特集
小学生の頃から今も変わらず、マンガを愛し続けている ― ご自身のYouTubeチャンネルでコーヒーについて熱く語っていらっしゃいますが、それ以外にご趣味はありますか? 子どもの頃からマンガが大好きで、「週刊少年ジャンプ」はいまだに毎週読み続けてますよ。「HUNTER×HUNTER」なんて何回読んでも飽きないし、「ワンパンマン」は何回読み返したかわからないです。 ― 今でこそ日本のマンガは海外でも高い評価を受けていますが、斉木さんが子どもの頃は「マンガは害悪だ」なんて言われていた時代ですよね? そうですよ。「大学生はマンガなんて読むな!」の時代で。「何言ってるんだ、僕は小学生の頃からずっと読み続けているんだ」って、マンガを馬鹿にする人が許せなかった。僕はマンガからいろいろなことを学んだと思っていますから。 ― 感性が若いと言いますか、本当に年齢を感じさせないですよね。 だから、がっかりしますよ、鏡を見ると(笑)。「あれっ? こんなはずじゃないのに」って。年食っちゃったな。髪も白くなっちゃってとかね。 ― でも、73歳という実年齢よりも十分に若々しく見えます。 それは無理してるから(笑)。実は昨年、腰を痛めて、やっと最近治ってきたんですよ。今、ドラマの撮影中なんですけど、仕事している時は痛みがあまり苦にならない。やっぱり仕事をしているのが好きなんでしょうね。 過去を羨むのではなく、「今」を生きることが大切なんだと思う ― 斉木さんは、自分の若い頃の映像をご覧になったとき、どういう感情になるんですか? もう他人だね(笑)。「ああ、こんなことをやっていたんだ」とは思いますけど、そこにいるのは他人ですよ。別にその当時を羨ましいとも思わない。むしろ今の方がまともな感性になっているなとは感じますけどね。 ― まさに、「今」を生きるってことですね。 そういうことだと思います。中学生の時に「自分の存在とは何か?」と突き詰めて考えたことがあるんですよ。それ以来、常に何かしら自分に対して問うようになったんです。 ― 物事に対して、じっくり深い考えるタイプなんですね。 厭世的とも言えるんだけれども、人生の虚しさ、空虚感がつねにつきまとう。でもその一方で、もっと現実に目を向けて積極的に生きてみようと思う自分もいる。すごい哲学的でしょ? 昔から仲間には「おまえは何を考えているのかわからん」って、よく言われます。 身体を整えて、一人舞台に立てる自分でありたい ― その仲間とは、大竹まことさんやきたろうさんなのではないかと思うのですが、出会いから50年以上になるお二人。斉木さんにとって、どのような存在ですか? 何だろうね。いや、なくてはならない人たちですよ。恥ずかしいけれど、あの二人がいて自分がいる。だから感謝しなければいけないですね。なかなか感謝できないけど(笑)。あの二人に関しては兄弟以上の思いがありますね。尊敬できる存在でもありますし。 ― さまざまなジャンルで活動されていますが、これからやってみたいことはありますか? やっぱり一人舞台ですね。小さな劇場でもいいから。やりたいテーマがあって、ずっとコロナ前から考えていたんですが、もう自分の肉体とのご相談で。お客さんが来てくれるかなって心配もありますけど(笑)。 [衣装]ジャケット、Tシャツ、シャツ、ストール:【PAPAS(パパス)】その他スタイリスト私物 ― やりたいこと、目標があるから元気でいられるんですかね? 確かに目標って大事ですよ。僕も、やりたいテーマがなかったら一人舞台をやりたいなんて考えませんから。普通、役者さんが舞台に出演するのは台本があって依頼を受けるわけですよね。もちろん依頼があれば出ますよ。でも、それは僕にとって「仕事」。 ― たしかに、自分のやりたいものばかりできる仕事はないですよね。 そうそう。そうではなく、自分のやりたいことをやる芝居があってもいいと思うんですよ。まあ、まだ未定ではありますけど、これから身体を整えて一人舞台に立てる自分でありたいと思います。 斉木しげる1949年11月18日生まれ、静岡県出身。1979年、劇団仲間だった大竹まこと、きたろうと共にコントグループ「シティボーイズ」を結成。1981年に「お笑いスター誕生」(日本テレビ系)でグランプリに輝き、一躍人気グループに。俳優としては、1989年に「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」(フジテレビ系)でテレビドラマに初のレギュラー出演。以後、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」「篤姫」「龍馬伝」など数多くのドラマをはじめ、2014年「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」、2016年「サブイボマスク」、2018年「人魚の眠る家」など映画にも多数出演。現在もバイプレイヤーとして多くの映像作品に出演する一方、文化放送で毎週土曜19時~「SAYONARAシティボーイズ」、YouTube「斉木しげるチャンネル」、トークショー「しげるの素」など多方面で活躍中。 ▶斉木しげるさんインタビューの前編はこちらです
2023/04/28
何かを目指したことはない。「面白い」と感じた道を歩み続けた ― コントグループ「シティボーイズ」としてデビューし、数々の映画やドラマにも出演されているので、斉木さんを俳優と認識されている方が多いと思います。ご自身ではどうですか? 僕はコメディアンです。それを誇りに思っていますし、そうあり続けたいと思っています。映画やドラマでは、なかなかコメディをやらせてもらえないけれど、舞台では真面目な役柄はほとんどやっていませんよ。 ― 意外でした。高校時代は演劇部、早稲田大学中退後は養成所で役者の修行をされていたので、もともとは役者志望だったのかと思っていました。 いや、役者を目指そうとは思っていなかったんですよ。確かに早稲田を選んだのは大学の中で一番劇団が多かったからではあるんですけどね。入学式の日、演劇サークルの稽古場にふらっと行ったら先輩に「おまえ、これに名前を書け」って言われて。 ― それが劇団に入るための申し込み書類だったわけですね。 そうなんですよ。「じゃあ、とりあえず」と。僕は何かを目指したことがなくて、行く先々で導かれると言うか…。 ― 導かれるままに、現在までたどり着いた、と。 努力して自分の道を選ぶ人がいる一方で、そんなに努力しているつもりはないけれど、自分が決めた道に進める人がいる。自分の適正というのは、何か進むべき道を決める時に「面白いな」と思えて、そのことのためなら全然苦にならないってことだと思うんです。 若さゆえの傲慢さから「シティボーイズ」を結成 ― 「面白い」と感じられるかどうかで、進む道を決めてきたわけですね。 そうですね。養成所を中退後、大竹まことやきたろうと一緒に自分たちで劇団を結成しました。そのメンバーには今も仲の良い風間杜夫もいて、いろいろなオーディションに行ったけれど、誰も受からないって時が続きましたね。 ― オーディションに落ち続けた理由はあったんですか? 当時のプロデューサーに「君たちはまだ顔ができていない」とか、訳のわからないことを言われてましたよ(笑)。結局、4〜5年で風間は、つかこうへいさんの劇団に移って、すぐに売れて、僕らは僕らで「シティボーイズ」を結成して劇団活動から離れました。 ― 「シティボーイズ」を結成されたのは30歳の時ですよね? 世間一般で言うと微妙な年齢だと思うのですが。 今はどうか知らないですけど、僕たちの時代、男の30歳は大きな岐路。当時は終身雇用制だったので、辞めるか、続けるかを考えるわけですよね。その頃、僕はもう結婚していて子どももいましたから。 ― 若い時に結婚されたんですね。 そう、僕らの時代はね、ちゃんとした職に就いてからとかじゃなくて、とにかく結婚しちゃう。事実が先なの(笑)。 ― いまとは逆ですね。 ある人に言われたんです、「子どもは米櫃背負って生まれてくるんだよ」と。つまり、子どものために頑張ろうという気になれば自然とお金が入ってくるという例えなんだろうけど、僕には「わからない将来のことを考えて物事を決めんじゃない」という言葉に思えた。 ― 後戻りできない年齢になっていたこともあり、やりたいことに向かって突き進む決心をされたということでしょうか? そういうことなんです。それまで劇団でやっていた芝居は常にお笑い、喜劇だったので大竹まことが「コント、やろうか?」と言い出してね。 ― それが「シティボーイズ」の始まりですか? 当時、ツービートのたけしさんたちが少し名を上げて来た頃で、「今、お笑い界であまり目立っている人がいない。俺たちがやっている世界観の方が面白い。俺たちはもっと面白いことができる」と。 ― 強い想いがあったわけですね。 今考えると本当に傲慢ですけどね(笑)。でも、その想いだけが唯一の拠り所でもありました。 [衣装]ジャケット、Tシャツ、シャツ、ストール:【PAPAS(パパス)】その他スタイリスト私物 斉木しげる1949年11月18日生まれ、静岡県出身。1979年、劇団仲間だった大竹まこと、きたろうと共にコントグループ「シティボーイズ」を結成。1981年に「お笑いスター誕生」(日本テレビ系)でグランプリに輝き、一躍人気グループに。俳優としては、1989年に「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」(フジテレビ系)でテレビドラマに初のレギュラー出演。以後、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」「篤姫」「龍馬伝」など数多くのドラマをはじめ、2014年「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」、2016年「サブイボマスク」、2018年「人魚の眠る家」など映画にも多数出演。現在もバイプレイヤーとして多くの映像作品に出演する一方、文化放送で毎週土曜19時~「SAYONARAシティボーイズ」、YouTube「斉木しげるチャンネル」、トークショー「しげるの素」など多方面で活躍中。 ▶斉木しげるさんのインタビュー後編もぜひご覧ください!
2023/04/27
小堺くんと友だちだったから、早期に病気を見つけられました ― テレビでいつも元気なイメージがありますが、関根さんご自身は年齢を感じることってあるんですか? ありますよありますよ。冠動脈狭窄が発覚した時は、さすがに年を取ったなって思いました。 ― 冠動脈狭窄がわかったのは、何歳の頃だったんでしょう? 62歳の時ですね。実は、その10年くらい前から、悪玉コレステロール値が高いっていうのは自分でもわかっていました。でも、別にどこも悪くならなかったんで放置していたんです。それが悪かったんでしょうね。 ― 病気がわかったのも偶然だったとか。 小堺君のやっていた『サタデープラス』っていう番組の企画で、2人で心臓の検査を受けたんですけど、最初は何ともないだろうと思っていたから、オープニングからすっごいボケまくってね(笑)。色んな人のモノマネもして「いいロケが撮れたぞ!」って帰った次の日に「再検査を受けてください」って。 ― 不安になりませんでしたか? あんまり(笑)。大したことないだろうって思いながら精密検査をしたら「62歳を無作為に100人集めた中で4番目に悪いですよ」って言われました。 ― 4番目!っていうことは、相当悪い方じゃないですか! 「70%詰まっています」って言われました。しかも冠状大動脈の一番太いところが2ヵ所。詰まりが70%以上になると、何かしらの症状が出るらしくて、僕はギリギリ手前で見つかったわけ。 ― ひいぃぃぃぃぃっ!! 「検査の当日に手術もできますが、後日、気持ちを整えてからでも大丈夫です」と。でも、10年くらい前に出た番組で、カテーテル手術がいかに優れた手術なのかを学んでいました。そこから、さらに進歩しているだろうっていうのもあったし、また手術するために来るなんて面倒くさいじゃないですか。だから、その日にお願いしました。 ― 手術は……いかがでしたか? 全然大したことはなかったですね。手首の動脈からカテーテルを入れて、詰まっている部分に、血管を広げるステントっていう金属性の器具をポンって入れるだけ。麻酔も手首だけの局部麻酔でしたし、ほかはどこも痛くないんですよ。 ― 早めに見つかって良かったですね。 本当に。小堺くんの友だちで良かったです。あの時に番組で検査しなかったら、2年後に倒れていたかもしれない。 孫との時間が、自分が子育てをしていた時代に連れ戻してくれる ― そのほか、日常の中で“老い”を感じることはありますか? ギックリ腰ですね。65歳を過ぎてから、何回かなりました。ただ、僕の場合は、まったく動けなくなる100%のギックリ腰じゃなくて、いつもの3倍くらい時間をかけてだったら歩ける70%くらいのギックリ腰です(笑)。 ― それはそれで辛そうです(笑)。 ゆ~っくり移動して整体に行って治療してもらって、何とかしのいでいます(笑)。 ― ギックリ腰にならないように、気を付けていることはありますか? ストレッチはじめましたね。太ももの前と裏と股関節を。それやるようになってからは、ギックリ腰もめったにならなくなったし、腰痛もだいぶ楽になりましたね。 ― 多くの方が心配される「物忘れ」は大丈夫ですか? もうね、全然人の名前が出てこない(苦笑)。ところが、その人の周辺情報は出てくるんですよ。「えーっと、●●●っていう番組に出ていて、誰々さんのお嬢さんで……」って。映像は頭に浮かぶんだけど、名前が出てこないわけ。だから、僕なりの記憶法を考えました。 ― どんな記憶法ですか? ちょっと気になります。 例えば「ブラッド・ピットは、F1レースのスポンサーの息子」って覚えたんです。スポンサーの息子だから、ブラっとピットに入ってきちゃう。 ― そうか! F1会場とピットの映像から「ブラッド・ピット」になるんですね(笑)。 そうそう! 自分に合った記憶法を作ればいいんだって思って、55歳ぐらいの時に編み出しました。 ― なんかダジャレっぽくて、関根さんっぽいです。 あとは、孫と一緒にいることがボケ防止になっているのかな~。 ― たしか、女の子のお孫さんが2人いらっしゃるんですよね。 いま、7歳と3歳。一緒に遊んだり、お風呂で髪を洗っていたりすると「あれ?これ、前もやったことあるぞ?」って思うんです。麻里を育てていた頃と重なるんですよ。だから、孫たちと一緒にいると30代の気持ちに戻れるんですよね。 理想は生涯現役、引退は「オファーがなくなったら」 ― ステキなボケ防止法ですね。ちなみに、お仕事はいつまで続けようとか考えていますか? 個人的には、死ぬまでやりたいですね。 ― 芸人の理想ですよね。 まぁ、オファーがなくなった時が引退かな、というのはありますね。もしかしたら今後、本を出版したりして「もう一度頑張りたい!」って思うこともあるかもしれませんが……。でも、これから麻里が頑張ってくれたら、バーターとしてテレビに出られますし(笑)。 ― 麻里さんのバーター(笑)。ちなみに、趣味のゴルフはいつまで? ゴルフはずーっとやり続けたいですね。今後、車は自動運転になるだろうし、それに乗れば自分で運転しなくてもゴルフ場に行けます。80歳を過ぎたら、そういったテクノロジーに頼りながらゴルフやりたいですね。 ― マイペースに仕事と趣味を楽しむ。いい老後ですね。 21歳でこの仕事をはじめて、ゆっくり山を登っていって、51歳で30年。本当はね、ここからゆっくり30年かけて下っていって、81歳のゴールデンウィーク明けにぽっくり逝くのが夢なんです(笑)。最後は隔週のラジオ番組が残っていたらうれしいですね。 ― かなり具体的に考えていらっしゃるんですね。 だけど、孫娘の成人式を見たいっていうのもあるんだよね。下の子の成人式となると、僕は86歳。それまでは死ねないですね(笑)。 ― きっと86歳は、芸能界の中でも長生きされた方になるんですよね? そうですね。でもね、意外と80歳を超えても現役で続けている方ってたくさんいらっしゃるんですよ。伊東四朗さんに欽ちゃん、大村崑さんは90歳を超えています。 ― 本当ですね! 欽ちゃんは80歳になってからYouTubeを始めてますし! あとデヴィ夫人ですね。夫人は本当にすごいですよ。いまでも現役で輝いていますし、我が道を行っている。 ― たしかに!デヴィ夫人はお年を聞いて驚いてしまうほど、精力的ですよね。 僕も、80歳を過ぎたら「あーたねぇ」って言おうかな(笑)。それは冗談だけど、芸能界には尊敬すべき先輩方がいらっしゃるんで、みなさんを目標に、力の続く限りやっていきたいですね。 関根勤1953年生まれ、東京都出身。大学3年生の夏休みに、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンに輝き芸能界デビュー。「ラビット関根」という芸名でピン芸人として活動するかたわら、同じ浅井企画所属の小堺一機と組んだ「コサキン」で注目を浴びるように。代表作は『カックラキン大放送!!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『コサキンDEワァオ!』『笑っていいとも!』など多数。現在でも、バラエティー番組の第一線で活躍している。 約4年ぶりに開催が決定しました!「徹底してバカなことをやる!」とはじめて、今年で34回目。コロナ禍の影響で3年連続公演中止となっていましたが、4年ぶりに開催が決定しました。「みんな年を取ってきて、真夏の舞台が厳しくなってしまったからね」ということで、今年から4月に変更となりました。『カンコンキンシアター34 クドい!~飯尾和樹スターに成りました~』 会場:銀座 博品館劇場 日程:2023年4月21日(金)~30日(日) 11回公演 ▶関根さんのインタビューの前編はこちらです
2023/02/28
小堺くんといると、28歳の“バカバカしい” 自分に戻れる ― 昔からテレビ等で拝見していますが、関根さんは全く印象が変わっていないな、と。何か、年を感じさせない秘訣はあるんですか? 今でも時々、小堺くんと会っているからかな? 2人でやっていたラジオは、「中2男子の放課後の雑談」って言われるくらいバカバカしい放送だったんですよ。僕が28歳の時に始めて、そこから27年半続けました。今でも年に1~2回、特番として放送していますよ。 ― 28歳の自分に戻れる場所なんですね。 そうですね。あとは、小堺くん、欽ちゃん、さんまさん、タモリさんとかに出会えたのも大きいですね。運がよかったのもあるとは思いますが、自分の仕事を邁進していたから、同じ志の人と合流できたんだと思います。 ― みなさん、それぞれ自分の道を歩いていらっしゃいますが、そうか……その道を一生懸命生きていく事が大切なんですね。 そうだと思います。自分の道を一生懸命歩いているから、みなさん今でも元気で楽しくやっているんじゃないでしょうか。 ― “楽しくやっている”、と言えば、昨年は『お笑いの日2022』で、久しぶりにコントをされていましたね。 最初は、若手の中に僕らが入って浮くんじゃないかって、ちょっと心配していました。だから、小堺くんに相談して、一番ベテランっぽくない、一番バカバカしいコントにしようって。 ― こう言っては失礼ですが、くだらないことを心から楽しんでいるな、と思ってしまいました。 ベテランのくせにイキっちゃって……と思われたくなかったのと、やっぱり小堺くんと出られるのが単純にうれしかったね。 デビューからの10年間は、思えば公開修行だった ― 今年でデビュー49年目。1974年の『ぎんざNOW!』で、いきなりテレビデビューされましたが、その時はどんなお気持ちでしたか? 当時は普通の大学生だったので、今思えば乱暴ですよね(笑)。 ― 確かに、いきなりレギュラーですもんね。(笑)。 僕は、もともと芸人さんたちを尊敬していたので、浅井企画の社長にスカウトされた時も「僕じゃ通用しません」ってお答えしたんですよ。でも「いや、コント55号を育てたこの浅井が保証する」って言われて、浮かれちゃってね(笑)。 ― その『ぎんざNOW!』から今まで、レギュラーが切れたことがないとか? 実はそうなんですよ! ― そこまでレギュラーが途切れない方って、あんまりいないですよね。 うーん、どうだろうね…。でも、はじめの10年くらいはうちの社長の力だね。『ぎんざNOW!』は自力で「しろうとコメディアン道場」を5週勝ち抜いてレギュラーになったんだけど、『カックラキン大放送!!』も『欽ちゃんのどこまでやるの!』も社長がきっかけ。 ― 小堺一機さんとのコサキンコンビの「クロ子とグレ子」ですね。 最高視聴率40%を超える人気番組でね、僕たちは一番下っ端で出させてもらっていて「5分やるから2人で何かやれ」と。で、面白ければオンエア、つまらなければカットっていう、毎週オーディションみたいなことをしていました。 ― そこから欽ちゃんファミリーに入られたんですよね。 運が良かったですね。その後が『笑っていいとも!』。これは29年間、出ていました。ここぐらいからですね、自分の力でやっていけるようになったのは。32歳の時だから、10年以上はかかりました。 ― 意外です。関根さんには、苦労されているイメージがなかったので……。 僕の場合は、本番中に修行していたような感じで、番組のカラーがうまく隠してくれてたんでしょうね(笑)。 その場に適応していくために、自分のお笑いを変えなければいけないと思った ― 『笑っていいとも!』に出演されたきっかけは何だったのでしょう? 小堺くんの『小堺クンのおすましでSHOW』っていう舞台のコントに出ていたんだけど、それを見たテレビ局の人が「関根くん、けっこうやるじゃん」って。だから、これは自分の実力ですね。まぁ、本当のところは小堺くんのおかげかもしれないですけど(笑)。 ― やはり小堺さんの存在は大きいんですね。 小堺くんは、僕の2年後に『ぎんざNOW!』を勝ち抜いて浅井企画に入ったんで、その頃からの付き合いですね。28歳の時に、2人で『夜はともだち コサラビ絶好調!』っていうラジオ番組をはじめて、これが僕のお笑いのベースになっています。 ― ベースがラジオというのも、また意外ですね。 当時、TBSラジオで松宮一彦アナウンサーが月曜から金曜まで帯番組をやっていたんですが、ひょんなことから木曜日だけ僕らが担当することになって。その時間帯のリスナーは松宮さんのファンばかりだから、完全にアウェイ。はじめは、ハガキが2枚しか来ませんでした(笑)。 ― えっ!? それは大問題じゃないですか? 番組が成り立たない(苦笑)。 だから、1~2ヵ月経った時に、小堺くんに「ラジオに行くのが嫌だ」と言ったんです。芸能生活の中で、初めて逃げたいと思いました。 ― 追い詰められてしまったんですね……。 ですね。でも、新人の僕らが辞めたいと言っても、事務所が許さないと思ったんで、好き勝手やってクビになろうと決めたんです。 ― そうすれば、「頑張ったけど、実力が足りませんでした」ってことになりますね。 そう。だから、普段から小堺くんとやっているような、ふざけたことばっかりしていたのに、全然クビにならないんですよ。ラジオで「ハガキが2枚しか来ない」と、グチってたら、ハガキの枚数もどんどん増えていって。 ― すごい! そのうち、リスナーの方が僕らの上をいく、くだらない妄想話を送ってくれるようになってね。そこで「ナンセンス」っていう僕のお笑いのベースが出来上がりましたね。 ― それ以前から、関根さん自身がシュールとかナンセンスっぽさを持っていたんでしょうね。 そうだと思います。1989年に、ナンセンスとクドさを詰め込んだ舞台『カンコンキンシアター』をスタートしました。 ― 今年の4月にも新しい公演をされる、毎年恒例の舞台ですね。 そうです。でも、同時期にスタートした『ギャグ満点』っていう深夜番組でも、舞台と似たようなことをしていたら、それは3ヵ月で終わりました。 ― ドラマみたいに1クールで……。 結局、僕のお笑いはテレビには向かないんだ、テレビ用に変えなきゃいけないんだっていうのを学びましたね。 ― 失礼ながら……、自分の笑いはテレビ向きじゃないって自覚した時は、やっぱりショックでしたか? 「あ、やっぱりな!」って感じ。すぐに切り替えましたね。芸能界は適応しないといけませんから。それで言ったら、モノマネもそうかもしれませんね。 ― 関根さんのモノマネにも、独特なエッセンスが入っていますよね。 声やしぐさを完全に真似するプロと比べると、やっぱり僕のクオリティーは低いんですよ。それで、何か足さなきゃと思って「情報」を入れることにしました。 ― ひとつお願いしてもいいですか(笑)? (千葉真一さんのモノマネで)私の妻の野際陽子は、日本で初めてミニスカートを履いた女優です。 ― 注目する点をズラしちゃうんですね(笑)。 そう! 似ているかどうかは、二の次になるんです(笑)。もちろん、嘘は言ってないですよ、嘘は。 関根勤1953年生まれ、東京都出身。大学3年生の夏休みに、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンに輝き芸能界デビュー。「ラビット関根」という芸名でピン芸人として活動するかたわら、同じ浅井企画所属の小堺一機と組んだ「コサキン」で注目を浴びるように。代表作は『カックラキン大放送!!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『コサキンDEワァオ!』『笑っていいとも!』など多数。現在でも、バラエティー番組の第一線で活躍している。 『カンコンキンシアター』が約4年ぶりに開催決定!「徹底してバカなことをやる!」とはじめて、今年で34回目。コロナ禍の影響で3年連続公演中止となっていましたが、4年ぶりに開催が決定しました。「みんな年を取ってきて、真夏の舞台が厳しくなってしまったからね」ということで、今年から4月に変更となりました。『カンコンキンシアター34 クドい!~飯尾和樹スターに成りました~』 会場:銀座 博品館劇場 日程:2023年4月21日(金)~30日(日) 11回公演 ▶関根さんのインタビュー後編もぜひご覧ください!
2023/02/27
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面など様々な方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。