ボブ内藤さんの
執筆記事一覧

1966年、静岡県三島市生まれ。1990年より30年以上、ライター・編集者として活動。これまでに1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。
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【元陸上選手・為末大】いつまでも学び、成長する「熟達論」の極意

元陸上選手で、世界選手権の男子400mハードル競技で日本人初のメダルを獲得した「侍ハードラー」こと為末大さんが『熟達論』(新潮社)という本を上梓した。 熟達という概念を「技能と自分が影響しあい、相互に高まること」と定義し、その過程を「遊、型、観、心、空」の5段階に分けて解説した、令和版『五輪書』とも言える名著である。 「走る哲学者」という異名を持つだけに、アスリートとして実践してきた暗黙知のトレーニング方法を懇切丁寧に語っている。アスリートのみならず、あらゆる職業にも応用できる方法論だ。 そこで、為末さん本人にお話をうかがい、その真髄に迫っていくことにしよう。 『熟達論』 著者:為末大 発行:新潮社 定価:1800円(税別) 短距離走のジュニアチャンピオンから400mハードル走の「侍ハードラー」に転向した理由 ―為末さんが「自分は足が速い」ということに気づいたのは、いつごろなんでしょう? かなり早い時期ですね。幼稚園に通っていたころじゃなかったかな。小学生になってからは3~4年生のときに地域の陸上クラブに入って、中学では陸上部に所属しました。その間、短距離走では負けたことがありませんでした。 ―1993年には全国中学校選手権100m、200mで二冠を達成し、ジュニアオリンピックでは当時の日本新の記録を更新していますね? 現在活躍していても、選手によっては小さいころは足が速くなかったという人もいます。実際、中学生大会の優勝者でオリンピックに出場した選手は、ほとんどいないんですよ。自分の場合、成長のピークが人より早かったんだと思います。その証拠に、高校生になると周りの選手の成長が追いついてきて、なかなか勝てないようになりました。18歳のとき、400mハードル競技に軸を移したのは、それが原因です。 ―陸上選手は、自分が得意とする種目を、どのように見極めていくんですか? 今ではそうではないかもしれませんが、私が中学生だった1990年代前半は、成長期の選手に対して漠然とした基準しかありませんでした。例えば、足が速い子は100m、200mの短距離、長く走れる子は長距離、身体の大きな子は投擲(とうてき)、背が高い子は高跳びという具合。私の場合、短距離から始めて、そこからいろいろな可能性を探っていくなかで400mハードルという競技に行き着いたんですね。 ―短距離走と、ハードル走の違いって、何なんでしょう? ひとことで言うと、「歩幅に制限がある」ということでしょうか。100m走の場合、30歩で走ろうが50歩で走ろうが関係ないんですが、400mハードル走ではスタートから45mのところに置かれたハードルが以降35m間隔で10台設置されていますので、自分で決めた歩数で走ることが求められるんです。私の場合は13歩でした。ただ、室外のグラウンドでは、風の影響を受けますから、歩幅は数cm単位で狂っていきます。トップハードラーになるためには、そのズレを敏感に感じとりながら微調整して、いつもと同じ位置で踏みきる正確さが問われることになります。 ―そのような競技に為末さんは向いていたというわけですね? そうですね。トップスプリンターと言える人は、100m走において1秒で5回近く足を回転させることができます。この回転数を「ピッチ」といいますが、私の場合、4回半ほどでピッチの遅い選手でした。中学生まではそれでも充分に闘えましたが、年齢を重ねるにつれ、通用しなくなっていきました。ただ、400mハードルでは、この「ピッチが出せない」という弱点を「ストライド(歩幅)が出せる」という利点に変えることができたんです。少ない歩数で走れるほうが、タイムが縮む傾向にあるんですね。そのことに私自身、とても驚いたのをよく覚えています。 コーチにつかず、実業団にも所属せず、自分ひとりで自らを鍛える道を選んできた ―18歳で400mハードルに軸足を移した為末さんは、法政大学に進みますが、これはなぜでしょう? 当時、法政大学が、他に比べて自由度の高い大学だったんです。技能の伝達には「コーチング」と「ティーチング」という2つの手法があるといわれています。コーチングでは、答えを与えずに選手自身が考えて訓練するのを支援することを目的としていますが、ティーチングでは明確な答えがあって、それを選手に伝えることを重視します。どちらにもいい面と悪い面がありますが、ティーチングの場合、伝統的なトレーニング方法がかっちりと決まっていて、選手自身が考える自由度が低いんです。当時、多くの大学がティーチング的な指導に偏る傾向があった反面、法政大学はコーチングを重視していました。ですから大学では、コーチをつけずに自分で自分のトレーニングを決めて、競技に臨んでいました。 ―為末さんは、大学卒業後に実業団の選手として入社した大阪ガスを24歳のときに退社し、日本でも数少なかったプロの陸上選手になりましたが、これは大学時代のような我流のトレーニングにこだわったからなんでしょうか? 実は、実業団スポーツというのは日本にしかないもので、世界中の多くの陸上選手からうらやましがられるシステムなんです。というのも、グローバルな環境で競技生活をしているプロ選手は、世界中で年間約100試合ほど行われているレース出場の賞金とスポンサー収入などで生計を立てています。ひとたびケガなどで出場できなくなれば、収入を失って活動ができなくなります。その一方、実業団の選手は企業に所属しているので収入を失うことはありません。さらに、引退した後も、そのまま正社員として働くことができ、生活は保証されています。おそらく、日本の大企業の終身雇用制度をベースに確立されてきたシステムなんでしょう。 ―そのような世界がうらやむシステムから自ら望んで飛び出したのは、なぜなんですか? 0コンマ数秒を争う陸上競技の勝負の世界では、実業団のようなリスクの少ない環境がマイナスに働くのではないかと感じたからです。ジャマイカは人口300万人に満たない小さな国ですが、数々のオリンピックにおいて、その100倍以上の人口を誇るアメリカ合衆国と同じくらいのメダルを獲得しています。で、ジャマイカ人とアメリカの黒人の筋力や身体の形状を測定した科学データを見てみると、その能力にたいした変わりはないということがわかっています。そのことを知ったときに思い出したのは、ジャマイカの競技場を見たときの印象です。グラウンドは日本の田舎の整備の行き届いていないグラウンドのようにボコボコにへこんでいたりして、決して理想的な環境ではありませんでした。でも、ウサイン・ボルトはそのような環境でトレーニングして、前人未到の世界記録を次々と樹立していったんです。 ―つまり、理想的な環境がアスリートの超人的な記録を生み出すわけではない、ということですね? そうなんです。結局のところ、現状に満足せず、ヒリヒリとした勝負で結果を出す要素として、ハングリー精神が重要なんじゃないかと考えたわけです。 ―その選択は為末さんにとって、その後の人生を左右する大きな決断だったと思いますか? それは間違いないですね。私はそこそこ社交性のあるタイプですから、実業団で競技し続けることにはまったくストレスがなかったし、そのまま引退まで過ごしていれば、今とはまったく違った、安定した人生があったと思います。でも、引退から10年を経た今に至るまで、その選択を後悔したことは一度もありません。若気の至り、という面もあったと思いますが、当時はそれが一択のように感じていました。今思えば、その後の人生を決定づける重要な選択だったと思います。 「型」よりも「遊」から始めることで、行き詰まったときの軌道修正が容易になる ―書著『熟達論』で為末さんは、熟達という概念を「技能と自分が影響しあい、相互に高まること」と定義し、その過程を「遊、型、観、心、空」の5段階に分けて解説しています。これは、選手生活のなかでコーチをつけず、自分なりの流儀で自分を鍛え、自ら望む方角に道を切り拓いていった結果に生まれた方法論なのでしょうね? そうだと思います。引退して10年経って、自分がどのように競技に向き合っていたのかを形にしておきたいと思ったんですね。 ―スポーツだけではなく、何かの技術を習得しようとするとき、まずは「型」を身につけることが一般的だと思うんですが、その前に「遊」がくるのは非常にユニークですね。 「遊」というのは、こうしたらどうなるんだろうという好奇心やいたずら心にまかせて、思わずやってしまうようなことを指します。もちろん、「型」も重要で、そこから全体の構造を理解する「観」、中心をつかむ「心」へと進んでいくわけですけど、そこで伸び止まってしまう選手の特徴を分析してみると、最初に「型」から始めた選手が多いんですね。つまり、行き詰まった末に「型」に戻ったとしても、また同じサイクルにはまって伸び止まってしまうのです。 ―なるほど。行き詰まったときこそ、無心で遊ぶような感覚に戻ることが大切なんですね。 その通りです。実は私自身、競技人生で初めてメダルを獲得したとき、次の目標を見失ってスランプに陥ったことがありました。さらなる目標を立て、それに向けた計画も立てるんだけど、どうしても気力が湧いてこない。身体も思ったように動かせなくなって、燃料がからっぽになったような状態になってしまいました。そこで、目標や計画などで未来を見るのではなく、今の自分の心を見るようにしたんです。具体的には「面白い」と感じることを優先して、計画を自分の心の状態に合わせて変えていくことで行き詰まった状況から脱することができたわけです。 ―では、「型」の重要性とは、どんなことでしょう? 「型」とは、それなくして他の技術が成り立たなくなるもの。だから、シンプルで、無意識で実行できるということが重要です。それから、歴史的な検証を経て最善なものにアップデートしていくことも重要です。例えばかつて、速く走るには足首を使って地面をキックするのが有効だとされていた時代がありましたが、今では足首は固定したほうが速く走れるということがわかっています。1991年の世界陸上競技選手権大会・東京大会で、カール・ルイス選手が100m走で当時の世界記録となる9秒86をマークして優勝しましたね。このとき、初めて科学班が入って彼の走りを分析したところ、足首がまったく動いてなかったことがわかったんです。 ―それをきっかけに「型」がアップデートされたわけですね。 ただ、中学生のころから足首を使う走りをしてきた選手にとって、そのクセを抜くのは容易ではありませんでした。実際、日本人選手が100m走で9秒台の記録を出せるようになったのは、桐生祥秀選手や山縣亮太選手、サニブラウン選手など、新しい「型」から身につけた世代の選手でした。 「型」の構造を把握するのが「観」。その先の中心をつかむのが「心」の段階 ―「型」の次なる段階の「観」には、どんなポイントがありますか? 「型」が身につくと、基本的な行為を無意識にできるようになって、行為を深く観察する余裕ができてきます。そのときのポイントは、行為を部分に分けて、その部分と部分の関係性を把握するということ。地面を踏むという行為を例にしてみると、地面に足が触れ始めたところ、少し体重が乗り始めたところ、地面に体重がいちばんかかっているところ、地面から力が返ってきているところ、足が地面から離れるところ、という具合に行為の局面を意識できるようになります。 ―アスリートは、そんな細かいところまで意識しているんですか! 先ほどトップスプリンターのピッチ(回転数)が1秒間で5回だと言いましたが、それだけ速く回転していると細かい部分を意識するのはむずかしくなりますが、「型」を身につけることで、それが見えてくるんですね。 ―細かい部分を意識することができると、弱い部分を調整できるようになるんですね。 そうです。大学時代、コーチにつかずにトレーニングしていたせいか、成績が伸びずに苦しんだ時期がありました。そのとき、日本代表の合宿で出会った短距離コーチの高野進さんに悩みを打ちあけたところ、「足を三角に回しなさい」と言われたんです。高野さんは私の走りを見て、足が後ろに流れる癖を見抜いて、そうアドバイスしてくれたんですね。『熟達論』でも丁寧に触れておきましたが、おかげで走るときの意識がガラリと変わり、スランプから抜け出ることができました。 ―「心」というのは、どんな段階なんでしょう? 無意識に丸呑みしていた「型」が漠然としたまとまりではなく、部分と部分の構造として見えるようになる「観」の段階を洗練させていくと、不必要な部分の力が抜けていきます。それが「心」の段階で起きることです。何かに力を入れようとする意識を持たなくても、中心をイメージするだけですべてがうまく連動する状態です。 ―パフォーマンスを最大限に引き出すには、力を「出す」のではなく、「抜く」ことを意識すべきなんですね? 自然に、無理をせず、力みがない状態を「自然体」といいますが、実はそういう状態をつくるのは難しいんです。例えば、立った状態ですべての力を抜くと、全身が崩れて倒れてしまいます。ですから、立位の姿勢を保つための最低限の力は必要です。つまり、姿勢維持に必要な部分のみに力を入れ、それ以外の力を抜くこと。それができれば、中心から末端に揺さぶるだけで力を増幅させることができるんです。舞台に立つ俳優が台本通りではなく、完全に役になりきって自在にアドリブのセリフをしゃべるようなものかもしれません。 「空」の局面では自我が消え、コントロールすべき身体が主役になる ―最終段階の「空」については、為末さん自身の印象的な体験が語られています。2001年の世界陸上カナダ・エドモントン大会の400mハードル決勝で起こったことを教えてください。 私にとっては初めての世界大会の決勝です。レースでは、スタートラインに立つまでは余計な雑念が浮かばないようにするのが私のやり方でした。その日も1台目のハードルを越えるイメージを、壊れたビデオテープのように繰り返し頭に思い描いていたんですが、いつもより集中できているという感覚がありました。やがて雑念が完全に消え、ゴールの向こう側まで自分が行ってしまった感覚になりました。そのときのことは、よく覚えていません。数万人の観客の声が静かに聞こえるだけで、自分の足音だけが身体に響いていました。身体が勝手に動いて、それをぼんやりと眺めているようでした。気がついたら300m地点にいて、私は先頭を走っていました。残りの100mを必死でもがいて3位でゴールインして、銅メダルを獲得しました。 ―不思議な体験ですね。アスリートはよく、「ゾーンに入る」といいますが、自分で意識的にその境地へ行こうとしていたのでしょうか? 特別なことをしたつもりはありません。いつもと同じように、自分の身体を自らの支配下において完全にコントロールすることを目指していましたが、従えるはずの身体が主役になって、コントロールする側の自我が消えてしまったんです。 ―卓球の水谷隼選手が試合中、会場が無音になって相手選手と自分しかいない空間にいる感覚を味わったという話を聞いたことがあります。似たような例は他にもありますか? 有名なのは、読売ジャイアンツの川上哲治さんの「ボールが止まって見えた」という発言ですね。何も考えなくても身体が勝手に動くというのは、「遊」「型」「観」「心」に至る修練の積み重ねがなければたどり着けない境地なのだと思います。そして、「空」の先には次のターンの「遊」があって、そこからまた「型」「観」「心」へと進むプロセスに向かっていくんです。 引退後、現役時代の「オレがオレが」という発想から脱するのにかなりの時間を要した ―2001年のエドモントン大会で日本人初のメダルを獲得した為末さんは、2005年のヘルシンキ大会でも銅メダルを獲得し、7年後の2012年に34歳で引退しています。引退を決意したのは、何がきっかけだったんですか? 多くの陸上選手は、オリンピックの時期とともに「来季は出場できるのか?」と自分に問いかけます。そして、「できる」と思えばそのまま選手続行、「できない」と思ったときが引退ということになります。私の場合、2008年の北京オリンピックに出場した後、その決断に迫られました。結果的に続行という形をとって2012年まで続けましたが、その途中の段階で「オリンピックに出場するのは無理だ」ということがわかりました。 ―なぜ、それがわかったんですか? スタートから1台目のハードルにたどりつくまでのタイムが、私はある時期まで世界でいちばん速かったんですが、これがズレ始めたんです。いつも通りの感覚で、5秒7だと思ったのに、実際は5秒8だったりして、「あれ?」と思うことが増えて、自分のなかの調整感がおかしくなっていった。それが、引退の1年前くらいの出来事で、2012年の日本選手権で1台目のハードルを越えられずに転倒して、最下位でゴールしたことで気持ちに区切りがつきました。 ―アスリートにとって「引退」は、必ずやってくる人生の岐路だと思いますが、その後の生活をどのように計画していましたか? 実は、明確に意識して計画したことはあまりなくて、最初はコメンテーターの仕事など、想定外の仕事をこなしていくうちに日々が過ぎていったという印象です。ただ、そうやって周囲の流れに乗って生きているうち、「これでいいのかな」と悩むようになって、本当の意味で未来に向けて一歩を踏み出せたんじゃないかなと思えるようになったのは、ここ2~3年のことです。 ―どんな未来が見えてきたんですか? ひとことで言えば、「自分のためだけではなく、誰かのために生きる」ということです。中学生のころから選手として競技に向き合ってきたなかで、自分を鍛えて数多くのライバルとの勝負で勝つことをつねに考えてきました。その20数年の積み重ねはあまりに重くて、物事に取り組むとき、「オレがオレが」という発想が染みついているのに気づいたんです。 ―心にはまだアスリートだったころの発想が残っていて、それを拭い去るのがむずかしかったわけですね? そうです。アスリートの試合を見るときでも、どこかで「自分ならこうするだろうな」と、現役時代の自分と比較してしまうようなところがあって。ところが、そういう気持ちが自分のなかから完全に消えたのがわかったのが、2021年に開催された東京2020オリンピックでした。コロナの影響で開催が1年間も延び、アスリートにとっては大変な調整を求められた大会だったこともあると思うんですが、このときは純粋な気持ちで「がんばれ!」と選手たちを応援することができました。もうひとつは、現在小学生の息子が産まれたことも大きく影響していると思います。人の親になったことで、自分の人生は自分だけのものじゃないということを実感することができましたから。 ―『熟達論』の本の帯には羽生善治さんの「アスリートの暗黙知を言語化できる稀有な存在──それが為末さんです」という言葉が書かれています。この本を書いたのは、為末さん自身にしかわからないことを人に伝えることで「誰かのためになる」ことを目指したのではないですか? そうですね、そうかもしれません。これからの人生は、「勝ち負け」にこだわることではなく、「人の役に立つ」ことを目標に生きていきたいと思います。だって、人に必要とされることって、すごく幸せなことじゃないですか。 撮影/八木虎造
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『野菜は最強のインベストメントである』─「食に対する意識を変える」に効く1冊

数カ月前、土井喜晴氏の『一汁一菜でよいという提案』(グラフィック社)という本を読んで、我が家の食卓は革命的に変わった。 お椀にたっぷり野菜を切り入れて、それをやわらかくなるまで煮た鍋に味噌を溶く「具だくさんの味噌汁」があれば、おかずは漬け物だけでもモリモリとご飯を食べられる。焼き魚なんかがつけば、それだけで充分にご馳走気分だ。 この一汁一菜の食事の良いのは、何度食べても食べ飽きないというところにある。味噌汁は日本人のソウルフードなのだ。 Amazonのレビューを読むと、多くの人(きっと毎日の献立選びに悩んできた主婦だろう)が、「この本のおかげで救われました」という感想を書いているのもうなずける。 具だくさんの味噌汁はたぶん、体にも良い。野菜が毒になるという話は聞いたことがない。 だが、本当にそうなんだろうか? と考えていたころ、書店で見つけたのが本書『野菜は最強のインベストメントである』だった。 日本栄養コンシェルジュ協会代表理事で、医学博士、管理栄養士の資格を持つ著者の岩崎氏が、野菜の効果的で正しい摂取の仕方を教えてくれるというのだ。その興味深い中身をレビューしていこう。 『野菜は最強のインベストメントである』 著者:岩崎真宏 発行:フローラル出版 定価:1450円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 野菜不足につながる「量、質、彩(いろどり)」の3要素 本書が冒頭で警告しているのは、現代人の申告な野菜不足だ。 野菜不足には、次のようなリスクがあるという。引用しよう。 精神不安定、体臭が出やすくなる、肌荒れ、下痢、太りやすい、体力低下、疲れやすい、免疫低下、血管リスクの増加、生活習慣病、ガンになりやすくなる。他にも多くの損失がありますが、これらの症状が続くことで、慢性的な体調不良、集中力低下からの効率悪化、寝不足、不安症と、心にまで大きな影響を及ぼします。 こうした恐ろしい野菜不足問題には、3つの不足要素があるという。 ひとつは、「量の不足」。日々の忙しさやダイエットを理由に、食事を抜いたり、肉のみの食事に頼っている人は多い。 本書が推奨している野菜の摂取量は、1日350グラム。というと、とっさに「そんなにたくさん摂らなきゃいけないの?」と感じる人もいるかもしれないが、これはあくまで調理前の重さ。煮ておひたしにしたり、バター炒めなどで火に通せば、実際に口に入れる野菜の量は、それほど多くない。 2つめの要素は「質不足」。野菜を買うとき、価格重視で外国産を選ぶ人は少なくないだろう。だが、外国産の農産物のなかには輸送中にカビが生えたり、害虫に食べられたりしないよう、収穫後に防腐剤などの農薬を使用しているケースがあるという。 ゆえに、野菜の銘柄選びは国産一択。さらに「鮮度と旬」にこだわることを推奨している。 3つめの要素は、「彩(いろどり)不足」。いくら野菜を食べているといっても、バリエーションに乏しく、いつも同じ色味のものを食べていては栄養補給にムラができてしまう。 そこで本書が推奨しているのは、野菜を色味に分けてバランスよく摂取すること。 緑の野菜なら、ほうれん草、ケール、小松菜、人参の葉、フェンネル、など。 オレンジ(黄色)の野菜なら、人参、ゴヘルドビーツ、橙パプリカ、ウコン、など。 赤の野菜なら、レッドビーツ、紅大根、赤ピーマン、トマト、など。 白の野菜なら、ごぼう、たまねぎ、大根、ねぎ、にんにく、など。 青(紫)の野菜なら、赤紫蘇、紫人参、なす、など。 同じ色の野菜には、似た栄養成分が含まれているため、色のバリエーションを見るだけで、まんべんなく栄養補給することができるのだという。 効果を知るには42日間、野菜を食べ続けるべし 1日350グラムの、鮮度の良い、国産の旬の野菜を色味豊かに選んで摂取することに加えて、さらに本書は、これを42日間(6週間)、継続することを推奨している。 42日というのは、ダイエットや栄養の研究で動物や人体を使った実験をするときの目安になっている期間なのだとか。 本書の中盤に登場する、ウォーレン・ベジットなる野菜投資家は、次のように野菜摂取の効果を説明する。 しばらく野菜を食べ続けると、あるとき「あれ? なんか体調良くなってる?」と感じる日が来るだろう。すると、次の日には「やっぱり確実に良くなってる!」と感じ、そしてその次の日には「いや、もはや若返っている!」と、変化を感じた日から、メキメキと確信を伴った違いを感じるようになる。 ここまで読んできた気になったのは、野菜さえ食べれば良いのかということだ。 例えば以前にレビューしたことがある森由香子『60歳から食事を変えなさい』(青春出版社)では、毎食20グラムのたんぱく質を摂ることを推奨していた。 もちろん、本書が野菜至上主義に走り過ぎていないということは、ウォーレン・ベジット氏の次のセリフからよくわかる。 体を作る原材料がたんぱく質。体と脳を動かすエネルギー源が糖質と脂質。これらは特にたくさん摂取する必要があり、三大栄養素と言われる。そして、その三大栄養素がきちんと働くためのサポートをする役割がビタミンとミネラル。これらの五つが五大栄養素だ。 つまり、野菜によってビタミンとミネラルを摂取することは、たんぱく質、糖質、脂質の三大栄養素をうまく働かせるために必要不可欠ということなのだ。 最強の抗酸化成分「フィトケミカル」とは? 本書を読んで初めて知ったのは、野菜に含まれている「フィトケミカル」という成分の存在だ。 野菜をはじめとする植物は、外敵や紫外線など外からの攻撃から身を守るためにさまざまな物質を作り出している。これらを総称した言葉が「フィトケミカル」だ。 香り成分だったり色や渋味であったり、辛味やネバネバ成分などがそれにあたるが、それらは最強の抗酸化作用があるのだという。 例えばトマトや金時ニンジンなどの赤色の正体である「リコピン」には、同じく抗酸化作用のあるβカロテンの約2倍、ビタミンEの100倍以上の効果があるんだとか。 また、ミカン、トウガラシ、パプリカなどに含まれる「βクリプトキサンチン」は、体内で目や皮膚の粘膜を健康に保つビタミンAに変換されるほか、骨形成を促進して骨粗しょう症を防ぐ効果があるという。 さらには、ローズマリーや赤紫蘇、青紫蘇に含まれる「ロスマリン酸」は、脳から発生するドーパミンの量を増やす効果があり、加齢による記憶力の低下、物事への意欲や集中力、注意力の低下といった脳機能の改善を促してくれるというからすごい。 とにかく、このような調子で野菜を食べることのメリットを「これでもか」とばかりに突きつけてくるのである。 ちなみに著者の岩崎氏は、野菜を食べることを「インベストメント(投資)」に見立てた理由を次のように説明している。 あなたは投資の三原則をご存知でしょうか。それは「長期、積立、分散」です。じつはこれ、野菜投資にも流用することができるのです。野菜投資の目的、それは野菜を長期間美味しく食べ続け、さまざまな野菜から栄養素を取り入れ、栄養素のパワーを体に積み上げていく。その結果、美や健康、引いては幸せというリターンを得るということです。 この言葉につけ加えるなら、野菜投資はローリスク・ハイリターンの高効率の投資ということだ。とにかく私にとっては、「一汁一菜」生活を今後も続けていくモチベーションにつながる好著だった。
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【漫才師・ナイツ塙宣之】お年寄りに寄り添い、上手にお付き合いする方法

漫才師・ナイツの塙宣之さんが、『静夫さんと僕』(徳間書店)という本を上梓した。2014年から同居を始めた、義理の父の静夫さんとのハチャメチャな二世帯暮らしを描いた爆笑エッセイだ。 家のなかに雑草を持ち込む、耳が遠いのに補聴器を嫌がる、ラーメンの袋麺しか食べたがらないなど、超マイペースな生活をしている静夫さんに翻弄される塙さんの様子がおもしろおかしく語られている。この本を読んでわかるのは、塙さんが「変なお爺ちゃん」との付きあい方の達人だということだ。 ただ、漫才師としてデビューしてからの話を聞いてみると、そのスキルは持って生まれた才能なのではなく、さまざまな葛藤を抱えるなかで少しずつ身につけていったのだということがわかってきた。 果たして、「変なお爺ちゃん」と付き合うには、どんな心構えが必要なのか? 塙さんにじっくり聞いてみよう。 『静夫さんと僕』 著者:ナイツ 塙宣之 発行:徳間書店 定価:1600円(税別) マイナスをプラスに変える、圧倒的なお笑いパワーとは? ―まずは、塙さんがお笑い芸人を目指したきっかけからお聞きしていいですか? きっかけですか。ルーツをさかのぼれば、幼稚園に通っていたころになっちゃうんですけどね。たぶん、3月生まれだったことが大きいと思うんですけど、まわりの子と比べて僕は、理解力がないというか、そうとうトロい子どもだったんです。幼稚園のトイレの小便器が家の便器と違うので戸惑ってしまい、床に出っ張ったところにウンチをしてしまったりね。昼寝の時間もよくおねしょをしていたので、僕だけ途中で起こされてトイレに行かされてましたし、みんながいる前でウンチをもらしてしまったこともあります。 ―自分でも「僕はダメな子だ」という自覚はあったんでしょうか? ありました。小学生になっても幼稚園時代に僕が粗相をしたことを知ってる友だちがいて、「ウンコ、ウンコ」とからかわれたりするので、ますます自信を失って引っ込み思案でおとなしい子どもになっていました。小学4年生のときまでは、ずっとそんな感じでした。 ―小4のとき、何が起こったんですか? 志村けんさんか加藤茶さんだったと思うんですけど、家ではこのおふたりがテレビで「ウンコ」とか「チンチン」をネタにしたコントを見て大笑いしたんです。ある日、それを真似して「ウンコの歌」という曲を作ったんですよ。そして、友だちが「ウンコ」のことでからかってきたとき、勇気を出してその歌を大声で歌ったんです。すると、クラスは大爆笑。人前で初めてウケた瞬間であり、同時に笑いというもののすごいパワーを思い知った出来事でした。その1年後、僕ら家族は佐賀県に移って、そこで8年ほど暮らすんですけど、転校先では「千葉にいたころは、ウンコの歌をうたってクラスの人気者でした」と自己紹介して大ウケし、お笑い好きの明るい子に大変身していました。 ―高校2年生のとき、塙さんは『激辛!? お笑いめんたい子』(テレビ西日本)というオーディション番組に出場して優勝したそうですが、このときの原体験が大きく影響しているんでしょうね。 そうですね。それは間違いないことだと思います。 浅草の師匠たちとの衝撃的な出会い ―話は少し先に飛んでしまいますが、土屋伸之さんとナイツを結成した塙さんは、2002年に漫才協会に所属して、寄席で活動するようになります。これにはどんないきさつがあったんですか? マセキ芸能社の社長の「浅草からスターを出したい」という考えがあって、その対象者に選ばれてしまったんですね。嫌だったんですけど、僕らにそれを拒否する権利は与えられていませんでした。おかげで最初のころは、いろいろな苦労がありました。昼間は寄席で高齢者を相手にし、夜は小さなライブハウスで若い人を相手にするわけですが、お客さんの求めるものにギャップがあり過ぎて、テンポもネタもいっこうに定まりません。その結果、どちらの舞台に立ってもウケなくなるという悪循環にハマっていた時期もありました。 ―若手のころから高齢者を相手に漫才をするというのは、かなりツラいことですよね? でも、居心地がいいのは、寄席のほうだったんですよ。若手のライブハウスに行くと、先輩といっても年の近い人たちがたくさんいて、向こうもこちらをライバルだと思っているところがあるから、いつもピリピリした雰囲気だったんです。なかには自分より年下なのに、キャリアが1~2年くらい長いだけで先輩ヅラをしてくる人もいて、こっちにもプライドがありますから、そういう先輩にペコペコと頭を下げるのもおもしろくないわけです。その一方、「浅草の師匠」たちは70代、80代の人が中心ですから、孫の世代にあたる僕のような若者にやさしく接してくれるんです。コンクールのようなものに出場させて、「ライバルを蹴落としていかないと生き残れないぞ」なんてプレッシャーをかけてくる人は、一人もいません。 ―具体的には、どんなふうに接してくれたんでしょう? 当時、漫才協会には専属の事務員がいなくて、理事をつとめるチャンス青木という師匠が僕ら若手の入会手続きとか、面倒を見てくれていたんです。だからてっきり、僕は師匠のことを漫才協会の事務員さんだと勘違いしていたんだけど、ある日、その事務のお爺さんだと思っていた人がラメ入りのスーツを着て舞台にあがって漫談をし始めたので、もうビックリして。こうした「浅草の師匠」たちは、テレビに出ているわけではないから、あわてて浅草ROXの本屋さんで芸人名鑑みたいな本を買ってきました。だけど、そこに載ってるプロフィール写真がずいぶん昔に撮った若いころの写真だったりして、師匠たちの顔と名前を覚えるのにエライ苦労をしました。 師匠へのリスペクトの気持ちが芽生えて、世界が変わった ―そのほか、印象に残っているのは、どんな師匠ですか? 最初に度肝を抜かれたのは、東寿美・日の本光子師匠のお婆ちゃんコンビです。光子師匠は、すごく声が大きな人なんですけど、その反対に東師匠の声がすごく小さいんです。それで、客席から「ババア、聞こえねぇぞ」とヤジが飛んだのを袖から見たときは、すごいところに来ちゃったなと思いました。当時の浅草は、つくばエクスプレスもまだ開通していない、寂れた街だったので、東洋館の客席はいつもガラガラでした。しかも、数少ないお客さんも特別にお笑い好きというわけではなく、ただ涼みに来ている人もいれば、お酒を飲んでいたりして、漫才を真剣に聞いている人なんて、ほとんどいなかったように思われました。ある日、イビキをかいて寝ているお客さんがいて、漫才の途中、そのイビキが止まっちゃって、客席が「大丈夫?」みたいな感じでザワザワし出したりしたこともありました。そんなふうに浅草では、毎日がカルチャーショックでしたね。 ―そのころの塙さんの心のなかには、「いつか浅草を飛び出してテレビで売れてやる」みたいな野心はあったんですか? 最初に言った通り、浅草は自分にとって居心地のいい場所だったので、そこから飛び出してやろうという気持ちはあんまりありませんでした。そもそも、浅草の師匠たちというのは若いころ、コンクールで優勝したり、いい結果を残した実績のある人たちなんです。つまり、師匠たちは70代、80代になるまで惰性で舞台に立っているわけでは決してなくて、それほど長い間、芸人を続けていくにはよほどの実力を持った人でなければ無理なんですね。はじめは、加齢によるポンコツエピソードを笑いのネタにしていた僕も、そういうことに気づいていくと、なんの実績もない自分のほうがちっぽけな人間に思えてきました。自分なんて、師匠たちの足下にも及ばない存在じゃないかと。M-1グランプリに挑戦して、結果を残すことに本気で取り組むようになったのは、そのときの気づきが大きく影響していると思います。 ―実際のところ、浅草の師匠たちから塙さんは、どんなことを学びましたか? 例えば、年をとると「入れ歯の噛みあわせが悪くてカツゼツが悪い」といったハンデがあったりしますよね。テレビ向きの芸をするなら、歯の治療とかリハビリとかをしてベストなパフォーマンスをする努力をすると思うんですけど、浅草の師匠たちはそのまんまの状態で舞台に出るんです。で、声の音量がふたりで合っていなくても、お客さんから「ババア、聞こえねぇぞ」とヤジられるところで笑いが生まれたりするんです。ネタのおもしろさとか、構成力とかを超えて、「人間味」のようなもので笑いをとっているんですね。それは、僕がクラスメートの前で勇気を出して「ウンコの歌」をうたうことで幼稚園時代のトラウマを克服したときのカタルシスに通じるものがあると思うんです。つまり、「笑い」には「老い」のようなネガティブな状況をもエネルギーにすることができる、絶大なパワーがあるってことですよ。僕はそのことを、漫才協会の師匠たちと接することによって、再確認することができました。 内海桂子師匠からもらった大事な教え ―ナイツのおふたりは、漫才協会に所属すると同時に、内海桂子さんに師事し、2022年8月に師匠が97歳で亡くなるまでの18年間をお弟子さんとして過ごしています。どんな18年間でしたか? 漫才協会に所属することと同じく、桂子師匠に弟子入りしたのは自分たちの希望ではなく、マセキ芸能社の社長が決めたことだったので、最初はピンときませんでした。芸人の弟子というと、師匠の家に住みこんで身のまわりの世話や、寄席通いのカバン持ちをしたりするイメージがありますが、そのような義務はいっさいなく、桂子師匠自身が「アンタたち、あたしの弟子なんだってね?」と聞き返してくるくらいでしたから、師匠のほうでも僕ら以上にピンときてなかったんじゃないでしょうか。 ―でも、寄席の楽屋では、師匠の着物をたたんだりはするわけでしょ? 着物のたたみ方についてはいちおう、先輩に教えてもらってはいたんですけど、桂子師匠は家から着物姿で寄席にやってきますから、たたむ機会なんてないんです(笑)。だから、最初の1~2年は、師弟らしい交流はありませんでした。ただその後、師匠が僕らに目をかけてくれるようになって、営業先に同行させてもらうようになると、地獄のような日々が始まりました。 ―地獄のような日々、というと? 僕らは芸人として師匠と営業先に行くわけですから、前座でお客さんに漫才を披露することになります。すると、「あなたたちのやってるのは漫才じゃない」とか、「こういうのはぞんざい(物事をいいかげんにする様)ですから」といった数々のダメ出しをされるんです。これ、舞台を降りた場でやってくれる分にはありがたいんですが、お客さんの前でそのままやられちゃうんですよ。一度、「言葉で絵を描きなさい」と言われて、意味がまったくわからなくて絶句したこともありました。 ―お客さんの前で恥をかかされるというのは、新人の芸人さんにとってはツラいことかもしれませんね。 実際、僕らの漫才はスベりにスベっていましたから、お客さんの前でのダメ出しは、傷口に塩を塗るようなものです。このころは、師匠に恨みのような感情を煮えたぎらせていましたね。ただ、先ほど言った、僕らがM-1グランプリに挑戦して、テレビに少しずつ出られるようになって自信をつけ始めたころ、勇気を出して師匠のダメ出しに「うるせぇ、このクソババァ!」と突っ込んだことがあるんです。すると、間髪入れずに「誰がババァだ!」と師匠から返ってきて、それからはマシンガンのような言葉の応酬。それで客席はドッカンドッカンとウケたんです。そのとき一瞬、師匠がうれしそうな表情を浮かべたのを今でも鮮明に覚えています。師匠もずっと、こういうことを僕らとしたいと待ち構えていたんだと思います。当時はその真意を理解できませんでしたけど、ここ最近になってみるとわかります。そう思うと、師匠には感謝してもしきれないなぁと思いますね。 今も心に響く、師匠の言葉 ―桂子師匠の教えで印象的なものを挙げていただくとすれば、何でしょうか? 師匠がよく言っていたのは、「いろんな経験を積みなさい。それが漫才に生きるんだから」ということ。なんてことのない言葉なんだけど、僕は漫才というものの本質を突いた言葉だと思っています。というのも、若いうちはお客さんにウケたネタも、年をとるとできなくなっていくものなんです。例えば、結婚して家庭を持てば、「女の子にモテたい」とか、「彼女がほしい」というネタはやれなくなります。俳優さんなら独身でモテない男の役を演じられるんだけど、漫才師の場合、それが成立しないんです。 ―つまり、漫才師は、自分の生き様をそのままネタにしていくしかないわけですね? そうです、そうです。だから、2018年に『警視庁・捜査一課長』(テレビ朝日系)という連続ドラマの出演オファーをいただいたとき、「漫才師の自分がドラマに出ても、うまい演技なんてできるわけない」と思って躊躇したんですけど、師匠の教えを思い出してお受けすることにしたんです。その結果、僕の「棒読み演技」がいろんなところでいじられることになったわけですけど、それがまた漫才の要素として生かされるわけですよ。僕は今、ニッポン放送の月曜から木曜日の『ナイツ・ザ・ラジオショー』と『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』の木曜レギュラー、それからTBSラジオでは毎週土曜の『ナイツのちゃきちゃき大放送』と、週に5日間はラジオに出演しているんですけど、もし僕が漫才しかやらない人間だったら、しゃべるネタはとっくに尽きてしまったはずです。だから、師匠の「いろんな経験を積みなさい」という言葉は、僕の中でますます重い意味を持ってきています。 「変なお爺さん」のありのままを受け入れるということ ―今回、同居している奥さんのお父さんとの交流を描いたエッセイ『静夫さんと僕』を出版されたわけですが、この話も聞かせてください。同居のきっかけは、どんなことだったのですか? 2014年に最初の子どもが生まれることになって、広い家に引っ越したいという話を夫婦でしていたんですね。ちょうどそのころ、奥さんのお父さん、すなわち静夫さんが脳梗塞を患い、足腰を悪くしたこともあって、一緒に住んだらお世話もできるし、ちょうどいいんじゃないかという話になったんです。それまで、静夫さん夫婦はエレベータのない団地の4階に住んでいて、奥さんの妹ふたりの家族が集まったりすると、ギュウギュウ詰めになってしまうような環境でしたし。 ―いざ同居をはじめてみると、超マイペースな静夫さんの生活に振りまわされていく様子がおもしろおかしく書かれていますが、これを実際に体験する本人にとっては、かなりのストレスだったんじゃないですか? それまで静夫さんの近くに住んでいて、いろいろ世話をしていた奥さんの妹ふたりからは「静夫さんと付き合うのは大変だよ」と言われていたんですが、最初のころはそんなふうに思ったことはありませんでした。静夫さんは自然が好きで、野生で生えてる雑草を見ると、家に持ち込んで飾る、という癖があるんですけど、その雑草に家がちょっとずつ浸食されていって、半年も経つと家中がジャングルのようになっていました。 ―「家のなかが汚くなるからやめてほしい」と言っても、聞いてもらえないんですか? そうなんです。とにかく性格は頑固。そして、しつこい。自分の言いたいこと、やりたいことを誰が嫌がろうが押しつけてくるんです。例えば、宇宙の話。静夫さんはサイエンスが大好きで、日ごろから専門書をたくさん読んで、「宇宙の構造は、どうなっているか知ってるか?」と質問してくるんですけど、難解な上に、あっちこっちに話が飛ぶので同じ話がループしたりするんです。そもそも、耳が遠いので、「その話、もう聞きましたよ」と言ってもおかまいなし。補聴器をつければいいんじゃないかと薦めても、つけるのを嫌がるんですね。 ―いろいろな点で、矛盾したところがあるようですね。 それで結局、静夫さんにこっちのペースに合わせてもらうことを途中からあきらめました。コントロールしようとすればするほど、静夫さんは頑固に我を通してくるので、かえってストレスが増してしまうんです。要するに、「静夫さんは、そういう人なんだ」ということを受け入れるってことです。 お年寄りと接するときに大事なのは、リスペクトの気持ち ―高齢者施設だと、食事の時間とか、起床と消灯時間とかが決められてしまいますが、おそらく静夫さんは、そういう生活を受け入れてくれないでしょうね? 絶対に無理ですね。静夫さんは、超がつくほどの偏食家。サッポロ一番の醤油味の袋麺が大好きで、毎日そればかり食べています。家には大量の空き袋が散乱しているので、僕らはそれを「ポロイチ」と呼んでいます。睡眠時間も、いつ寝ているかわからないほど変則的です。おそらく昔、タクシーの運転手をしていたころからの習慣だと思うんですけど、基本的に夕方の3時とか4時ごろに寝て、深夜の2時ごろに起きてくるみたいです。ある日、朝の飛行機に乗らなきゃいけない日があって、早朝4時に身支度をして玄関に行ったとき、靴箱の隣の椅子に座った静夫さんが無表情でボーッとしているのに出くわして、「うわっ!」と声をあげてしまったこともあります。 ―そういう静夫さんの生活のすべてを、受け入れていく姿勢が大事なんですね。 その通りです。もしかすると、漫才協会の数々の個性的なお爺ちゃんとの接し方が上手くなった点があるとすれば、そのスキルは静夫さんとの生活のなかで、少しずつ磨かれていったのかもしれません。例えば僕は、漫才協会の師匠に向かって、「何度も同じネタをやるんじゃなくて、新作を作ってください」なんてことは、口が裂けても言えません。なぜなら、今、僕らが寄席で漫才を披露できているのは、師匠たちがずっとその場所を守り続けてきてくれたおかげなんですから。お年寄りに対しては、そういうリスペクトの気持ちが大事だと思うんです。もし静夫さんがいなければ、僕は奥さんと出会って家庭を持つこともできなかったわけで、そう思ってみれば、静夫さんを邪魔者扱いするほうが間違っているということがよくわかりますよね。 ―ところで、静夫さんは本になった『静夫さんと僕』を読んで、どんな感想をおっしゃっていましたか? 「おもしろかったよ」って、言ってくれました。静夫さんとのエピソードは、ラジオのトークのネタにもさせてもらったし、こうして本にすることもできて、僕にとって静夫さんはとてもありがたい存在なんですけど、そんな静夫さんに喜んでもらえたことは、素直にうれしかったです。それと、書いてみてわかりましたけど、日常生活のエピソードって、時間が経つと忘れていくじゃないですか。でも、こうして文章にしておくと、いつでも思い出すことができます。そういう意味で、この本を書くことができて、本当によかったと思っています。 65歳で引退して、その後は自由に生きてみたい ―最後に、塙さん自身の老後の話をお聞かせください。漫才師には定年がありませんが、塙さんは何歳まで漫才を続けたいと思っていますか? 「生涯現役」って言葉がありますよね。しかも、そのことをポジティブなことのように語られることが多いと思いますが、意味がわからない。だって、人間は誰しも、自分の寿命が何年あるかを知ることはできないわけですから、「生涯現役」というのは、とても曖昧な目標のように思えるんです。それよりも、「65歳になったら引退する」と決めておいたほうが、張りのある毎日をおくれるんじゃないかと思うんですよね。 ―でも、現代は人生100年時代だと言われます。65歳で引退すると、その後の20年、30年を持て余してしまうのではないですか? いや、そんなことはないと思います。これまで世間からずっと、「ナイツの塙」として見られてきただけに、「塙宣之」というイチお爺ちゃんになったときの世界を、きっと新鮮に受け入れられるはずです。そうなれば、静夫さんのように自分の言いたいこと、やりたいことを素直にやるだけの日々をおくりたいですね。今までできなかったプライベート旅行とか、いろんな遊びを試してみたい。そう思うと、今からワクワクするじゃないですか。やろうと思えば、自分の人生を思い通りに生きるって、きっとできることだと思うんですよ。そう思いません? 撮影/八木虎造
ブックレビュー

【俳優、画家・片岡鶴太郎】人生後半を思いきり楽しむ、「老いては『好き』にしたがえ!」の流儀

片岡鶴太郎さんは、つねに新しいことにチャレンジし続けている「挑戦者」である。 芸人として売れっ子の道を歩んでいた30代に突如、ボクシングに挑戦してプロライセンスを取得。それと同時に、仕事の比重を芸人から俳優へと移していった。かと思えば40代からは絵の道に手を広げ、個展をひらくほどの人気を博すように。 さらには50代後半でヨガを始め、インド政府公認のヨガインストラクターになるほど道を究めた。2017年6月、インストラクター就任の発表記者会見で体重43キロの痩身で現れた彼の姿を見て、衝撃を受けた人は多いだろう。 そんなふうに1度だけの人生を、5回分、6回分も楽しんでいるように見えるのが鶴太郎さんという人である。 そんな鶴太郎さんが上梓した『老いては「好き」にしたがえ!』(幻冬舎新書)には、人生100年時代を生き抜くヒントに満ちている。この本を読むと、人生の節目、節目で彼がもがき苦しみながら「新しいことへのチャレンジ」をしていった経緯がわかる。 2023年の12月21日で69歳になる鶴太郎さんのこれまでの人生をふり返っていただくと共に、70代以降の生き方についてのビジョンをうかがってみよう。 『老いては「好き」にしたがえ!』 著者:片岡鶴太郎 発行:幻冬舎新書 定価:900円(税別) 人として売れるには、「弟子入り」という道しかなかった ―鶴太郎さんが芸人を志したきっかけは、何だったのですか? 最初は、芸能界に対する漠然とした憧れがあって、はっきりと形になったものではありませんでした。実際に行動を起こしたのは高校卒業後のことなんですが、女優の清川虹子さんのご自宅に押しかけて門前払いをくらったり、俳優の松村達雄さんのもとを訪ねたりしました。いずれも「弟子入り」をお願いしたんですが、松村さんには「演劇の世界に弟子をとるという制度はないからね。もし俳優になりたいのであれば劇団に入りなさい」と諭されてしまいました。「弟子入り」にこだわったのは、1日24時間365日、芸能の水に浸りたかったからです。今のように各芸能プロダクションがいろんな養成所を構えていて、プロになるための道を作ってくれるような時代じゃなかった。誰かの弟子になって、その道に進んでいくのが唯一の方法だったんです。結果的に私の希望に応えてくれたのが、声帯模写を得意とする片岡鶴八師匠で、これをきっかけにものまね芸人としての道を歩むことになりました。 ―でも、そこから売れっ子の芸人になるには、かなりの紆余曲折があったようですね。 そうですねぇ。鶴八師匠の弟子として過ごしたのは、3年ほどでした。住み込みの弟子として師匠の身のまわりの世話からカバン持ちをする生活を期待していたんですが、師匠からは「うちは狭いからそういうのは面倒だ。通いで来てくれ」と言われてしまいました。その後は、隼ジュンとガンリーズというコントグループの一員になったり、四国の大衆演劇一座の舞台に立ったり、文字通りの紆余曲折です。隼ジュンとガンリーズは「キャバレーの王様」という異名があるほど、キャバレーやホテルの巡業で絶大な人気を誇るグループでした。 ―ここでようやく“人気”という言葉が出てきましたが……。 でも、テレビで売れる芸人を目指していた自分には違和感があって、2年ほどたったころに逃げ出すような形で脱退してしまったんです。そこで東京にはいられなくなって、四国の大衆演劇一座のお世話にすがったわけです。その一座とは半年でお別れして、東京に戻って芸能プロダクションに所属することができたんですが、主な舞台は錦糸町のサパークラブ。深夜0時から朝5時まで営業していて、キャバレーやクラブで働くホステスさんがアフターで利用するようなお店で、そこのステージで司会をしたり、ものまね芸を披露する仕事です。 ―やっぱり「売れる」道筋が、なかなか見えてきませんね……。 自分でもそう思って、一念発起して挑戦したのが、「東宝名人会」のオーディションです。1934年から2005年まで1200回以上、開催された演芸公演で、この舞台を踏むことは、芸能の世界で名前を認めてもらう重要なステップだったんです。 一夜にして売れっ子に。そうなるまで9年かかった ―結果的に鶴太郎さんはこのオーディションに合格して、テレビにも出演するような芸人の道を歩むことになるわけですね。 そうです。24歳のとき、フジテレビのお笑い番組からお声がかかりました。『お笑い大集合』という番組で、タモリさん司会の『笑っていいとも!』の前身にあたる番組です。この番組のプロデューサーをつとめた横澤彪さんは若いころ、同じくフジテレビの『しろうと寄席』のアシスタントディレクターをつとめていたんですが、実は私、小学5年生のときにこの番組に出演したことがあるんです。横澤さんはそのときのことを覚えてくださっていて、「鶴太郎って、あのときの荻野くん(私の本名です)でしょ?」と声をかけてくれたんです。 ―横澤彪さんというと、1980年に『THE MANZAI』を起ちあげて、ツービートや島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、B&Bといったスターを世に出す漫才ブームの立役者として有名ですね。 すごかったですよねぇ、漫才ブーム。ただ、ブームのメインストリームにいたのは漫才師の人たちですから、私のようなものまねの「ピン芸人」は、ブームの端っこのところで指をくわえて見ているしかありませんでした。ただ、その1年後の1981年に『オレたちひょうきん族』がスタートするんです。漫才ブームでブレイクしたコンビをバラして、みんながピンになってコントやパロディを演じるスタイルのバラエティ番組です。この「コンビをバラしてピンにする」というのは非常に画期的な試みで、私のような芸人にもテレビのメインストリームで活躍する場が与えられたんです。 ―鶴太郎さんご自身、「売れた」と実感したのは、いつごろですか? それに関しては明確な記憶がありまして、それが番組内の「ひょうきんベストテン」というコーナーで、マッチ(近藤真彦さん)に扮してゲスト出演したときです。後に番組内で「ビビンバ」の愛称で知られることになるディレクターの荻野繁さんに持ちかけられたネタで、近藤真彦さんのものまねは、私のレパートリーにはありませんでした。でも、「似てる似てないなんて関係ないから。マッチは元気がいいから、元気がよすぎてセットを壊しながら暴れに暴れて最後に死ぬ。これで行こう」という無茶苦茶なノリで生まれたネタです。ですから、やっている本人も「本当におもしろいんだろうか」と半信半疑でした。 ―でも、そのネタが見事にハネるわけですね。 そのことを実感したのは、そのマッチのネタが放送されて数日後、『笑ってる場合ですよ!』というお昼の生放送のバラエティ番組に出演したときでした。この番組は、先ほど述べた『お笑い大集合』と同様、『笑っていいとも!』の前身にあたる番組で、エンディングで5分くらいのゲストコーナーがあるんです。私は1カ月に1度くらいのペースでこのコーナーに呼ばれていたんですが、マッチ放送後に出たときの反響には、すさまじいものがありました。それまでは、「鶴ちゃーん」という声援もまばらにかかる程度だったんですが、このときは客席から「キャー!マッチ!!」という怒濤のようなどよめきが起こったんです。 ―アイドル並みの騒ぎですね。 サブコントロールルームから、横澤さんが駆け下りてきて、「鶴ちゃん来てるよ!来てるよこれ!絶対逃しちゃダメだよ」と興奮ぎみに語ってくれたのを覚えています。自分の感覚としては、一夜にしてまわりの世界が一変してしまったような感じでした。テレビの影響力のすごさを実感しましたね。このとき、私は27歳。鶴八師匠に弟子入りして、9年の月日が経ってました。 ポッチャリ型の芸人からスリムなボクサー体型に肉体改造 ―30代前半の鶴太郎さんはレギュラー番組を10本も抱え、文字通り、全国区に名前を知られる売れっ子になるわけですが、32歳のとき、突如としてプロボクサーのライセンス取得に挑戦しています。これには、どんなきっかけがあったのでしょう? 周囲の人たちにとっては「突如として」と見えていたかもしれませんが、自分としてはちゃんとした理由があるんです。テレビで売れたことへのうれしさはありましたが、レギュラー番組が10本になると寝る間もないほどの忙しさに追われて、ストレスが溜まっていきます。でも、充分な休養をとる暇もないので、すき間の時間で好きなものをお腹いっぱい食べ、酒を飲み、女性と遊ぶという毎日で、不健康そのもの。おかげで、身長161センチにして体重65キロの、ブクブクとむくんだ体型になっていました。ちょうどそのころ、明石家さんまさん主演の恋愛群像ドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)に出演する機会をいただいて、俳優という仕事に魅力を感じていた時期でもありました。 ―いわゆる“転機”、ですね。 でも、当時の私のポッチャリ体型では、似たような役のオファーしか来なくて、「いろんな役を演じられる俳優になるには、肉体改造をするしかない」と思っていました。その数年前に見た映画『レイジング・ブル』で、主演のロバート・デ・ニーロが鍛え上げられた現役時代のプロボクサーと、引退後の27キロも太った姿を同時に演じるという俳優魂に触れて、「海外の一流の俳優は、そこまでやるのか!」と衝撃を受けたことも大きかったですね。ボクサーはお笑い芸人と同様、子どものころからの憧れの存在でしたから、そのプロライセンス取得に挑戦することは、それまでの自堕落な生活をリセットしてくれる、絶好なチャンスだと思ったんですね。 ―でも、ボクシングのプロライセンスに挑戦するには、売れっ子芸人としての多忙な仕事を大幅にセーブしなければ不可能ですよね。周囲から反対はありませんでしたか? 実際、所属事務所からは「2年先までスケジュールが埋まっているんだよ。なぜ、その仕事をセーブしてまでボクシングに専念しなければいけないの?」と問い詰められました。それでも私は「2年先まで仕事があったとしても、3年先の保証はありませんよね。ボクシングのプロライセンスの取得には年齢制限があります。今、挑戦しないと、チャンスはもうやって来ないんです」と主張して、思い通りにさせてくれるように頼んだのです。現在、プロボクサーのライセンスの受験資格は32歳なんですが、当時の規定では33歳でした。私がボクシングへの挑戦を始めたのは32歳のときでしたから、1年しか準備期間がなかったわけですが、役者とボクシングのダブルチャレンジというのは私にとって、挑み甲斐のある挑戦だと思いました。 人生に行き詰まった40代を救ってくれたのは絵を描くことだった ―ボクシングのプロテストに合格すると同時に、ものまね芸人から俳優へ仕事の比重を移すことに成功した鶴太郎さん。大きな人生の転機だったと思いますが、その後、絵画という新しいことへのチャレンジが始まります。どんなきっかけがあったのでしょう? 33歳でボクシングのライセンスをとり、世界チャンピオンの鬼塚勝也選手のセコンドについて二人三脚で防衛戦に臨む日々は、充実していました。ところが1994年、鬼塚選手は6度目の防衛戦で世界タイトルを失い、以前から網膜剥離であったことを明かして現役を引退したんです。それと時を同じくして、私の俳優としての仕事にも変化がありました。長く主演をつとめていた金田一耕助シリーズ、海岸物語シリーズが終了して、潮目が変わっていくのを感じたんです。では、次に何をするべきか、いろいろ考えてみるんだけど、答えが見つからない。間もなく40歳の不惑の年をむかえるというのに、惑ってばかりの日々が始まりました。 ―その惑いのなかから、「絵を描く」という道に行き着くわけですね? 半年くらい、ジタバタした結果ですけどね。周囲にいる40代の人に「不惑の年ってどうですか?」と聞いてみたり、京都のお寺に坐禅を組みに行ったりしても、答えは見つかりませんでした。そうこうするうち、2月のある寒い日、早朝5時に仕事に出かけようと自宅を出たとき、隣家の庭に植えられた木に咲いた、赤い花が目に留まったんです。それまで植物に興味を持ったことなんて一度もないのに、そのときはなぜかその花の存在が気になったのです。以来、前を通りがかるたびにその花を観察するうち、その家の奥様と立ち話をする機会があって、ヤブツバキという椿の花だということを知りました。それと同時に、その感動を何かで表現したいと思って、絵に描くことを思いついたんです。 ―それまで絵を描いた経験は、あったんですか? いえ、まったくありません。それどころか、美術館で絵を鑑賞したこともありませんでした。でも、「椿の花を描けるようになりたい」という気持ちが心のなかから消えることはありませんでした。私は、こうした心の印を「シード(種)」と呼んでいます。普段は潜在意識のなかにあって、その存在に気づかないけれど、ふとした瞬間に「発芽したい」というサインを送ってくるんです。こういうときは、サインが示すままに行動するのがいちばんです。なぜならそれは、「自分が本当にやりたいと思っていること」であり、「魂の歓喜」につながることだからです。 ―なぜ、椿の花にそれほど惹かれたのでしょう? さぁ、どうなんでしょう。誰に見られることもなく、健気に咲いているところに心動かされたのかもしれません。本当の美しさというのは、そういうことなんじゃないかと。それに比べて自分は、人の目ばかりを気にして、人に見られていないと何もできない。そんな自分の非力を感じて、椿の花に憧れの気持ちを持ったのではないでしょうか。そこで、隣家の奥様に1本の椿の花をいただいて、目の前にかざしながら絵を描いてみました。 心のなかの「シード(種)」が絵を描くことで発芽した ―実際に絵を描いてみて、すぐに手応えはありましたか? とんでもない!最初に描いた絵は、目を覆いたくなるほどのひどい出来でした。その後も何枚も何枚も別の紙に書き直すんだけど、最初に花を見たときの感動に近づいていく感じが少しもしないんです。そこで、花を描くことはいったんあきらめて、サンマやイワシとかの魚を描くことにしました。私は、何かの技術を身につけるには「反復練習」がいちばんの近道だと思ってきました。最初のうちはうまくできなくても、毎日毎日繰り返して取り組むことで、何かが見えてくるようになる。ボクシングを始めたときも、そうでした。それまで運動らしいことをしてこなかったものだから、縄跳びすらまともに跳べませんでした。トレーナーにコツを聞くと、「鶴太郎さん、縄跳びにコツなんてありません。ひたすら跳ぶしかないんです。跳んでいるうちに、何かが見えてきますから」と言われて、ひたすら反復練習をしました。その「何かが見えてくる」という手応えは、1か月後にやってきました。絵を描くのも、これと同じ方法でいくしかないと思ったんです。 ―反復練習をするにしても、上達が遅ければ途中で心が折れてしまいます。鶴太郎さんは、それでもなぜ、絵を描き続けることができたんですか? このときは、「自分には絵の才能なんてないんだ」とあきらめたとしても、またもとの鬱々とした日々に逆戻りするしかないという焦燥感がありました。無謀な挑戦に思えても、それにしがみつくしかないという状況だったのです。その一方で、絵を描くことで、自分の心のなかのシードから確実に芽が育っているという実感もありました。絵を描いている間は心が躍って、好きな酒を飲むことも忘れて作業に没頭することができましたからね。 暗中模索のなか、独学で絵を描く喜びに目覚めていった ―絵の対象を花から魚に変えたことで、どんなことが起こりましたか? とりあえず絵の道具をそろえようと画材屋さんに行ったとき、「油とか水彩とか、いろいろありますが、どうしますか?」と聞かれて、私は直感的に「墨がいい」と答えていました。「バターと醤油とどっちがいい?」と聞かれて、醤油を選んだような感覚です。その時点で、写真のように見たままそっくりの絵を描くのではなく、見る人の想像力をうながすような味のある絵を目指していたのがわかります。例えばサンマは、お腹のところがメタリックに光っていて、背中には鮮やかな濃紺で彩られています。それでもじーっと眼をこらしてサンマを見てみると、肉眼で見た色とは別の色が見えてくるんです。ある意味で、心の眼とでもいうんでしょうか、ああ、ここは朱色だな、とか、ここには緑が見えるな、という具合。そんなふうに見た目にはない色を絵に加えたりすることに、最初のころは抵抗感がありました。絵についてアカデミックな教育を受けたわけでもない私がそんなことをするのは、とんでもない間違いなんじゃないかと。でも、これを自分の満足のいく形に表現してみないと先に行けないなと思って試してみると、何となく自分の思い描いていた「味のある絵」に近づいていく手応えがあったんです。 ―心のなかのシードから、芽が吹いた実感が得られたわけですね。 そうですね。ただ、そうやって私が描いた絵が、多くの人に評価されるかどうかはわからないまま、正直に自分の感じるままの絵を描き続けていました。そんなある日、ある百貨店の美術部長という肩書きの名刺を持った方がやってきて、絵を見てくれる機会がありました。内心、びくびくしながら「こういうのは、絵として反則なんでしょうか?」と聞いてみると、こんな答えが返ってきました。「この絵は、鶴太郎さんにしか描けないオリジナリティのある作品です。このまま描き続けていただいて、個展を開きましょう」と。その言葉を聞いた途端、目の前に立ちはだかっていた戸がパーンと開けるような気がしました。 ―初の個展「とんぼのように」は1995年、鶴太郎さんが40歳のときに開催されました。百貨店主催の個展というと、絵の販売が前提となるので事実上、鶴太郎さんの画家としてのプロデビューの年となりますが、そのことについてどう思いましたか? 個展の開催が決まってからは、ドラマの収録の現場にも画材を持ち込んで、1年間で120枚の作品を描き続けました。それはプロの画家になるための努力ではなくて、それまで暗闇のなかで半信半疑で描いてきた絵を白日のもとで自由に表現できるんだという喜びのためやっていたことだと思っています。初めての個展は、おかげさまで大成功。売り出した絵はすべて完売しましたが、その後、自分の絵を売ることにはあまり積極的ではないんです。幸いなことに、私の絵を非売品として展示してくれる美術館を建ててくれるというお申し出を受けて、現在では不定期での個展を開催するかたわら、美術館に展示する作品を制作するに至っています。 片岡鶴太郎作品を扱う美術館の一覧はこちら 50代でやってきた「男の更年期」。救ってくれたのは……? ―40代は画家としての活動を開花した年代でしたが、今回の著書『老いては「好き」にしたがえ!』によると、50代前半は「男の更年期」に入り、鬱々とした日々を過ごしていたそうですね。 ええ、そうなんです。絵を描くようになって10年も経つと、「鶴太郎さんは絵を描く人なんだね」というイメージが世間に浸透していて、注目度は低くなっていきます。役者としても、自分にしか演じられないような役にチャレンジしようにも、そういう役に挑戦できるチャンスがなかなかやってこない。50代というのは、そういう中途半端な年齢なんですね。そんな八方ふさがりな状況のなかで、自分の立ち位置がわからなくなって、ふとした隙に心の袋小路に入ってしまったように思い詰めている自分に気づきました。「やばい、やばい」と思い直して、再びボクシングジムに通って身体を動かして、ぐっすり眠れるような生活サイクルを作ろうとしたんだけど、あらゆる透き間で「やっぱりダメだ」というサイクルに入っていく。今思えば、「男の更年期」だったんでしょうね。心身のバランスが崩れて、何をしてもネガティブな方向に心が向いていくんです。そんな状態が2年も続きました。 ―どうやってそれを克服されたんですか? ある日、「昭和29年生まれの午年の会を作りたいと思っているんだけど、参加しませんか?」というお誘いをいただいたんです。会のメンバーは、当時の小泉政権下で自民党の幹事長をしていた安部晋三さん、今は神奈川県知事ですが元フジテレビのニュースキャスターだった黒岩祐治さん、一般の方では銀行の頭取の方など、年は一緒だけど生まれも育ちも職業も違う、バラエティ豊かな集まりでした。大勢が集まる場は苦手だったので最初は抵抗がありましたが、自己紹介のあとにいろんな話を聞くと、自分と同じような悩みや葛藤を抱えている方が多くて驚きました。組織のなかで、上にはまだ活躍する世代が大勢いて、下には勢いのある若者が突き上げてくる、そんな状態にあって自分の立場に行き詰まりを感じていた。そうした悩みを打ちあけ合うなかで、「そうか、悩んでいるのは自分だけじゃなかったんだ」と気づけたのは本当にありがたかった。救いになりました。鬱々としている時期というのは、閉じこもりがちになりますが、私の場合、積極的に外へ出ていって人と会ったことが良かったと思っています。 ヨガと出会って、新たな心の「シード」が芽吹くのがわかった ―57歳のときには、ヨガを始められています。これにはどんなきっかけがあったんですか? 先輩の秋野大作さんと仕事でご一緒する機会があって、「最近、セリフ覚えが悪くなって……」と悩みを打ちあけたところ、「瞑想がいいよ」というアドバイスをいただいたんです。まずは1日6時間を2日間かけて基本的な考え方や修法を学んだあと、20分の瞑想を実践していくんだけど、最初のうちは、まったくできませんでした。身体が痛くなって集中できないし、それに慣れたあとも途中で眠ってしまったりして、ただの二度寝で終わってしまうこともしばしばでした。だからこれも、得意の反復練習で取り組むしかないと思って、根気よく続けていくことにしました。ヨガの境地というものを体験してみたい、その先にはきっと「魂の歓喜」があるはずだという予感がありました。 ―その手応えを感じられるようになったのは、いつごろのことでしょう? 始めて2か月くらい経ったときでしょうか、瞑想中にすごい体験がありました。自分が床にあぐらをかいているという身体感覚がなくなっていって、背中のあたりから気持ちのいい感覚が滾々(こんこん)と湧いてきたんです。おそらく、医学的に分析すれば、脳から大量のドーパミンが分泌されているような状態だったのでしょう、全身が幸せに包まれたかのような多幸感がありました。なんて幸せなんだろう、と。 ―すごい手応えですね。 もう一度、あの感覚を味わいたいと翌日、翌々日と試してみても、二度目の体験はなかなかやってきませんでした。それでもずっと続けていくうちに、すーっとその境地入るスイッチのようなものを見つけることができました。そこまで達するのに、数カ月かかったでしょうか。 何事も始めるに遅いということはない ―ヨガに目覚めたことで、鶴太郎さんの生活にどんな変化がありましたか? ボクシングは52キロ級でしたから、1日2食で体重を維持していましたが、ヨガと出会ってからは1日1食になって、体重も43キロになりました。1日のルーティーンには9時間をかけています。そうするとどうなるかというと、仕事の始まる9時間前に目覚めるように就寝時間を調節する必要があるんです。例えば、ドラマの撮影が朝5時からだとすると、前日の夜8時が私の起床時間ということになります。 ―9時間もかけて、どんなルーティーンをこなすんですか? 目覚めてすぐは、ドラマや映画の撮影中ならセリフの反復練習をします。寝起きだから口がまわらなかったりするんだけど、これをベストな状態でできるようになるまで続けます。その後は、歯磨きに20分くらいかけて口を洗浄し、あとは掃除や花に水をやるなどの雑用をして、やおらヨガの体制に入ります。まずは、ストレッチとマッサージを組み合わせた準備運動に1時間から2時間かけます。特にマッサージは、手と足の指を中心に入念に行います。指先というのは末梢神経と毛細血管が密集していますから、マッサージで血行をよくすることでヨガの質があがるんです。毎日これをやっているから、手はジジイの手とは思えないほど、ツヤツヤしています。足の裏も、赤ちゃんみたいにキレイです。 そこまでやって、ようやくヨガの本番。これが、3時間くらい。最後はだいたい2時間半かけて朝食を食べて、ルーティーンが終わります。そんな生活をもう、10年以上続けていますが、そのおかげで完璧な健康と、充実した毎日を送っています。 ―最後に質問です。鶴太郎さんは2023年12月で69歳になります。70代を目前にした今、心のなかにまだ芽生えていないシードは、あると思いますか? こればかりは、今の自分にはわかりません。ボクシング、絵、ヨガ、この3つはどれも自分の意思で始めたことですけど、「向こうからやってくる」というパターンもあるからです。例えば、2022年のNHK朝ドラ『ちむどんどん』に出演したときのことです。三線を演奏するシーンがあって、しかも、テンポの速い「唐船(とうしん)ドーイ」という曲を弾かなければならなかったんです。楽器をやったことなど一度もない、60代の私に対する要求としては、ムチャぶりに近いんですが、「やってみよう」と取り組みました。例によって、反復練習で何とか弾けるレベルまで修得しましたが、そこまでやって辞めるのはもったいないと思って、今も弾き続けています。 ―60代になっても、まだ新しいことに挑戦できるんですね。 私はそう思っています。始めるのにもう遅い、なんて年齢はないんだと。まったく弾けなかった曲ができるようになったときの喜びには、他では得られない喜びです。くじけそうになったときや、ちょっとは弾けてうれしかったときなど、それまで積み重ねてきた感情がイッキに歓喜に変わるんです。だから、ちょっとくらいムチャぶりだと思っても、「やってみよう」と挑戦することは大事なことだと思うんです。もちろん、ちょっと試してみて、「やっぱり合わなかった」と思えばやめてもいい。人生100年時代と言われている今、そんな試行錯誤をする時間の余裕は、たっぷりあるのではないでしょうか。 撮影/八木虎造
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『還暦後の40年』─「アラフィフからアラカンに向かう、迷える世代」に効く1冊

50歳前後の人を指して、「アラフィフ」という言葉がある。おそらくだが、最初に「アラサー」というのを女性雑誌あたりが最初に作って、続いて「アラフォー」となって、そこからさらに月日が経って「アラフィフ」の登場、ということになったのだろう。 で、60歳前後の人はどうなるかというと、還暦の前1字をとって「アラカン」と呼ぶのだそうだ。今年の秋で57歳になろうとしている私は、もはやこちらに属する人間になったのだなと思うと、複雑な思いがする。 そんなモヤモヤした気分で書店を訪ね、手に取ったのがこの一冊。著者の長澤光太郎氏をはじめとする三菱総合研究所のメンバーが、「さまざまなデータを読み込んで未来を予測する」という日ごろおこなっているスキルを駆使し、アラカンの人たちのこれからを読み解こうとする野心的な書である。 データで読み解く、ほんとうの「これから」では何か?その興味深いテーマをレビューしていこう。 『還暦後の40年 データで読み解く、ほんとうの「これから」』 著者:長澤光太郎ほか 発行:平凡社 定価:1600円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 私たち日本人は、「平均寿命」よりもずっと長く生きる それまで抱いていた常識や考え方について、誰かに「それは間違っている」と指摘されるのは、あまり愉快な体験ではないかもしれない。だが、こと読書に関して言えば、それは当てはまらない。自分がずっと間違った常識や考え方を持っていたことに気づかせてくれる本は、間違いなく良書である。 その意味で本書は、必読の良書と言えるのではないか。例えば、この本で否定される説は、次のようなものである。 人はたいてい、平均寿命くらい生きる 健康寿命は、平均寿命よりもかなり短い 健康寿命を過ぎたら、寝たきりの生活がまっている 年をとると2人に1人はがんになる 高齢者の4人に1人は認知症になる どれも、アラカンを意識し始めた人にとっては、耳にタコができるほど聞かされている話だろうが、信頼のおけるデータと照らし合わせながら、これらの常識を一つひとつ粉砕していく。 初っ端から驚かされたのは、「平均寿命」というものの定義である。 「人はたいてい、平均寿命くらい生きる」は間違っている!? 2022年に厚生労働省が発表した日本人の平均寿命は、男性81.47歳、女性87.57歳。1987年代中ごろまで、平均寿命の長い国はスイスやスウェーデンなどの欧州諸国だったが、2000年代初頭までの十数年間、日本人が男女ともに平均寿命世界一の国になった。 男性81.47歳というのは1位のスイスに次いで2位であり、女性87.57歳は2位の韓国をしのいで世界一である。日本人の平均寿命は依然、世界から見て長いということになる。 と、ここまでは知識として何となく知っていた。だが、この数字に引っ張られて「日本人はたいてい平均寿命までは生きるのだな」と認識していたのは間違いだということが、本書を読んで初めてわかった。 というのも、平均寿命というのは、国全体で一つの値を求めたもので、国別の比較には使えるが、国という集団のなかで自分がどの位置にいるのかを知ろうとする場合、あまり役に立たないというのだ。 もし、自分の位置を知りたければ、中央値を見るべきなのだという。中央値は、集団のなかのまん中の順位を示す指標で、年齢別死亡者数の場合、100人の人が順々に亡くなっていくとして、50人目、あるいは51人目の人が亡くなる年齢を意味する。 2020年の国勢調査に基づく生命表によれば、日本人の寿命の中央値は、男性84歳、女性90歳になるという。 つまり、平均寿命と中央値の年齢を比べてみると、男性は2.5歳、女性は2.1歳だけ長く生きているということになる。 さらに年を追うごとに「日本人の長寿化」が進んでいることを考慮に入れると、1960年生まれの日本人は男性が86~89歳、女性は92~96歳となり、男女とも半数以上が90歳に到達する可能性が高いのだという。 この数字の開きを目にしてみると、「人はたいてい、平均寿命(男性81.47歳、女性87.57歳)くらい生きる」という認識が間違っていたことがよくわかるのである。 「健康寿命」に騙されない、「自立寿命」という新たな提案 WHO(世界保健機関)が2000年以降に提唱している「健康寿命」についても、自分が間違った認識を持っていたことが判明した。 WHOの定義によると、「健康寿命」とは「『完全な健康状態』で生活することが期待できる平均年数」で、世界180余国のデータと比較した2021年版のランキングによると日本人の健康寿命は世界一で、男性72.6歳、女性75.5歳となっている。 ただ、この「健康寿命」という概念、先に述べた「平均寿命」と関連づけて、ネガティブに語られる材料になることが多い。 つまり、2022年の日本人の「平均寿命」は男性81.47歳、女性87.57歳だから、「健康寿命」の年齢を差し引くと、男性は8.9年、女性は11.4年も健康を失った期間が長いということになる。 だが、この「健康寿命を過ぎたら、寝たきりの生活がまっている」という説にも本書は疑義を投げかける。 そもそもWHOが定義する「完全な健康状態」は、非常に厳しい定義だというのである。 日本政府もこの定義をふまえて、「日常生活に制限のない期間」として健康寿命の計算をしているそうだが、それには日常生活の動作だけでなく、運動や外出、仕事、家事、学業などへの影響も含まれている。 年をとれば、肩やヒザが痛くなってゴルフに行く回数が減ったとか、細かい文字が見えにくくて新聞が読みづらくなった、なんてことは誰にもあることだが、それひとつで「日常生活に制限あり」と答えてしまった場合、それが健康寿命の計算に反映されていくのだ。 平均寿命と健康寿命との差が、10年からなかなか縮まらない理由はそこにあると、本書は指摘する。それと同時に、本書が薦めているのは、「自立寿命」なる新たな指標をもとに考えるという提案だ。 新たに指標とすべき「自立寿命」とは? 「自立寿命」とは、介護保険法で定める要支援、要介護の区分において、「他人の世話にならずに生活できる人」の基準を「要介護2」まで。もしくは要介護認定を受けていない人と定義し直して計算するわけだ。 イメージとしては、「歩行に不自由は感じているけれど、杖をつけば歩ける」というような状態だ。 こうして定義した「自立寿命」は、男性が80代前半、女性が80代後半まで延びるので、自立できなくなって(要介護3になって)から亡くなるまでの平均的な期間は、男性1.5年、女性3.3年となる。 つまり、普通の人が年をとって他人のお世話にならざるを得ないのは、亡くなる1~3年に過ぎないのだ。 「健康寿命を過ぎたら、寝たきりの生活がまっている」というのは、いささか悲観的に過ぎる見解だと思えてくる。 というわけで、本書を読んでみると、「人生100年時代」にまつわるネガティブな言説が、ことごとくポジティブなものに変わっていくのを体験できるのだ。 政府だか、メディアだか知らないが、誰かが恐怖をあおるために高齢化社会の負の側面を強調し過ぎている風潮が今の世の中にはあるような気がする。 そんなふうに感じている人は是非、本書を手にとってみてほしい。
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『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』─「大スターから学ぶ老いの美学」に効く1冊

『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』(文藝春秋)は、1970年代から80年代にかけて日本を席巻した大スター、沢田研二を描いた渾身の評伝である。 評伝というと、糸井重里が矢沢永吉によるロングインタビューをまとめた『成りあがり』(現角川文庫)のような本を思い浮かべる人も多いかもしれないが、それとは別に本人へのインタビューではなく、周辺の人物への取材をもとに構成した評伝にも名作はたくさんある。 本作は後者にあたる評伝で、バンドメンバー、マネージャー、プロデューサーなど、69人もの証言と当時の文献をもとに構成された力作だ。 ジュリーという大スターの存在を通じて、彼を生んだ「昭和」という時代の空気を思い出してみようではないか。 『ジュリーがいた 沢田研二、56年の光芒』 著者:島崎今日子 発行:文藝春秋 定価:1800円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ ドタキャン騒動でメディアに再登場したジュリーの素顔とは? 2018年の暮れ、久しくテレビに顔を出していなかったジュリーこと、沢田研二の名が衝撃をもってクローズアップされた事件を覚えている人は、まだ多いだろう。 同年10月17日のさいたまスーパーアリーナ公演を開演30分前で突如中止し、渦中の人となった沢田は、自宅近くの公園で報道陣に対し、「事前の説明では集客数が9000人と聞いていたが、実際は7000人だった」と中止の理由を説明し、「客席がスカスカの状態でやるのは酷なこと。『ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』といつも(事務所やイベンターに)言ってる。僕にも意地がある」と語った。 当時70歳という年齢を差しおいても、無造作に伸ばしたかに見える白髪に白髭、そして蝶ネクタイとジャケットの下に隠された、ふっくらした体型は、和製カーネル・サンダースを彷彿とさせる風貌で、かつての大スターの面影は感じられなかった。 実際、全盛期ほど新曲が売れなくなった1990年代以降、沢田は「ナツメロ歌手になりたくない」という理由で音楽番組にも過去の映像を放映する許可を与えなかったり、「昔のように若々しく派手にといわれるのがイヤ」と発言して、過去のカバー曲制作を拒んだりしていたという。 その話を聞いて、なるほど、年をとってもジュリーはジュリー、いまだに大スターのプライドを捨てていないんだなと感心させられたものだ(ちなみに沢田は5年後の2023年6月25日、因縁のさいたまスーパーアリーナで開催された『まだまだ一生懸命』公演でチケット1万9000枚を完売して汚名を返上し、ますます感心させられたものだ)。 「沢田研二とならば一緒に死んでもいい」と思わせる理由 本書によると、沢田は60歳で車の運転をやめ、70歳を過ぎてからは20年続けたトークショーに区切りをつけ、主要な活動をシングル制作とツアーに絞るようになったそうだが、そうした“高齢者”になってからの記述は終盤の数ページに過ぎず、その大部分は「彼はいかにして大スターになったのか?」ということに割かれている。 本書の冒頭で紹介されるのは、そんな沢田に惚れ込んだアーティストたちの証言だ。 まずは、テレビプロデューサー、演出家として1975年のTBSドラマ『悪魔のようなあいつ』で沢田を三億円事件の犯人役として主演させた久世光彦は、ある雑誌にこう語っているという。 「とにかく色っぽいんだよ。どんな女優をもってきても沢田のほうが色っぽい」「目の色変わってるって言われるけれど、実際ドキドキして(演出を)やってるからね。もう、最高の至福の状態になれるわけ」「オレは沢田研二とならばいつでも一緒に死んでもいい、と思っているわけよ」 また、日本のロック界の首領(ドン)として知られた内田裕也も、自著『俺は最低な奴さ』で沢田をこう評している。 「沢田は偉いやつだよ。『戦場のメリークリスマス』ね、あいつ断ったんだよ。あのときのデヴィッド・ボウイと沢田研二って、あれ以外ないキャスティングなのよ、わかんだろ。両方ともキラキラして、キラキラ星だよ、わかる? あの当時、沢田はいまのキムタクの十倍くらい人気あるんだからね」 出典:「俺は最低な奴さ」(白夜書房)より抜粋 同じグループサウンズで注目を浴びてスターとなったという点で、沢田と並べて語られることの多かった萩原健一も自著『ショーケン』で次のように語っている。 「PYGをやっていて、改めて気づかされたことがひとつあります。歌に関しては、ぼくは沢田研二と張り合えない、ということ」「『歌が命だ』沢田研二は、はっきりそう言った。ぼくのように決して自ら主張せず、誰かが創作した歌を与えられ、それを誠実に歌う。プロデューサーがつくりあげたイメージを存分に表現してみせる」「おれは違う。自分のイメージは自分でつくって、たとえ与えられた歌でも歌いたいように歌いたい。自分は創作家であって、創作をしたかった」 出典:「ショーケン」(講談社)より抜粋 PYGとは、沢田がザ・タイガース、萩原がザ・テンプターズ解散後に参加したバンドのことだが、ここで沢田の歌の才能の差を痛感した萩原は、俳優の道を模索していくことになる。 本書を読んで初めて知ったが、萩原がマカロニ刑事に扮して出世作となった日本テレビドラマ『太陽にほえろ!』は当初、沢田に出演オファーがあったものの、彼はコンサートの予定がぎっしり入っていて受けられず、その替わりとして萩原が起用されたのだという。 「見世物」を自認していたトリックスター ところで、内田裕也の証言にある、「戦場のメリークリスマス」の出演オファーを沢田が断ったのは、「1年前から決まっているライブを映画のためにとりやめると、500人のスタッフが生活に困る。撮影スケジュールを変えてくれないか」という提案を、大島渚監督が一蹴したからだった。 また、萩原健一が指摘しているように、沢田がスターになれたのは優れた楽曲提供者がいて、優れたプロデューサーが絵に描いたイメージを沢田が誠実に表現したことが大きい。沢田は決して自分ひとりの力でのし上がったスターではなかった。 ザ・ワイルドワンズで「想い出の渚」をヒットさせたミュージシャンの加瀬邦彦は、沢田がソロデビューした1971年から13年間にわたって音楽プロデューサーをつとめ、楽曲提供だけでなく、つねに生活をともにして健康管理にも口を出すほど沢田に入れあげていたという。なかでも、食事の管理は、重要な仕事だったようだ。 「僕がプロデュースをやっている間は絶対太らせなかった。二人でヨーロッパに行った時も、俺も付き合うからって一人前頼んで二人で半分ずつ食べてた。僕だけ食べて、あいつに食べるなって言うのも可哀想だもん」「だから僕がプロデュースをやめた後、太ったの。酒も食べることも好きだからね。それまで太りやすい体質でずっといろんなことを我慢していたから、僕は『もういいんじゃない。一時代築いたし、太って声が出て歌はどんどんうまくなってきてる。太ったから嫌だとか、ファンやめるとか、それはそれでいいじゃない。これからはルックスより歌で勝負すればいいじゃないか』って言ってたの」 ルックスと言えば、ソロデビュー後の沢田の衣裳デザインをはじめ、レコードジャケットのアートディレクションを担当した早川テツジの功績について、著者の島崎今日子は「(沢田研二の歴史は)早川登場以前と以降で区切っていいかもしれない」と最大限の評価をしている。 「愛の嵐」のシャーロット・ランプリングをイメージした衣裳の「憎みきれないろくでなし」、腕章のハーケンクロイツが問題となりリニューアルした、革の軍服と素肌につけたビーズの入れ墨の「サムライ」、ジーン・ケリーのような水兵服の「ダーリング」、黒の革のコートを着て血のついた帯を巻いて雨に濡れながら歌った「LOVE(抱きしめたい)」、唇を真っ赤に塗ったメイクでディートリッヒ風の白い船長の制服を着た「OH!ギャル」。テレビ局のプロデューサーに「口紅の色が……」と難色を示され、レコード会社から「化粧しなければもう十万枚伸びたのに」と言われても、沢田は動じなかった。 と、沢田自身も早川の才能を信頼しきっていた様子がうかがわれる。 その極めつけが1980年の「TOKIO」における、電飾のついたミリタリースーツに赤と白のパラシュートを背負った奇抜なコスチュームだろう。 これが逆に沢田のバックバンドを長年つとめた本格音楽志向の井上堯之バンド(ショーケン主演の「太陽にほえろ!」、「傷だらけの天使」の音楽を担当したことでも有名)の離脱を招く原因になってしまうのだが、沢田はそれについて、デビュー25周年のテレビ番組で「僕は見世物でいいってやりだしたわけです」と、自嘲ぎみに説明している。 「僕にも意地がある」発言の真意は? この本を読んで、心動かされたのは、沢田自身がスターとして「売れる」ことについて、実に真面目に取り組んでいたという点である。 1977年5月に発売された「勝手にしやがれ」はその年の大晦日、沢田に初のレコード大賞をもたらしたが、受賞後、マネージャーをつとめていた森本精人が紅白歌合戦の会場であるNHKホールに向かう車中、「おめでとうございます」と祝意を口にすると、沢田は「喜ぶなっ。来年の大晦日にまた喜べるかが問題やろ」と怒られたという。 「ジュリーはそれぐらい自分に厳しい人なんです。実は、オリコン1位を続けていた『勝手にしやがれ』が一度二位に落ちたことがありました。どうしても言いにくくて報告しなかったら、『なんで正直に言わないんや。悪いことも報告してくれ』と、怒られています。僕も意地がありますから紅白に出演している間に策を練り、終わってから『来年は1年365日歌いましょう』と言いました。ジュリーも『よっしゃっ!!』って」 そんな沢田研二も人気のピークを過ぎれば、あとは世間から緩やかに忘れられていく流れには抗しきれない。 前述のデビュー25周年のテレビ番組(NHK-BS2の5日間計25時間の特集番組「沢田研二スペシャル・美しき偶像」)では「見世物でいい」発言に加えて、こんなことも言っている。 「やっぱり自分のいる場所はテレビの中ではなくなってきましたね」「今求められるとしたら『昔の歌を歌ってください』で、それと交換条件に今の歌を歌うみたいな、そういうのは出たくないし。今回のこのプロジェクトにしたって、ほとんどが昔の話になるわけでしょ」 デビュー25周年といえば、沢田は43歳。そこから1990年代の「ナツメロ歌手にはなりたくない」発言や、70歳のさいたまスーパーアリーナのドタキャン公演での「僕にも意地がある」発言までの長い、長い時間を彼がどうやって過ごしてきたのか? そのことについて、本書はあまりくわしく語らない。ジュリーファンにとって、そのことを言語化するのは野暮なことだと言わんばかりに。 でも、野暮は承知で行間を読みたくなる。そして、大スターとて残酷にも年齢を重ねていかねばならないのだという厳しい現実について考えざるを得ない。 その意味で本書は、忘れていた昭和から平成にかけての記憶を呼び覚ますとともに、人生における「老い」というものに深く考えさせられた本だった。
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【評論家・勝間和代】人生100年の新時代にふさわしい生き方アップデート術

少子化問題、若者の雇用問題、ワークライフバランスなど、社会をよりよくするための提言活動をはじめ、ITやテクノロジーを駆使したライフハック術の伝道者として活躍している勝間和代さん。 2023年3月に上梓した『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』(KADOKAWA)では、「人生100歳時代」に対応した、右肩上がりの人生戦略を提案している。 そこで今回は、「勝間和代はいかにして勝間和代になったのか?」というテーマを足掛かりにして、今後の新しい時代をしなやかに生き抜く方法について、じっくり話をうかがった。 不確実性に満ちた現代の迷い子たちの目を覚ます、渾身のインタビューだ! 『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』 著者:勝間和代 発行:KADOKAWA 定価:1550円(税別) 公認会計士資格は、志望したなかでいちばんコスパのいい資格だった ―勝間さんは少女時代、どんな子だったんですか? 普通におとなしい子だったと思いますよ。折り紙とかお絵かきとか読書をするのが好きで、ゲームも人並みにやってました。 両親を含め、親族も製造業などの堅い仕事に就いていましたから、一攫千金を狙うような大それた夢を抱くでもなく、自分も周囲と同じような堅実な仕事に就くのだなと漠然と考えていました。 ―当時、最年少の19歳で国家資格である公認会計士試験の第一次、および第二次に合格して会計士補の資格を得たのは、そのことに関係があるんですか? 会計士のほかにイメージしていたのは、医師、教師、弁護士の3つ。そのなかで会計士を選んだのは、勉強時間、合格率、合格後の収入の確保のしやすさといった点でいちばんコストパフォーマンスのいい資格だと思ったからです。 医師と教師は、コスパで言えば対極にあるものですよね。資格取得のコストは医師が重く、教師は軽い。でも、医師の仕事は基本的にハードワークだし、教師はやり甲斐はあるけど低賃金で働かなくてはならないイメージがありました。弁護士については、最難関と言われる司法試験に挑むほどのモチベーションがなかったというのが正直なところです。 その一方、公認会計士の資格試験については、数学のスキルに関する問題が多かったので、私には向いている資格だと思いました。簿記や原価計算など、企業財務に関する理解力を問う問題は、数学が得意だった私にはさほどの苦もなく解けてしまうんですよ。私のまわりの理系の人でも、公認会計士の試験に合格している人はけっこう多かった印象があります。 日本企業に就職するつもりはなく、外資系一択でした ―その後、勝間さんは大学在学中に結婚して、なおかつ、お子さんを出産されています。そのころの大学生にとって「ワーキングマザーである」という状況は、就職するうえでかなり不利に働いたと思いますが、どうでしたか? 日本の企業で働こうと思ったら、おそらくそうなっていたでしょうね。だけど私は会計士の資格を持っていたのでその選択肢はなく、外資系企業に就職することだけを考えて、ゼミの教授が推薦してくれた会社に就職しました。 外資系企業というと、今では多くの学生が就職を希望しますが、当時は日本に進出して間もないころで規模も小さく、日本の一流企業に就職できない、二流以下の学生の就職先と見られていました。 でも、そのおかげで、新人にも責任のある仕事をまかせてくれるので、いい経験を積むことができました。能力が認められればスキルアップも容易だったし、ワーキングマザーへの待遇も寛容でした。「子どもが熱を出したので早退させてください」なんて、日本企業で正社員として働くなら、間違っても言えない空気があったと思いますが、外資系企業では、ごく当然のことのように認めてくれましたからね。 ―外資系企業で働くには、英語のスキルが必須だったと思うんですが、どうだったんですか? 私は中学から附属校に通っていたので、大学受験を経験していないんです。おかげで学生時代のTOEICの点数は、当時の大学生の平均点より少しだけ上の420点でした。さすがにこれでは働く上で支障が出るだろうと、1年半くらい、真面目に勉強して900点くらい取れるようになりました。実際、仕事の上で本格的に英語を使うようになるのは、3回におよぶ転職のなかで経営コンサルタントや証券アナリストなど、顧客と接する機会を得てからのことですけどね。 今はどうかわかりませんが、スキルを磨くための教材や研修費用など、外資系企業は気前よく負担してくれましたので、私自身はお金をほとんどかけずにいろいろな勉強をすることができました。 ―勝間さんの社会人としてのすべり出しは、非常にコスパのよい、順調なものだったんですね。 ええ、そうですね。そうかもしれません。 少数派だったワーキングマザー仲間には多くのものを学んだ ―勝間さんは1997年、ワーキングマザー向けウェブサイト「ムギ畑」を設立し、子育てしながら働く女性を支援する活動をはじめます。どんなきっかけがあったんですか? これも今の人には信じられないことかもしれませんが、インターネットが普及する前、パソコンを通じてテキスト情報を共有する「パソコン通信」というサービスがありまして、私はそこで、子育てしながら働く女性の掲示板に参加していたんです。 仕事で出張するとき、子ども預けるのに安心なベビーシッターさんの情報とか、転職先選びの情報などを交換したりして、今でいうSNSのような交流をしていたんです。 すると、いつしか専用の掲示板が欲しいという話になりました。パソコン通信というのは、電話回線を使って「1分10円」くらいの利用料でアクセスしていたんですが、それより費用をかけずに集まれる場が欲しい、と。そこで、プログラムを書くスキルのあった私が運営者を引き受けることになったんですね。 当初、会員は2~30人くらいでしたが、2019年に役目を終えてサイトを閉鎖したときの会員数は4500人を超えていました。 ―男女雇用機会均等法が改正されて、雇用や昇進などに男女差をつけることが禁止されたのが1999年のこと。当時はワーキングマザーの人数も少なかったでしょうから、とても貴重な交流の場だったんですね。 ええ、「ムギ畑」の初期のメンバーは私より年上の方が多く、教えられることが多かったですね。 例えば、旦那さんと死別されて、4人の子育てをしている方がいて、「旦那の生命保険の保険金がおりたので、アメリカに移住して留学する」という話を聞いたときは「すごいなぁ」と感心しました。 「私も3人の子どもがいるけど、日本の大学院なら通えるかも」と触発されて、早稲田大学大学院に通ってファイナンス研究科を修了しました。あのママさんとの出会いがなければ、大学院に挑戦することはなかったと思います。 初期のメンバーには、今では名だたる企業の社外取締役をされていたり、評論家やアドバイザーとしてメディアに出ている方など、パワフルで有能な女性がたくさんいて、いろいろな面で影響を受けましたね。 1日の労働時間は、8時間制から6時間制に移行できる ―勝間さんは、政府に請われてワーク・ライフ・バランスなどの政策決定のアドバイザーをつとめられています。ワーキングマザーの待遇改善は2000年以降、ずいぶん進んだと思いますが、勝間さんはどう評価していますか? 確かに改善した点は多々ありますが、まだまだ改善しきっていないなというのが正直な印象です。特に、企業で働く人たちの長時間労働には、改善の余地がたくさん残されていると思います。私は、人間らしい生活を送るには「1日の労働時間は通勤時間を合わせて6時間」だと思っているんですが、世間には相変わらず「8時間労働、残業アリ」の企業が多いですよね。 ―でも、「1日6時間」というのは、短すぎませんか? そんなことはないですよ。現にフィンランドやノルウェーなどの国では、すでに1日6時間制が根づいています。 スマートフォンやリモートツールなどを駆使して能率をあげれば、1日6時間でも今の生産性を充分維持することができると思います。 ある研究によると、顧客や市場のニーズを満たし、社会の価値につながる仕事をするのに必要な労働時間は、週に12~15時間だということがわかっています。もし、それが本当なら、1日8時間で週40時間働いている人は、その半分以上の時間を無駄に過ごしていることになります。 長年、培ってきた文化を人は容易に捨てられない ―長時間労働は、少子化の原因のひとつとも言われていますね。 その通りです。政府は少子化対策として、子育て世帯に給付金を支給したりしていますが、的外れな政策だと思いますね。少子化は、お金の問題ではなくて、時間の問題なんです。 もうひとつ、私が少子化の原因だと思うのは、子どもと親を分離して考えない、日本をはじめとする東アジア特有の考え方です。 ―子どもと親を分離して考えない、とはどういうことですか? 本来、親が子どもに対して負っている扶養義務は、成人するまで衣食住の保証をすることで、子どもが社会人になれるほど成長したあとは、子育ての責任から解放されてしかるべきなんです。 でも、子どもが不祥事を起こしたりすると、親も一緒に謝罪するのが日本社会なんです。つい最近も、首相がメディアの前で謝罪している場面がありましたよね? ただこれは、日本の文化である家父長制が根っこにあるからで、一概にいいとか悪いとか言えないことでもあります。 ―時代は変化しているのに、人々がその変化に合わせて考え方を変えられないのはなぜでしょう? 家父長制にメリットを感じている人も多くいるので、なかなか捨てられないということがあるのでしょう。 ただ、私は今の日本の未来について、あまり悲観していません。2022年に入って、海外の物価があがって日本は円安になっています。バブル崩壊後の「失われた20年」の最大の原因は円高でしたので、この状態が続けば出生率は上がっていくと思っています。 雇用が拡大して賃金があがるということが大きなポイントで、これがうまく進めば少子化に歯止めをかける有力な材料のひとつになると思います。 投資は予測ではなく、時間を味方にして儲ける ―さて、勝間さんの近著『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』(KADOKAWA)について、お話をうかがいましょう。これまで見てきた通り、時代の変化に合わせて従来の生き方、考え方を捨てて、人生100歳時代に向けてアップデートするのはむずかしいことだと思いますが、その際に何が大事だと思いますか? 人はお金や仕事に困っていたり、人間関係のトラブルや健康不安などを抱えているとき、ひとつの答えや解決策を求めてしまう傾向があります。怪しげな人の口車に乗せられて騙されてしまうのは、そういうときです。新型コロナウィルスのパンデミックを前にして、全世界の多くの人たちがそういう状態に陥りましたよね。 そうならないためには、物事の多くは簡単に答えが出るわけではなくて、世界は抽象的なものだと認識することが大切です。こうした不確実性を受け入れる能力を「ネガティブ・ケイパビリティ」といいます。 ―物事をポジティブな面だけでなく、ネガティブな面からも見ることが大事ということですね。勝間さんというと、ポジティブ志向な人というイメージがありますので、なんだか意外に感じます。 私は以前から、ポジティブ志向は好きではないんですよ。 世の中の出来事にはいい面と悪い面があって、もし悪い局面に出来事が傾いたとき、いかに対処するかを2案、3案とあらかじめ考えておく必要があります。 お金についても、私は長年一貫して、収入の2割で毎月、投資信託を購入し続ける「ドルコスト平均法」という中長期運用を推奨していますが、これも一緒の「ネガティブ・ケイパビリティ」です。 収入の2割は黙っていても溜まっていきますから、購入期間が長ければ長いほど、「転ばぬ先の杖」としての効果は高くなります。 ―銀行預金ではなく、投資信託の積み立てにあてるというのがミソですね。 そうです。仮に月々5万円を積み立てるとして、銀行預金なら1年で60万円、10年で600万円にしかなりませんが、ドルコスト平均法による運用なら10年で1200万円になります。さらに言うと、20年で4倍、30年で8倍と、複利式に増えていくんです。実際、私も30代なかばくらいから始めた積み立てが、50代なかばの現在、ちゃんと4倍になっています。このように、時間を味方につければ、株に手を出したことのない一般人でも、容易にお金を殖やすことができます。 ―個別株を購入して儲けようとする必要は、ないんですか? 素人が相場を読もうとしてはいけません。なぜなら、相場は読めないからです。 そのことは、株式アナリストとして働いていた私の経験からも言えることです。個別株に投資するというのは、宝くじやパチンコなどのギャンブルよりはマシだけど、お金をドブに捨てるような行為に等しいと思ったほうがいいです。 「それでもやりたい」というのであれば、趣味の範囲で投資をするのがいいですね。もちろん、積み立て分の収入の2割に手をつけるというのは、絶対にやってはいけません。 ―となると、デイトレードのような短期売買についても、同様のことが言えますか? もちろん、デイトレードで数億円単位を儲けている人を私は知っていますが、1日中、パソコンに張りついていなければ儲けを挙げられません。言ってしまえば、パチプロのようなもの。人生には、もっと有効な時間の使い方があるんじゃないかと思いますね。 友だち付き合いは、最高の娯楽。資産として大事にすべき ―人生100年時代に向けて、「お金」以外に大事なものはなんですか? 私は「コミュニティ」、すなわち友だち付き合いだと思います。私が特にお薦めしたいのが、自分より年下の友だちをつくることです。 理由は、ふたつあります。ひとつは、新しい情報とか、新しいアイデアというのは若い人が持っているということ。年をとると、自分でも気がつかないうちに考え方が保守的になっていき、新しい時代に柔軟に対応するのがむずかしくなりますよね。 ―もうひとつは… 年上や同年配の友だちは、いずれ人数が減っていくということ。寿命が長くなったからといって、高齢者から亡くなっていくのが常ですから、友だちがたくさんいてもメンバーが高齢者ばかりなら、そのサークルは縮小均衡に陥っていきます。 私は、友だち付き合いは最高の娯楽だと思っています。なぜかというと、友だちには利害関係がないから。仕事の付き合いにはお金がからんできますし、夫婦や親子関係などのつながりにも縁を切らないことを前提とする縛りがあるので意外と利害関係にあるものです。 それに比べて友だち付き合いは、そうした利害とは無縁なので気楽です。つかず離れずのほどよい距離感で20年、30年でも仲良くしていられるから、最高の娯楽になるんです。 ―そのような友だちをつくるには、どんな手段がありますか? 趣味を足掛かりにすると、手っとり早いですね。私の場合、ゴルフや麻雀、ゲームに自転車など、大好きな趣味をするなかで交友関係を広げています。 利害関係がないのが友だちの良いところですから、お金の貸し借りと、仕事の紹介はしないほうがいいですね。 こうした友だちとの関係は、お金で買うことができませんので、自らいろいろなところへ顔を出してコツコツと人脈を築いていくしかありません。人生100歳時代において友だちは、必要不可欠の財産だと言ってもいいでしょう。 何が何でも「健康ファースト」。健康はお金で買えない ―お金で買えないもの、という意味では「健康」にも同じことが言えそうですね。 その通りです。高齢者になったとき、お金はたくさんあるけど健康じゃない人と、お金は普通にあるけどめちゃくちゃ健康な人のどちらが幸せかと言えば、間違いなく後者ですよね。健康は、日々の積み重ねの賜物ですから、運動と食事、睡眠の質を高める努力が欠かせません。それに加えて、自分なりの健康阻害リスクを把握しておくのも大事なことです。例えば私の場合、50歳を超えてから「痩せない」ことを意識するようになりました。女性は男性に比べて骨粗鬆症になるリスクが高く、そのほかにも自己免疫疾患やがんのリスクにも気を遣う必要があります。そのためにも、ポピュラー・サイエンス本などを読んで最新の医学の知識を仕入れています。なかには怪しい本もありますが、100冊以上も読めば、そこに書いてあることを信じていいかどうかを判断できる批評眼が養われてくるものです。 ―健康を維持するには、「続けること」が重要だと思いますが、つい3日坊主になってしまう人も多いと思います。何か工夫はありませんか? 健康に気をつけることを習慣化するのがいちばんですね。 その意味で私は、スポーツジムについては懐疑派なんです。「続ける」というのは厳密に言うと「死ぬまで続ける」ということですから、ジムで筋トレしたり、身体を鍛えたりすることは、その範疇に入りません。 フェイスリフトなどの美容整形も、それと同じこと。頬のたるみやシワを取ることは「健康」には結びつかないことなので、興味がないんです。 ―健康維持には、「頑張り過ぎない」というのが大事なようですね。 そうですね。「健康」というのは、どれだけ頑張っても死に近づくにつれて少しずつ目減りしていくものなので、その目減りのペースを遅くしていくしかないんです。 テクノロジーの手を借りるというのも、ひとつの手段として有効です。私はスマートウォッチを使って日々の睡眠時間や睡眠の質を計っていますが、アプリには睡眠中の呼吸や身体の動きを検知してくれたり、いびきを録音して睡眠時無呼吸症の有無を確認できるものもあるので、いろいろ試してみるといいですね。 とにかく「健康」は、国が保障してくれるわけでも、医師が提供してくれるものでもありません。一緒に暮らしている家族だって、できることには限界があります。つまり、「健康」を維持するために何かをできるのは自分だけですから、これも貴重な財産だと思って大事にすべきだと思います。 金銭的報酬と精神的報酬のベストバランスを考えよう ―「働き方」についても、人生100年時代に向けたアップデートが必要そうですね。 人生80年が一般的だった時代は「20年学んで、40年働き、20年休む」というのが人生のモデルケースでした。でも、人生100年時代には「20年休む」が「40年休む」になるんです。 そうなると、貯金が充分にあって、年金だけで楽に生活していけるとしても、単に「安心な暮らし」を意味するのではなく、「膨大なヒマをいかに過ごすか」という難題に立ち向かわねばならない状態ということになります。 ですから、「40年働く」を念頭に、気力・体力が許す範囲でできるだけ長く伸ばしていくことをお薦めします。 ―悠々自適な生活というのは、簡単に実践できるものではないんですね…。 仕事を辞めると、認知機能が低下するスピードが速まって、物覚えが悪くなったり、怒りっぽくなると言われています。その意味では、仕事は最高の脳トレであり、アンチエイジングなんです。 これは趣味についても同じことが言えますが、80歳、90歳になっても続けられそうな仕事は何だろうと、考えながら働くことをお薦めします。 ―80歳、90歳になっても続けられる仕事というと、どんなものがあると思いますか? コロナ禍以降、在宅ワークがすっかり定着しましたが、自宅でできる仕事は年をとっても続けやすいでしょう。 ただ、1日中、誰ともコミュニケーションをとらない仕事は、あまりお薦めできません。人と話すという行為は、声を出すことと一緒に呼吸を深くすることにもつながりますので体力維持に役立ちます。表情筋のトレーニングにもなるので、顔のたるみやシワの予防にもなります。 あと、大事なのは自分が働くことで誰かを喜ばすことができるということを実感できる仕事を選ぶということ。 私は報酬には、「金銭的報酬」だけでなくて「精神的報酬」という面があって、自分にとってのベストバランスがあると考えています。 精神的報酬とは、自分が社会のためになるモノやサービスを提供して、利用するお客さんに喜ばれたり、やり甲斐を実感するようなこと。金銭的報酬がそれほど多くない仕事でも、精神的報酬が充分に得られる仕事なら、続けるモチベーションにつながります。 一方、金銭的報酬がいくら高くても、精神的報酬が低ければストレスが溜まりやすく、長く続けていける仕事にはならないのです。ちなみに、私は会社員時代はずっと金融業界で働いてきましたが、ここでの仕事は「金銭的報酬は多いけど、精神的報酬は少ない仕事」の典型だと思います。 ―「好きなことを仕事にする」というのが実現できれば、理想的なんでしょうね。 おっしゃる通りですね。「ワーケーション」という言葉がありますよね。ワークとバケーションを組み合わせた造語で、バケーションを楽しみながら同時に仕事をするという意味です。 「仕事」と「遊び」は別物で、一緒にすべきではないと考える人もいるかもしれませんが、2つを融合させてどっちも楽しめる環境を作るのは不可能ではないと私は思っています。 例えば、私が好きなのが「温泉ワーケーション」です。大好きな温泉に入ったあと、リモートで取材を受けたり、執筆などの仕事をして、ちょっと疲れたらまた温泉に入る、ということを繰り返すんです。温泉地では滞在時間がある程度長くなると、ヒマを持て余しぎみになりますが、仕事がうまい具合にスパイスになって両方を楽しめるようになるんです。 「明日死んでも後悔しない生き方」こそが最大の準備 ―勝間さんは15年後には70歳に、25年後には80歳になります。どんな生活を送っていると思いますか? 不確実性の時代ですから、15年後、25年後といったら、今では想像もつかない世の中になっているのは当然だと思います。 例えば「お金」にしても、ある時点で紙の紙幣や硬貨がなくなって、仮想空間にしか存在しないものになっているかもしれません。 私はベーシック・インカム(すべての国民や市民に一律の金額を恒久的に支給する基本生活保障制度)は、早かれ遅かれ、日本社会を維持していくために導入しなければならない制度だと思っていますが、これが実現すれば「生活保護」という言葉はなくなっているでしょうし、「仕事」という言葉の意味も、今とは大きく変わっているでしょう。 ―総務省の通信利用動向調査によると、スマートフォンの世帯保有率は10年前の2010年には9.7%に過ぎませんでしたが、2020年には86.8%になったといいます。我々はすでに10年後の未来を想像できない「一寸先は闇」の世界に生きているのですね。 本当にそうですね。ただ、いろいろなことが目まぐるしく変化していっても、それでも変わらない普遍的なものというのは存在するものだと思っています。 例えば私は、これまで生きてきた人生で得られた知見を世界に向けて発信する仕事をしています。その発信の手段は、「ムギ畑」を運用していたパソコン通信からはじまって、地上波のテレビやブログ、そして今はYouTubeやオンラインサロンなどのSNSに移っていますが、やっていることの本質は、それほど変わっていないように思います。 ふり返ってみると、書籍は2007年に出版した『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』(ディスカヴァー21)が初めてのベストセラーになって以降、ずっと続けている発信ツールです。今回の『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』が何冊目の著書なのか、もはや私本人にもわかりませんが、全著作の累計発行部数はとうに500万部を超えています。 ―勝間さんにとって、世界に向けて情報発信するということは、「好きなこと」のひとつなのでしょうか? かつて地上波のテレビによく出演していたころは、スポンサーの意向に合わせて内容を替えなければならなかったり、言いたいことが言えなかったりしてストレスを感じることがありましたが、今はそういうストレスは皆無です。言いたいことを適切なツールを選んで発信できるので、何も問題はありません。その意味で、今の仕事は「好きなこと」のひとつだと断言できますね。ある面では、「誰かがやらなければならない」という使命感のようなものが支えになっていることもありますけど、できることなら、80歳、90歳になっても、この仕事を続けていきたいですね。そのためにも「お金」や「友だち付き合い」「健康」「働き方」などについて、時代の変化に対応する柔軟な考え方を持っていたいものです。ただ、ちゃぶ台を返すようですが、未来に向けてどれだけ周到に準備をしていても、「2年後に突然死」する可能性はゼロではありません。死を前にしたとき、「ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔することのないよう、今を充実して生きるのも大事なことだと思っています。結局のところ、「明日死んでも後悔しない生き方」こそが最大の準備なのかもしれませんね。 ―興味深いお話、どうもありがとうございました!
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『冒険の書 AI時代のアンラーニング』─「イノベーションにたどり着く道しるべ」に効く1冊

ソフトバンクグループ代表の孫正義氏の弟で、実業家の孫泰蔵氏が著した『冒険の書 AI時代のアンラーニング』(日経BP社)が注目されている。 書店に行けば、飾り棚のいちばんいいところに表紙を前にして陳列されている(書店用語で「面陳(めんちん)」というらしい)のを見た人も多いだろう。 世間で話題になっていることを知るのは、書評を書く者の義務である。さっそく手にとって、学びの世界を旅してみよう。 『冒険の書 AI時代のアンラーニング』 著者:孫泰蔵 発行:日経BP社 定価:1600円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 常識を捨て、今の時代にマッチした考えを再構築する とにかく、著者のプロフィールを読むだけで、初耳なことだからである。 孫正義氏に同業ともいえる起業家の弟いるなんてことは知らなかったし(しかも見た目もそっくり)、泰蔵氏が連続起業家を名乗っていて、それがシリアルアントレプレナー、すなわち生涯にわたり新規事業を立ち上げるような起業家を指すということも知らなかった。 なかでも、本書の副題に出てくる「アンラーニング」という言葉についても、まったくの初耳だった。泰蔵氏によれば、それは次のようなことのようだ。引用しよう。 アンラーニングとは、自分が身につけてきた価値観や常識などをいったん捨て去り、あらためて根本から問い直し、そのうえで新たな学びにとりくみ、すべてを組み替えるという「学びほぐし」の態度をいいます。 日本語にすると「学びほぐし」のほかに「学習棄却」ともいうそうで、なんだか過激でパンクな思想のような印象を受けるが、テクノロジーやAIなどが社会に浸透していくなか、これまでの知見を問い直して、新たな時代にマッチしたものにアップデートしていこうという考えのようだ。 プロフィールによると、泰蔵氏は2016年から「子どもに創造的な学びの環境を提供するグローバル・コミュニティであるVIVITAを創業」しており、おそらくその関係で子どもの教育について、アンラーニングの手法を用いて深く考えた結果がこの本に結実したようだ。 「成績のいい者はえらい」「専門家はえらい」は本当か? 本書における泰蔵氏の思考法は、ひとつの概念について、「そもそもこれってなんでこうなっているの?」という問いを立て、さまざまな文献をあさりながらその概念の成立のいきさつを探るところからスタートする。 例えば「学校ってなに?」という問いについては、1658年に百科事典のルーツとなった『世界図絵』を著したヨハン・アモス・コメニウスの思想や、『リヴァイアサン』(1651)のトマス・ホッブズの思想、19世紀末にパノプティコンという完璧な監獄を設計したジェレミ・ベンサムの思想などを巡り歩いたあと、社会評論家のイヴァン・イリイチの著書『コンヴィヴィアリティのための道具』(ちくま学芸文庫)を引用して、学校が次の3つの目的を合体させてできたものだと結論する。 ちゃんと食べていける労働者になるための技能の訓練 社会の一員として規律を守る人間になるためのしつけ ...
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『50歳からのミニマリスト宣言!』─「最小限のもので最大限に暮らす方法を知る」に効く1冊

2009年から2010年にかけて、出版界では特筆すべき2冊のベストセラーが生まれた。 前者がやましたひでこの『新・片づけ術 断捨離』(マガジンハウス)、後者が近藤麻理恵の『人生がときめく片づけの魔法』(サンマーク出版)である。 「断捨離」は2010年に新語・流行語大賞にノミネートされたほか、「こんまりメソッド」はNetflix経由で世界配信され、近藤の名は「世界のKonMari」として知られるほどの大反響を巻き起こした。 そして、本書の著者の筆子さんも、この2著と同時期にブログ「筆子ジャーナル」を開始し、持たない暮らしや海外のミニマリストに関する情報を発信して、多くの読者を獲得してきた人である。本書は、60代を過ぎた筆子さんの4冊目の主著となる。 「断捨離」「ときめき」「ミニマリスム」──。アプローチの違いはあれど、これらに共通するのは、モノにあふれた日常から解放され、自分の意志で必要最小限の暮らしを楽しむこと提案している、という点にあるだろう。 日々、蔵書に囲まれ、文字通り「本の虫」として生きている私にとって、彼女たちのライフスタイルには承服しかねる点が多々ありそうな予感がプンプンするが、怖い物見たさでちょっとだけその世界を覗いてみることにしよう。 『身軽に、豊かに、自分らしく 50歳からのミニマリスト宣言!』 著者:筆子 発行:扶桑社 定価:1400円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ カナダ暮らしの、主婦。50歳を期にミニマリストになる まず、本書の冒頭でミニマリストを「最小限のもので最大限に暮らすこと」と定義する筆子さんは、37歳になる直前にカナダに渡り、その後、結婚して39歳のときに一人娘を出産。それを期に専業主婦としてカナダで暮らしていた。 そんな筆子さんがミニマリストという考えに惹かれたきっかけは、50歳の誕生日をむかえたその日、「もう50歳なのに、貯金も収入もない」ということに気づいたことだったという。 娘が生まれてから専業主婦だったので自分の収入がなく、OL時代に貯めたお金を取り崩して生きてきましたが、それも底を突いてしまったのです。夫もお金がなかったのでこちらには全然回ってきませんし、今後もそんな見込みはゼロでした。困りました。近い将来、娘の大学の学費が必要だし、何より私は歯が悪く、歯の治療にずいぶんお金がかかっていました。「このままではまずい」と焦った私は、「生活を変えたい。いっそミニマリストになってしまえばいいのかも?」と考えました。 当時、アメリカを中心にミニマリストたちが自身の生活をブログで発信していたこともあって、それに飛びついたわけだ。 その後、キッチンに収納されている多すぎるマグカップやコップ、お菓子やお弁当作りのグッズをはじめ、リビングでなんとなく置いている飾り物や多すぎる写真やアルバムなどを片っ端から処分することにしたという。 興味深かったのは、処分すべき服に関する記述。彼女のクローゼットのなかには、実にさまざまな種類の処分すべき服が眠っていた。例えば、こんな具合。 2~3年着ていなかった服 サイズが合わない服 痛んでいる服 時代遅れの服 義理でずっと持っている服 なりたい自分になるために買った服 女性なら「あるある話」なのかもしれないが、「服=暑さ寒さを防ぎ、公序良俗を乱さない程度に生殖器等を隠してくれるもの」としか見ていない野暮ったいオジサンの私には新鮮な驚きがあった。 太ったり痩せたりしてサイズが合わなくなれば迷わず捨ててきたし、親類や友人からもらった義理のある服などどこに保管しているのかさえわからない。まして、流行の最先端の服や、なりたい自分になるための服なんて、買ったことがない。 ともあれ、そのようにして女性らしさに封印をして服を整理したあとの筆子さんは、実にすっきりした気分になったようである。 今は毎日似たようなものを着ているので、迷う余地はいっさいありません。服もバッグも靴も事前に決まっているので、外出の支度はあっという間に終わります。着るものに限らず、人生は決断と選択の連続です。何を食べるか、何を買うか、いつ、どこに行くか、どの仕事からやるか、誰と会うか、どんなふうに家事をするかなど、私たちはたくさんの意思決定をしながら生きています。 決断を要することが多すぎると 人は決断疲れを感じ、肝心のことを決めるエネルギーがなくなります。所持品を減らせば、着るもの、使うもの、やるべきことは、ある程度決まってくるので、決断疲れにさいなまれません。その結果、大事なことをじっくり考えられるし、ベストな決断ができます。 これは、実に納得できる話だ。日常の決断と選択の機会が少なくなれば、本当にやりたいことに時間資源を割くことができるというのは道理である。 ミニマリストとして生きてみるのも、あながち悪いものではないようだ、と思わず共感してしまった。 生活はダウンサイズは、なるべく早くするほうがいい ミニマリストとしての筆子さんにさらに共感できるのは、それが決してケチケチした生活なのではなく、「欲しいものは我慢しなくていい」というポリシーを持っているところだ。 老後資金のための貯金はもちろん、18歳で一人暮らしをはじめた娘には家賃補助として月500カナダドル(約5万円)を援助しているというし、健康のための歯のメンテナンス、オーガニックフード食材などにはお金をかけているという。 また、53歳以降、文筆業で収入を得るようになってからは、ブログのサーバー代や通信費などの必要経費や、書籍、音楽、サブスクリプション代などの自己投資にもお金をかけている。 住居に関しては、もともと賃貸派だったという筆子さんだが、55歳のときにそれまでの一軒家から地上階と半地下のみの住居にダウンサイズした。 立地は以前より交通の便のいいところだそうだが、それでも家賃は2~3万円ほど安くなり、スペースが限られて大きな家具は置けない分、余計なものを買いにくくなったという。 マイホームには長年ため込んだ「大好きなもの」や「大事なもの」が詰まっていますが、ダウンサイジングするとき、7割から8割は手放すことになります。 いきなりこれだけ捨てるのは心理的にも体力的にもしんどいですよ。今からダウンサイジングを念頭に置き、不用品を捨てておくと、のちのちラクです。それにものを減らせば、その日からとても暮らしやすくなります。 そんなふうに言われてみると、「なるほど、そうでしょうなぁ」とうなずくしかない。 パートナーがガサツでもミニマリストはひるまない おもしろいのは、一緒に住んでいる彼女の夫は、筆子さんと真逆でモノを捨てられない人だということだ。なんでもギリギリにならないと行動を起こさない性格で、部屋はつねにモノにあふれていて、本人さえ何がどこに置いてあるのかさえ把握していないという(私と同じだ!)。 そんなパートナーと同じ屋根の下が暮らすというのはミニマリストの筆子さんにとって、かなりのストレスになりそうなものだが、次のようなことを心がけることによって精神衛生を保っているのだとか。例えば、次のようなことだ。 別々のスペースをつくる 仕事スペースはお互いリビングだが、南北の壁に沿ってそれぞれの専用スペースがあり、寝室も別 伝えるべきことはしっかり伝える たいていのことには「仕方がない」と済ませるが、目に余るときにはその場ではっきりと苦情を言う。相手が察してくれるのを待つことほど、まずい戦略はない ...

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介護付き有料老人ホームとは│提供されるサービス・費用・入居条件などを解説

介護付き有料老人ホームは、介護スタッフが24時間常駐している介護施設。介護サービスや身の回りの世話を受けられます。 この記事では、介護付き有料老人ホームの種類及び入居のための条件や必要な費用、サービス内容などを詳しく説明しています。 https://youtu.be/oK_me_rA0MY 介護付き有料老人ホームの特徴 介護付き有料老人ホームとは、有料老人ホームのうち、都道府県または市町村から「特定施設入居者生活介護」の指定を受けた施設です。24時間介護スタッフが常駐し、介護や生活支援などは施設の職員により提供されます。 主に民間企業が運営しているため、サービスの内容や料金は施設ごとに異なります。また、入居基準も施設により異なり、自立している方から介護が必要な方まで幅広く受け入れている施設も。選択肢が幅広いため、自分に合った施設を選ぶことができます。 看取りまで対応している施設も多数あり、「終の棲家(ついのすみか)」を選ぶうえでも選択肢のひとつとなります。 全体の概要をまとめるとこのようになります。 費用相場 入居時費用 0~数千万円 月額利用料 15~30万円 入居条件 要介護度 自立~要介護5※1 認知症 対応可 看取り 対応可 入居のしやすさ ◯ ※施設の種類によって異なります。 特定施設入居者生活介護とは 特定施設入居者生活介護は、厚生労働省の定めた基準を満たす施設で受けられる介護保険サービスです。ケアマネジャーが作成したケアプランに基づき提供される食事や入浴・排泄など介助のほか、生活支援、機能回復のためのリハビリなどもおこなわれます。指定を受けてこのサービスを提供する施設は、一般的に「特定施設」の略称で呼ばれています。 介護付き有料老人ホームの種類と入居基準 介護付き有料老人ホームには「介護専用型」「混合型」「健康型」の3種類があり、それぞれ入居条件が異なります。 介護度 ...

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グループホームとは|入居条件や費用、入居時に気をつけたいポイントを解説

認知症の方の介護は大変です。「そろそろ施設への入居を検討しよう」と思っても、認知症の症状があると、入居を断られてしまうのではと心配もあるでしょう。 グループホームは認知症高齢者のための介護施設です。住み慣れた地域で暮らし続けられる地域密着型サービスであり、正式な名称を「認知症対応型共同生活介護」といいます。 こちらの記事では、グループホームについて解説します。また、グループホームで受けられるサービスや費用、施設選びのポイントも紹介しますので、ぜひ参考にしてください。 https://youtu.be/EofVO7MRRDM この記事を読めばこれがわかる! グループホームの詳細がわかる! グループホームを選ぶ際のポイントがわかる! グループホームへ入居する際の注意点がわかる! グループホームとは グループホームとは、認知症高齢者のための介護施設です。専門知識と技術をもったスタッフの援助を受けて、要支援以上の認知症高齢者が少人数で共同生活をおくります。 「ユニット」といわれる少人数のグループで生活し、入居者はそれぞれ家事などの役割分担をします。 調理や食事の支度、掃除や洗濯など入居者の能力に合った家事をして自分らしく共同生活を過ごすところが、ほかの介護施設や老人ホームとは異なるポイントです。 グループホームの目的は、認知症高齢者が安定した生活を現実化させること。そのために、ほかの利用者やスタッフと協力して生活に必要な家事を行うことで認知症症状の進行を防ぎ、できるだけ能力を維持するのです。 グループホームは少人数「ユニット」で生活 グループホームでは「ユニット」と呼ばれるグループごとに区切って共同生活を送るのが決まり。1ユニットにつき5人から9人、原則1施設につき原則2ユニットまでと制限されています。 少人数に制限する理由は、心穏やかに安定して過ごしやすい環境を整えるため。環境変化が少なく、同じグループメンバーで協力して共同生活することは、認知症の進行を防ぐことに繋がります。 認知症の方にとって新しく出会う人、新しく覚えることが難しいので、入居者やスタッフの入れ替わりが頻繁にある施設では認知症の高齢者は心が落ち着かず、ストレスを感じ生活しづらくなってしまいます。その結果、認知症症状を悪化させるだけでなく、共同生活を送る上でトラブルを起こすきっかけとなります。 慣れ親しんだ場所を離れて新しい生活をするのは認知症の方には特に心配が尽きないもの。その心配を軽減するため、より家庭にできるだけ近づけ、安心して暮らせるようにしています。 グループホームの入居条件 グループホームに入居できるのは医師から「認知症」と診断を受けている方で、一定の条件にあてはまる方に限ります。 原則65歳以上でかつ要支援2以上の認定を受けている方 医師から認知症の診断を受けている方 心身とも集団生活を送ることに支障のない方 グループホームと同一の市町村に住民票がある方 「心身とも集団生活を送ることに支障のない」という判断基準は施設によって異なります。入居を希望している施設がある場合には、施設のスタッフに相談しましょう。 また、生活保護を受けていてもグループホームに入ることは基本的には可能です。しかし、「生活保護法の指定を受けている施設に限られる」などの条件があるので、実際の入居に関しては、行政の生活支援担当窓口やケースワーカーに相談してみましょう。 グループホームから退去を迫られることもある!? グループホームを追い出される、つまり「強制退去」となることは可能性としてゼロではありません。一般的に、施設側は入居者がグループホームでの生活を続けられるように最大限の努力をします。それでも難しい場合は、本人やその家族へ退去を勧告します。「暴言や暴力などの迷惑行為が著しい場合」「継続的に医療が必要になった場合」「自傷行為が頻発する場合」etc。共同生活が難しくなった場合には追い出されてしまうこともあるのです グループホームで受けられるサービス グループホームで受けられるサービスは主に以下です。 生活支援 認知症ケア 医療体制 看取り それぞれ詳しく見てみましょう。 生活支援 グループホームでは以下の生活面でのサービスを受けられます。 食事提供 :◎ 生活相談 :◎ 食事介助 :◎ 排泄介助 :◎ 入浴介助 :◎ 掃除・洗濯:◯ リハビリ :△ レクリエーション:◎ 認知症を発症すると何もできなくなってしまうわけではなく、日常生活を送るだけなら問題がないことも多いです。 グループホームには認知症ケア専門スタッフが常駐しています。認知症進行を遅らせる目的で、入居者が専門スタッフの支援を受けながら入居者の能力(残存能力)に合った家事を役割分担して自分たち自身でおこないます。 食事の準備として買い出しから調理、配膳、後片付けまで、そして洗濯をして干すといった作業や掃除も、スタッフの介助を受けながら日常生活を送ります。 グループホームでは、入居者の能力(残存能力)に合った家事を役割分担して自分たち自身でおこなうことになります。 例えば、食事の準備として買い出しから調理、配膳、後片付けまで。また、そして洗濯をして、干すまで…など。そのために必要な支援を、認知症ケアに長けた専門スタッフから受けられるのが、グループホームの大きな特徴です。 グループホームは日中の時間帯は要介護入居者3人に対して1人以上のスタッフを配置する「3:1」基準が設けられています。施設規模によっては、付き添いやリハビリなどの個別対応が難しいので、入居を検討する際は施設に確認しましょう。 認知症ケア 施設内レクリエーションやリハビリのほかに、地域の方との交流を図るための活動の一環として地域のお祭りに参加や協力をしたり、地域の人と一緒に公園掃除などの活動を行う施設も増えてきました。 グループホームとして積み上げてきた認知症ケアの経験という強みを活かし、地域に向けた情報発信などのさまざまな活動が広がっています。 地域の方と交流する「認知症サロン」などを開催して施設外に居場所を作ったり、啓発活動として認知症サポーター養成講座を開いたりするなど、地域の人々との交流に重きを置くところが増えています。 顔の見える関係づくりをすることで地域の人に認知症について理解を深めてもらったり、在宅介護の認知症高齢者への相談支援につなげたり。 こうした活動は認知症ケアの拠点であるグループホームの社会的な価値の向上や、人とのつながりを通じて入所者の暮らしを豊かにする効果が期待できます。 医療体制 グループホームの入居条件として「身体症状が安定し集団生活を送ることに支障のない方」と定義しているように、施設に認知症高齢者専門スタッフは常駐していますが、看護師が常駐していたり、医療体制が整っているところはまだまだ少ないです。 しかし近年、高齢化が進む社会の中で、グループホームの入居者の状況も変わってきています。 現在は看護師の配置が義務付けられていないので、医療ケアが必要な人は入居が厳しい可能性があります。訪問看護ステーションと密に連携したり、提携した医療機関が施設が増えたりもしているので、医療体制について気になることがあれば、施設に直接問い合わせてみましょう。 看取り 超高齢社会でグループホームの入所者も高齢化が進み、「看取りサービス」の需要が増えてきました。 すべてのグループホームで看取りサービス対応しているわけではないので、体制が整っていないグループホームの多くは、医療ケアが必要な場合、提携医療施設や介護施設へ移ってもらう方針を採っています。 介護・医療体制の充実度は施設によってさまざまです。介護保険法の改正が2009年に行われ、看取りサービスに対応できるグループホームには「看取り介護加算」として介護サービスの追加料金を受け取れるようになりました。 看取りサービスに対応しているグループホームは昨今の状況を受け増加傾向にあります。パンフレットに「看取り介護加算」の金額が表記されているかがひとつの手がかりになります。 グループホームの設備 グループホームは一見、普通の民家のようで、家庭に近い雰囲気が特徴ですが、立地にも施設基準が設けられています。 施設内設備としては、ユニットごとに食堂、キッチン、共同リビング、トイレ、洗面設備、浴室、スプリンクラーなどの消防設備など入居者に必要な設備があり、異なるユニットとの共有は認められていません。 入居者の方がリラックスして生活できるように、一居室あたりの最低面積基準も設けられています。このようにグループホーム設立にあたっては一定の基準をクリアする必要があります。 立地 病院や入居型施設の敷地外に位置している利用者の家族や地域住民と交流ができる場所にある 定員 定員は5人以上9人以下1つの事業所に2つの共同生活住居を設けることもできる(ユニットは2つまで) 居室 1居室の定員は原則1人面積は収納設備等を除いて7.43㎡(約4.5帖)以上 共有設備 居室に近接して相互交流ができるリビングや食堂などの設備を設けること台所、トイレ、洗面、浴室は9名を上限とする生活単位(ユニット)毎に区分して配置 グループホームの費用 グループホーム入居を検討する際に必要なのが初期費用と月額費用です。 ここからは、グループホームの入居に必要な費用と、「初期費用」「月額費用」それぞれの内容について詳しく解説していきます。 ...

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【動画でわかる】有料老人ホームとは?費用やサービス内容、特養との違いは

介護施設を探している中で「老人ホームにはいろいろな種類があるんだ。何が違うんだろう?」と疑問を感じることがあるかもしれません。 そこで今回は、名前に「老人ホーム」とつく施設の中でも、「有料老人ホーム」を中心に紹介。よく似ている「特別養護老人ホーム」との違いも見ていきます。 「老人ホームの種類が多すぎて訳がわからない」と思ったら、ぜひ参考にしてみてくださいね。 https://youtu.be/eMgjSeJPT8c 有料老人ホームの種類 有料老人ホームには、以下の3種類があります。 介護付き有料老人ホーム 住宅型有料老人ホーム 健康型有料老人ホーム この3種類の違いを以下にまとめています。 種類 介護付き有料老人ホーム ...

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