みに行ったりしても、答えは見つかりませんでした。そうこうするうち、2月のある寒い日、早朝5時に仕事に出かけようと自宅を出たとき、隣家の庭に植えられた木に咲いた、赤い花が目に留まったんです。それまで植物に興味を持ったことなんて一度もないのに、そのときはなぜかその花の存在が気になったのです。以来、前を通りがかるたびにその花を観察するうち、その家の奥様と立ち話をする機会があって、ヤブツバキという椿の花だということを知りました。それと同時に、その感動を何かで表現したいと思って、絵に描くことを思いついたんです。 ―それまで絵を描いた経験は、あったんですか? いえ、まったくありません。それどころか、美術館で絵を鑑賞したこともありませんでした。でも、「椿の花を描けるようになりたい」という気持ちが心のなかから消えることはありませんでした。私は、こうした心の印を「シード(種)」と呼んでいます。普段は潜在意識のなかにあって、その存在に気づかないけれど、ふとした瞬間に「発芽したい」というサインを送ってくるんです。こういうときは、サインが示すままに行動するのがいちばんです。なぜならそれは、「自分が本当にやりたいと思っていること」であり、「魂の歓喜」につながることだからです。 ―なぜ、椿の花にそれほど惹かれたのでしょう? さぁ、どうなんでしょう。誰に見られることもなく、健気に咲いているところに心動かされたのかもしれません。本当の美しさというのは、そういうことなんじゃないかと。それに比べて自分は、人の目ばかりを気にして、人に見られていないと何もできない。そんな自分の非力を感じて、椿の花に憧れの気持ちを持ったのではないでしょうか。そこで、隣家の奥様に1本の椿の花をいただいて、目の前にかざしながら絵を描いてみました。 心のなかの「シード(種)」が絵を描くことで発芽した ―実際に絵を描いてみて、すぐに手応えはありましたか? とんでもない!最初に描いた絵は、目を覆いたくなるほどのひどい出来でした。その後も何枚も何枚も別の紙に書き直すんだけど、最初に花を見たときの感動に近づいていく感じが少しもしないんです。そこで、花を描くことはいったんあきらめて、サンマやイワシとかの魚を描くことにしました。私は、何かの技術を身につけるには「反復練習」がいちばんの近道だと思ってきました。最初のうちはうまくできなくても、毎日毎日繰り返して取り組むことで、何かが見えてくるようになる。ボクシングを始めたときも、そうでした。それまで運動らしいことをしてこなかったものだから、縄跳びすらまともに跳べませんでした。トレーナーにコツを聞くと、「鶴太郎さん、縄跳びにコツなんてありません。ひたすら跳ぶしかないんです。跳んでいるうちに、何かが見えてきますから」と言われて、ひたすら反復練習をしました。その「何かが見えてくる」という手応えは、1か月後にやってきました。絵を描くのも、これと同じ方法でいくしかないと思ったんです。 ―反復練習をするにしても、上達が遅ければ途中で心が折れてしまいます。鶴太郎さんは、それでもなぜ、絵を描き続けることができたんですか? このときは、「自分には絵の才能なんてないんだ」とあきらめたとしても、またもとの鬱々とした日々に逆戻りするしかないという焦燥感がありました。無謀な挑戦に思えても、それにしがみつくしかないという状況だったのです。その一方で、絵を描くことで、自分の心のなかのシードから確実に芽が育っているという実感もありました。絵を描いている間は心が躍って、好きな酒を飲むことも忘れて作業に没頭することができましたからね。 暗中模索のなか、独学で絵を描く喜びに目覚めていった ―絵の対象を花から魚に変えたことで、どんなことが起こりましたか? とりあえず絵の道具をそろえようと画材屋さんに行ったとき、「油とか水彩とか、いろいろありますが、どうしますか?」と聞かれて、私は直感的に「墨がいい」と答えていました。「バターと醤油とどっちがいい?」と聞かれて、醤油を選んだような感覚です。その時点で、写真のように見たままそっくりの絵を描くのではなく、見る人の想像力をうながすような味のある絵を目指していたのがわかります。例えばサンマは、お腹のところがメタリックに光っていて、背中には鮮やかな濃紺で彩られています。それでもじーっと眼をこらしてサンマを見てみると、肉眼で見た色とは別の色が見えてくるんです。ある意味で、心の眼とでもいうんでしょうか、ああ、ここは朱色だな、とか、ここには緑が見えるな、という具合。そんなふうに見た目にはない色を絵に加えたりすることに、最初のころは抵抗感がありました。絵についてアカデミックな教育を受けたわけでもない私がそんなことをするのは、とんでもない間違いなんじゃないかと。でも、これを自分の満足のいく形に表現してみないと先に行けないなと思って試してみると、何となく自分の思い描いていた「味のある絵」に近づいていく手応えがあったんです。 ―心のなかのシードから、芽が吹いた実感が得られたわけですね。 そうですね。ただ、そうやって私が描いた絵が、多くの人に評価されるかどうかはわからないまま、正直に自分の感じるままの絵を描き続けていました。そんなある日、ある百貨店の美術部長という肩書きの名刺を持った方がやってきて、絵を見てくれる機会がありました。内心、びくびくしながら「こういうのは、絵として反則なんでしょうか?」と聞いてみると、こんな答えが返ってきました。「この絵は、鶴太郎さんにしか描けないオリジナリティのある作品です。このまま描き続けていただいて、個展を開きましょう」と。その言葉を聞いた途端、目の前に立ちはだかっていた戸がパーンと開けるような気がしました。 ―初の個展「とんぼのように」は1995年、鶴太郎さんが40歳のときに開催されました。百貨店主催の個展というと、絵の販売が前提となるので事実上、鶴太郎さんの画家としてのプロデビューの年となりますが、そのことについてどう思いましたか? 個展の開催が決まってからは、ドラマの収録の現場にも画材を持ち込んで、1年間で120枚の作品を描き続けました。それはプロの画家になるための努力ではなくて、それまで暗闇のなかで半信半疑で描いてきた絵を白日のもとで自由に表現できるんだという喜びのためやっていたことだと思っています。初めての個展は、おかげさまで大成功。売り出した絵はすべて完売しましたが、その後、自分の絵を売ることにはあまり積極的ではないんです。幸いなことに、私の絵を非売品として展示してくれる美術館を建ててくれるというお申し出を受けて、現在では不定期での個展を開催するかたわら、美術館に展示する作品を制作するに至っています。 片岡鶴太郎作品を扱う美術館の一覧はこちら 50代でやってきた「男の更年期」。救ってくれたのは……? ―40代は画家としての活動を開花した年代でしたが、今回の著書『老いては「好き」にしたがえ!』によると、50代前半は「男の更年期」に入り、鬱々とした日々を過ごしていたそうですね。 ええ、そうなんです。絵を描くようになって10年も経つと、「鶴太郎さんは絵を描く人なんだね」というイメージが世間に浸透していて、注目度は低くなっていきます。役者としても、自分にしか演じられないような役にチャレンジしようにも、そういう役に挑戦できるチャンスがなかなかやってこない。50代というのは、そういう中途半端な年齢なんですね。そんな八方ふさがりな状況のなかで、自分の立ち位置がわからなくなって、ふとした隙に心の袋小路に入ってしまったように思い詰めている自分に気づきました。「やばい、やばい」と思い直して、再びボクシングジムに通って身体を動かして、ぐっすり眠れるような生活サイクルを作ろうとしたんだけど、あらゆる透き間で「やっぱりダメだ」というサイクルに入っていく。今思えば、「男の更年期」だったんでしょうね。心身のバランスが崩れて、何をしてもネガティブな方向に心が向いていくんです。そんな状態が2年も続きました。 ―どうやってそれを克服されたんですか? ある日、「昭和29年生まれの午年の会を作りたいと思っているんだけど、参加しませんか?」というお誘いをいただいたんです。会のメンバーは、当時の小泉政権下で自民党の幹事長をしていた安部晋三さん、今は神奈川県知事ですが元フジテレビのニュースキャスターだった黒岩祐治さん、一般の方では銀行の頭取の方など、年は一緒だけど生まれも育ちも職業も違う、バラエティ豊かな集まりでした。大勢が集まる場は苦手だったので最初は抵抗がありましたが、自己紹介のあとにいろんな話を聞くと、自分と同じような悩みや葛藤を抱えている方が多くて驚きました。組織のなかで、上にはまだ活躍する世代が大勢いて、下には勢いのある若者が突き上げてくる、そんな状態にあって自分の立場に行き詰まりを感じていた。そうした悩みを打ちあけ合うなかで、「そうか、悩んでいるのは自分だけじゃなかったんだ」と気づけたのは本当にありがたかった。救いになりました。鬱々としている時期というのは、閉じこもりがちになりますが、私の場合、積極的に外へ出ていって人と会ったことが良かったと思っています。 ヨガと出会って、新たな心の「シード」が芽吹くのがわかった ―57歳のときには、ヨガを始められています。これにはどんなきっかけがあったんですか? 先輩の秋野大作さんと仕事でご一緒する機会があって、「最近、セリフ覚えが悪くなって……」と悩みを打ちあけたところ、「瞑想がいいよ」というアドバイスをいただいたんです。まずは1日6時間を2日間かけて基本的な考え方や修法を学んだあと、20分の瞑想を実践していくんだけど、最初のうちは、まったくできませんでした。身体が痛くなって集中できないし、それに慣れたあとも途中で眠ってしまったりして、ただの二度寝で終わってしまうこともしばしばでした。だからこれも、得意の反復練習で取り組むしかないと思って、根気よく続けていくことにしました。ヨガの境地というものを体験してみたい、その先にはきっと「魂の歓喜」があるはずだという予感がありました。 ―その手応えを感じられるようになったのは、いつごろのことでしょう? 始めて2か月くらい経ったときでしょうか、瞑想中にすごい体験がありました。自分が床にあぐらをかいているという身体感覚がなくなっていって、背中のあたりから気持ちのいい感覚が滾々(こんこん)と湧いてきたんです。おそらく、医学的に分析すれば、脳から大量のドーパミンが分泌されているような状態だったのでしょう、全身が幸せに包まれたかのような多幸感がありました。なんて幸せなんだろう、と。 ―すごい手応えですね。 もう一度、あの感覚を味わいたいと翌日、翌々日と試してみても、二度目の体験はなかなかやってきませんでした。それでもずっと続けていくうちに、すーっとその境地入るスイッチのようなものを見つけることができました。そこまで達するのに、数カ月かかったでしょうか。 何事も始めるに遅いということはない ―ヨガに目覚めたことで、鶴太郎さんの生活にどんな変化がありましたか? ボクシングは52キロ級でしたから、1日2食で体重を維持していましたが、ヨガと出会ってからは1日1食になって、体重も43キロになりました。1日のルーティーンには9時間をかけています。そうするとどうなるかというと、仕事の始まる9時間前に目覚めるように就寝時間を調節する必要があるんです。例えば、ドラマの撮影が朝5時からだとすると、前日の夜8時が私の起床時間ということになります。 ―9時間もかけて、どんなルーティーンをこなすんですか? 目覚めてすぐは、ドラマや映画の撮影中ならセリフの反復練習をします。寝起きだから口がまわらなかったりするんだけど、これをベストな状態でできるようになるまで続けます。その後は、歯磨きに20分くらいかけて口を洗浄し、あとは掃除や花に水をやるなどの雑用をして、やおらヨガの体制に入ります。まずは、ストレッチとマッサージを組み合わせた準備運動に1時間から2時間かけます。特にマッサージは、手と足の指を中心に入念に行います。指先というのは末梢神経と毛細血管が密集していますから、マッサージで血行をよくすることでヨガの質があがるんです。毎日これをやっているから、手はジジイの手とは思えないほど、ツヤツヤしています。足の裏も、赤ちゃんみたいにキレイです。 そこまでやって、ようやくヨガの本番。これが、3時間くらい。最後はだいたい2時間半かけて朝食を食べて、ルーティーンが終わります。そんな生活をもう、10年以上続けていますが、そのおかげで完璧な健康と、充実した毎日を送っています。 ―最後に質問です。鶴太郎さんは2023年12月で69歳になります。70代を目前にした今、心のなかにまだ芽生えていないシードは、あると思いますか? こればかりは、今の自分にはわかりません。ボクシング、絵、ヨガ、この3つはどれも自分の意思で始めたことですけど、「向こうからやってくる」というパターンもあるからです。例えば、2022年のNHK朝ドラ『ちむどんどん』に出演したときのことです。三線を演奏するシーンがあって、しかも、テンポの速い「唐船(とうしん)ドーイ」という曲を弾かなければならなかったんです。楽器をやったことなど一度もない、60代の私に対する要求としては、ムチャぶりに近いんですが、「やってみよう」と取り組みました。例によって、反復練習で何とか弾けるレベルまで修得しましたが、そこまでやって辞めるのはもったいないと思って、今も弾き続けています。 ―60代になっても、まだ新しいことに挑戦できるんですね。 私はそう思っています。始めるのにもう遅い、なんて年齢はないんだと。まったく弾けなかった曲ができるようになったときの喜びには、他では得られない喜びです。くじけそうになったときや、ちょっとは弾けてうれしかったときなど、それまで積み重ねてきた感情がイッキに歓喜に変わるんです。だから、ちょっとくらいムチャぶりだと思っても、「やってみよう」と挑戦することは大事なことだと思うんです。もちろん、ちょっと試してみて、「やっぱり合わなかった」と思えばやめてもいい。人生100年時代と言われている今、そんな試行錯誤をする時間の余裕は、たっぷりあるのではないでしょうか。 撮影/八木虎造

2023/08/31

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グループホームとは|入居条件や費用、入居時に気をつけたいポイントを解説

認知症の方の介護は大変です。「そろそろ施設への入居を検討しよう」と思っても、認知症の症状があると、入居を断られてしまうのではと心配もあるでしょう。 グループホームは認知症高齢者のための介護施設です。住み慣れた地域で暮らし続けられる地域密着型サービスであり、正式な名称を「認知症対応型共同生活介護」といいます。 こちらの記事では、グループホームについて解説します。また、グループホームで受けられるサービスや費用、施設選びのポイントも紹介しますので、ぜひ参考にしてください。 https://youtu.be/EofVO7MRRDM この記事を読めばこれがわかる! グループホームの詳細がわかる! グループホームを選ぶ際のポイントがわかる! グループホームへ入居する際の注意点がわかる! グループホームとは グループホームとは、認知症高齢者のための介護施設です。専門知識と技術をもったスタッフの援助を受けて、要支援以上の認知症高齢者が少人数で共同生活をおくります。 「ユニット」といわれる少人数のグループで生活し、入居者はそれぞれ家事などの役割分担をします。 調理や食事の支度、掃除や洗濯など入居者の能力に合った家事をして自分らしく共同生活を過ごすところが、ほかの介護施設や老人ホームとは異なるポイントです。 グループホームの目的は、認知症高齢者が安定した生活を現実化させること。そのために、ほかの利用者やスタッフと協力して生活に必要な家事を行うことで認知症症状の進行を防ぎ、できるだけ能力を維持するのです。 グループホームは少人数「ユニット」で生活 グループホームでは「ユニット」と呼ばれるグループごとに区切って共同生活を送るのが決まり。1ユニットにつき5人から9人、原則1施設につき原則2ユニットまでと制限されています。 少人数に制限する理由は、心穏やかに安定して過ごしやすい環境を整えるため。環境変化が少なく、同じグループメンバーで協力して共同生活することは、認知症の進行を防ぐことに繋がります。 認知症の方にとって新しく出会う人、新しく覚えることが難しいので、入居者やスタッフの入れ替わりが頻繁にある施設では認知症の高齢者は心が落ち着かず、ストレスを感じ生活しづらくなってしまいます。その結果、認知症症状を悪化させるだけでなく、共同生活を送る上でトラブルを起こすきっかけとなります。 慣れ親しんだ場所を離れて新しい生活をするのは認知症の方には特に心配が尽きないもの。その心配を軽減するため、より家庭にできるだけ近づけ、安心して暮らせるようにしています。 グループホームの入居条件 グループホームに入居できるのは医師から「認知症」と診断を受けている方で、一定の条件にあてはまる方に限ります。 原則65歳以上でかつ要支援2以上の認定を受けている方 医師から認知症の診断を受けている方 心身とも集団生活を送ることに支障のない方 グループホームと同一の市町村に住民票がある方 「心身とも集団生活を送ることに支障のない」という判断基準は施設によって異なります。入居を希望している施設がある場合には、施設のスタッフに相談しましょう。 また、生活保護を受けていてもグループホームに入ることは基本的には可能です。しかし、「生活保護法の指定を受けている施設に限られる」などの条件があるので、実際の入居に関しては、行政の生活支援担当窓口やケースワーカーに相談してみましょう。 グループホームから退去を迫られることもある!? グループホームを追い出される、つまり「強制退去」となることは可能性としてゼロではありません。一般的に、施設側は入居者がグループホームでの生活を続けられるように最大限の努力をします。それでも難しい場合は、本人やその家族へ退去を勧告します。「暴言や暴力などの迷惑行為が著しい場合」「継続的に医療が必要になった場合」「自傷行為が頻発する場合」etc。共同生活が難しくなった場合には追い出されてしまうこともあるのです グループホームで受けられるサービス グループホームで受けられるサービスは主に以下です。 生活支援 認知症ケア 医療体制 看取り それぞれ詳しく見てみましょう。 生活支援 グループホームでは以下の生活面でのサービスを受けられます。 食事提供 :◎ 生活相談 :◎ 食事介助 :◎ 排泄介助 :◎ 入浴介助 :◎ 掃除・洗濯:◯ リハビリ :△ レクリエーション:◎ 認知症を発症すると何もできなくなってしまうわけではなく、日常生活を送るだけなら問題がないことも多いです。 グループホームには認知症ケア専門スタッフが常駐しています。認知症進行を遅らせる目的で、入居者が専門スタッフの支援を受けながら入居者の能力(残存能力)に合った家事を役割分担して自分たち自身でおこないます。 食事の準備として買い出しから調理、配膳、後片付けまで、そして洗濯をして干すといった作業や掃除も、スタッフの介助を受けながら日常生活を送ります。 グループホームでは、入居者の能力(残存能力)に合った家事を役割分担して自分たち自身でおこなうことになります。 例えば、食事の準備として買い出しから調理、配膳、後片付けまで。また、そして洗濯をして、干すまで…など。そのために必要な支援を、認知症ケアに長けた専門スタッフから受けられるのが、グループホームの大きな特徴です。 グループホームは日中の時間帯は要介護入居者3人に対して1人以上のスタッフを配置する「3:1」基準が設けられています。施設規模によっては、付き添いやリハビリなどの個別対応が難しいので、入居を検討する際は施設に確認しましょう。 認知症ケア 施設内レクリエーションやリハビリのほかに、地域の方との交流を図るための活動の一環として地域のお祭りに参加や協力をしたり、地域の人と一緒に公園掃除などの活動を行う施設も増えてきました。 グループホームとして積み上げてきた認知症ケアの経験という強みを活かし、地域に向けた情報発信などのさまざまな活動が広がっています。 地域の方と交流する「認知症サロン」などを開催して施設外に居場所を作ったり、啓発活動として認知症サポーター養成講座を開いたりするなど、地域の人々との交流に重きを置くところが増えています。 顔の見える関係づくりをすることで地域の人に認知症について理解を深めてもらったり、在宅介護の認知症高齢者への相談支援につなげたり。 こうした活動は認知症ケアの拠点であるグループホームの社会的な価値の向上や、人とのつながりを通じて入所者の暮らしを豊かにする効果が期待できます。 医療体制 グループホームの入居条件として「身体症状が安定し集団生活を送ることに支障のない方」と定義しているように、施設に認知症高齢者専門スタッフは常駐していますが、看護師が常駐していたり、医療体制が整っているところはまだまだ少ないです。 しかし近年、高齢化が進む社会の中で、グループホームの入居者の状況も変わってきています。 現在は看護師の配置が義務付けられていないので、医療ケアが必要な人は入居が厳しい可能性があります。訪問看護ステーションと密に連携したり、提携した医療機関が施設が増えたりもしているので、医療体制について気になることがあれば、施設に直接問い合わせてみましょう。 看取り 超高齢社会でグループホームの入所者も高齢化が進み、「看取りサービス」の需要が増えてきました。 すべてのグループホームで看取りサービス対応しているわけではないので、体制が整っていないグループホームの多くは、医療ケアが必要な場合、提携医療施設や介護施設へ移ってもらう方針を採っています。 介護・医療体制の充実度は施設によってさまざまです。介護保険法の改正が2009年に行われ、看取りサービスに対応できるグループホームには「看取り介護加算」として介護サービスの追加料金を受け取れるようになりました。 看取りサービスに対応しているグループホームは昨今の状況を受け増加傾向にあります。パンフレットに「看取り介護加算」の金額が表記されているかがひとつの手がかりになります。 グループホームの設備 グループホームは一見、普通の民家のようで、家庭に近い雰囲気が特徴ですが、立地にも施設基準が設けられています。 施設内設備としては、ユニットごとに食堂、キッチン、共同リビング、トイレ、洗面設備、浴室、スプリンクラーなどの消防設備など入居者に必要な設備があり、異なるユニットとの共有は認められていません。 入居者の方がリラックスして生活できるように、一居室あたりの最低面積基準も設けられています。このようにグループホーム設立にあたっては一定の基準をクリアする必要があります。 立地 病院や入居型施設の敷地外に位置している利用者の家族や地域住民と交流ができる場所にある 定員 定員は5人以上9人以下1つの事業所に2つの共同生活住居を設けることもできる(ユニットは2つまで) 居室 1居室の定員は原則1人面積は収納設備等を除いて7.43㎡(約4.5帖)以上 共有設備 居室に近接して相互交流ができるリビングや食堂などの設備を設けること台所、トイレ、洗面、浴室は9名を上限とする生活単位(ユニット)毎に区分して配置 グループホームの費用 グループホーム入居を検討する際に必要なのが初期費用と月額費用です。 ここからは、グループホームの入居に必要な費用と、「初期費用」「月額費用」それぞれの内容について詳しく解説していきます。 ...

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【動画でわかる】有料老人ホームとは?費用やサービス内容、特養との違いは

介護施設を探している中で「老人ホームにはいろいろな種類があるんだ。何が違うんだろう?」と疑問を感じることがあるかもしれません。 そこで今回は、名前に「老人ホーム」とつく施設の中でも、「有料老人ホーム」を中心に紹介。よく似ている「特別養護老人ホーム」との違いも見ていきます。 「老人ホームの種類が多すぎて訳がわからない」と思ったら、ぜひ参考にしてみてくださいね。 https://youtu.be/eMgjSeJPT8c 有料老人ホームの種類 有料老人ホームには、以下の3種類があります。 介護付き有料老人ホーム 住宅型有料老人ホーム 健康型有料老人ホーム この3種類の違いを以下にまとめています。 種類 介護付き有料老人ホーム ...

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