片岡鶴太郎さんは、つねに新しいことにチャレンジし続けている「挑戦者」である。
芸人として売れっ子の道を歩んでいた30代に突如、ボクシングに挑戦してプロライセンスを取得。それと同時に、仕事の比重を芸人から俳優へと移していった。かと思えば40代からは絵の道に手を広げ、個展をひらくほどの人気を博すように。
さらには50代後半でヨガを始め、インド政府公認のヨガインストラクターになるほど道を究めた。2017年6月、インストラクター就任の発表記者会見で体重43キロの痩身で現れた彼の姿を見て、衝撃を受けた人は多いだろう。
そんなふうに1度だけの人生を、5回分、6回分も楽しんでいるように見えるのが鶴太郎さんという人である。
そんな鶴太郎さんが上梓した『老いては「好き」にしたがえ!』(幻冬舎新書)には、人生100年時代を生き抜くヒントに満ちている。この本を読むと、人生の節目、節目で彼がもがき苦しみながら「新しいことへのチャレンジ」をしていった経緯がわかる。
2023年の12月21日で69歳になる鶴太郎さんのこれまでの人生をふり返っていただくと共に、70代以降の生き方についてのビジョンをうかがってみよう。
Contents
―鶴太郎さんが芸人を志したきっかけは、何だったのですか?
最初は、芸能界に対する漠然とした憧れがあって、はっきりと形になったものではありませんでした。
実際に行動を起こしたのは高校卒業後のことなんですが、女優の清川虹子さんのご自宅に押しかけて門前払いをくらったり、俳優の松村達雄さんのもとを訪ねたりしました。
いずれも「弟子入り」をお願いしたんですが、松村さんには「演劇の世界に弟子をとるという制度はないからね。もし俳優になりたいのであれば劇団に入りなさい」と諭されてしまいました。
「弟子入り」にこだわったのは、1日24時間365日、芸能の水に浸りたかったからです。
今のように各芸能プロダクションがいろんな養成所を構えていて、プロになるための道を作ってくれるような時代じゃなかった。誰かの弟子になって、その道に進んでいくのが唯一の方法だったんです。
結果的に私の希望に応えてくれたのが、声帯模写を得意とする片岡鶴八師匠で、これをきっかけにものまね芸人としての道を歩むことになりました。
―でも、そこから売れっ子の芸人になるには、かなりの紆余曲折があったようですね。
そうですねぇ。鶴八師匠の弟子として過ごしたのは、3年ほどでした。
住み込みの弟子として師匠の身のまわりの世話からカバン持ちをする生活を期待していたんですが、師匠からは「うちは狭いからそういうのは面倒だ。通いで来てくれ」と言われてしまいました。
その後は、隼ジュンとガンリーズというコントグループの一員になったり、四国の大衆演劇一座の舞台に立ったり、文字通りの紆余曲折です。
隼ジュンとガンリーズは「キャバレーの王様」という異名があるほど、キャバレーやホテルの巡業で絶大な人気を誇るグループでした。
―ここでようやく“人気”という言葉が出てきましたが……。
でも、テレビで売れる芸人を目指していた自分には違和感があって、2年ほどたったころに逃げ出すような形で脱退してしまったんです。そこで東京にはいられなくなって、四国の大衆演劇一座のお世話にすがったわけです。
その一座とは半年でお別れして、東京に戻って芸能プロダクションに所属することができたんですが、主な舞台は錦糸町のサパークラブ。深夜0時から朝5時まで営業していて、キャバレーやクラブで働くホステスさんがアフターで利用するようなお店で、そこのステージで司会をしたり、ものまね芸を披露する仕事です。
―やっぱり「売れる」道筋が、なかなか見えてきませんね……。
自分でもそう思って、一念発起して挑戦したのが、「東宝名人会」のオーディションです。1934年から2005年まで1200回以上、開催された演芸公演で、この舞台を踏むことは、芸能の世界で名前を認めてもらう重要なステップだったんです。
―結果的に鶴太郎さんはこのオーディションに合格して、テレビにも出演するような芸人の道を歩むことになるわけですね。
そうです。24歳のとき、フジテレビのお笑い番組からお声がかかりました。『お笑い大集合』という番組で、タモリさん司会の『笑っていいとも!』の前身にあたる番組です。
この番組のプロデューサーをつとめた横澤彪さんは若いころ、同じくフジテレビの『しろうと寄席』のアシスタントディレクターをつとめていたんですが、実は私、小学5年生のときにこの番組に出演したことがあるんです。
横澤さんはそのときのことを覚えてくださっていて、「鶴太郎って、あのときの荻野くん(私の本名です)でしょ?」と声をかけてくれたんです。
―横澤彪さんというと、1980年に『THE MANZAI』を起ちあげて、ツービートや島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、B&Bといったスターを世に出す漫才ブームの立役者として有名ですね。
すごかったですよねぇ、漫才ブーム。
ただ、ブームのメインストリームにいたのは漫才師の人たちですから、私のようなものまねの「ピン芸人」は、ブームの端っこのところで指をくわえて見ているしかありませんでした。ただ、その1年後の1981年に『オレたちひょうきん族』がスタートするんです。
漫才ブームでブレイクしたコンビをバラして、みんながピンになってコントやパロディを演じるスタイルのバラエティ番組です。この「コンビをバラしてピンにする」というのは非常に画期的な試みで、私のような芸人にもテレビのメインストリームで活躍する場が与えられたんです。
―鶴太郎さんご自身、「売れた」と実感したのは、いつごろですか?
それに関しては明確な記憶がありまして、それが番組内の「ひょうきんベストテン」というコーナーで、マッチ(近藤真彦さん)に扮してゲスト出演したときです。
後に番組内で「ビビンバ」の愛称で知られることになるディレクターの荻野繁さんに持ちかけられたネタで、近藤真彦さんのものまねは、私のレパートリーにはありませんでした。
でも、「似てる似てないなんて関係ないから。マッチは元気がいいから、元気がよすぎてセットを壊しながら暴れに暴れて最後に死ぬ。これで行こう」という無茶苦茶なノリで生まれたネタです。
ですから、やっている本人も「本当におもしろいんだろうか」と半信半疑でした。
―でも、そのネタが見事にハネるわけですね。
そのことを実感したのは、そのマッチのネタが放送されて数日後、『笑ってる場合ですよ!』というお昼の生放送のバラエティ番組に出演したときでした。
この番組は、先ほど述べた『お笑い大集合』と同様、『笑っていいとも!』の前身にあたる番組で、エンディングで5分くらいのゲストコーナーがあるんです。
私は1カ月に1度くらいのペースでこのコーナーに呼ばれていたんですが、マッチ放送後に出たときの反響には、すさまじいものがありました。
それまでは、「鶴ちゃーん」という声援もまばらにかかる程度だったんですが、このときは客席から「キャー!マッチ!!」という怒濤のようなどよめきが起こったんです。
―アイドル並みの騒ぎですね。
サブコントロールルームから、横澤さんが駆け下りてきて、「鶴ちゃん来てるよ!来てるよこれ!絶対逃しちゃダメだよ」と興奮ぎみに語ってくれたのを覚えています。
自分の感覚としては、一夜にしてまわりの世界が一変してしまったような感じでした。テレビの影響力のすごさを実感しましたね。
このとき、私は27歳。鶴八師匠に弟子入りして、9年の月日が経ってました。
―30代前半の鶴太郎さんはレギュラー番組を10本も抱え、文字通り、全国区に名前を知られる売れっ子になるわけですが、32歳のとき、突如としてプロボクサーのライセンス取得に挑戦しています。これには、どんなきっかけがあったのでしょう?
周囲の人たちにとっては「突如として」と見えていたかもしれませんが、自分としてはちゃんとした理由があるんです。
テレビで売れたことへのうれしさはありましたが、レギュラー番組が10本になると寝る間もないほどの忙しさに追われて、ストレスが溜まっていきます。でも、充分な休養をとる暇もないので、すき間の時間で好きなものをお腹いっぱい食べ、酒を飲み、女性と遊ぶという毎日で、不健康そのもの。おかげで、身長161センチにして体重65キロの、ブクブクとむくんだ体型になっていました。
ちょうどそのころ、明石家さんまさん主演の恋愛群像ドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)に出演する機会をいただいて、俳優という仕事に魅力を感じていた時期でもありました。
―いわゆる“転機”、ですね。
でも、当時の私のポッチャリ体型では、似たような役のオファーしか来なくて、「いろんな役を演じられる俳優になるには、肉体改造をするしかない」と思っていました。
その数年前に見た映画『レイジング・ブル』で、主演のロバート・デ・ニーロが鍛え上げられた現役時代のプロボクサーと、引退後の27キロも太った姿を同時に演じるという俳優魂に触れて、「海外の一流の俳優は、そこまでやるのか!」と衝撃を受けたことも大きかったですね。
ボクサーはお笑い芸人と同様、子どものころからの憧れの存在でしたから、そのプロライセンス取得に挑戦することは、それまでの自堕落な生活をリセットしてくれる、絶好なチャンスだと思ったんですね。
―でも、ボクシングのプロライセンスに挑戦するには、売れっ子芸人としての多忙な仕事を大幅にセーブしなければ不可能ですよね。周囲から反対はありませんでしたか?
実際、所属事務所からは「2年先までスケジュールが埋まっているんだよ。なぜ、その仕事をセーブしてまでボクシングに専念しなければいけないの?」と問い詰められました。
それでも私は「2年先まで仕事があったとしても、3年先の保証はありませんよね。ボクシングのプロライセンスの取得には年齢制限があります。今、挑戦しないと、チャンスはもうやって来ないんです」と主張して、思い通りにさせてくれるように頼んだのです。
現在、プロボクサーのライセンスの受験資格は32歳なんですが、当時の規定では33歳でした。私がボクシングへの挑戦を始めたのは32歳のときでしたから、1年しか準備期間がなかったわけですが、役者とボクシングのダブルチャレンジというのは私にとって、挑み甲斐のある挑戦だと思いました。
―ボクシングのプロテストに合格すると同時に、ものまね芸人から俳優へ仕事の比重を移すことに成功した鶴太郎さん。大きな人生の転機だったと思いますが、その後、絵画という新しいことへのチャレンジが始まります。どんなきっかけがあったのでしょう?
33歳でボクシングのライセンスをとり、世界チャンピオンの鬼塚勝也選手のセコンドについて二人三脚で防衛戦に臨む日々は、充実していました。
ところが1994年、鬼塚選手は6度目の防衛戦で世界タイトルを失い、以前から網膜剥離であったことを明かして現役を引退したんです。それと時を同じくして、私の俳優としての仕事にも変化がありました。
長く主演をつとめていた金田一耕助シリーズ、海岸物語シリーズが終了して、潮目が変わっていくのを感じたんです。
では、次に何をするべきか、いろいろ考えてみるんだけど、答えが見つからない。間もなく40歳の不惑の年をむかえるというのに、惑ってばかりの日々が始まりました。
―その惑いのなかから、「絵を描く」という道に行き着くわけですね?
半年くらい、ジタバタした結果ですけどね。周囲にいる40代の人に「不惑の年ってどうですか?」と聞いてみたり、京都のお寺に坐禅を組みに行ったりしても、答えは見つかりませんでした。
そうこうするうち、2月のある寒い日、早朝5時に仕事に出かけようと自宅を出たとき、隣家の庭に植えられた木に咲いた、赤い花が目に留まったんです。それまで植物に興味を持ったことなんて一度もないのに、そのときはなぜかその花の存在が気になったのです。
以来、前を通りがかるたびにその花を観察するうち、その家の奥様と立ち話をする機会があって、ヤブツバキという椿の花だということを知りました。それと同時に、その感動を何かで表現したいと思って、絵に描くことを思いついたんです。
―それまで絵を描いた経験は、あったんですか?
いえ、まったくありません。それどころか、美術館で絵を鑑賞したこともありませんでした。でも、「椿の花を描けるようになりたい」という気持ちが心のなかから消えることはありませんでした。
私は、こうした心の印を「シード(種)」と呼んでいます。普段は潜在意識のなかにあって、その存在に気づかないけれど、ふとした瞬間に「発芽したい」というサインを送ってくるんです。
こういうときは、サインが示すままに行動するのがいちばんです。なぜならそれは、「自分が本当にやりたいと思っていること」であり、「魂の歓喜」につながることだからです。
―なぜ、椿の花にそれほど惹かれたのでしょう?
さぁ、どうなんでしょう。誰に見られることもなく、健気に咲いているところに心動かされたのかもしれません。本当の美しさというのは、そういうことなんじゃないかと。
それに比べて自分は、人の目ばかりを気にして、人に見られていないと何もできない。そんな自分の非力を感じて、椿の花に憧れの気持ちを持ったのではないでしょうか。
そこで、隣家の奥様に1本の椿の花をいただいて、目の前にかざしながら絵を描いてみました。
―実際に絵を描いてみて、すぐに手応えはありましたか?
とんでもない!最初に描いた絵は、目を覆いたくなるほどのひどい出来でした。
その後も何枚も何枚も別の紙に書き直すんだけど、最初に花を見たときの感動に近づいていく感じが少しもしないんです。
そこで、花を描くことはいったんあきらめて、サンマやイワシとかの魚を描くことにしました。
私は、何かの技術を身につけるには「反復練習」がいちばんの近道だと思ってきました。最初のうちはうまくできなくても、毎日毎日繰り返して取り組むことで、何かが見えてくるようになる。
ボクシングを始めたときも、そうでした。それまで運動らしいことをしてこなかったものだから、縄跳びすらまともに跳べませんでした。トレーナーにコツを聞くと、「鶴太郎さん、縄跳びにコツなんてありません。ひたすら跳ぶしかないんです。跳んでいるうちに、何かが見えてきますから」と言われて、ひたすら反復練習をしました。その「何かが見えてくる」という手応えは、1か月後にやってきました。
絵を描くのも、これと同じ方法でいくしかないと思ったんです。
―反復練習をするにしても、上達が遅ければ途中で心が折れてしまいます。鶴太郎さんは、それでもなぜ、絵を描き続けることができたんですか?
このときは、「自分には絵の才能なんてないんだ」とあきらめたとしても、またもとの鬱々とした日々に逆戻りするしかないという焦燥感がありました。無謀な挑戦に思えても、それにしがみつくしかないという状況だったのです。
その一方で、絵を描くことで、自分の心のなかのシードから確実に芽が育っているという実感もありました。絵を描いている間は心が躍って、好きな酒を飲むことも忘れて作業に没頭することができましたからね。
―絵の対象を花から魚に変えたことで、どんなことが起こりましたか?
とりあえず絵の道具をそろえようと画材屋さんに行ったとき、「油とか水彩とか、いろいろありますが、どうしますか?」と聞かれて、私は直感的に「墨がいい」と答えていました。「バターと醤油とどっちがいい?」と聞かれて、醤油を選んだような感覚です。
その時点で、写真のように見たままそっくりの絵を描くのではなく、見る人の想像力をうながすような味のある絵を目指していたのがわかります。
例えばサンマは、お腹のところがメタリックに光っていて、背中には鮮やかな濃紺で彩られています。それでもじーっと眼をこらしてサンマを見てみると、肉眼で見た色とは別の色が見えてくるんです。ある意味で、心の眼とでもいうんでしょうか、ああ、ここは朱色だな、とか、ここには緑が見えるな、という具合。
そんなふうに見た目にはない色を絵に加えたりすることに、最初のころは抵抗感がありました。絵についてアカデミックな教育を受けたわけでもない私がそんなことをするのは、とんでもない間違いなんじゃないかと。
でも、これを自分の満足のいく形に表現してみないと先に行けないなと思って試してみると、何となく自分の思い描いていた「味のある絵」に近づいていく手応えがあったんです。
―心のなかのシードから、芽が吹いた実感が得られたわけですね。
そうですね。ただ、そうやって私が描いた絵が、多くの人に評価されるかどうかはわからないまま、正直に自分の感じるままの絵を描き続けていました。
そんなある日、ある百貨店の美術部長という肩書きの名刺を持った方がやってきて、絵を見てくれる機会がありました。
内心、びくびくしながら「こういうのは、絵として反則なんでしょうか?」と聞いてみると、こんな答えが返ってきました。
「この絵は、鶴太郎さんにしか描けないオリジナリティのある作品です。このまま描き続けていただいて、個展を開きましょう」と。
その言葉を聞いた途端、目の前に立ちはだかっていた戸がパーンと開けるような気がしました。
―初の個展「とんぼのように」は1995年、鶴太郎さんが40歳のときに開催されました。百貨店主催の個展というと、絵の販売が前提となるので事実上、鶴太郎さんの画家としてのプロデビューの年となりますが、そのことについてどう思いましたか?
個展の開催が決まってからは、ドラマの収録の現場にも画材を持ち込んで、1年間で120枚の作品を描き続けました。それはプロの画家になるための努力ではなくて、それまで暗闇のなかで半信半疑で描いてきた絵を白日のもとで自由に表現できるんだという喜びのためやっていたことだと思っています。
初めての個展は、おかげさまで大成功。売り出した絵はすべて完売しましたが、その後、自分の絵を売ることにはあまり積極的ではないんです。
幸いなことに、私の絵を非売品として展示してくれる美術館を建ててくれるというお申し出を受けて、現在では不定期での個展を開催するかたわら、美術館に展示する作品を制作するに至っています。
―40代は画家としての活動を開花した年代でしたが、今回の著書『老いては「好き」にしたがえ!』によると、50代前半は「男の更年期」に入り、鬱々とした日々を過ごしていたそうですね。
ええ、そうなんです。絵を描くようになって10年も経つと、「鶴太郎さんは絵を描く人なんだね」というイメージが世間に浸透していて、注目度は低くなっていきます。
役者としても、自分にしか演じられないような役にチャレンジしようにも、そういう役に挑戦できるチャンスがなかなかやってこない。50代というのは、そういう中途半端な年齢なんですね。
そんな八方ふさがりな状況のなかで、自分の立ち位置がわからなくなって、ふとした隙に心の袋小路に入ってしまったように思い詰めている自分に気づきました。
「やばい、やばい」と思い直して、再びボクシングジムに通って身体を動かして、ぐっすり眠れるような生活サイクルを作ろうとしたんだけど、あらゆる透き間で「やっぱりダメだ」というサイクルに入っていく。
今思えば、「男の更年期」だったんでしょうね。心身のバランスが崩れて、何をしてもネガティブな方向に心が向いていくんです。そんな状態が2年も続きました。
―どうやってそれを克服されたんですか?
ある日、「昭和29年生まれの午年の会を作りたいと思っているんだけど、参加しませんか?」というお誘いをいただいたんです。
会のメンバーは、当時の小泉政権下で自民党の幹事長をしていた安部晋三さん、今は神奈川県知事ですが元フジテレビのニュースキャスターだった黒岩祐治さん、一般の方では銀行の頭取の方など、年は一緒だけど生まれも育ちも職業も違う、バラエティ豊かな集まりでした。
大勢が集まる場は苦手だったので最初は抵抗がありましたが、自己紹介のあとにいろんな話を聞くと、自分と同じような悩みや葛藤を抱えている方が多くて驚きました。組織のなかで、上にはまだ活躍する世代が大勢いて、下には勢いのある若者が突き上げてくる、そんな状態にあって自分の立場に行き詰まりを感じていた。
そうした悩みを打ちあけ合うなかで、「そうか、悩んでいるのは自分だけじゃなかったんだ」と気づけたのは本当にありがたかった。救いになりました。
鬱々としている時期というのは、閉じこもりがちになりますが、私の場合、積極的に外へ出ていって人と会ったことが良かったと思っています。
―57歳のときには、ヨガを始められています。これにはどんなきっかけがあったんですか?
先輩の秋野大作さんと仕事でご一緒する機会があって、「最近、セリフ覚えが悪くなって……」と悩みを打ちあけたところ、「瞑想がいいよ」というアドバイスをいただいたんです。
まずは1日6時間を2日間かけて基本的な考え方や修法を学んだあと、20分の瞑想を実践していくんだけど、最初のうちは、まったくできませんでした。
身体が痛くなって集中できないし、それに慣れたあとも途中で眠ってしまったりして、ただの二度寝で終わってしまうこともしばしばでした。
だからこれも、得意の反復練習で取り組むしかないと思って、根気よく続けていくことにしました。ヨガの境地というものを体験してみたい、その先にはきっと「魂の歓喜」があるはずだという予感がありました。
―その手応えを感じられるようになったのは、いつごろのことでしょう?
始めて2か月くらい経ったときでしょうか、瞑想中にすごい体験がありました。
自分が床にあぐらをかいているという身体感覚がなくなっていって、背中のあたりから気持ちのいい感覚が滾々(こんこん)と湧いてきたんです。
おそらく、医学的に分析すれば、脳から大量のドーパミンが分泌されているような状態だったのでしょう、全身が幸せに包まれたかのような多幸感がありました。なんて幸せなんだろう、と。
―すごい手応えですね。
もう一度、あの感覚を味わいたいと翌日、翌々日と試してみても、二度目の体験はなかなかやってきませんでした。
それでもずっと続けていくうちに、すーっとその境地入るスイッチのようなものを見つけることができました。そこまで達するのに、数カ月かかったでしょうか。
―ヨガに目覚めたことで、鶴太郎さんの生活にどんな変化がありましたか?
ボクシングは52キロ級でしたから、1日2食で体重を維持していましたが、ヨガと出会ってからは1日1食になって、体重も43キロになりました。
1日のルーティーンには9時間をかけています。そうするとどうなるかというと、仕事の始まる9時間前に目覚めるように就寝時間を調節する必要があるんです。
例えば、ドラマの撮影が朝5時からだとすると、前日の夜8時が私の起床時間ということになります。
―9時間もかけて、どんなルーティーンをこなすんですか?
目覚めてすぐは、ドラマや映画の撮影中ならセリフの反復練習をします。寝起きだから口がまわらなかったりするんだけど、これをベストな状態でできるようになるまで続けます。
その後は、歯磨きに20分くらいかけて口を洗浄し、あとは掃除や花に水をやるなどの雑用をして、やおらヨガの体制に入ります。
まずは、ストレッチとマッサージを組み合わせた準備運動に1時間から2時間かけます。特にマッサージは、手と足の指を中心に入念に行います。指先というのは末梢神経と毛細血管が密集していますから、マッサージで血行をよくすることでヨガの質があがるんです。
毎日これをやっているから、手はジジイの手とは思えないほど、ツヤツヤしています。足の裏も、赤ちゃんみたいにキレイです。
そこまでやって、ようやくヨガの本番。これが、3時間くらい。最後はだいたい2時間半かけて朝食を食べて、ルーティーンが終わります。
そんな生活をもう、10年以上続けていますが、そのおかげで完璧な健康と、充実した毎日を送っています。
―最後に質問です。鶴太郎さんは2023年12月で69歳になります。70代を目前にした今、心のなかにまだ芽生えていないシードは、あると思いますか?
こればかりは、今の自分にはわかりません。ボクシング、絵、ヨガ、この3つはどれも自分の意思で始めたことですけど、「向こうからやってくる」というパターンもあるからです。
例えば、2022年のNHK朝ドラ『ちむどんどん』に出演したときのことです。三線を演奏するシーンがあって、しかも、テンポの速い「唐船(とうしん)ドーイ」という曲を弾かなければならなかったんです。
楽器をやったことなど一度もない、60代の私に対する要求としては、ムチャぶりに近いんですが、「やってみよう」と取り組みました。
例によって、反復練習で何とか弾けるレベルまで修得しましたが、そこまでやって辞めるのはもったいないと思って、今も弾き続けています。
―60代になっても、まだ新しいことに挑戦できるんですね。
私はそう思っています。始めるのにもう遅い、なんて年齢はないんだと。
まったく弾けなかった曲ができるようになったときの喜びには、他では得られない喜びです。くじけそうになったときや、ちょっとは弾けてうれしかったときなど、それまで積み重ねてきた感情がイッキに歓喜に変わるんです。
だから、ちょっとくらいムチャぶりだと思っても、「やってみよう」と挑戦することは大事なことだと思うんです。
もちろん、ちょっと試してみて、「やっぱり合わなかった」と思えばやめてもいい。
人生100年時代と言われている今、そんな試行錯誤をする時間の余裕は、たっぷりあるのではないでしょうか。
撮影/八木虎造
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。