ボブ内藤さんの
執筆記事一覧

1966年、静岡県三島市生まれ。1990年より30年以上、ライター・編集者として活動。これまでに1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。
ブックレビュー

『あなたの隣の億万長者』─「あこがれの富裕層の生活の実態を知る」に効く1冊

書店の自己啓発や経済・マネーの棚を眺めていると、1冊や2冊、ともすれば3冊、4冊ほど目にする「億万長者」をタイトルにした本。 今の自分に満足しておらず、チャンスさえあればドカンと当てたいと思っている人に刺さるフレーズなのだろう。 最近では株やFX、暗号資産などの取引で資産1億円を築いた投資家を「億り人(おくりびと)」と呼ぶそうだが、そんな風潮もあって、億万長者本はちょっとしたトレンドになっている気がする。 今回紹介する本も、そうした種類の本には違いないが、興味を惹かれたのは「元国税専門官がこっそり教える」という前半のタイトルである。 著者の小林氏は、過去10年間で相続税調査などにたずさわり、2年連続で東京国税局長から功績者表彰を受けたという経歴を持つ人。それだけに、「億万長者」の実像を客観的に語ってくれるのではないかとの期待があった。その内容を紹介していこう。 『元国税専門官がこっそり教える あなたの隣の億万長者』 著者:松永正訓 発行:ダイヤモンド社 定価:1650円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 「1億円超の資産を持つ人」とはどういう人か? 本書で定義される「億万長者」は、文字通り「1億円超の資産を持つ人」である。 一般的に「金持ち」と言われる人は、死亡した際、相続税を払う義務が生じるほどの資産を持つ人を指すことが多い。数100万円、あるいは1000万円くらいの資産は基礎控除の範囲内となり、課税の対象にならない。 ところが法改正によって、平成27年1月から課税対象の範囲が広がったことは記憶に新しい。 具体的には、「3000万円+(600万円×法定相続人の数)」となり、相続を受けるのが妻ひとり子ひとりならば4200万円、妻ひとり子ふたりならば4800万円の資産にも相続税が発生する。 その結果として、相続税の申告対象者は全死亡者世帯の4%から8%、約2倍にまで増えたのだ。 ただ、本書の著者の小林氏が相続税調査に携わっていたのは、改正前のこと。バブル期に不動産の時価が高騰していたときの「5000万円+(法定相続人の人数×1000万円)」という基準をもとにしていた時代なので、そこで出会った人たちの多くが「1億円超の資産を持つ人」だったことは間違いないだろう。 富裕層の暮らしぶりは意外にも質素だった! 小林氏がおこなっていた相続税調査とは、相続人への聞きとりをして、預金通帳や土地の権利書などに目を通して、申告内容に漏れがないかをチェックすることを言う。 本の冒頭で語られるのは、そんな人たちの意外な実状だ。引用しよう。 はじめての相続税調査で富裕層の自宅を訪問するまでは、「億万長者だから、きっと派手な生活をしているだろう」と、不謹慎ながら豪勢な生活ぶりに触れることにワクワクしていたのですが、実際に調査に入ると、その期待はあっさりと裏切られました。拍子抜けするほど、普通の暮らしぶりだったのです。 税務署内には伝統的に「相続税は最後の砦」という言葉があって、「もしこの機会にとるべき税金をとらなければ、税金を回収するチャンスは永遠に失われてしまう」との覚悟のもと、相続税申告に関する資料に目を光らすという。 資料を確認する際は、必ずその置き場に案内してもらって「現物確認」をするのだが、その間、ほかの部屋もさりげなく覗いて骨董品や金庫などの隠し財産がないか、見てまわっていたそうだ。しかし、広い家は多いものの、普通の家よりもむしろスッキリとした印象を受けることが多かったそうだ。 その後、何度も相続税調査をおこなっても、富裕層の質素な暮らしぶりに対する印象は変わることはなかったという。小林氏は、その理由について、こう分析する。 一般の人からすれば、お金はあればあるほどいいと思いがちですが、そうとは限らないのです。たとえば食費を2倍かけたからといって、人生の幸福度が2倍に高まるわけではありません。食べられる量には限りがありますし、質素な食事でも十分に満足できる人もいるでしょう。私が思うに、富裕層はお金をかけるべき物事を見極め、必要以上の食費など、効果の見込めない支出は控えています。 服装にしても、高そうなブランド品を身につけている人はほとんどおらず、ユニクロや無印良品などのようなカジュアルなファストファッション風の服装が多かったのだという。 なんだか肩すかしをくらったような気分になるが、それが「1億円超の財産を相続した人たち」の普通の姿だったのだ。 富裕層の職業には「定年」がない 相続税の申告書には、「職業」を記入する欄があって、税務職員はその情報を必ず気にしていたという。 ところが、日本の職業別平均年収トップに名をつらねる「医師」や「パイロット」などのエリート職についている人は少数派で、その多くが中小企業経営者や個人事業主だったという。 こうした人たちの共通点は、「定年がない」ことだと小林氏は指摘する。実際に小林氏は、地域に密着したマッサージ師や工務店の職人など、一見して富裕層とは結びつかない職業に就いていた人の相続税調査を少なからずおこなったという。 同じ「社長」という身分にしても、上場企業と中小企業では事情が違う。 労務行政研究所の調査によると、上場企業の社長の年間報酬は平均で約4676万円という高水準だが、上場企業のトップは「雇われ社長」が多く、短期間で交替するため、実はそれほど多くの資産を持っていない可能性があると小林氏は言う。 一方、中小企業の社長は任期が終わっても再び社長として選任されることが多く、長期にわたって報酬を受けることができます。しかも上場企業と違って、株主が親族だけでほぼ固められていることが多いので、自分の給料を自由に決められます。会社が儲かっていれば、その利益を役員報酬という形で直接懐に入れられるのです。 こうした中小企業の社長の強みは、「自社株(未公開株)」という青天井の資産を持っていることだという。なるほど、言われてみれば、至極もっともなことである。 「働いて稼ぐ」から「投資で稼ぐ」へのシフト もうひとつ、小林氏が指摘している富裕層の共通点は、「投資に熱心」だということ。 投資のリターンは、投資にかけられる元手資金に比例します。同じ年利の金融商品であれば、100万円を投資する人より、1000万円を投資する人のほうが10倍のリターンを得ることができるからです。さらに、富裕層が一般の人より投資で儲けを得やすいのは、投資手段が豊富であることも一因です。一般の人が投資できない金融商品でも、富裕層は簡単にアクセスできます。 富裕層の所得は、「働いて稼ぐ」から「投資で稼ぐ」にシフトして以降、飛躍的に増大する。 例えばスイスのプライベートバンクに口座を開設すると、「プライベートバンカー」と呼ばれる担当者が顧客の投資目標などに合わせてオーダーメイドで資産を運用してくれるという。 一般に公開されている株式ファンド(投資信託)のみならず、限定された投資家からの資金を運用するヘッジファンドや未公開株、デリバティブ(金融派生商品)などの特殊な方法を活用しながら資産を増やしてくれるのだ。 富裕層が会費数百万円の高級会員制クラブに通う理由 収入が多いことに加え、ある程度の金融知識を持っていることも富裕層の条件のひとつだ。その結果、彼らは入会金数百万円の高級会員制クラブにも惜しげなく金を使う。 高級社交クラブは限られた人しか利用できない場所ですから、利用者同士が気軽につながることができ、大きなビジネスにつなげやすくなります。このように見えない価値にもしっかりお金を使うことが、富裕層の共通点なのです。 以前、金持ち相手にプライベートジェットを販売する営業マンが会費300万円のスポーツクラブに入会して、シャワー室で「裸の営業トーク」をするという都市伝説めいた話を聞いたことがあるが、その話の信憑性が高まった気がした。 そのほかにも、本書には富裕層のさまざまな節税対策についても言及している。 「生命保険を相続税と遺産分割に活用する」「1000万円ずつ複数の口座でお金を管理する」「生活のためではなく投資のために借金する」「家族に毎年100万円のお小遣いをあげる」「富裕層は教育費に糸目をつけない」など、富裕層の人たちの資産の殖やし方が語られる。 元国税専門官という経歴を持つ人だからこそ得られた、リアルな視点である。それが、「信念を持ちなさい」とか、「毎年財布を新調しなさい」といった怪しげなアドバイスに満ちた自己啓発本と一線を画す、本書の美点だろう。
ブックレビュー

【シェフ・三國清三~後編~】ぼくが37年目にして「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店した理由

三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)が話題を呼んでいる。発売から3カ月で、そろそろ10万部を突破する勢いだという。 2022年12月にシェフが「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店したのと同時出版という絶妙なタイミングが働いてのことだと思うが、本の内容も実に素晴らしい。 北海道の増毛という漁師町に生まれたシェフが、極貧生活のなかからたったひとつの選択肢をたぐり寄せて料理人になる道を進む、感動的なサクセスストーリーである。 『三流シェフ』には、フレディ・ジラルデ、トロワグロ兄弟、アラン・シャペルといった一流シェフの店での武者修行がイキイキと語られているが、後編のインタビューでは、帰国したシェフが「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店したいきさつ、そして2022年12月に同店を閉店した理由について、じっくり語っていただくことにしよう。 前編もぜひご覧ください! 『三流シェフ』 著者:三國清三 発行:幻冬舎 定価:1500円(税別) 「ホテルの時代」から「オーナーシェフの時代」に ―1982年12月、ヨーロッパ修行を終えて、三國さんが28歳で日本に帰国したときの日本は、どんな状況だったのでしょう? ぼくがヨーロッパに渡る前、帝国ホテルで必死に鍋磨きをしていたころの日本のフランス料理界が「ホテルの時代」だったことはさっき言いましたよね(※前編に掲載)。ホテルに正社員として就職するというのが、一人前のフランス料理人になる唯一の道だったんです。 でも、ヨーロッパでの8年間の修行を終えて帰国したときの日本では、東京の街場のフランス料理店が脚光を浴びていました。鎌田昭男さんの「オー・シュヴァル・ブラン」、石鍋裕さんの「ビストロ・ロテュース」、井上旭さんの「ドゥ・ロアンヌ」。この3人の先輩シェフたちがブイブイ言わせていました。 そう、時代は「ホテルの時代」から「オーナーシェフの時代」に移っていたんです。村上さんの「10年経ったら君たちの時代が来ます」という予言は当たったんですね。 だから、その村上さんに帰国のあいさつに行ったとき、ホテルの仕事を紹介されても、「ありがとうございます。でも、街場のレストランで腕試しをしたいんです」と言って、お断りしました。もちろん、村上さんは「そうか。頑張れよ」と激励してくれましたよ。 ―最初は「ビストロ・サカナザ」というお店で、雇われシェフとしてスタートしたんですね? ぼくがフランスで修行していたころから「3つ星店の厨房で日本人が働いている」という噂が日本で流れていたようです。それを聞きつけたオーナーが、わざわざフランスまでやって来て「東京のビストロでシェフをやらないか」とスカウトしてくれたんです。 当時のぼくは、村上さんの言いつけを守って、収入のすべてを自己投資に費やしていましたから、貯金はゼロ。渡りに船のお誘いだったわけです。 もうひとつ、村上さんの「10年修行しなさい」という言葉もぼくは忘れていなかった。海外での修行は8年で切りあげて帰国したから、それに2年を足して、30歳になった年に自分の店を持とうと思ってました。 そうして、その決意の通りに開店したのが、「オテル・ドゥ・ミクニ」。1985年3月のことです。 開店して半年は閑古鳥。借金地獄の日々だった ―「オテル・ドゥ・ミクニ」は迎賓館赤坂離宮にほど近い住宅街に立地しています。フランス料理店と言えばアクセスのいい繁華街に開店するイメージがありますが、なぜあえてその場所を選んだのでしょう? ガヤガヤとうるさい繁華街ではなく、静かで落ちついた雰囲気の場所にあるのがヨーロッパのフランス料理店のスタンダードだったからです。 ぼくが最初に修行したフレディ・ジラルデの店は、スイスのローザンヌから車で20分のところにあるクリシエ村というところにありました。 そんな不便なところでも、予約が途切れることはありませんでした。お客さんは静かな場所で、時間を気にせず料理を楽しめる。トロワグロさんの店も、アラン・シャベルさんの店もそうでした。他に何もない田舎の村にポツンとある。 だけど、友人たちは「そんなところに店を出したらお客さんが来なくなるぞ」と口をそろえて言いました。 実際、開店して最初の半年間は、その通りになりました。開店当時、あいかわらず貯金はゼロだったから、内装も厨房設備も食器も、みんな借金して揃えたんだけど、返済するどころか毎月赤字続きで借金はどんどん膨らむばかり。もう、年をまたがずに年内で潰れてしまうだろうと頭を抱えました。 そうやって地獄のような半年が過ぎたとき、日本に「一億総グルメブーム」の風が吹いてきたんです。「グルメ」というのは本来、「美食家」「食通」と呼ばれてきた、金に糸目をつけずに食を追求するごく一部の人たちを指す言葉なんだけど、日本のバブル景気がそれを一般名詞にしたんです。 それに加えて、日本テレビの『若き天才シェフ 三國清三』というドキュメント番組が高視聴率になって、ぼくの名が知られるようになると、「オテル・ドゥ・ミクニ」は数カ月先も予約でいっぱいになる店になっていた。 ―当時、三國さんが出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙の写真を見ると、挑戦的で、尖っていた様子が感じられますね。 だって、鎌田、石鍋、井上のフレンチ三羽ガラスに対抗するには、ヒール役に徹するしかないじゃない。プロレスのザ・デストロイヤーとか、ボボ・ブラジルみたいな憎らしいヒール役。ダンディでクールな彼らのキャラクターを真似するのではなく、逆をいったわけです。案の定、見事にバズったよね(笑)。 料理のスタイルにしてもそうです。味噌も醤油も米も、平気で使ったし、天ぷらや茶碗蒸し、焼き鳥なんかの技も取り入れました。 評論家には評判が悪くて「あんなのフランス料理じゃない」「デタラメだ」なんて書かれたけど、「お前らにおれの料理がわかってたまるか」と突っぱねて、日々、お店にやって来るお客さんだけを意識して、自分のスタイルを貫いた。 そんな調子だったから、2007年にミシュランの東京版が創刊されたとき、ぼくの店には星が1個もつきませんでした。 三國シェフの30歳のときの著書『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)。世界中のシェフの愛読書となっている。 「自分のため」より「人のため」。そのほうが限りなく頑張れるんです ―1985年3月に席数30席でオープンした「オテル・ドゥ・ミクニ」は、やがて80席のグラン・メゾンになり、世界各地の高級ホテルに呼ばれて行なったミクニ・フェスティバルも大成功。三國さんの名は「世界のミクニ」として知られるようになります。そんな三國さんは2022年12月、「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店して周囲を驚かせました。その背景には、何があったのでしょう? 開店から37年間、「オテル・ドゥ・ミクニ」はいろんなことを経験してきました。いいことばかりじゃありません。バブル崩壊、リーマン・ショック、3.11……といった危機にも直面したけれど、その都度、危機を乗りこえて成長してきた。 ただ、コロナの緊急事態宣言からの2か月間は、初めて「店を閉める」ということを経験したんです。 空いた時間を使って、YouTubeチャンネルを始めたりしましたけど、それと同時にこれまでのこと、これからのことをじっくり考えるきっかけにもなりました。 そうしてみると、これまでの人生でやり残してきたことがあることに気づいたんです。それは、「小さな店で、自分ひとりでお客さんと向き合い、料理を作る」ということ。 席数はカウンターのみで8席。メニューは決めない。豊洲でその日に仕入れた食材を、お客さんと相談しながら料理する。 そんな店を作りたいという思いが数年前からあって、でも、「無理だよなぁ。来世に持ち越しかもなぁ」と打ち消してきたけど、コロナ禍でそのことを考えたとき、今ならやれるかもしれない、そう思えた。 「あと3年で40周年だから、それまでやったらどうですか」というアドバイスもたくさん受けたけど、3年後のぼくは70歳になっている。そこから始めるよりも、まだまだ元気な今のうちに準備をしておきたい。 そう決めてからは、長年の立ち仕事で痛めたヒザを手術してリハビリを始めたし、我流で身につけたフランス語を基礎から学び直そうと日仏学院に通うことにしました。それから筋トレと、食事に気を遣うことで体重を70キロ台まで絞ろうとしています。マンスールといって、ダイエットとは違った方法でカロリーと栄養バランスを考え、質の高い素材と調理法で食事をするんです。 ―70歳からの再スタートをきるには、「健康であること」は必須条件なんですね。 年をとれば、人は誰だって老いていきます。プロの料理人であっても、味覚の衰えには逆らえないし、体力も減退します。だけどその一方で、「心の健康」は、自分の心がけ次第で維持していくことができます。 ―「心の健康」は、どうすれば維持できるんでしょう? いい料理店になるには、料理のクオリティを高めるだけではダメで、サービス面のホスピタリティを充実させる必要があります。クオリティとホスピタリティの両輪がなければ「いい店」はできません。 ホスピタリティとは何かというと、「お客さんに料理を楽しんでほしい」というモチベーションです。 これまで生きてきて、つくづく感じるのは「自分のため」に頑張る力には限界があるということ。どんなに頑張っても、「もうこれ以上はできない」という壁にぶち当たる。でも、自分以外の誰かのため、そう、例えば、お客さんのため、家族のため、先輩後輩や同僚のため、社会のためを考えると、人の努力は限界を超えるんです。 ぼくは、そんな努力が「心の健康」につながっているんじゃないかと思う。2024年の8月10日、ぼくは70歳になります。そのときを迎えるのが、今から楽しみ。久しぶりに充実した日々を過ごしていますよ。 ―とても楽しいお話、ありがとうございました! 撮影/八木虎造
ブックレビュー

【シェフ・三國清三~前編~】たったひとつの道を選んでぼくが料理人になった理由

三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)は、彼のジェットコースター人生を、素直に赤裸々に語った感動の一冊。映像関係のプロデューサーに出会ったら、ドラマ化、映画化を提案したくなるようなドラマチックな本だ。 表紙がまた、いい。三國シェフは照れ笑いして「そんなにいいとは思わない」と言っていたが、客観的な目で見れば、「男の生き様」を表現した見事な表紙である。 左半分の写真は、彼が1985年に30歳で四谷の住宅街、新宿区若葉に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店した翌年に出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙に使われた、森川昇氏の撮影による写真。フランス料理界の異端児として、ギラギラした目をして尖っていたころの挑戦的な表情である。 対する右半分の写真は、ここ数年の写真で、人生経験を経て、年輪を重ねてきた人物特有のいぶし銀のような表情がよく表われている(幻冬舎の『GOETHE』の2020年2月号での古谷利幸氏の撮影)。 そこで今回は、本に書かれたことをシェフと一緒におさらいしながら、店を閉店するまでのいきさつ、70歳以降に計画している新たな夢などについて話を聞いていこう。 『三流シェフ』 著者:三國清三 発行:幻冬舎 定価:1500円(税別) 貧しい家に生まれたぼくには少ない選択肢しかなかった ―三國さんの著書『三流シェフ』には、貧しさから中卒以上の学歴しか得られなかったにもかかわらず、わずかなチャンスをたぐり寄せるようにして札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きとして雇われ、その後、18歳で日本のレストランの頂点である帝国ホテルの洗い場のパートタイマーになる様子が描かれています。その情熱は、どこから湧いてきたのでしょう? 情熱も何も、ぼくにとってはそれが普通のことでした。自分の家が貧しいことは子ども心にわかっていたけど、そのことで親を恨んだりすることはなかったし、学校を休んで働かなくて済むような生活をしている友だちをうらやむこともありませんでした。とにかく、選択肢がすごく少なかったんです。コックになろうと思っても、中卒の学歴しかないぼくはホテルに就職できません。ならば、どこかにスキマが空いてないかを探して、そこに入り込むしかない。そんなぼくが、パートタイマーとはいえ、帝国ホテルのレストランの洗い場で働けるようになったのは、今思えば奇跡のようなことです。ぼくができることは、皿や鍋を洗うことだけ。だから、誰よりも早く、誰よりも綺麗に洗うことがぼくに課された唯一の選択肢でした。洗って、洗って、洗うものがなくなったら、厨房を見渡して忙しそうにしている人を手伝って他の仕事を覚えた。 ―選択肢が少なかったからこそ、それを一所懸命にやった、ということなんですね。 一所懸命にやったのは、皿洗いだけじゃありません。当時、帝国ホテルにはレストランが18店舗もあって、そこで520人ほどの料理人がいました。その頂点に君臨しているのが、総料理長の村上信夫さんです。ぼくにとっては雲の上のような人で、札幌グランドホテルの総料理長の紹介状を持って面接してもらったときから数えて2回くらいしか会ったことがない。その村上さんの目にとまって社員にしてもらうために、ぼくは奥の手を使いました。村上さんのオフィスは中2階にあって、18店舗のすべての店を巡回するのが毎朝の習慣なんです。その様子を観察していると、すべての店を巡回したあと、最後に同じ中2階にある、ぼくが働いていた「グリル」という店に顔を出して、トイレに立ち寄ることがわかりました。そこで、村上さんがトイレに入るたび、洗い場を抜けだして隣に立つんです。「あ、総料理長、おはようございます」って、偶然を装ってあいさつをする。「おう、君か。元気にやってるか」「はい」会話はそれだけなんだけど、そんなことをして、少しでも自分の存在をアピールしようとしたんですね。当時、帝国ホテルの製菓部長をしていた加藤信さんという方がいるんだけど、数年前にお会いしたときにこの思い出話をすると、「知ってたよ」と言われました。誰にも見られずにこっそりやっていたつもりが、見え見えだったんだね。先輩たちは、ぼくの涙ぐましい努力を知っていながら、見て見ぬふりをしてくれていたというわけ。 人生始まって以来の「20歳の挫折」 ―ただ、そうした努力もむなしく、2年後に三國さんは「正規の社員にはなれない」ことを告げられてしまいますね? そうなんだよね。帝国ホテルには、パートタイマーから社員になる制度がなかったわけではないんだけど、同じ洗い場で働いていたシノハラ君という同僚が社員になったあとに、その制度がなくなっちゃったんです。シノハラ君は27番目に履歴書を提出していた人で、ぼくは28番目。あと一歩のところで、チャンスを逃してしまった。そのことを知って、札幌を立つ前の晩に先輩たちが送別会を開いてくれたときのことを思い出しました。ぼくの上京はすでに決まっていることなのに、「札幌グランドホテルは天皇陛下も宿泊する格式高いホテルだ。お前はせっかくそのホテルの社員になれたのに、チャンスを無駄にするのか」と最後の最後までぼくを引き留める先輩がいました。「東京では、お前みたいな田舎者は米の飯も食わせてもらえないぞ」とか、「外国人にさらわれてどこかの国に売られてしまうぞ」なんて、脅し文句も使ってね。そんな先輩たちの言うことを振りきって上京してきたんだから、札幌に戻って「すみません、また社員にしてください」なんて頼むわけにはいきません。当時の日本のフランス料理界は「ホテルの時代」でしたから、一人前のフランス料理の料理人になろうと思ったら、ホテルに就職する道しかなかったんです。ホテル以外では、銀座のソニービルの地下3階にある「マキシム・ド・パリ」というレストランがあって、それが唯一の道だったけれども、丁重な断りの手紙がきて、あきらめがつきました。それまで必死になってしがみついてきた選択肢が断たれたわけです。そこで、振り出しに戻ったつもりで、故郷の増毛に帰ろう、そう決心しました。そのとき、ぼくは20歳になったばかりで、それが人生で初めての挫折でした。 ―で、それからどうなったんですか? 故郷に帰ることを決めたのが、20歳の誕生日の8月で、その年の12月に帰ることにしました。退職まで3カ月あったから、洗い場の仕事が終わる18時から、ホテル内の18店舗ある店を訪ねて「鍋磨きをさせてください」と頼んでまわりました。少しでも爪痕を残しておきたかったんです。料理人になる夢をあきらめたことの証拠としてね。とにかく、ピカピカになるまで毎日、何十個もの鍋を磨いて、磨きました。鍋磨きをはじめて3カ月くらいが経ったとき、総料理長室から呼び出しがかかりました。いよいよ引導を渡されるんだなと思うと同時に、村上シェフに「これまでお世話になりました。ありがとうございました」とお礼を言えるいい機会だと思って、シェフの前に立ったんです。すると、村上シェフは驚きの言葉を口にしたんです。「三國君、ジュネーブに行きなさい。君を在外大使館の料理人に推薦しました」と。 村上シェフが渡してくれた、起死回生の片道切符 ―ジュネーブと聞いて、そこがスイスの都市であることを知っていましたか? いや、知りませんでした。まったく。でもそのとき、貧しい漁師町の増毛の風景が頭に浮かんで、「あそこに戻るよりは見知らぬ土地のほうがいいだろう」と、咄嗟に頭が切り替わりました。実際、村上シェフも「やってみる気はないか」という誘い口調ではなく、「君に決めたから」と命令口調でした。断るという選択肢は、ありませんでした。ジュネーブに赴任する大使というのは、小木曽本雄さんという人。普通の大使ではなく、ジュネーブの軍縮会議日本政府代表部に派遣された特命全権大使でした。そんなすごい仕事をしている大使の料理人になるということは、どういうことなのか? 最初のうちは、何もわかっていませんでした。事の重大さに気づかされたのは、ジュネーブの大使公邸で小木曽大使夫妻にあいさつをしたときのことです。大使からこう言われたんです。「アメリカの大使を招いて正式な晩餐会を開きます。人数は12名です。そのディナーの準備をしてください」と。おそるおそる、それがいつなのか聞くと「1週間後です」と大使は答えました。上辺では平気を装っていましたが、「これはとんでもないことになったぞ」と冷や冷やものでした。大使公邸で働く料理人は、ぼくひとりです。しかも、フランス料理のフルコースなんて作ったこともなければ、食べたことさえない。そんなぼくに、大使が招いた賓客をもてなす料理がつくれるのか?ぼくは、頭をフル回転させて、1週間後のディナーまでに何ができるのかを考えました。幸いだったのは、大使公邸には通訳として現地採用された山田さんという世話役の人がいたことです。ぼくは山田さんに頼んで、アメリカ大使がスイス滞在中によく通っているレストランを調べてもらうことにしました。そして、「長旅の疲れもあるし、厨房の整理もあるから、3日だけお暇をください」と大使に嘘のお願いして、山田さんに教わったレストランで研修させてもらうことにしたんです。それは、「リオン・ドール」という、レマン湖の近くのジュネーブの一等地に建っているレストランでした。 ―研修のお願いなんかして、「はい、どうぞ」と引き受けてもらえるものですか? 日本にいたころのぼくは料理人としてまったくの無名だったけど、このときのぼくには「日本の在外大使館のコック長」という肩書きがありました。電話一本で、すぐに引き受けてくれましたよ。しかも、アメリカ大使が好んで食べているコース料理の材料から仕入れ先、料理法に至るまで、包み隠さず教えてくれました。まるでVIP待遇です。「大使館の料理人」という肩書きがこんなに尊重されるのかと驚きました。それもそのはず、大使公邸で開かれる晩餐会というのは大使にとって、とても重要な場なんです。軍縮会議は、核兵器の不拡散などの国際的な枠組みを決める大事な会議ですが、それぞれの国にはそれぞれの思惑があるから公的な場での話し合いではなかなか結論が出ません。そこで、各国の代表は水面下で非公式な場で話をして根回しをしたり、交渉したりします。その舞台となるのが、大使館で開かれる晩餐会やレストランでの会食の場なんです。 恩師・村上シェフから授かった「3つの約束」 ―ものすごい大役を任されたわけですね。で、1週間後のディナーは、どうなったんですか? 「リオン・ドール」で教わった料理を完璧にコピーして臨んだけど、最後のデザートまで、すべての料理を出し終えたときは、フラフラの放心状態でした。それでも力を振りしぼって戦場のようになった厨房を片づけていると、小木曽大使がふらりと顔を出しました。何かやらかしたか?と一瞬ヒヤリとしたけど、大使は笑顔でこう言いました。「ありがとう、三國君。上出来だったよ」と。そして、愉快そうな口調でこう言いました。「アメリカ大使が不思議な顔をしていたよ。『あなたの料理人は1週間前にあなたと一緒に日本から来たんだろう? それなのに、どうして私の好きな料理を知っているんだ?』とね」このときはまだ、はっきりとは気づいていなかったけど、実は、大使館の料理人には大きな役得があるんです。レストランで働く料理人は、その店がどんな高級店であっても材料費というコストがかかります。でも、大使館の料理人にはそのことを考える必要はありません。賓客をもてなすのが最大の目的だから、与えられた予算のほとんどを材料費につぎ込むことができる。実際、このときのメインディッシュは、マスタードソースを添えたウサギ料理でしたが、「リオン・ドール」で出しているウサギより、質の高いものでした。 ―大使館では、どれくらいの期間、働いたんですか? 最初の契約期間は2年だったけど、大使の仕事が伸びて、契約を延長してくれないかと頼まれました。「君のような料理人はいない。私は鼻が高い」なんて、身に余るお褒めのお言葉をいただいて。それで結果的には3年と8カ月、大使がジュネーブでの任期を終えるまで料理人をつとめました。大使館での最後の仕事が終わったとき、ぼくは小木曽夫妻に呼ばれて、奥様からこんな話を聞きました。「帝国ホテルの村上さんに『あなたの厨房でいちばん腕の立つ料理人を紹介してください』と頼んだのに、息子と同じ年のあなたがやってきて、あまりに頼りなく感じてお断りを入れたんです。すると、村上さんは『あの若者なら大丈夫です。私を信用してください』とおっしゃるので断れなくなりました。三國さん、あなたは村上料理長の恩を一生忘れてはいけませんよ」と。目頭が熱くなって、しばらく下げた頭をあげられませんでした。実は、在外大使館の料理人を経験し、帰国してさらに出世するというのは、帝国ホテルの伝統的なエリートコースなんです。ぼくは中卒であることを恨んだりしたけど、両親を早くに亡くされた村上さんは小学校の卒業証書さえもらっていません。帝国ホテルに見習いとして入社したのがぼくと同じ18歳のときで、それから戦争をはさんで復職後にヨーロッパに渡り、ベルギーの日本大使館で料理長になりました。村上さんは、自分がたどってきた道と同じ道に至る片道切符を、ぼくに渡してくれたんですね。村上さんはぼくをヨーロッパに送り出すとき、3つのことを守りなさいと言いました。ひとつは、10年修行してくること。「10年後には、必ず君たちの時代が来ます」と言われました。もうひとつは、働いて得た収入で美術館や劇場に行って、ヨーロッパの文化を学ぶ自己投資にまわすこと。3つめが何より大切で、それは、いいレストランで食事をすること、でした。もしかすると、ぼくが大使館でヘマをして、首になることも村上さんは想定していたかもしれない。そうなったらそうなったで、体はジュネーブにあるんだから、そこからヨーロッパのレストランでの仕事探しもできる。つまり、村上さんが渡してくれた選択肢は、一人前の料理人になるための最良の道だったわけです。そのことへの感謝の気持ちを、ぼくは一生忘れないでしょう。 ―興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、「オテル・ドゥ・ミクニ」の開店のいきさつ、そして、2022年12月に同店を閉店した理由などについて、お聞きしていきたいと思います。 三國シェフの生涯の愛読書は、松下幸之助の『道をひらく』(PHP)。「人生のなかで、壁にぶつかるたびにこの本を開くと、不思議にそれを解決するヒントになるページにたどり着いた」という。 撮影/八木虎造 後編をお読みになりたい方はこちら
ブックレビュー

『患者が知らない開業医の本音』─「クリニックの裏事情を知る」に効く1冊

元医者、あるいは現役医師という経歴を持つ作家は多い。なぜか? 医者の書いた本は、売れるからである。 この本の著者の松永氏も、本書を含めて12冊の本を書いていて、これまで『運命の子・トリソミー』(小学館)で第20回小学館ノンフィクション大賞、『発達障害に生まれて』(中央公論新社)で第8回日本医学ジャーナリスト協会賞・大賞を受賞している、実力派の作家だ。 それ故だろうか、文章はよくこなれていて読みやすく、「開業医の本音」という話の内容もすこぶるおもしろい。文章のみで人を笑わせたり、泣かせたりするのは至難の業だが、この人はゴーストライターの手を借りたりせず、それをこなしているのである。これはすごい。 『患者が知らない開業医の本音』 著者:松永正訓 発行:新潮新書 定価:800円(税別) ボブ的オススメ度:★★★★☆ エリート医師が出世の道を外れて「開業医」になった理由とは? 松永氏が開業医になった動機は、実は積極的なものではない。 2006年、千葉市に「松永クリニック小児科・小児外科」を開業する前の松永氏は、母校の千葉大学医学部の付属病院小児外科の教室員(研究員)を19年間もつとめていた。 大学病院のスタッフの使命は、「臨床・研究・教育」で、少し立場があがると「管理・運営」が加わるというが、松永氏はすべてにおいて優秀な働きをしていたようだ。 控えめに書かれてはいるが、年間で約40例発生する子どもの肝がんのグループスタディのコーディネーターをつとめ、手術と抗がん剤による治療のプロトコール(手順)の素案を作ったそうだし、神経芽腫(がしゅ)という小児がんの研究から生まれたRNA診断技術が2004年に厚生労働省から「高度先進医療」に承認されたという。 自身の発病をきっかけに開業医の道へ そのまま大学病院に勤務していれば、「白い巨塔」のトップに立っていたかもしれない松永氏がそのレールを外れるきっかけは、解離性脳動脈瘤という病気を発症したことだった。 松永氏によれば、「通常の脳動脈瘤は球形に膨らむ」そうだが、「台形に近い形で不整形に膨らんでいた」ため、手術で取り除くにしても「右目の視力を失う」か、「半身不随になる」リスクがあったという。そのため、脳動脈瘤には手をつけず、降圧剤を服用しながら発症リスクの高いくも膜下出血を予防しながらの生活を選ばざるを得なくなった。 そのとき、千葉大の脳外科の教授が松永氏に宣告したのは、それまでのキャリアに引導を渡すに等しいものだった。引用しよう。 「ストレスを可能な限り減らしなさい。夜の勤務はダメ。週末も働いちゃダメ。グループスタディ? そんなのすぐ辞めなさい。え、学会の理事の仕事もしているの? すぐに辞めなさい。難しい手術に挑戦するのはやめて、普通の外科医になりなさい」 こうして、当時40歳の働き盛りだったはずの松阪氏は、住宅ローン返済と子どもの教育費を稼いでいくには、開業医になるしかないと結論するのである。 開業医。できるかもしれない。夜の勤務もないし、日曜日も休める。夜中に緊急手術で呼び出されることもない。この仕事なら、強いストレスはかからないかもしれない。 ただ、松永氏のすごいのは、消極的なままで開業医の道を選ぶのではなく、積極的な意味を見つけようとするところである。 というのも、小児科の開業医にとって外科の病気の診断をするのは相当むずかしいことらしく、紹介状を持って松永氏の前にやってくる子どもたちは症状をこじらせていたり、病気がかなり進行している子どもが多かったという。 だが、松永氏が開業医になれば、そうした外科疾患を早期に見つけられるはずだ。 つまり、ぼくは開業医となって、大学病院の小児外科のサテライト診療所みたいな位置付けになれないだろうか。大学病院を去るのはとても悲しいことなので、少しでもつながりを持てるならば、それはうれしい。 開業医は、周囲に利益をもたらす「鵜飼いの鵜」だった!? かくして松永氏の開業ストーリーが展開されるのだが、このあたりから果然、この本はおもしろくなっていく。 先輩の開業医のアドバイスによると、「資金調達が一番重要で、リース会社からお金を借りることが最優先」とのことで、さっそく利息が一番安いRリース会社に声をかけた松永氏。 やってきたのは、30歳くらいで快活でざっくばらんなGさんという営業マンだった。 大家さんにクリニックを建ててもらい、家賃を払いながら診察するという「建て貸し」なる方法を提案された松永氏は、自己資金が200万円しかないことをおそるおそる打ちあける。以下、そのときのやりとりである。 「で、でも、ぼく、お金が全然ないので。一応、弟から500万円くらいは借りられるんですが、自己資金はゼロみたいなものなんです」「あ、大丈夫です。貸します」「ぼくに貸して大丈夫なんですか? 潰れたら返済できませんよ」「あ、大丈夫です。開業して失敗した人、見たことありません」 そして、実際にGさんの言う通り、ホントに「大丈夫」だったのである。 「建て貸し」で開業医の関連業種すべてが潤う!? 「建て貸し」という方法で開業するには、クリニックを建ててくれる大家さん探しから始まって、家賃設定(業界的には建物面積1坪あたり1万円が相場なんだとか)、超音波検査器械やX線撮影装置などの医療器具の調達、税理士事務所との契約、門前薬局を探してお願いすることなど、実にさまざまな手順を踏まねばならないのだが、そのすべてをリース会社のGさんがやってくれたのだから。松永氏がやったことと言えば、看護師や事務スタッフの面接くらいだったという。 要するにGさんは、単にお金を貸すだけの人ではなく、世間知らずの医師の手を煩わさず、すべてをお膳立てしてくれる開業コンサルタントだったのだ。 そこで松永氏は初めてGさんの「あ、大丈夫です」の言葉の意を知ることになる。 そう、開業医が地域に根ざした診療を行えば、さまざまな人たちに利益がもたらされることになるのだ。 松永氏が開業医として診療を続けていけば、GさんのRリース会社のフトコロには借入金5000万円の返済(15年ローン)と年間1200万円のリース料が定期的に入ってくる。 大家さんにとっても、土地を遊ばせておくより、55坪のクリニックを建てて毎月55万円の家賃収入が得られるのはうれしい。 クリニックを建てるハウスメーカーも収益を上げるし、内装、備品から医療機器まで、関連する会社にもお金が入る。 クリニックにたくさん患者がくれば門前の薬局さんも潤うし、医療器具や薬剤をクリニックに卸す問屋さんも利益を上げられる。 そうか、ぼくは鵜飼いの鵜みたいなものか! この喩えを目にしたとき、思わず私は吹きだしてしまった。 開業医だからこそわかる「医療的ケア児」問題 とにかく、この本には「そんなことまで書いちゃって大丈夫?」と、こちらが心配になるほど、開業医の台所事情から、脳外科や耳鼻科といった他の開業医への苦言、医師会の内情などが赤裸々に書かれている。 ときにはニヤニヤと、ときにはクスクスと笑いながら読み進んでいくうち、私はあることについて、松永氏の見解を知りたくなった。 それは、医療の進歩と救われた命のケアの問題である。 現代の医療は「過去には救うことができなかった命を救えるようになる」という方向で進歩している。松永氏の専門分野である小児外科も、目覚ましく進歩してきたはずだ。 だが、その副作用として顕れてきた「救われた命のケア」が喫緊の課題になっている。 例えば、人工呼吸器や胃ろうによる経管栄養などの医療的ケアが必要な子どもを「医療的ケア児」というが、その人数は医療の進歩とともに増え続け、厚労相の推計によると全国に約1万8000人になるそうだ。 高齢者医療の未来を探る良書 実は、同じ事は高齢者医療についても言える。 65歳以上の認知症の人の数が2025年には約5人に1人に増加すると推計されている今の状況は、医療の進歩によって日本人の主な死因のがん、心疾患、脳卒中の治療が確立されてきたことが背景にあることは明らかだ。 もちろん、松永氏は私の期待に応えるかのように、本書の終盤を「医療的ケア児」についての記述に割いている。 そもそも松永氏は、医師になった1年目から、生命倫理について問題意識を持っていたという。だが、大学病院に勤務していた19年間は、「目の前の命を救うだけを考えて突っ走ってきた」だけで、「障害をもって生きるということはどういうことなのか」とか、「障害をもって生まれた子どもの家族がその子の障害をどう受けとめるのか」ということについては考えが及ばず、宿題のようになっていたのだという。 松永氏がその宿題に向き合う機会を得たのは、開業医になって6年目、総合病院の医師から「13トリソミー」という先天性染色体異常を持つ重い障害を持つ子の地元かかりつけ主治医になってほしいという依頼を受けたときだった。 小児外科医として松永氏が大学病院に勤務していたころ、その疾患は治療の対象になっておらず、短命に終わることが決まっていたが、生後7カ月の男の子は退院して自宅で過ごすことになったのだ。 その子は、視力も聴力もなく、飲み込むこともできない。心臓にも奇形がある。 その子の地元主治医を引き受けることは松永氏にとって、長年の宿題に取り組むようなものだった。こうして1年半にも及ぶ家族への聞きとりをもとに執筆した本が冒頭に紹介した、第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞した『運命の子・トリソミー』(小学館)である。 また、ゴーシェ病・急性神経症という日本で40人くらいしかいない難病の9歳の男の子との出会いをきっかけにして、『呼吸器の子』(‎現代書館)という本を執筆している。 我が子の障害を受け入れ、呼吸器の管理法を学び、1歳6カ月から在宅での24時間365日のケアを始めた母親は、「最初は地獄の底に落ちたような心境だった」と思ったそうだが、5歳になったころから「今の生活が楽しい」と思えるようになったという。そのことについて、松永氏は次のような見解に達する。 つまり、人というのは自由な存在で、たとえ障害児を持っても人は自由に生きることができる。生き方の選択が不自由になるということは決してない。自分で選ぶことができる。障害児を育てるのは、確かに大変だし苦労もある。だからと言って、「障害」と「不幸」をイコールで結ぶことはできないし、結ぶ必要もない。自由に選択し、自分たちの生き方を決定する。これが家族の尊厳だと思う。 この言葉は、医師1年生のころからの宿題に対して、真摯に開業医として向き合ったからこその解答だったのではないか。 最初は気軽に笑って読んでいられたが、終盤では居住まいを正して読まねばならないという気持ちにさせられた。 本書は、開業医の赤裸々な告白に留まらず、医療というものの未来についても深く考えさせられる良書だった。文句なしの★4つ本である。
ブックレビュー

『60歳からのマンション学』─「終の棲家をマンションで暮らしたい人」に効く1冊

住まいのことについて話をする際、必ず出てくるのが「賃貸が得か? 持ち家が得か?」という議論である。 前回紹介した『ほんとうの定年後』(講談社新書)では、老後の住居費負担が軽減するという理由で「持ち家は賃貸より良い選択」と断言していたが、その一方で、賃貸のほうが壮年期から老年期に移行するライフスタイルの変化に柔軟に対応できるというメリットを重く見る人もいる。 要するにこれは、決着のつかない議論なわけだが、今回紹介する日下部理絵氏の『60歳からのマンション学』(講談社α新書)を読めば、新たな視点で住まいというものを考えることができそうだ。 60歳を過ぎて、「終の棲家」をマンションにしようとする人が増えているというが、その選択はどれだけ有効なのか? ちょっと覗いてみることにしよう。 『60歳からのマンション学 』 著者:日下部理絵 発行:講談社α新書 定価:900円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 分譲マンションは果たして「終の棲家」にふさわしいのか? かつて日本には、賃貸アパートから始まって、分譲マンションを購入し、戸建てに買い換えてアガリとなる「住宅すごろく」と呼ばれるものが存在していた。 だが、著者の日下部氏は、その住宅すごろくが今の時代になって、常識と呼べるものではなくなったと指摘する。 それは、地価は必ず上昇し、転売するたびに資産を増やせるという「土地神話」が崩壊したからなのだが、その結果として、住宅すごろくの途中の分譲マンションをアガリとしたり、戸建てを売って分譲マンションに乗り換えようとする60代以降のシニア層が増えているというのだ。 子育て世代の人たちにとっては、子どもに部屋を提供できるような広い住まいが望ましいが、子どもが独立して家を出ていけば、広さはメリットにならない。掃除も楽にできてコンパクトに暮らせるマンションを「終の棲家にしたい」と考えるのは、確かに自然な選択のように思われる。 だが、本書を読んでみると、マンション住まいが60歳以降の人たちすべてに理想的かというと、そうでもないことがよくわかる。 安全・安心・快適な暮らしは、黙っていれば誰もが手に入れられるものではなく、マンション暮らしを選択した住民自身の努力でそれを勝ちとっていかねばならないのだ。 本書は8つの事例をもとに、理想的な暮らしを獲得する方法を探っていく。以下、その内容の一部を見ていくことにしよう。 マンションは、すべてが多数決で決まる民主主義の世界 まず、「事例1」で紹介されるのは、夫に先立たれ、終の棲家のつもりで購入した分譲マンションから賃貸マンションに住み替えようとしている73歳の和田信子さん(仮名)の事例だ。 住み替えの動機は、その分譲マンションが「ペット飼育不可」の物件だったからだ。 マンションは戸建てと違って、自分の都合でペットを飼える場所ではない。それでも住み替えをせずにペットを飼おうと思うなら、「ペット飼育不可」というルールを変更するしかないのだ。 それでも信子さんのマンションでは、「ペットを飼いたい」という意見は多く、都合のいいことに管理組合の理事会で検討中とのことで、信子さんは日ごろ参加していなかった総会に出席してみた。そこではこんな意見が交わされていた。引用しよう。 組合員1「いままで通り、ペット飼育不可がいいです。私の家族で重度のペットアレルギーを持つものがいるんです。わざわざ、ペット禁止だというから築古だけどこのマンションを購入したのに。お願いします。このままペット禁止がいいです」 組合員2「私はペット飼育に大賛成です。子供が飼いたいと言っており、子供の教育のためにも飼いたいです」 組合員3「私は外部に居住しており、賃貸に出しているのでどちらでもいいですが、正直なところ、ペット飼育可のほうが賃料が高くなり資産価値が上がると思います」 お互い、顔を合わせての意見のぶつかり合いとなると、かなりヒリヒリとする議論が交わされたことが想像される。 ペット飼育可にするには、管理規約の改正が必要で、組合員総数と議決権総数のそれぞれ4分の3以上の承認が必要なのだが、結果としてはペット飼育について「どちらでもいい」と思っていた組合員が家族にペットアレルギーを持つ人に対する同情票を投じて決議案は否決されてしまった。 そうなのだ。分譲マンションは、自分のものでありながら、すべてに自分の意見が通るわけではない。信子さんのようなひとり暮らしの高齢者だけでなく、子育て世帯や投資目的で物件を所有している人など、年齢や目的も異なる住民の合意形成が成立しなければ、何もできないのだ。 信子さんが「賃貸マンションに住み替える」という道を選ばざるを得なかったのは、そういうことが背景にあった。 60歳を過ぎるとますます借りにくくなる「年齢の壁」 本書を読んで初めて知ったが、ペット飼育可のマンションが主流になったのは2000年代以降で、それ以前に建てられたマンションのなかにはペット禁止のところも多いという。 現在ではほとんどの分譲マンションがペット飼育可だが、その背景には、1997年に国土交通省が中高層共同住宅標準管理規制の改正で、ペット飼育を「規約で定めるべき事項」と定めたことがある。 「ペット飼育」は、「生活音(騒音)」、「違法駐車・違法駐輪」に続いて「マンション三大トラブル」のひとつと言われているのだ。 ペット問題だけではない。住み替え先の賃貸マンションを探す際にも、信子さんの前に「年齢の壁」が立ちはだかった。 その問題は、気に入った物件の契約申込書を提出した際に露見した。その申込書を見た途端、不動産屋の担当者の顔色が変わるのが伝わってくる。 「お若く見えるので気が付きませんでしだが、正直申し上げますと65歳を超えますと賃貸マンションを探すのは一般的に困難を極めます。ただし、本物件は分譲賃貸ですのでオーナー様のご意向次第かと存じます」と言われ、オーナーの判断を待つことになった。 そして、「今回は見送りさせてください」という回答を受けとるのである。 国交省のデータによると、大家(オーナー)の約6割が60歳以上の高齢者に拒否感を持っていて、賃貸借契約の約97%において、何らかの保証を求めているという。 近年では連帯保証人を立てる代わりに、保証料を払って保証会社のサービスを利用するケースが増えているというが、賃貸保証料の相場は1カ月の家賃の50%だとされる。入居後も1~2年ごとに更新保証料が必要になるのでバカにならないコストである。 ただし、この本の美点は、ほとんどの事例を「悲劇の主人公」にしていたずらに不安をあおるのではなく、「自ら努力して困難を克服する人」として描き、トラブルを乗り越える方法を具体的に示している点にある。 信子さんの場合、UR賃貸という抜け道を見つけて「年齢の壁」を克服している。 事例を通じて、さまざまなトラブル克服法を解説してくれるのもこの本の特色だが、UR賃貸については、「民間の賃貸住宅に比べて物件数が少ないので選択肢が限られている」というデメリットも含めて次のように解説している。 その点、UR賃貸であれば、まず年齢だけで貸してくれないということはなく、本人確認のみで保証人や保証料は不要。礼金・仲介手数料なし、更新料も不要と、費用面での負担が少なく高齢者にとってありがたい物件である。また、特別募集住宅(住んでいた人が物件内で亡くなった住宅)なら入居から1年または2年間、家賃が半額に割り引かれることがある。 「成功者の証」タワマンの意外と気づかれていないデメリット ここで話はちょっと寄り道にそれるが、出版業界では本作りのテクニックとして、「本の冒頭にはもっとも引きの強いネタを置く」という手法がある。これは、「書店で立ち読みをして品定めをする人の多くは、最初の数ページを読んで購入するかどうかを判断する」という、迷信のような説によるものだが、本書について言えば、「事例1」の信子さん以外にも、読み応えのあるエピソードと解説が書かれていることは保証できる。 本書を読むことで、目から何枚もウロコがとれ、「マンション住まい」についての知識を改めさせられることも多かった。 例えば、一般的には「成功者の証」とした語られるタワーマンション(タワマン)だが、眺望のよさや資産価値の高さなどのメリットをはるかに上回るデメリットがあることを改めて知らされた。 確かにタワマンの眺望のよさは誰にも文句のつけられないものだが、早い人では「3日で飽きる」というし、全面ガラス張りの部屋は日射しが強烈で温室状態になるという(逆に階数が高くなるにつれて害虫がいない環境になり、窓を開けてすごせるというが、部屋によっては携帯電話の電波が届くにくくなるケースも)。 オール電化の物件だと、料理好きの人にはガスでの加熱ができずにレパートリーが少なくなるし、宅配ボックスが1階にしかなかったりすると5~10分待ちのエレベータの登り降りはかなりのストレスになる。 また、分譲マンションについてまわるのは、10~15年に1度の周期で行う大規模修繕があるが、タワマンの大規模修繕の事例はまだ少なく、建設を担当したゼネコンや、その子会社などの一部の業者しか選ぶことができず、安く施工してくれる業者を選ぶ余地もない。 大規模修繕は1回目より2回目、2回目より3回のほうが費用がかかるというが(3回目は2回目の約1.5倍かかるとか)、タワマンの場合、その負担は普通のマンションよりかなりの高コストとなるのだ。 日下部氏は、購入を薦めない金食いタワマンとして、次の特徴を挙げている。 ■細長いなど戸数が少ないタワマン  →戸数が少ない分、管理費や大規模修繕費の積立金がかさむため ■デザイン性が高いなど歪な形状をしている  →低層、中層、高層の異なるメンテナンス計画を用意する必要があり、費用がかさむ ■戸数の割に維持費がかかるスパやプール、カラオケ施設などがある  →「食べ放題」サービス同様、元をとるのは意外に大変 ■タワー式などの機械式駐車場があり、しかも空きが多い  →機械式駐車場はメンテが困難で、空きリスクの高い「金食い虫」 ■24時間有人管理でスタッフ数が多い  →スタッフの人件費ほどバカにならないものはない とにかく、8つの事例紹介と「事例からわかること」の解説を通じてわかるのは、マンションを理想的な終の棲家にするには、待ち構えているトラブルの種をひとつ一つ除いていく胆力と正しい知識が必要だということだ。 本書は、さまざまなトラブルを未然に防ぎ、それを克服する方法を知る上での道しるべになってくれるだろう。
ブックレビュー

『ほんとうの定年後』─「まだ誰にも知られていない、定年後の実態を知る」に効く1冊

「定年」というのは、ルーツをさかのぼれば江戸時代の隠居制度(家督を次代に譲って社会生活から遠ざかる)までいってしまうらしいが、1933(昭和8)年の内務省調査によると、その年齢は、50歳とする企業が60%弱、55歳とする企業が35%だったという(336社のうち140社がそのような定年制を採用していた)。 戦後の日本人の一般家庭を舞台にした『サザエさん』の波平さんが54歳なのは有名だが、これは「定年年齢にさしかかった、枯れた昭和のサラリーマン」を体現するための設定年齢だったのだろう。 ひるがえって、定年年齢が50代から60代までに伸びたのはいつごろからなのか?  あらためて調べてみると、高年齢者雇用安定法(高齢法)の改正によって「60歳定年」が企業の努力義務になったのが1986(昭和61)年、「60歳未満の定年が禁止」されたのが1994(平成6)年。その流れの中で、一定の年齢に達した社員が、課長や部長などの役職から退く「役職定年制度」(一部では「やくてい」と呼ばれているらしい)が登場している。 そして、2013年の高齢法改正では「65歳までの雇用確保措置」が義務化した。雇用確保措置とは、「定年の65歳までの引上げ」「65歳までの継続雇用制度の導入」「定年制の廃止」のいずれかの措置を事業主に課すことをいう。 さらには、2020年の高齢法改正では、「70歳までの就業確保措置」が事業主の努力義務とされた。つい、3年前の出来事である。 つまり、「60代定年」の歴史はそれほど古くないのである。「70歳定年」の経験者については、まだ微々たる存在に過ぎない。その結果として、多くの人がその生活の実態をイメージできない、未知の存在になっているということになる。 最近、「定年」にまつわる本が多く出版されているのは、そんな定年後の生活の実態を可視化してほしいというニーズが高まっているからだろう。 そんななかで注目されている、坂本貴志氏の『ほんとうの定年後』をレビューしていこう。 『ほんとうの定年後「小さな仕事」が日本社会を救う 』 著者:坂本貴志 発行:講談社現代新書 定価:920円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 大多数の人の「定年」は、みんなが思ってる以上に豊か 最初に断っておくが、この本の文章は非常に読みづらい。論文調で、砂を噛むような退屈な文体である。その理由は、はっきりしている。というのもこの本は、リクルートワークス研究所のアナリストである坂本氏が同所の研究プロジェクトを通じて書いた論文がもとになっているからだ。論文調なのは、もともとが論文だからなのだ。 にもかかわらず、私がこの本をお薦めしたいのは、多くの人にとって未知の存在である「定年」の実状を誰にもわかりやすい形で提示してくれているからである。 しかも、本が始まって4ページ目に、ズバリ結論から述べている。引用しよう。 定年後の仕事の実態を丹念に調べていくと浮かび上がってくるのは、定年後の「小さな仕事」を通じて豊かな暮らしを手に入れている人々の姿である。さらに明らかになるのは、このような定年後の「小さな仕事」が必要不可欠なものとして人々の日々の暮らしの中に埋め込まれており、かつそれが実際に日本経済を支えているという事実である この本が語っている定年後の生活の「典型」は、これ以上でも以下でもない。 若いころからの投資の恩恵で働くことなく左手ウチワで暮らしている金持ち父さんでもなければ、年金だけでは食っていけず、低賃金労働に身を投じてぢっと手を見ている貧乏父さんでもない。 定年後の「典型」は案外、のんびりしていて、けっこう豊かであるという、夢のある話なのだ。素晴らしいではないか。 月収10万円でも案外、豊かに暮らしていける 坂本氏は、定年者の「典型」をあぶり出す手段として、ふたつの方法を用いている。 ひとつは、コロナ前の2019年の統計データを用いて定年後の実態を検証する「第1部 定年後の仕事『15の事実』」と、7人の定年者のインタビューを通じて個別事例を紹介する「第2部 「『小さな仕事』に確かな意義を感じるまで」である。 そして、「第3部 『小さな仕事』の積み上げ経済」では、第1部と第2部で明らかになった定年後の実態を前提として、少子高齢化が進む日本社会がどのように変わっていかねばならないかを提言している。 第1部で示される「15の事実」をここで列挙してみよう。 事実1/年収は300万円以下が大半 事実2/生活費は月30万円弱まで低下する 事実3/稼ぐべきは月60万円から月10万円に 事実4/減少する退職金、増加する早期退職 事実5/純貯蓄の中央値は1500万円 事実6/70歳男性就業率45.7%、働くことは「当たり前」 事実7/高齢化する企業、60代管理職はごく少数 事実8/多数派を占める非正規とフリーランス 事実9/厳しい50代の転職市場、転職しても賃金は減少 事実10/デスクワークから現場仕事へ 事実11/60代から能力の低下を認識する 事実12/負荷が下がり、ストレスから解放される 事実13/50代で就労観は一変する 事実14/6割が仕事に満足、幸せな定年後の生活 事実15/経済とは「小さな仕事の積み重ね」である 「事実1」で国税庁の民間給与実態統計調査のデータをもとに明らかにされるのは、「60歳以降の就業者の年収の中央値は280万円(平均値では357万円)で、60代後半には180万円まで下がる(平均値だと256万円)」ということ。 このことは、次に続く「事実2」、および「事実3」にもつながっている。 実は、人生のうちでもっとも生活費を必要とするのは、30代後半から50代前半にかけての年代である。家族の食費に子どもの教育費、住宅費、税・社会保障費と、とにかくお金がかかる。そのあたりは、現在56歳で3人の子どもを養育中の私にも納得できる話だ。 だが、50代後半以降は、そうしたお金がかからなくなり、「生活費は月30万円まで低下する」し、「稼ぐべきは月60万円から月10万円に」なるのである。 なるほど、でも、3人目の長女が20歳になるのは、私が60歳のときだから、月10万では辛いなぁと個人的には思ったりして。でも、バブル崩壊を経験し、これから定年を迎えるサラリーマンにはおおむね、2つの事実は納得できるものなのではないか。 興味深いのは、「年をとって収入が下がっても、使うお金も少なくなるので大丈夫」という状態を維持できているのが、悪名高い「年功序列」を基本として組み立てられている日本の雇用慣行にあると坂本氏が指摘していることだ。 データからは、特定の時期に個人が受け取る収入は、その時期に必要になる家計支出額に応じて決まることわかる。人生で最も稼ぎが必要な時期があって、それに応じて高い報酬が支払われる日本型の雇用慣行は、こうしてみると実によくできた仕組みともいえる。 理屈上、給与は各従業員の能力やパフォーマンスによって決まるべきであるが、実際の従業員の給与はそのように決まってはいないのである。 日本型雇用慣行は時代遅れだけど、実はよくできた仕組み 「年功序列」の悪名の高さは多くの人にとって、周知のことだろう。とにかくここ最近、これを擁護する人の声をトンと聞かない。 もちろん、坂本氏も「少子高齢化による中高年社員の増加、転職の一般化などから、日本型雇用慣行は制度疲労を起こしており、時代にそぐわないものになった」ということは認めている。 現代人が『サザエさん』の波平さんの設定年齢が54歳であることに対して、「えっ!?」と驚いてしまうのは、「年寄り」の概念が昔と今とでは大きく違ってきたからだ。 医療技術の進歩や食糧事情、生活環境などが昔から比べて大きく改善されて現代においては、60歳を過ぎても20代後半から40代の壮年世代と張りあえるほどのバイタリティを持っている人は多い。そんな社会にあって、「年齢」を一律の基準として50代後半に役職の座から引きずりおろし、有無を言わせず収入減を押しつけ、60代後半で会社から追い払うというのは、いかにも理不尽だ。 だが、坂本氏はこう反論するのである。 定年制など現行制度の功罪を考える際には、この制度によって何が達成されているかを考える必要がある。まず、組織で健全な新陳代謝が行われているのは、まぎれもなく定年制のおかげである。こうした仕組みを通じて現在の役職者の任が解かれた結果として、仕事において大きな責任を負い、社会に大きな影響を及ぼしたいという意欲あふれる次世代の人たちが実権を握れるようになる。強制力をもった制度があったからこそ、現役の役職者もまた、こうしたプロセスのなかで組織内における地位を築けてきたはずである。 そうして考えてみると、日本型雇用慣行のカウンターとして導入されたジョブ型「職務給」や、職務の難易度や責任の度合いを等級に分けて報酬を決める「職能給」、仕事による結果のみを評価する「成果給」が脚光を浴びながら、そんなに馴染んでいかなかった理由も理解できるような気がするのだ。 未知なる「定年」に怯える必要はない では、月10万円の稼ぎによってもたらされる「豊かな暮らし」というのは、どんなものなのか? 第2部で紹介される、7人の実例の特徴について、坂本氏はこうまとめている。 定年後の人々の状況は実に多様であり、定年前と全く変わらずに仕事ができる人もいれば、病気を患うなどして仕事をすることすらままならない人もいる。こうしたなか、あえて定年後のキャリアの平均的な姿を描けば、体力と気力を中心に仕事に関する能力が緩やかに低下し、これに合わせて仕事のサイズが小さくなる。しかし、そうしたなかでも、目の前にある小さな仕事に対して確かな意義を感じていく。このような姿がむしろ定年後のキャリアの典型なのである。 それでも「本当か?」と疑う人は、本を手にとってよく読んでほしい。少なくとも私は大いに納得した。 未知なる「定年」という未来に必要以上に怯えることはないし、かといって過大な期待も必要ない。そんな心構えを身につける書として、本書は格好の手引き書になるだろう。
ブックレビュー

【落語家・立川談慶】「介護」とは、先人が教えてくれる、自らの老いへの「予習」なんですね

落語家にして、総著作数20作を超える著述家でもある立川談慶さん。おまけに趣味の筋トレを活かしてベンチプレス大会に出場するなど、マッチョな一面を持つ「異能の人」である。 そんな談慶さんが、師匠・立川談志との20年間に及ぶ交流を通じて学んだことを記した『武器としての落語』(方丈社)を上梓した。 天才談志と過ごした日々のこと、自らの人生をいかに生きていくのかということ、そんなあれこれについて聞いてみよう。 『武器としての落語 天才談志が教えてくれた人生の闘い方 』 著者:立川談慶 発行:方丈社 定価:1600円(税別) 入門して最初に言われたのが「おれを快適にしろ」という言葉でした ―『武器としての落語』は冒頭、1991年に談慶さんが七代目立川談志に弟子入りするところから話が始まります。談志師匠が最初に発した、「おれを快適にしろ」という言葉に翻弄されて、数々のしくじりを重ねたそうですね。なぜでしょう? 天才談志に弟子入り志願をするような人間は、何も私に限らず、自分に対して大なり小なり自負を持っているものです。「自分はおもしろいんだ」「談志の弟子になりさえすれば大成できる」とね。 実際、その前年には志の輔師匠が異例の早さで真打ちになっていました。志の輔師匠が広告代理店でバリバリ仕事をしていた社会人経験を経て、談志に入門したのが28歳のとき。当時、25歳だった私は志の輔師匠と同じく、3年間のサラリーマン経験がありましたから、同じ道を通れば、すんなり一人前になれると高をくくっていたんです。 「おれを快適にしろ」という談志のひとことは、そんな私の鼻をへし折るつもりで発した言葉だったのかもしれません。 師匠を快適にするとは、どういうことか? 頭をひねった私は、師匠の荷物を全部ひとりで持って、汗びっしょりになって働きました。ところが、これが大間違いでした。 師匠が弟子に重い荷物を持たせて威張っているという構図を周囲にさらすのは、談志がいちばん嫌うことだったんです。エレベーターに早く師匠を案内しようと、人混みをかき分けたりするのも大間違い。どちらもかえって師匠を不快にさせてしまい、どやされるわけです。 しくじった挙げ句に言われたのが、「おれに殉じてみろ」という言葉 ―落語家には前座、二ツ目、真打という3つの階級があって、二ツ目に昇進すると師匠の身のまわりの世話から解放されて、紋付きの着物と袴を着て高座にあがることを許されるといいます。通常、3~5年で二ツ目になる人が多いそうですが、談慶さんは9年半という異例の長さだったそうですね? はい、その通りです。談志は昇進の条件を、「二ツ目は古典落語50席、真打は100席おぼえる」と明確にして、著書にも書いたりしていたんですが、途中から「都々逸、長唄、かっぽれなどの歌舞音曲の修得」という条件が付加されたんです。古典落語は大学の落研時代からすでに30席ほどのレパートリーがありましたから、「あと20席おぼえたら二ツ目昇進」と思っていた自分としては、大いに不服でした。100メートル走を必死に駆け抜けてゴールしたのに、「今度はハードルだ、長距離だ」と別の競技を足されるようなもんですからね。ちなみに歌舞音曲の課題に関しても、私は盛大な勘違いをしています。談志に認めてもらうからには本式にやらねばと、テープやCDを聴いたり、小唄を教えてくれる教室に通ったりして唄をおぼえるわけですけど、「おれが求めているのはそういうのとは違うんだ」と、ことごとく否定されました。つまり、「唄をうまくうたえるようになれというんじゃない。落語の登場人物が酔っ払ってうたう調子でいいんだ」というわけです。そんな調子でしたから、談志の前座をつとめて5年目、私より2年遅れて入門してきた談笑が二ツ目に昇進して、弟弟子に追い越されてしまうようなことになるんです。ある日、そんな私に談志は言いました。「おまえ、そこまで不器用か。ならば、おれに殉(じゅん)じてみろ」と。 悩んだり、迷った末に気づいた、「倍返し」の境地 ―「おれに殉じてみろ」とは、すごい言葉ですね。 今の私なら、この「談志語」を自分なりに翻訳することができます。おそらく、「そこまで不器用なら、不器用に徹してみろ。その不器用さを活かして、おれを真似てみろ」という意味だったのではないでしょうか。その後も、自分がおぼえたことを談志に披露し、そのことごとくを否定される日々が続きました。気持ちが折れそうになった何度目かに、ふと気づくことがありました。それは、「迷っているのは自分のほうで、師匠がおれを迷わせているのではない」ということです。例え話で説明しましょう。鏡で自分の姿を見たとき、ネクタイが曲がってたら、まっすぐになるように直しますよね。普通なら、自分の首元に巻いてあるネクタイをずらして直しますけど、当時の私は、鏡に映っているほうのネクタイを直そうとしていたんです。これはもう、とんでもない勘違いです。いくら鏡をいじろうとも、曲がったネクタイは直りませんからね。結局のところ、師匠が提示してくる昇進基準を「無茶ぶり」ととらえて、ただこなしているのではダメで、自分から進んでアクションを起こしていかなければならないということに気づいたんです。そうなると、談志から「踊りを5つおぼえろ」と言われたら、10おぼえる。「唄を10曲おぼえろ」と言われれば20曲おぼえるという具合に、先回りして「倍返し」していくようになりました。そこからは、技芸を身につけていくことが嘘のように楽しめるようになりました。 天才談志はプロデュースの名人だった ―二ツ目昇進まで、普通の人の倍以上の9年半をかけた談慶さんですが、そこから真打に昇進したのは5年弱です。「二ツ目は通常、約10年」といいますから、かなりスムーズだったんですね? 本当は、二ツ目になって3年たったとき、「おまえ、真打になっていいぞ」と師匠から言われていたんですが、自分なりにまだ真打になるほどの器ではないと返事をズルズルと先延ばしにしていたんです。そんなある日、たまたま自宅の近くで独演会を開催した春風亭小朝師匠とお会いする機会があって、相談してみました。そのとき、「談志師匠がそう言ってくれているなら、早く真打になるほうが恩返しになりますよ」という言葉を聞いて、真打になる決心をしたんです。みなさん、ご存知だと思いますが、談志は頭にバンダナを巻いて高座にあがったり、サングラスをかけてみたり、髪の毛を染めてみたり、それまでの落語家がやらなかったことをやりました。メディアに伝えられるキャラクターとしても、「毒舌家」「破天荒」の落語家というイメージを多くの人が持っていると思います。でも、前座として9年半もの長い年月、前座として一緒に生活してきた私は、師匠が家族を心から愛するマイホームパパだったことを知っています。そのおかげで、男女ふたりのお子さんは、まっすぐに育った好人物ですし、師匠の「愛情を惜しげなくつぎ込む」という子育て哲学は、私もずっとお手本にしてきました。 ―もしかすると談志師匠は、落語の名人だっただけではなく、自己プロデュースの達人だったのかもしれませんね? 本当に、そう思います。今思えば、9年半という長期間、私を前座の身に据え置いていたことさえ、ある種の計算があったのではないかと思えてきます。 生前、談志は弟子たちに「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」と言っていましたが、私が落語家としては異例の20冊以上の書籍を執筆できているのは、談志が「異例の長さの前座修行をした男」という経歴をつけてくれたおかげだと思うんです。 談志は自らの「老い」を人一倍、恐れていた ―談慶さんが談志師匠に弟子入りしたのは25歳のときですが、当時の談志師匠はちょうど30歳年上の55歳。どんな様子でしたか? そりゃもう、エネルギッシュでしたよ。朝から肉料理をガツガツ食べて、映画の試写会に行った足でプロデューサーと打ち合わせをしたり、メディアの取材を受けたり、そうかと思えばパーティに顔を出してジョークを言ったり。そばについてるだけでクタクタになるほどでしたが、師匠は一日中しゃべっていてもつねに元気でした。 落語家は年をとったら味が出る、なんてよく言われます。でも、談志は「そんなのは嘘だ」と否定していました。 談志の豪快磊落、天衣無縫な落語は、実は「落語は業の肯定である」という定義のうえに組立てられた緻密な計算があって成り立っていました。豪快さと繊細さ、その両面を備えた緻密な落語を表現するには、人並み外れた胆力と体力が必要です。 ですから談志は、自分が老いるということに対して、人一倍の恐怖心を持っていたと思います。 実際、62歳で食道がんになったとき、記者会見でタバコを吸って見せたりしたのは一種のやせ我慢的なポーズで、これをきっかけに自分の健康を維持することに大変、気を遣うようになりました。 ―さすがの談志師匠も、年には勝てないということですか? 談志が得意としていた古典落語の演目のひとつに「野ざらし」があります。おっちょこちょいな八五郎という主人公がサイサイ節という唄をうたいながら河原で釣りをする見せ場があって、演じるのにかなりの体力を要するんですが、そういうネタをだんだんやらなくなりました。 そうかと思えば「落語はイリュージョンだ」と定義替えをしたり、落語の途中に解説ふうの話を入れたり、時事ネタを放り込んでみたりして自分の落語観をアップデートしていきました。 今思えばそれは、「老い」への抵抗だったのかもしれません。つまり、若いころは剛速球で馴らした投手が、ピークを越えて変化球投手に鞍替えするようなものです。 私が真打ちになったのは、談志が70歳になった年で、私は40歳になってましたが、そのトライアルの席で談志はこんなことを言いました。「お前もいつか、わざと落語を下手にやりたくなる日が来る。その日が来なかったら、嘘だと思え」と。 芸の道というのは途轍もなく奥深いもので、「わざと下手にやる」なんて境地が本当にあるのかと首をひねりたくなりますが、このころの談志は、ただお客さんを楽しませるだけでは満足できない域に達してしまったのかもしれません。 ちなみに晩年は、「イリュージョン」から「江戸の風」と言っていました。 人生を丸ごとつぎ込まねば学べないことがある ―談慶さんにとって、談志師匠の落語のピークはどのあたりだと思いますか? そりゃ、何といっても2007年12月18日、72歳の談志がよみうりホールでやった「芝浜」でしょうね。 多くの人から「伝説的名演」と評価されているだけでなく、談志自身、「あれは神様がやらせてくれた最後の噺だったのかもしれない」と語ったほどですから。 そこから先は、「老い」に身を任せてソフトランディングしていくような感じだったと思います。 74歳で咽頭がんを患って、その翌年に声帯摘出手術を受けるまでの最晩年の高座は、兄弟子の談春兄さんいわく、「落語と一席ずつお別れしているようだった」といいます。 ―師匠と過ごした20年間をふり返って、天才談志の「人生の去り際」は談慶さんの目にどのように映っていますか? 談志は、最後の最後まで落語家だったと思います。そして、その手本となる生き方を身をもって私に教えてくれました。 人は誰だって「老い」には逆らえないし、人生の最後には必ず「死」がやってきます。そう考えてみると「介護」というのは、ただ老いた人を手助けすることを指すのではなく、老いた人から人生の仕舞い方を教えてもらう「予習」のような場なのかもしれませんね。 数年前、83歳で亡くなった父のときも、同じようなことを感じました。葬儀を終えたとき、思春期の入り口である反抗期を迎えたばかりの長男と次男に目をやると、ふたりとも泣きじゃくっていたんです。「親父は、亡くなることで孫に情操教育をしてくれたんだな」と感じて、私ももらい泣きしてしまいました。 以前、寿司職人が「飯炊き3年、握り8年」で、一人前になるには最低10年かかるという話を「バカバカしい」とSNSで批判した人がいましたね。その人にとっては、落語家の修業も同じように見えるのだと思いますが、厳しい徒弟制度に自分の人生を丸ごとつぎ込むような形ではないと学べないこと、伝えられないことが私はきっとあると思うんです。 「老い」に対抗する唯一の手段は、自分の体の声に敏感になること ―ところで談慶さんは、筋トレが趣味で、57歳になっても「ベンチプレス100㎏以上を上げる落語家」として有名ですが、これは談慶さんなりの「老い」に対する抵抗なのでしょうか? そうかもしれません。筋トレをはじめたきっかけは41歳のとき、頸椎ヘルニアになってしまったことでした。幸いなことに、カイロプラティックの名医と出会って痛みは治まったんですが、「今回の処置は、あくまで応急処置です。再発しないようにするには、背中の僧帽筋を鍛えて筋肉でガードするしかありません」と言われてジムに通うようになったんです。以来、休まずにジム通いを続けられているのは、筋トレが生活のメトロノームのようになっているからです。朝早くに、ジムに行って、ひと眠りしたあと午後の2時から仕事をすれば、時計の針が深夜の12時にまわる前から眠くなります。爆睡して目覚めてみれば、疲労から完全に回復しているから、また筋トレをしたくなる。そんなふうに筋トレが生活のリズムを整えてくれるんですね。 ―では、談慶さんはまだ「老い」を意識することは少ないんでしょうね? いえ、そんなことはありません。50代なかばを過ぎると、体のいろんなところにガタがくるようになりました。 この間、肩の関節をやっちゃって痛みがしばらく残ってますし、古傷のヒザの半月板も痛むようになってきました。「筋肉は裏切らない。鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」というのが私の口癖でしたけど、「関節」は平気で裏切ってきますね(笑)。 あと、私は2022年の1月にコロナに感染しましたけど、これも「老い」と関連があると思ってます。 実は、前兆があったんですよ。筋トレしたあと2日続けて体に寒気が走ったんです。「あれ?」と思ったけど、「まぁ、大丈夫だろう」と油断して放置してしまったのがいけなかったんですね。3日目に発熱して、陽性であることがわかりました。 要するに「老い」のせいで無理が利かなくなってきたってことです。ですから、これからは体の声に敏感になって、感受性を高めなければならないと思っています。 年をとるというのはネガティブなことばかりじゃない ―新型コロナウイルスの感染拡大は、落語家としてのキャリアに重大なダメージを与える出来事ですよね? もちろんです。それ以前に予定していた落語会はすべてキャンセルになり、スケジュール帳はまっ白になりました。落語家にとって「三密」を禁じられるというのは、鳥がツバサをもがれるようなものです。というのも、音楽のコンサートや演劇以上に、落語の表現形態は演者とお客さんとの距離が近いんです。もちろん、ミュージシャンや演劇人より、落語家のほうが被害が大きいと言うつもりはありませんが、落語家の表現の環境がコロナ前に戻るには、他ジャンルよりも長くかかるんじゃないかと思っています。ただ、泣き言ばかりいって、コロナを恨んでみたところで、何にもなりません。そこで、暇になった時間を本の執筆に振り分けるようにしました。それまで忙しくて断っていた企画も引き受けて、表現の場を高座から紙の上に移し変えたんです。もともと、コロナになる前から10冊以上の著書を持っていましたので、頭の切り換えは早かったんです。おかげでこの3年間で11冊の本を出すことができたし、そのうちの1冊、『花は咲けども 噺せども 神様がくれた高座』(PHP文芸文庫)では小説家デビューすることもできました。まぁ、寝る間を惜しんで執筆に時間を割いたせいで、ストレスが溜まってコロナにもかかってしまったわけですが、それだって「これからは体の感受性を磨いていこう」という教えを与えてくれたわけですから、ポジティブに働いた経験だったとみることもできます。 ―談慶さんのその「転んでもただでは起きぬ」という発想、素晴らしいです。 自分の「老い」との向き合い方にも、その発想は使えると思いますよ。 最初に、談志に弟子入りしたばかりの私が「おれを快適にしろ」という談志語を理解できずにしくじった話をしましたよね。 でも、年をとることで「こういう意味だったのか」と、その言葉の真意に気づくことができます。そして、その教えをネタにして、作家として表現の場が与えられている。「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」という談志の生前の予言は、まさに的中しているんです。 そう考えてみると、年をとるのは決してネガティブなことばかりじゃなくて、ポジティブな面も多分にあるっていうことがよくわかります。 ありがたいことに、落語家には「定年」というものがありません。師匠である談志が見せてくれたように「生涯現役」の生き方をお手本にして、これからも頑張っていきたいですね。 撮影/八木虎造
ブックレビュー

『壊れた脳と生きる』─「高次脳機能障害を正しく理解し、正しく支援する方法」に効く1冊

鈴木大介氏は、『最貧困女子』(幻冬舎新書)などの著書を通じて、社会的に発言の機会を与えられていない弱者を取材し、そうした人々の声なき声を代弁してきたルポライター。 そんな彼が41歳のときに脳梗塞を発症し、言語や記憶、感情のコントロールなどをつかさどる「高次脳機能」に障害を持つことになった。 取材対象者の話を聞いて、記事を作るという職業的ライターにとっては致命的な障害だが、彼は取材対象を自分自身に移し変え、『脳が壊れた』『脳は回復する』(ともに新潮新書)などの著書を通じて、高次脳機能障害の不自由さと苦しみに満ちた世界を脳内ルポしている。 本書はその鈴木大介氏が、1994年に日本で初めて高次脳機能障害専門の診療科を設けた東北大学病院に勤務し、同大学教授をつとめる鈴木匡子氏との対談を通じて、この障害の「理解」と「支援」の方法を模索する様子が語られている。 高次脳機能障害は、身体の麻痺などのように外見ですぐに分かるものではないため、「見えない障害」とも呼ばれ、医療従事者や家族などの支援者たちの「死角」になってきた。本書は、それを見事に可視化してくれる本だと思う。未知なるその世界を覗いてみることにしよう。 『壊れた脳と生きる――高次脳機能障害「名もなき苦しみ」の理解と支援 』 著者:鈴木大介/鈴木匡子 発行:ちくまプリマー新書 定価:920円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 目の前で話している人の言葉が、脳内から消えていってしまう状態とは? 冒頭の「はじめに」で大介氏が指摘するのは、高次脳機能障害を「分かりやすく言語化すること」のむずかしさだ。引用しよう。 身体の不調であれば「こっちに曲げると痛い」「ここを押すと痛い」のように容易に言語化できますが、高次脳機能障害はこの「痛い」に相当するような言葉がない苦しさや不自由があまりに多いのです。例えば病後の僕は、かなりの期間「他人(ひと)の話を上手に聞く」ことに不自由を感じ続けました。とはいえ、耳が聞こえないのではありません。相手の話は、決して難しくない日常会話です。日本語の意味だって分かる。文字を書くことも読むこともできます。ただ、相手の話に自分の理解が追いつかなかったのです。 このような不自由は、今聞いたばかり、見たばかりのことを脳にとどめておくことができないという「作業(作動)記憶」の低下から生じるもので、目の前で話している人の言葉が、リアルタイムで脳内から消えていってしまうのだという。 脳梗塞や脳出血などの脳卒中の治療は、発症から2週間までを急性期、6カ月までを回復期、それ以降を生活期(あるいは維持期)と呼ぶのだそうだが、生活期は退院して生活の場でリハビリテーションをおこなう。だが、大介氏は退院当日に行ったスーパーマーケットで手痛い洗礼を受ける。 照明はまぶしいし、商品が棚一面に陳列されているのを見るだけで心が一杯になって何もできなくなるし、音響もBGMから安売りの録音からずっと流れているし。おまけに駆け回っている子どもがいたりして。生まれたてのシカが内股をふるふるしながに立ってるような状態で、もうどうにもならなくなりました。 脳のスペックが極端に落ちてしまったことが原因だろうが、不思議なことに、自分にとって一番聞きたくない不快な音をピックアップして聞き取ってしまうという。 この現象について、聞き手の鈴木匡子氏(きょう子先生)はこう解説する。 注意の機能から説明できるかもしれません。注意には自分が必要とする情報を取れるように、目的とするものに向かって働く指向性があり、それ意外の情報は抑制する働きがあります。それがうまく働かなくなると、色々な刺激がどれも同じ強さで入ってしまう。さらに情動的な負荷の高いもの、大介さんの場合は自分にとって不快な声や音が聞こえると、自分の意図とは無関係にそちらに注意が向いてしまうという状況だったのかもしれませんね。 そんな状況において、大介氏は倒れてから10日後くらいに闘病記の企画書を版元に提出し、病院内で起こるさまざまな困りごとをメモしていったというからすごい。 読み返すと、最初は病棟内で、表情が作れない、うまく言葉が出てこない、話せない。あと視線がロックしてしまう、思考がロックしてしまう、早口で相手に一方的にしゃべってしまう。一方的にわーって話して、途中で何言ってるか分からなくなったり、話し終わって、その後もう何も続かないみたいなことがあって、コミュニケーションがおかしいとか。そういうことを逐一書き出してありますね。 支援者には、高次脳機能障害を見分けるプロの「山菜採り」になってほしい ところで、身体に麻痺が残らなかった大介氏の場合、リハビリはPT(理学療法士/Physical Therapist)ではなく、OT(作業療法士/Occupational Therapist)かST(言語聴覚士/Speech-Language-Hearing Therapist)が担当することになる。 ところが驚いたことに、そうした支援のプロたちのなかにも高次脳機能障害がどんなものかについて、くわしい知識を持っていない人がいたというのだ。 病後の僕が何より苦しかったのは、できないことを理解してもらえない、不自由を無いことにされてしまうことでしたから。STの先生に「話せない」と訴えているのに、「上手に話せていますよ」の一点張り。ユーチューブにある僕の病前の対談の音声を聞いてもらっても、「今と変わりませんよ」って言われたことすらあった。そういう相手には、心を閉ざすしかない。 STは、主に言語障害、音声障害、嚥下(えんげ)障害に対しての専門家で、合格率50~60%と言われる国家試験に合格しなければなれない専門職だ。しかも、このケースは大介氏がたまたま無能なSTに出会ってしまったわけでもないことが次の発言でわかる。 例えば、先ほど例を出した「鈴木さんお上手に話せていますよ」の残念なSTさんは、家庭内の環境とか夫婦関係の調整については、すごく短時間で問題を見抜いて、誰よりも具体的で実効性のあるアドバイスをしてくださった方でもあるんです。でも一方で、超元気で声が大きくて早口で、そうした点も心を閉ざした理由だったんです。 一方、大介氏の不自由さに配慮して、ゆっくり対応してくれる人からも、「麻痺が軽くてよかったですね」というキラーワードを言われてしまったという。「つらいです」と訴えているのに、「でも良かったですね」と返されてしまうと、絶望的な気分に追いやられてしまう。「無理解」は「攻撃」だ、と大介氏は訴える。 これに対して、きょう子先生はこう説明する。 高次脳機能障害の認知リハビリには、一般的なマニュアルはないのです。麻痺などの症状に対しては、おおよそ決まったリハビリの方法があって、こういう順番でこれをやるということがほぼ確立されていますが、認知リハビリにそういうものはありません。(中略)たとえマニュアルがあったとしても、その通りにやってもうまくいかないのではないかと思います。一人ひとりにどこかしら合わない部分が必ず出てくる。大量生産の既製服ではなくて、仕立てるように、個々の症状に向き合ってきちんと合わせていかなければ、体に合ったものはできない気がします。 こうした課題を解決する糸口は、ふたりの次の会話から示唆される。 きょう子先生 観察することの前提として、症状に関する知識が必要です。基礎的な知識を持ったうえで見ないと見えないことが山ほどありますので。たとえて言うと、山菜採りに山へ行って、山菜採りの名人は、あ、そこにワラビかずある、とすぐに見える。私たちは同じ風景を見ていても、え? どこにワラビがあるの? と分からない。高次脳機能障害の症状もそれに似ています。こういう症状が出るだろう、こういうことが起こり得るだろうと知識や経験から予測してみると、見えてくるところがあるのです。大介 その喩え、すごくよく分かります。現場の人は全員、山菜採りのプロになってほしい。とりあえずその山にある山菜は全種類知っておいてほしいと、切に願います。 高次脳機能障害は、医療の進歩が作り出した「副作用」なのか? 本書は高次脳機能障害になった大介氏の不自由さと苦しさについての記述がこれでもかという量で語り尽くされているが、それでも読んで不快にならないのは、ふたりの会話が高次脳機能障害の「理解」と「支援」に向けて、建設的に議論を進めているからだろう。 何より、大介氏の症状が年月を経て、少しずつ回復している点には大きな希望を感じさせられる。 僕もいろんなことができなくなって、それこそ死んでしまいたいと思うような日も数え切れぬほどありました。けれど、実は元に戻って一番うれしかったのは、すごく些細なことだったんです。それは、人の話を聞きながら相づちを打ったり、にやっとしたり、ツッコミを入りたりすること。3年近くかかりました。生活や仕事の上ではもっと深刻なことでいっぱい困っているし、いまも困り続けていることがあるけれど、自分の回復目標に「ツッコミが入れられること」は普通設定しませんよね。なので当事者によって、何を目標にするのかについては、実は本人にも誰にも正確に定められないもののように感じなくもないです。 脳血管疾患は、1位のがん、2位の心疾患に次いで3番目に多い日本人の死因だが、昭和40年代まではダントツの1位だった。 これは医療の進歩による成果と言えるだろう。現在の医療は、基本的に「過去には救えなかった命が救えるようになる」という方向で道を歩んでいる。CTやMRIなどの検査技術をはじめ、手術にロボット技術が採用されるようなイノベーションが起こり、その進歩は加速度的に早くなっている。 だが、それによってある種の「副作用」というものが生じてきているのも事実である。それは、「高度な医療によって救われた命の予後のケア」が新たに必要になったことだ。 高次脳機能障害の現状を知るにあたり、その副作用の解消は喫緊の課題だろう。同じようなことは、産まれながらに人工呼吸器や心肺装置を必要とする障害児童が増えているケースにも言えることだし、医療の進歩と長寿化によって生じた認知症についても言える。 本書は、そうした現代の課題を見事に「可視化」してくれる、ためになる本だった。
ブックレビュー

『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』─「私たちの常識を疑う」に効く1冊

文化人類学はおもしろい、という確信があった。 「奥地」とか、「秘境」と呼ばれる土地に学者が分け入って、西洋を中心に築かれてきた文明・文化とは異なる環境で生きてきた人たちの生き方を垣間見させてくれる。「多様性」という今の時代のキーワードを語る上で、重要なヒントをもたらしてくれる学問だ。 そんなこともあって、「これからの時代を生き抜くため」と「文化人類学入門」というふたつの言葉の結びつきは一見、違和感がありそうで、実は納得感があるように見えた。 だが、この本の冒頭で、西洋の文明・文化と異なる人々の生活を「未開」ととらえ、西洋が発展してきた進化の「途上」にあるとする考えのもとに構築してきた文化人類学が、その成り立ちを反省して「マルチスピーシーズ人類学」という分野に発展していることを改めて知らされた。 マルチ(複数)なスピーシーズ(種)を扱う「マルチスピーシーズ人類学」は、「これからの時代を生き抜くため」に大いに有効な知見を与えてくれる考え方と言えるだろう。その入門書として、本書は非常に有益な書である。 『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』 著者:奥野克巳 発行:辰巳出版 定価:1600円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 2010年以降に新たに登場した「マルチスピーシーズ人類学」とは? 著者の奥野克巳氏は、立教大学で2008年に全国に先駆けて新設された異文化コミュニケーション学部の教授をつとめる人類学者。東南アジアのボルネオ島の狩猟民プナンのフィールドワークを通じて著した『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)などの著書で知られている人だ。 まず、第1章の「文化人類学とは何か」で語られるのは、15世紀以降、未知の世界とその文化を知るという欲望から生まれたこの学問が、19世紀になって西洋列強国による植民地主義を正当化することに利用されてきた文化人類学の歴史だ。 ダーウィンによる生物進化論の影響を受けて、文化や文明もまた進化するという考え方のもと、西洋文化が進化の頂点にあると位置づけられ、それ以外の劣った文化・文明を持つ人々を教え導き、啓蒙することを使命とすることが目的化されたのだという。 その流れは、20世紀になって大きく変貌する。人類学者のブラニスラウ・マリノフスキらが現地の生活に浸りきって、その社会の全貌を内側から解明しようとするフィールドワーク(参与観察)という手法を取り入れることで。 20世紀の文化人類学は、異なる文化を同じ地平に置き、その優劣を問わず、いずれの文化も固有の価値を有しているということを認めて、その多様なあり方を描き出すという新しい視点を手に入れたのだ。 というのが、第1章の大まかな内容だが、その結論として第5章で紹介されるのが、2010年以降に新たに登場した「マルチスピーシーズ人類学」という考え方だ。引用しよう。 マルチスピーシーズ人類学がもくろんでいるのは、人間だけが地球上で主人公として君臨するのではなく、人間を含み、人間以外の存在から構成される世界がまずあって、その一部として人間が生き、死んでいくという考え方を重視することです。そして、そのような考え方に基づいていかに世界を見ることが可能かを、民族誌をつうじて探求することにあります。 つまり、人間は単独で生きているのではなく、他の動物や植物、微生物、ウイルス、森や山河といった自然物などとともにこの世界を作りながら生きてきたという視点から物事を理解しようというのである。 「西洋文化とそれ以外の文化」の垣根を乗りこえたのが20世紀だったとするなら、21世紀は「人間とそれ以外の自然」の垣根をぶちこわそうというわけだ。 文化人類学がそんなことになっているなんて知らなかった。驚きである。 プナン語に「ありがとう」という言葉がない理由 というわけで、ダイバーシティ(多様性)からマルチスピーシーズ(複数種性)に生まれ変わった文化人類学の「入門書」として、本書では他の研究をふまえたさまざまな成果が語られるが、やはり魅力を感じるのは奥野氏自身がフィールドワークをしたボルネオ島の狩猟民プナンについての記述だ。 例えば、プナンの人たちには「けちであってはいけない」という強固な社会規範があるというが、そのことを説明するうえで、次のようなエピソードが語られる。 私が春夏の年2回のペースでプナンの居住地を訪れる際には、世話になっている受け入れ先(ホスト)の男性の家族に時計やポーチバッグなどの土産物を持っていきます。しかし、私の贈り物はすぐに、それらを欲しがる別の誰かの手に渡ります。珍しい物を見て、人から欲しいと乞われて分け与えることもありますが、何も言われなくとも人に分け与えることもあります。そして、それを受け取った人はさらに、また別の人に分け与えるのです。 おもしろいのは、プナンの人たちのこうした気前のよさは、自然発生的な感情ではなく、実は独占したいという感情との葛藤から生み出されているということだ。 というのも、奥野氏がある日、1人のプナンの子どもに飴玉を与えたところ、その子どもは飴玉を握りしめ、他の子どもに与えず独占しようとしたという。すると、その様子を見た母親が「分け与えられた食べ物を独り占めしてはいけないよ。隣にいる誰かに分け与えなさい」と諭したというのだ。 プナンの人たちの間でこうした社会規範が生まれた理由を奥野氏は次のように説明する。 「いま」分け与えておくと、「あと」で手元に何もない時に分け与えてもらうことができます。そのように決めておけば、お互いに支え合って、みんなで生き延びることができるでしょう。それは、個人所有を前提として、貸すとか借りるというのではありません。プナンの心には、あるものはみんなで分かち合うという「シェアリング」の理念が、植えつけられ、育まれているのです。 その結果として、プナン語には、何かをもらったときに相手にかける「ありがとう」に相当する感謝の言葉がないのだという。その代わりにプナンの人たちが使うのは、「ジアン・クネップ」という日本語に訳すと「よい心がけ」という意味になる言葉だ。 つまり、もの分け与えた人に気前のよさを讃える言葉しかないというのだ。 プナンの人たちが「けちであってはいけない」という社会規範を持っていることについて、奥野氏は次のように感想を述べている。 個人所有を奨励する私たちの社会と、個人所有を否定するプナンの社会を、「進歩」という歴史観で並べてみると、個人所有に重きを置かないプナンたちは「遅れている」とみなされてしまうでょう。実際のところ、そのどちらに優劣があるのかを決めることは不可能です。しかし、現代日本の社会の歪みを考えた時には逆に、プナンの社会はなんと豊かなのかと感じることもしばしばあるのです。 「ありがとう」がない代わりに「心の病」もない社会 私たちの社会にはあって、プナンの人たちにないものは、「ありがとう」という言葉の他にもたくさん紹介されている。 例えば、トイレ。 プナンの居住地には州政府が衛生政策と称して作ったトイレはあるが、そこは狩りに使う吹き矢やライフル銃などの物置になっていて、彼らはもっぱら居住地から少し離れた森のなかの「糞場」で用を足すのだという。 プナンは、糞場を通り過ぎる時、これは、昨日食べ過ぎた誰某(だれそれ)のものであるとか、腹を下している誰某のものであると意見を述べ合うことがあります。「あれだけ猪肉を食ったのに、熊の肉のようにひどいにおいだ」などと、誰かの糞便を品評するのです。(中略)そのようにして、居住空間の近くにまき散らされた糞便は、他の狩猟キャンプのメンバーの目にさらされ、品評の対象となるのです。糞便のにおいや色つやは、メンバーの食と健康の指標なのです。 こうした社会を、「息の詰まる窮屈な社会」と解釈することもできるが、「人と人が支え合って充足している社会」とも解釈できる。それが奥野氏の言う、「優劣で測ることのできない」ということだ。 プナンにはまた、精神病や心の病といった言葉も存在しないという。 プナンは、独りで思い悩んだり、あれこれ考えあぐねたりするようなことがありません。そうしたプライバシーが保たれた時間も空間もないのだと言えます。のべつ誰かがそばにいますし、誰かが自分のことを気にかけています。思い悩む暇がないほど、個が集団に溶け込んでいるとも言えます。ヒゲイノシシが獲れたら、真夜中の3時であろうが叩き起こされ、食事をするように強いられます。そうした点が、ことによると心の病が「ない」ということに関係しているのかもしれません。 プナンは狩猟採集民だが、私たちが何となく持っているイメージに照らし合わせると、彼らが常に食料不足に怯え、あくせくと森に入って獲物を探しているように想像してしまうだろう。「進化」的な歴史観では、狩猟採集のあとに農耕や牧畜が始まり、飢えに苦しむ心配のない、安心・安全で「高度」な社会になったと見てしまうのだが、それは大きな間違いだということも説明される。 マーシャル・サーリンズというアメリカの人類学者が明らかにしたことですが、実は狩猟採集民が狩りや採集を行うのは、非常にごくわずかで、それ以外の時間は休んだり、ゆったりと過ごします。ところが、農耕や牧畜になると四六時中、作物や家畜の世話をしなければならなくなり、むしろ忙しいのです。狩猟採集のほうがその都度、必要な摂取カロリーを満たす分の獲物を手に入れればいいわけですから、そんなに働く必要がないわけです。サーリンズは狩猟採集で暮らした石器人こそ、「原初の豊かな社会」を生きていたと唱えて、私たちの認識を逆転させました。 目のウロコが何枚あっても足りないほど、この本は新たな知見に満ちた本だった。まさに「これからの時代を生き抜くため」に必読の書と言えるだろう。

よく読まれている記事

よく読まれている記事

article-image

介護付き有料老人ホームとは│提供されるサービス・費用・入居条件などを解説

介護付き有料老人ホームは、介護スタッフが24時間常駐している介護施設。介護サービスや身の回りの世話を受けられます。 この記事では、介護付き有料老人ホームの種類及び入居のための条件や必要な費用、サービス内容などを詳しく説明しています。 https://youtu.be/oK_me_rA0MY 介護付き有料老人ホームの特徴 介護付き有料老人ホームとは、有料老人ホームのうち、都道府県または市町村から「特定施設入居者生活介護」の指定を受けた施設です。24時間介護スタッフが常駐し、介護や生活支援などは施設の職員により提供されます。 主に民間企業が運営しているため、サービスの内容や料金は施設ごとに異なります。また、入居基準も施設により異なり、自立している方から介護が必要な方まで幅広く受け入れている施設も。選択肢が幅広いため、自分に合った施設を選ぶことができます。 看取りまで対応している施設も多数あり、「終の棲家(ついのすみか)」を選ぶうえでも選択肢のひとつとなります。 全体の概要をまとめるとこのようになります。 費用相場 入居時費用 0~数千万円 月額利用料 15~30万円 入居条件 要介護度 自立~要介護5※1 認知症 対応可 看取り 対応可 入居のしやすさ ◯ ※施設の種類によって異なります。 特定施設入居者生活介護とは 特定施設入居者生活介護は、厚生労働省の定めた基準を満たす施設で受けられる介護保険サービスです。ケアマネジャーが作成したケアプランに基づき提供される食事や入浴・排泄など介助のほか、生活支援、機能回復のためのリハビリなどもおこなわれます。指定を受けてこのサービスを提供する施設は、一般的に「特定施設」の略称で呼ばれています。 介護付き有料老人ホームの種類と入居基準 介護付き有料老人ホームには「介護専用型」「混合型」「健康型」の3種類があり、それぞれ入居条件が異なります。 介護度 ...

article-image

グループホームとは|入居条件や費用、入居時に気をつけたいポイントを解説

認知症の方の介護は大変です。「そろそろ施設への入居を検討しよう」と思っても、認知症の症状があると、入居を断られてしまうのではと心配もあるでしょう。 グループホームは認知症高齢者のための介護施設です。住み慣れた地域で暮らし続けられる地域密着型サービスであり、正式な名称を「認知症対応型共同生活介護」といいます。 こちらの記事では、グループホームについて解説します。また、グループホームで受けられるサービスや費用、施設選びのポイントも紹介しますので、ぜひ参考にしてください。 https://youtu.be/EofVO7MRRDM この記事を読めばこれがわかる! グループホームの詳細がわかる! グループホームを選ぶ際のポイントがわかる! グループホームへ入居する際の注意点がわかる! グループホームとは グループホームとは、認知症高齢者のための介護施設です。専門知識と技術をもったスタッフの援助を受けて、要支援以上の認知症高齢者が少人数で共同生活をおくります。 「ユニット」といわれる少人数のグループで生活し、入居者はそれぞれ家事などの役割分担をします。 調理や食事の支度、掃除や洗濯など入居者の能力に合った家事をして自分らしく共同生活を過ごすところが、ほかの介護施設や老人ホームとは異なるポイントです。 グループホームの目的は、認知症高齢者が安定した生活を現実化させること。そのために、ほかの利用者やスタッフと協力して生活に必要な家事を行うことで認知症症状の進行を防ぎ、できるだけ能力を維持するのです。 グループホームは少人数「ユニット」で生活 グループホームでは「ユニット」と呼ばれるグループごとに区切って共同生活を送るのが決まり。1ユニットにつき5人から9人、原則1施設につき原則2ユニットまでと制限されています。 少人数に制限する理由は、心穏やかに安定して過ごしやすい環境を整えるため。環境変化が少なく、同じグループメンバーで協力して共同生活することは、認知症の進行を防ぐことに繋がります。 認知症の方にとって新しく出会う人、新しく覚えることが難しいので、入居者やスタッフの入れ替わりが頻繁にある施設では認知症の高齢者は心が落ち着かず、ストレスを感じ生活しづらくなってしまいます。その結果、認知症症状を悪化させるだけでなく、共同生活を送る上でトラブルを起こすきっかけとなります。 慣れ親しんだ場所を離れて新しい生活をするのは認知症の方には特に心配が尽きないもの。その心配を軽減するため、より家庭にできるだけ近づけ、安心して暮らせるようにしています。 グループホームの入居条件 グループホームに入居できるのは医師から「認知症」と診断を受けている方で、一定の条件にあてはまる方に限ります。 原則65歳以上でかつ要支援2以上の認定を受けている方 医師から認知症の診断を受けている方 心身とも集団生活を送ることに支障のない方 グループホームと同一の市町村に住民票がある方 「心身とも集団生活を送ることに支障のない」という判断基準は施設によって異なります。入居を希望している施設がある場合には、施設のスタッフに相談しましょう。 また、生活保護を受けていてもグループホームに入ることは基本的には可能です。しかし、「生活保護法の指定を受けている施設に限られる」などの条件があるので、実際の入居に関しては、行政の生活支援担当窓口やケースワーカーに相談してみましょう。 グループホームから退去を迫られることもある!? グループホームを追い出される、つまり「強制退去」となることは可能性としてゼロではありません。一般的に、施設側は入居者がグループホームでの生活を続けられるように最大限の努力をします。それでも難しい場合は、本人やその家族へ退去を勧告します。「暴言や暴力などの迷惑行為が著しい場合」「継続的に医療が必要になった場合」「自傷行為が頻発する場合」etc。共同生活が難しくなった場合には追い出されてしまうこともあるのです グループホームで受けられるサービス グループホームで受けられるサービスは主に以下です。 生活支援 認知症ケア 医療体制 看取り それぞれ詳しく見てみましょう。 生活支援 グループホームでは以下の生活面でのサービスを受けられます。 食事提供 :◎ 生活相談 :◎ 食事介助 :◎ 排泄介助 :◎ 入浴介助 :◎ 掃除・洗濯:◯ リハビリ :△ レクリエーション:◎ 認知症を発症すると何もできなくなってしまうわけではなく、日常生活を送るだけなら問題がないことも多いです。 グループホームには認知症ケア専門スタッフが常駐しています。認知症進行を遅らせる目的で、入居者が専門スタッフの支援を受けながら入居者の能力(残存能力)に合った家事を役割分担して自分たち自身でおこないます。 食事の準備として買い出しから調理、配膳、後片付けまで、そして洗濯をして干すといった作業や掃除も、スタッフの介助を受けながら日常生活を送ります。 グループホームでは、入居者の能力(残存能力)に合った家事を役割分担して自分たち自身でおこなうことになります。 例えば、食事の準備として買い出しから調理、配膳、後片付けまで。また、そして洗濯をして、干すまで…など。そのために必要な支援を、認知症ケアに長けた専門スタッフから受けられるのが、グループホームの大きな特徴です。 グループホームは日中の時間帯は要介護入居者3人に対して1人以上のスタッフを配置する「3:1」基準が設けられています。施設規模によっては、付き添いやリハビリなどの個別対応が難しいので、入居を検討する際は施設に確認しましょう。 認知症ケア 施設内レクリエーションやリハビリのほかに、地域の方との交流を図るための活動の一環として地域のお祭りに参加や協力をしたり、地域の人と一緒に公園掃除などの活動を行う施設も増えてきました。 グループホームとして積み上げてきた認知症ケアの経験という強みを活かし、地域に向けた情報発信などのさまざまな活動が広がっています。 地域の方と交流する「認知症サロン」などを開催して施設外に居場所を作ったり、啓発活動として認知症サポーター養成講座を開いたりするなど、地域の人々との交流に重きを置くところが増えています。 顔の見える関係づくりをすることで地域の人に認知症について理解を深めてもらったり、在宅介護の認知症高齢者への相談支援につなげたり。 こうした活動は認知症ケアの拠点であるグループホームの社会的な価値の向上や、人とのつながりを通じて入所者の暮らしを豊かにする効果が期待できます。 医療体制 グループホームの入居条件として「身体症状が安定し集団生活を送ることに支障のない方」と定義しているように、施設に認知症高齢者専門スタッフは常駐していますが、看護師が常駐していたり、医療体制が整っているところはまだまだ少ないです。 しかし近年、高齢化が進む社会の中で、グループホームの入居者の状況も変わってきています。 現在は看護師の配置が義務付けられていないので、医療ケアが必要な人は入居が厳しい可能性があります。訪問看護ステーションと密に連携したり、提携した医療機関が施設が増えたりもしているので、医療体制について気になることがあれば、施設に直接問い合わせてみましょう。 看取り 超高齢社会でグループホームの入所者も高齢化が進み、「看取りサービス」の需要が増えてきました。 すべてのグループホームで看取りサービス対応しているわけではないので、体制が整っていないグループホームの多くは、医療ケアが必要な場合、提携医療施設や介護施設へ移ってもらう方針を採っています。 介護・医療体制の充実度は施設によってさまざまです。介護保険法の改正が2009年に行われ、看取りサービスに対応できるグループホームには「看取り介護加算」として介護サービスの追加料金を受け取れるようになりました。 看取りサービスに対応しているグループホームは昨今の状況を受け増加傾向にあります。パンフレットに「看取り介護加算」の金額が表記されているかがひとつの手がかりになります。 グループホームの設備 グループホームは一見、普通の民家のようで、家庭に近い雰囲気が特徴ですが、立地にも施設基準が設けられています。 施設内設備としては、ユニットごとに食堂、キッチン、共同リビング、トイレ、洗面設備、浴室、スプリンクラーなどの消防設備など入居者に必要な設備があり、異なるユニットとの共有は認められていません。 入居者の方がリラックスして生活できるように、一居室あたりの最低面積基準も設けられています。このようにグループホーム設立にあたっては一定の基準をクリアする必要があります。 立地 病院や入居型施設の敷地外に位置している利用者の家族や地域住民と交流ができる場所にある 定員 定員は5人以上9人以下1つの事業所に2つの共同生活住居を設けることもできる(ユニットは2つまで) 居室 1居室の定員は原則1人面積は収納設備等を除いて7.43㎡(約4.5帖)以上 共有設備 居室に近接して相互交流ができるリビングや食堂などの設備を設けること台所、トイレ、洗面、浴室は9名を上限とする生活単位(ユニット)毎に区分して配置 グループホームの費用 グループホーム入居を検討する際に必要なのが初期費用と月額費用です。 ここからは、グループホームの入居に必要な費用と、「初期費用」「月額費用」それぞれの内容について詳しく解説していきます。 ...

article-image

【動画でわかる】有料老人ホームとは?費用やサービス内容、特養との違いは

介護施設を探している中で「老人ホームにはいろいろな種類があるんだ。何が違うんだろう?」と疑問を感じることがあるかもしれません。 そこで今回は、名前に「老人ホーム」とつく施設の中でも、「有料老人ホーム」を中心に紹介。よく似ている「特別養護老人ホーム」との違いも見ていきます。 「老人ホームの種類が多すぎて訳がわからない」と思ったら、ぜひ参考にしてみてくださいね。 https://youtu.be/eMgjSeJPT8c 有料老人ホームの種類 有料老人ホームには、以下の3種類があります。 介護付き有料老人ホーム 住宅型有料老人ホーム 健康型有料老人ホーム この3種類の違いを以下にまとめています。 種類 介護付き有料老人ホーム ...

介護の基礎知識

total support

介護の悩みを
トータルサポート

total support

介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。

鎌倉新書グループサイト