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― 昔からテレビ等で拝見していますが、関根さんは全く印象が変わっていないな、と。何か、年を感じさせない秘訣はあるんですか?
今でも時々、小堺くんと会っているからかな? 2人でやっていたラジオは、「中2男子の放課後の雑談」って言われるくらいバカバカしい放送だったんですよ。
僕が28歳の時に始めて、そこから27年半続けました。今でも年に1~2回、特番として放送していますよ。
― 28歳の自分に戻れる場所なんですね。
そうですね。あとは、小堺くん、欽ちゃん、さんまさん、タモリさんとかに出会えたのも大きいですね。
運がよかったのもあるとは思いますが、自分の仕事を邁進していたから、同じ志の人と合流できたんだと思います。
― みなさん、それぞれ自分の道を歩いていらっしゃいますが、そうか……その道を一生懸命生きていく事が大切なんですね。
そうだと思います。自分の道を一生懸命歩いているから、みなさん今でも元気で楽しくやっているんじゃないでしょうか。
― “楽しくやっている”、と言えば、昨年は『お笑いの日2022』で、久しぶりにコントをされていましたね。
最初は、若手の中に僕らが入って浮くんじゃないかって、ちょっと心配していました。だから、小堺くんに相談して、一番ベテランっぽくない、一番バカバカしいコントにしようって。
― こう言っては失礼ですが、くだらないことを心から楽しんでいるな、と思ってしまいました。
ベテランのくせにイキっちゃって……と思われたくなかったのと、やっぱり小堺くんと出られるのが単純にうれしかったね。
― 今年でデビュー49年目。1974年の『ぎんざNOW!』で、いきなりテレビデビューされましたが、その時はどんなお気持ちでしたか?
当時は普通の大学生だったので、今思えば乱暴ですよね(笑)。
― 確かに、いきなりレギュラーですもんね。(笑)。
僕は、もともと芸人さんたちを尊敬していたので、浅井企画の社長にスカウトされた時も「僕じゃ通用しません」ってお答えしたんですよ。
でも「いや、コント55号を育てたこの浅井が保証する」って言われて、浮かれちゃってね(笑)。
― その『ぎんざNOW!』から今まで、レギュラーが切れたことがないとか?
実はそうなんですよ!
― そこまでレギュラーが途切れない方って、あんまりいないですよね。
うーん、どうだろうね…。でも、はじめの10年くらいはうちの社長の力だね。
『ぎんざNOW!』は自力で「しろうとコメディアン道場」を5週勝ち抜いてレギュラーになったんだけど、『カックラキン大放送!!』も『欽ちゃんのどこまでやるの!』も社長がきっかけ。
― 小堺一機さんとのコサキンコンビの「クロ子とグレ子」ですね。
最高視聴率40%を超える人気番組でね、僕たちは一番下っ端で出させてもらっていて「5分やるから2人で何かやれ」と。で、面白ければオンエア、つまらなければカットっていう、毎週オーディションみたいなことをしていました。
― そこから欽ちゃんファミリーに入られたんですよね。
運が良かったですね。その後が『笑っていいとも!』。これは29年間、出ていました。
ここぐらいからですね、自分の力でやっていけるようになったのは。32歳の時だから、10年以上はかかりました。
― 意外です。関根さんには、苦労されているイメージがなかったので……。
僕の場合は、本番中に修行していたような感じで、番組のカラーがうまく隠してくれてたんでしょうね(笑)。
― 『笑っていいとも!』に出演されたきっかけは何だったのでしょう?
小堺くんの『小堺クンのおすましでSHOW』っていう舞台のコントに出ていたんだけど、それを見たテレビ局の人が「関根くん、けっこうやるじゃん」って。だから、これは自分の実力ですね。まぁ、本当のところは小堺くんのおかげかもしれないですけど(笑)。
― やはり小堺さんの存在は大きいんですね。
小堺くんは、僕の2年後に『ぎんざNOW!』を勝ち抜いて浅井企画に入ったんで、その頃からの付き合いですね。
28歳の時に、2人で『夜はともだち コサラビ絶好調!』っていうラジオ番組をはじめて、これが僕のお笑いのベースになっています。
― ベースがラジオというのも、また意外ですね。
当時、TBSラジオで松宮一彦アナウンサーが月曜から金曜まで帯番組をやっていたんですが、ひょんなことから木曜日だけ僕らが担当することになって。
その時間帯のリスナーは松宮さんのファンばかりだから、完全にアウェイ。はじめは、ハガキが2枚しか来ませんでした(笑)。
― えっ!? それは大問題じゃないですか? 番組が成り立たない(苦笑)。
だから、1~2ヵ月経った時に、小堺くんに「ラジオに行くのが嫌だ」と言ったんです。芸能生活の中で、初めて逃げたいと思いました。
― 追い詰められてしまったんですね……。
ですね。でも、新人の僕らが辞めたいと言っても、事務所が許さないと思ったんで、好き勝手やってクビになろうと決めたんです。
― そうすれば、「頑張ったけど、実力が足りませんでした」ってことになりますね。
そう。だから、普段から小堺くんとやっているような、ふざけたことばっかりしていたのに、全然クビにならないんですよ。
ラジオで「ハガキが2枚しか来ない」と、グチってたら、ハガキの枚数もどんどん増えていって。
― すごい!
そのうち、リスナーの方が僕らの上をいく、くだらない妄想話を送ってくれるようになってね。そこで「ナンセンス」っていう僕のお笑いのベースが出来上がりましたね。
― それ以前から、関根さん自身がシュールとかナンセンスっぽさを持っていたんでしょうね。
そうだと思います。1989年に、ナンセンスとクドさを詰め込んだ舞台『カンコンキンシアター』をスタートしました。
― 今年の4月にも新しい公演をされる、毎年恒例の舞台ですね。
そうです。でも、同時期にスタートした『ギャグ満点』っていう深夜番組でも、舞台と似たようなことをしていたら、それは3ヵ月で終わりました。
― ドラマみたいに1クールで……。
結局、僕のお笑いはテレビには向かないんだ、テレビ用に変えなきゃいけないんだっていうのを学びましたね。
― 失礼ながら……、自分の笑いはテレビ向きじゃないって自覚した時は、やっぱりショックでしたか?
「あ、やっぱりな!」って感じ。すぐに切り替えましたね。芸能界は適応しないといけませんから。それで言ったら、モノマネもそうかもしれませんね。
― 関根さんのモノマネにも、独特なエッセンスが入っていますよね。
声やしぐさを完全に真似するプロと比べると、やっぱり僕のクオリティーは低いんですよ。それで、何か足さなきゃと思って「情報」を入れることにしました。
― ひとつお願いしてもいいですか(笑)?
(千葉真一さんのモノマネで)私の妻の野際陽子は、日本で初めてミニスカートを履いた女優です。
― 注目する点をズラしちゃうんですね(笑)。
そう! 似ているかどうかは、二の次になるんです(笑)。もちろん、嘘は言ってないですよ、嘘は。
関根勤
1953年生まれ、東京都出身。大学3年生の夏休みに、TBS『ぎんざNOW!』の「しろうとコメディアン道場」で5週連続勝ち抜き、初代チャンピオンに輝き芸能界デビュー。「ラビット関根」という芸名でピン芸人として活動するかたわら、同じ浅井企画所属の小堺一機と組んだ「コサキン」で注目を浴びるように。代表作は『カックラキン大放送!!』『欽ちゃんのどこまでやるの!』『コサキンDEワァオ!』『笑っていいとも!』など多数。現在でも、バラエティー番組の第一線で活躍している。
▶関根さんのインタビュー後編もぜひご覧ください!
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