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【養老先生に聞く】病院で死ぬこと、愛猫と別れるということ、コロナのこと

2022年12月12日2023年1月27日

1937年生まれ、御年85歳になっても旺盛な執筆活動を行っている養老孟司先生。新型コロナウイルスの感染拡大で、世の中の動きが停滞ぎみになっても、その勢いは止まらない。

2020年の自身の大病、そして愛猫の死という出来事を経験して、ますます舌鋒するどくなっているのだ。そこで今回は、先生の3冊の著書を材料にして、今という時代を生きるヒントを探ってみよう。

目次
  • 1. あと一歩というところで命拾いをしました
  • 2. 在宅死は大変。病院死も悪くない
  • 3. 最期にまるを呼び戻したのは私のワガママだったかもしれない
  • 4. 子どものころ、赤痢で死んでいたかもしれない

あと一歩というところで命拾いをしました

──中川恵一先生との共著『養老先生、病院へ行く』(X-Knowledge)には2020年の6月、大の病院嫌いだった先生が古巣の東大病院に入院した顛末が書かれています。どんな前兆があったのですか?

1年間で体重が15キロ減ったんです。あとはなんだか調子が悪い、元気が出ないといった不定愁訴です。

そこで過去に対談をした経験のある、大学の後輩の中川さんに頼んで検査を受けることにしました。受診日の3日前はやたらと眠くて、猫のようにほとんど寝てばかりいました。

私が病院を嫌いな理由は、現代の医療システムに巻き込まれたくないからです。このシステムに巻き込まれたら最後、タバコをやめなさいとか、甘いものは控えなさいとか、自分の行動が制限されてしまう。

──にもかかわらず、病院に行くことにしたわけですね?

このときは家内が心配するので、診てもらうことにしました。自分だけで生きているわけではないので、家族に無用な心配をかけるわけにはいきません。

私は以前から、「死は二人称の死でしかない」と言ってきました。

一人称の死は「私」の死です。死んだときには私はいないのだから、現実にはないのと同じです。

三人称の死は「誰か」の死。コロナで連日「本日の死者数は何人です」と報道されていますが、そういう類いのもの。有名人の死も同じですね。

二人称の死は「あなた」、つまり知っている人の死です。これだけは無視することができない。身内だろうが、嫌いなヤツだろうが、どうしたって人に影響を与えます。

病気も死と同じで、心配をかけたり、迷惑になったりすることがある。だから家内の言葉に従って、病院に行くことにしたんです。

──そこで、大変な病気が発見されたわけですね?

そうです。中川さんは体重減少の原因を糖尿病かがんだと思っていたそうだけど、機転を利かせてくれて心電図をとったんです。そこで心筋梗塞が見つかりました。

待合室で家内と秘書たちと「このあとは天ぷらを食べて帰ろうか」なんて呑気な相談をしていると、中川さんが血相を変えて「心筋梗塞です。ここを動かないでください」と言いました。

それでそのまま集中治療室(ICU)に2日ほど入って、手術、そして入院と、計2週間も病院のなかで過ごしました。

心筋梗塞は、動脈が詰まって心臓に血液が届かなくなる病気です。私の場合、左右の冠動脈2本のうち、左冠動脈の枝の末梢が閉塞していた。処置が数日遅れていたら、冠動脈の主要部分が詰まっていた可能性もあるそうで、紙一重で命拾いをしたわけです。

写真提供/まるすたぐらむ

自分が心筋梗塞になるなんて実に意外だった

──患者の視点で見た「現代の医療システム」は、どんな印象でしたか?

思ったよりも楽でした。あまり、苦痛を感じるようなことがなかった。タバコを吸えなかったのは辛かったけど、飛行機に乗っているようなものだと思えば我慢できました。

ただ、病院食については、思った通りでおいしくなかったですね。でも、そのおかげで自分の食生活を見直すきっかけになりました。

青木厚さんという医師が1日のうち16時間は何も食べない、あとは自由に飲み食いしていいという 「16時間断食」を提唱しています。内臓を働かせ過ぎないで休ませなさい、ということ。実験的にやってみると、体調が良くなりました。

戦中、戦後の食糧難のとき、「お腹がすく」という体験を嫌というほどやってきましたが、実に久しぶりの空腹体験でした。

──起床時間、食事の時間、消灯時間を病院側の都合で決められてしまうのは、ストレスではなかったですか?

病院にいること自体がストレスですから、順応してしまえば何てことはないです。

私はそういうところが意外に素直にできてまして、刑務所に入っても順応してしまうと思いますよ(笑)。

──心筋梗塞は発症すると胸に激痛が走るそうですが、先生の場合、糖尿病の神経障害で痛みを感じなかったそうですね。

自分が心筋梗塞になったのは意外でした。というのも、「心筋梗塞にかかるのは、上昇志向のある人に多い」と若いころに習ったことがあるからです。オーストラリアのメルボルン大学に留学したときのことです。

政治家がその典型ですね。私はこれまで、政治に関心を持ったことは一度もありません。

それから、タクシーの運転手さんと学校の教師も心筋梗塞になりやすいという話もありましたが、それは欧米のアングロサクソン系の人種の人たちに言えることで、日本のタクシー運転手と学校の教師は胃潰瘍になりやすいんです。

社会の違いによって、ストレスのかかり方が違うんですね。

『養老先生、病院へ行く』

  • 著者:養老孟司、中川恵一(共著)
  • 発行:X-Knowledge
  • 定価:1400円(税別)

在宅死は大変。病院死も悪くない

──『ヒトの壁』(新潮新書)によると、ICUに入っているとき、目の前に5体のお地蔵さんが現れたそうですね。

部屋の中央にモニターが置いてあって、磨崖仏のような砂色のお地蔵さんが5人ほど並んでいました。

後で思ったことですが、「お迎え」が来たんだなと思いました。つまり、それはお地蔵さんではなくて、阿弥陀様だというわけです。

阿弥陀様は、来迎図などを見ると極彩色に描かれているけれども、今の時代に合わせて「お迎え」も質素なリモート式になったのかなと。

──それは、一種の神秘体験のようなものですか?

いや、違いますね。単なる幻覚です。

ICUのベッドに寝かされているんだから、そういう連想をするのは無理もない話です。脳が実際には存在しないものを表出させるというのは、よくあることです。

──『ヒトの壁』には、「私は在宅死が望ましいと思っていたが、家族と医療スタッフのみの世界で他界するのも悪くないと感じるようになった」とも書いていますね。どうしてですか?

在宅死は、いろいろ大変ですよ。家族がね。

さっきも言ったけど、死んだときには私はもういないんだから、二人称の死の影響はできるだけ小さいほうがいい。

こういうことは、なかなか具体的に実感する機会がないことですが、今回、命の縁に立ってみて、「このまま死んだら面倒はないだろう」とシミュレーションしたわけです。

写真提供/まるすたぐらむ

患者には治療法を選ぶ権利があります

──入院中、大腸の内視鏡検査をしたら、ポリープが見つかったそうですね。

そうです。血液検査では、胃がんの原因であるピロリ菌が陽性でしたが、ポリープもピロリ菌も放置することにしました。

ポリープはがん化する可能性がありますから、中川さんが「できる限りとりましょう」と言ってくる医者だったら、困ったことになっていたかもしれませんね。がん化したとして、家族に説得されれば放射線治療くらいはやるかもしれませんが、手術や抗がん剤治療はストレスが大きいので選ばないでしょう。

患者には治療法を選ぶ権利があります。中川さんが、もう治療はここまでという私に対して、「じゃあ、このくらいにして、あとは様子を見ましょう」と言ってくれる医者で助かりました。医者との相性は、非常に重要だと思いますね。

──退院後、タバコは辞められたのですか?

いえ、吸ってます。ただ、糖尿病の薬は、言われるがままに飲んでます。医者には逆らわないほうがいいと思ってね。

白内障の手術を薦められたときも、素直にお願いすることにしました。おかげでメガネなしで本を読めるようになって助かっています。

病院嫌いの私が再び入院して、白内障の手術を受けたことで、中川さんは私の医療に対する考えが変わったのではないかと言ってましたが、実は何も変わっていません。今後は「身体の声」に耳を傾けて、具合が悪ければ医療に関わるでしょうし、そうでないときは医療と距離をとりながら生きていくことになるでしょう。

『ヒトの壁』

  • 著者:養老孟司
  • 発行:新潮新書
  • 定価:858円(税込)

最期にまるを呼び戻したのは私のワガママだったかもしれない

──『まる ありがとう』(西日本出版社)はNHKの「まいにち 養老先生、ときどき まる」でお馴染みの愛猫まるとの別れについて、書かれた本です。まるの調子が悪くなったのは、いつごろですか?

心筋梗塞の手術をして、退院した年の11月ごろ、腹水がたまって、よく鳴くようになったんです。

まるは18歳。人間の年齢で言えば90歳ですから、近いうちに来るとは思っていました。まるは生まれつき心臓の弱いタイプだったようで、年中ごろごろと横になったりして調節していましたから、具合が悪くなるのに気づくのは遅かったかもしれません。

そうこうするうち、姿が見えなくなりました。猫は、飼い主に死んだ姿を見せないため、死期を悟ると自ら姿を消すといいます。

前に飼っていた雌猫のチロもそうでした。元旦の雪の日に、どうしても庭に出るという素振りを見せるので、仕方がないので段ボール箱を庭に置いて、そのなかに入れてあげました。そうして、家族の見守るなかで死にました。

遺伝子に「自然に還れ」という情報が記録されているのか、本当のところはよくわかりませんけど、まるも本能に従って自ら選んだ死に場所に行こうとしたのかもしれません。

それでも、必死になってまるの行きそうなところを探したのは、こっちの勝手です。安心して「見つかって良かった」と思ったけれども、まるにしてみれば「余計なことしやがって」と思ったかもしれません。何しろ、まるは家に連れ帰られたおかげで、それから1ヵ月もの間、病院通いになってしまいましたから。

──でも、心配して探したくなるのは、家族として当然ですよね。

でも、まるは抱かれるのが嫌いで、私たち人間と距離を置いてつきあうような猫でしたから、この1ヵ月の間、私に抱きかかえられて病院を往復しながら、密な時間を過ごすことができたのはよかったのかなとも思います。

まるが死んだのは、12月21日。その日は、箱根でNHKの番組の取材の約束をしていました。朝、家内から「もう駄目みたい」という電話がかかり、慌てて車に乗りこみました。その様子をテレビでご覧になった方もいるでしょう。

写真提供/まるすたぐらむ

まるがいるという感覚は、そう簡単に消えるものじゃない

──まるの死は先生にとって「二人称の死」ですよね。どれほどの悲しみだったのでしょう?

いや、悲しいとか、辛いとか、言葉では説明できないことです。よく、「心にポッカリ穴があいた」なんて言いますが、そういうのとも違います。何とも言えない感覚です。ペットロスというのとも違う。

米国の心理学者のリサ・フェルドマン・バレットという人が書いた『情動はこうしてつくられる』(紀伊國屋書店)という本を読むと、「喜怒哀楽といった情動は、社会的合意によってつくられる」というくだりがあります。

喜怒哀楽を分析する手法として、嬉しいときの顔、怒ったときの顔、哀しいときの顔などをいろいろな人に演じさせて、顔のどの部分の筋肉が動いているか、測定するという方法があります。

だけど、実際にやってみると、顔の筋肉の動かし方は人によってバラバラで、特定の生理反応は認められなかった。

fMRI(磁気共鳴機能画像法)によって情動を特定する試みも行われましたが、結果は同様です。「人は怒ると、脳のこの部分が働く」ということは特定できないということがわかった。

──fMRIは、脳を傷つけることなく、その活動を調べる方法です。その科学的な画像診断でも、人間の感情のモノサシにはならないということですか?

そうです。そこでリサ・バレットは、「情動は社会的合意である」ということを言ったんです。

例えば、無表情の人物の映像があったとして、殺人の映像のあとにその顔を見せます。すると、無表情のはずなのにその顔が恐怖を感じた表情のように見える。次に宝くじの当選映像のあとにその顔を見せれば、喜びの表情に見える。

そんなふうに、情動というのは社会的な要因があって初めて理解されるもので、本当のところはよくわからないということです。

実際のところ、亡くなったとわかっていても、まるが生きていたころの感覚はすぐには抜けません。うちの玄関は引き戸で、まるが出入りできるように少し開けておく習慣がありましたが、今もそうしています。ついさっきも、原稿の校正に没頭している途中、いつもまるが寝ていたソファのほうに視線を向けているのに気づきました。

その感覚は、今後もそう簡単に消えることはないでしょう。

『まる ありがとう』

  • 著者:養老孟司
  • 写真:平井玲子
  • 発行:西日本出版社
  • 定価:1200円(税込)

子どものころ、赤痢で死んでいたかもしれない

──2020年の6月の心筋梗塞による入院、同年12月の愛猫まるの死、このふたつは新型コロナウイルスの感染拡大という最中での出来事です。それについての見解をうかがう前に、先生が小学校1年生のときに赤痢に罹患したときの話をしていただけませんか?

1945(昭和20)年8月5日の終戦の日、私は神奈川県津久井郡中野町(現在の相模原市緑区)にある母の実家に疎開していました。

その家に祖父母と叔母と一緒に暮らしていたんです。山の斜面にあって、水道がなく、山から水を引いていたため終戦直後に赤痢が流行して、みんなが罹患しました。

その結果、祖父母と叔母が亡くなって、私だけが生き延びました。

その理由は、よくわかりません。子どものほうが大人より抵抗力が働いたのか、あるいは私だけ症状が軽かったのか、それともほかの理由があるのか。

これは、新型コロナウイルスもまったく一緒です。誰が感染しやすいか、感染したとして誰が重症化しやすいのか、誰が死にやすいのかといったことは特定できません。

──赤痢の治療は、どのようにおこなわれたのでしょう。

鎌倉で開業医をしていた母の知り合いの医者の診療所に、隔離されて治療を受けました。

子どもの赤痢を「疫痢」と言いましたが、死亡の原因は下痢や嘔吐などの脱水です。そこで、太もものところにリンゲル液という一種の生理食塩水を注射して、脱水を防ぐ治療をしていました。

今ならどこの小児科でも、子どもの静脈に点滴することは当たり前ですが、当時はむずかしい技術だったようです。抗生物質があれば、赤痢菌を直接攻撃して症状を押さえ込むことができますが、まだ普及するかしないかという時期だったのです。

途上国の子どもの死亡率が下がったのは、スポーツ飲料の開発が寄与したという話があります。粉末にすれば輸送も簡単なので、赤痢やチフス、コレラといった感染症に罹った子どもをたくさん救ったんです。

とにかく、私はこの赤痢体験と82歳の心筋梗塞を含めて2度、命の崖っぷちに立ったことになります。

写真提供/まるすたぐらむ

ウイルスを敵視する人はしっぺ返しをくらっている

──赤痢は細菌性の感染症なので、今では抗生物質で根治できますが、新型コロナウイルスには効き目がありません。世界中を巻き込んだコロナ騒動について、先生はどんな見解を抱いていますか?

ウイルスがあたかも人類を攻撃しているかのようにとらえて、敵視する人がしっぺ返しをくらっているように見えています。

米国のドナルド・トランプ、英国のボリス・ジョンソン、ブラジルのボルソナロといった政治家たちも、コロナを押さえ込もうという姿勢を見せて、自身が感染しました。中国の習近平のゼロコロナ政策も国民の批判を浴びていますよね。

コロナは人間にとって、敵ではないし、そもそも味方でもありません。中立なんです。

ヒトゲノムの解析が進んでわかってきたことですが、ヒトゲノムのうち、タンパク質を遺伝暗号で指定しているのは2%足らずで、残りの98%は何をしているのかわかっていません。最近の研究では、ヒトゲノムの40%がウイルス由来であるという報告を読んだことがあります。

つまり、ウイルスは自分なんです。

人間の細胞のなかにあるミトコンドリアは、酸素を吸い、糖を分解してエネルギーを生むという重要な仕事をしていますが、米国のリン・マーギュリスという生物学者は、ミトコンドリアは細胞内にすみついた細菌などの原核生物に由来するという細胞内共生説を唱えました。

ですから、ウイルスと自分との違いを説明するのはむずかしい。なかなか線引きができないのです。最終的には、共存していくしかないのだと思っています。

──新型コロナウイルスの対応策として、メッセンジャーRNAというワクチン接種が採用されましたが、それについてはどう思いますか?

筋肉注射をして、新型コロナウイルスの特徴を覚えさせ、本物のウイルスに対抗する免疫をつけるというのがメッセンジャーRNAの仕組みです。

遺伝物質を体に入れることには抵抗感を示す人は多いはずなんですが、新型コロナウイルスの感染拡大によって、膨大な人数に注射をする機会が発出しました。

今回の新型コロナウイルスの主成分となるメッセンジャーRNAは、細胞の核に入ることができないので、ヒトの遺伝子の情報に変化を加えることはないと説明されています。

とはいえ、少なくとも何十億人というヒトに注射したという既成事実はつくられてしまった。今後、バイオテクノロジー産業に関わる研究者などの間で、遺伝子操作によって人間そのものを変えようとする議論が水面下で進みはしないかと懸念しています。

こういう話をすると、「じゃあ、先生はワクチンを否定するのですか?」と聞かれるんだけど、いちおう3回目まで接種しました。私は高齢者で、糖尿病という基礎疾患もありますから、進んで実験動物になったわけです。

「4回目は?」と聞かれたら、今のところは「仏の顔も三度まで、という言葉があるでしょう?」と答えておきましょう(笑)。

写真提供/まるすたぐらむ

「老い」も「死」も自然なこと。だから自然に馴れなさい

──先生は、白内障手術の入院中に『LIFESPAN(ライフスパン): 老いなき世界』(東洋経済新報社)を読まれたそうですね。

この本によれば、老化は病気のようなもので、だから治療して若返らせることは可能だという理屈です。著者のひとりのデビッド・A・シンクレアはオーストラリア生まれで、アメリカ在住の科学者、起業家です。

日本人なら、「人間が老いて死ぬのは自然であり、それを止めようとするのは神をも畏れぬ仕業だ」と発想する人が多いと思いますが、古い歴史のない社会では、不老不死の研究を科学者が大真面目に取り組むようなことが起こるんですね。

臓器移植が南アフリカで始まったのも、古い歴史のない社会だったからです。

日本でもこれから高齢者がどんどん増えて、認知症や要介護人口も増えていくことを考えると、老化を止めようとする技術は、経済面から見ても、画期的な技術になる可能性はあると思っています。

ただ、間違ってはいけないのは、人間そのものは自然物であり、完全にコントロールすることは不可能だということです。

当たり前のことなんだけど、都市に住んでいる人はそのことがよく理解できなくなっている。なぜなら、都市というのは自然をなるべく見ないようにして作られた人工物だからです。オフィスビルの部屋は、風が吹かない、雨も降らない、エアコンで夏でも冬でも室温はつねに一定に保たれています。

ところが自然は、これとは正反対。雨が降ったら地面はぬかるんで歩きにくくなりますし、日が傾いたらあたりがまっ暗になって視界も狭くなる。

自然はつねに変化しますが、人間の脳がつくりだした都市は不変です。

だから私は、たまには自然に触れて、人間にとって不可解なものに対する判断力、耐性を養っておけ、ということをずいぶん前から提唱しています。

──先生が提唱する「現代の参勤交代」に共鳴した人たちが、山梨県道志村に「養老の森」を都会人に向けて公開しています。こうした場所を訪れて、自然に触れる機会を持つべきなのですね?

そうです。都市をつくった脳は、自然を避けようとする。その最たるものが「死」です。でも、人間そのものが自然なんだから、死を忌避しても仕方ありません。

自然を見ていれば、病気だって、自分が死ぬということだって、「そんなのしょうがねぇだろ」ってあきらめがつきますよ。

写真提供/まるすたぐらむ

この記事の執筆者

ボブ内藤

1966年、静岡県三島市生まれ。1990年より30年以上、ライター・編集者として活動。これまでに1500を超える企業を取材。また、財界人、有名人、芸能人にも連載を通じて2000人強にインタビューしている。

2022年12月12日2023年1月27日

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落語家にして、総著作数20作を超える著述家でもある立川談慶さん。おまけに趣味の筋トレを活かしてベンチプレス大会に出場するなど、マッチョな一面を持つ「異能の人」である。 そんな談慶さんが、師匠・立川談志との20年間に及ぶ交流を通じて学んだことを記した『武器としての落語』(方丈社)を上梓した。 天才談志と過ごした日々のこと、自らの人生をいかに生きていくのかということ、そんなあれこれについて聞いてみよう。 『武器としての落語 天才談志が教えてくれた人生の闘い方 』 著者:立川談慶 発行:方丈社 定価:1600円(税別) 入門して最初に言われたのが「おれを快適にしろ」という言葉でした ―『武器としての落語』は冒頭、1991年に談慶さんが七代目立川談志に弟子入りするところから話が始まります。談志師匠が最初に発した、「おれを快適にしろ」という言葉に翻弄されて、数々のしくじりを重ねたそうですね。なぜでしょう? 天才談志に弟子入り志願をするような人間は、何も私に限らず、自分に対して大なり小なり自負を持っているものです。「自分はおもしろいんだ」「談志の弟子になりさえすれば大成できる」とね。 実際、その前年には志の輔師匠が異例の早さで真打ちになっていました。志の輔師匠が広告代理店でバリバリ仕事をしていた社会人経験を経て、談志に入門したのが28歳のとき。当時、25歳だった私は志の輔師匠と同じく、3年間のサラリーマン経験がありましたから、同じ道を通れば、すんなり一人前になれると高をくくっていたんです。 「おれを快適にしろ」という談志のひとことは、そんな私の鼻をへし折るつもりで発した言葉だったのかもしれません。 師匠を快適にするとは、どういうことか? 頭をひねった私は、師匠の荷物を全部ひとりで持って、汗びっしょりになって働きました。ところが、これが大間違いでした。 師匠が弟子に重い荷物を持たせて威張っているという構図を周囲にさらすのは、談志がいちばん嫌うことだったんです。エレベーターに早く師匠を案内しようと、人混みをかき分けたりするのも大間違い。どちらもかえって師匠を不快にさせてしまい、どやされるわけです。 しくじった挙げ句に言われたのが、「おれに殉じてみろ」という言葉 ―落語家には前座、二ツ目、真打という3つの階級があって、二ツ目に昇進すると師匠の身のまわりの世話から解放されて、紋付きの着物と袴を着て高座にあがることを許されるといいます。通常、3~5年で二ツ目になる人が多いそうですが、談慶さんは9年半という異例の長さだったそうですね? はい、その通りです。談志は昇進の条件を、「二ツ目は古典落語50席、真打は100席おぼえる」と明確にして、著書にも書いたりしていたんですが、途中から「都々逸、長唄、かっぽれなどの歌舞音曲の修得」という条件が付加されたんです。古典落語は大学の落研時代からすでに30席ほどのレパートリーがありましたから、「あと20席おぼえたら二ツ目昇進」と思っていた自分としては、大いに不服でした。100メートル走を必死に駆け抜けてゴールしたのに、「今度はハードルだ、長距離だ」と別の競技を足されるようなもんですからね。ちなみに歌舞音曲の課題に関しても、私は盛大な勘違いをしています。談志に認めてもらうからには本式にやらねばと、テープやCDを聴いたり、小唄を教えてくれる教室に通ったりして唄をおぼえるわけですけど、「おれが求めているのはそういうのとは違うんだ」と、ことごとく否定されました。つまり、「唄をうまくうたえるようになれというんじゃない。落語の登場人物が酔っ払ってうたう調子でいいんだ」というわけです。そんな調子でしたから、談志の前座をつとめて5年目、私より2年遅れて入門してきた談笑が二ツ目に昇進して、弟弟子に追い越されてしまうようなことになるんです。ある日、そんな私に談志は言いました。「おまえ、そこまで不器用か。ならば、おれに殉(じゅん)じてみろ」と。 悩んだり、迷った末に気づいた、「倍返し」の境地 ―「おれに殉じてみろ」とは、すごい言葉ですね。 今の私なら、この「談志語」を自分なりに翻訳することができます。おそらく、「そこまで不器用なら、不器用に徹してみろ。その不器用さを活かして、おれを真似てみろ」という意味だったのではないでしょうか。その後も、自分がおぼえたことを談志に披露し、そのことごとくを否定される日々が続きました。気持ちが折れそうになった何度目かに、ふと気づくことがありました。それは、「迷っているのは自分のほうで、師匠がおれを迷わせているのではない」ということです。例え話で説明しましょう。鏡で自分の姿を見たとき、ネクタイが曲がってたら、まっすぐになるように直しますよね。普通なら、自分の首元に巻いてあるネクタイをずらして直しますけど、当時の私は、鏡に映っているほうのネクタイを直そうとしていたんです。これはもう、とんでもない勘違いです。いくら鏡をいじろうとも、曲がったネクタイは直りませんからね。結局のところ、師匠が提示してくる昇進基準を「無茶ぶり」ととらえて、ただこなしているのではダメで、自分から進んでアクションを起こしていかなければならないということに気づいたんです。そうなると、談志から「踊りを5つおぼえろ」と言われたら、10おぼえる。「唄を10曲おぼえろ」と言われれば20曲おぼえるという具合に、先回りして「倍返し」していくようになりました。そこからは、技芸を身につけていくことが嘘のように楽しめるようになりました。 天才談志はプロデュースの名人だった ―二ツ目昇進まで、普通の人の倍以上の9年半をかけた談慶さんですが、そこから真打に昇進したのは5年弱です。「二ツ目は通常、約10年」といいますから、かなりスムーズだったんですね? 本当は、二ツ目になって3年たったとき、「おまえ、真打になっていいぞ」と師匠から言われていたんですが、自分なりにまだ真打になるほどの器ではないと返事をズルズルと先延ばしにしていたんです。そんなある日、たまたま自宅の近くで独演会を開催した春風亭小朝師匠とお会いする機会があって、相談してみました。そのとき、「談志師匠がそう言ってくれているなら、早く真打になるほうが恩返しになりますよ」という言葉を聞いて、真打になる決心をしたんです。みなさん、ご存知だと思いますが、談志は頭にバンダナを巻いて高座にあがったり、サングラスをかけてみたり、髪の毛を染めてみたり、それまでの落語家がやらなかったことをやりました。メディアに伝えられるキャラクターとしても、「毒舌家」「破天荒」の落語家というイメージを多くの人が持っていると思います。でも、前座として9年半もの長い年月、前座として一緒に生活してきた私は、師匠が家族を心から愛するマイホームパパだったことを知っています。そのおかげで、男女ふたりのお子さんは、まっすぐに育った好人物ですし、師匠の「愛情を惜しげなくつぎ込む」という子育て哲学は、私もずっとお手本にしてきました。 ―もしかすると談志師匠は、落語の名人だっただけではなく、自己プロデュースの達人だったのかもしれませんね? 本当に、そう思います。今思えば、9年半という長期間、私を前座の身に据え置いていたことさえ、ある種の計算があったのではないかと思えてきます。 生前、談志は弟子たちに「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」と言っていましたが、私が落語家としては異例の20冊以上の書籍を執筆できているのは、談志が「異例の長さの前座修行をした男」という経歴をつけてくれたおかげだと思うんです。 談志は自らの「老い」を人一倍、恐れていた ―談慶さんが談志師匠に弟子入りしたのは25歳のときですが、当時の談志師匠はちょうど30歳年上の55歳。どんな様子でしたか? そりゃもう、エネルギッシュでしたよ。朝から肉料理をガツガツ食べて、映画の試写会に行った足でプロデューサーと打ち合わせをしたり、メディアの取材を受けたり、そうかと思えばパーティに顔を出してジョークを言ったり。そばについてるだけでクタクタになるほどでしたが、師匠は一日中しゃべっていてもつねに元気でした。 落語家は年をとったら味が出る、なんてよく言われます。でも、談志は「そんなのは嘘だ」と否定していました。 談志の豪快磊落、天衣無縫な落語は、実は「落語は業の肯定である」という定義のうえに組立てられた緻密な計算があって成り立っていました。豪快さと繊細さ、その両面を備えた緻密な落語を表現するには、人並み外れた胆力と体力が必要です。 ですから談志は、自分が老いるということに対して、人一倍の恐怖心を持っていたと思います。 実際、62歳で食道がんになったとき、記者会見でタバコを吸って見せたりしたのは一種のやせ我慢的なポーズで、これをきっかけに自分の健康を維持することに大変、気を遣うようになりました。 ―さすがの談志師匠も、年には勝てないということですか? 談志が得意としていた古典落語の演目のひとつに「野ざらし」があります。おっちょこちょいな八五郎という主人公がサイサイ節という唄をうたいながら河原で釣りをする見せ場があって、演じるのにかなりの体力を要するんですが、そういうネタをだんだんやらなくなりました。 そうかと思えば「落語はイリュージョンだ」と定義替えをしたり、落語の途中に解説ふうの話を入れたり、時事ネタを放り込んでみたりして自分の落語観をアップデートしていきました。 今思えばそれは、「老い」への抵抗だったのかもしれません。つまり、若いころは剛速球で馴らした投手が、ピークを越えて変化球投手に鞍替えするようなものです。 私が真打ちになったのは、談志が70歳になった年で、私は40歳になってましたが、そのトライアルの席で談志はこんなことを言いました。「お前もいつか、わざと落語を下手にやりたくなる日が来る。その日が来なかったら、嘘だと思え」と。 芸の道というのは途轍もなく奥深いもので、「わざと下手にやる」なんて境地が本当にあるのかと首をひねりたくなりますが、このころの談志は、ただお客さんを楽しませるだけでは満足できない域に達してしまったのかもしれません。 ちなみに晩年は、「イリュージョン」から「江戸の風」と言っていました。 人生を丸ごとつぎ込まねば学べないことがある ―談慶さんにとって、談志師匠の落語のピークはどのあたりだと思いますか? そりゃ、何といっても2007年12月18日、72歳の談志がよみうりホールでやった「芝浜」でしょうね。 多くの人から「伝説的名演」と評価されているだけでなく、談志自身、「あれは神様がやらせてくれた最後の噺だったのかもしれない」と語ったほどですから。 そこから先は、「老い」に身を任せてソフトランディングしていくような感じだったと思います。 74歳で咽頭がんを患って、その翌年に声帯摘出手術を受けるまでの最晩年の高座は、兄弟子の談春兄さんいわく、「落語と一席ずつお別れしているようだった」といいます。 ―師匠と過ごした20年間をふり返って、天才談志の「人生の去り際」は談慶さんの目にどのように映っていますか? 談志は、最後の最後まで落語家だったと思います。そして、その手本となる生き方を身をもって私に教えてくれました。 人は誰だって「老い」には逆らえないし、人生の最後には必ず「死」がやってきます。そう考えてみると「介護」というのは、ただ老いた人を手助けすることを指すのではなく、老いた人から人生の仕舞い方を教えてもらう「予習」のような場なのかもしれませんね。 数年前、83歳で亡くなった父のときも、同じようなことを感じました。葬儀を終えたとき、思春期の入り口である反抗期を迎えたばかりの長男と次男に目をやると、ふたりとも泣きじゃくっていたんです。「親父は、亡くなることで孫に情操教育をしてくれたんだな」と感じて、私ももらい泣きしてしまいました。 以前、寿司職人が「飯炊き3年、握り8年」で、一人前になるには最低10年かかるという話を「バカバカしい」とSNSで批判した人がいましたね。その人にとっては、落語家の修業も同じように見えるのだと思いますが、厳しい徒弟制度に自分の人生を丸ごとつぎ込むような形ではないと学べないこと、伝えられないことが私はきっとあると思うんです。 「老い」に対抗する唯一の手段は、自分の体の声に敏感になること ―ところで談慶さんは、筋トレが趣味で、57歳になっても「ベンチプレス100㎏以上を上げる落語家」として有名ですが、これは談慶さんなりの「老い」に対する抵抗なのでしょうか? そうかもしれません。筋トレをはじめたきっかけは41歳のとき、頸椎ヘルニアになってしまったことでした。幸いなことに、カイロプラティックの名医と出会って痛みは治まったんですが、「今回の処置は、あくまで応急処置です。再発しないようにするには、背中の僧帽筋を鍛えて筋肉でガードするしかありません」と言われてジムに通うようになったんです。以来、休まずにジム通いを続けられているのは、筋トレが生活のメトロノームのようになっているからです。朝早くに、ジムに行って、ひと眠りしたあと午後の2時から仕事をすれば、時計の針が深夜の12時にまわる前から眠くなります。爆睡して目覚めてみれば、疲労から完全に回復しているから、また筋トレをしたくなる。そんなふうに筋トレが生活のリズムを整えてくれるんですね。 ―では、談慶さんはまだ「老い」を意識することは少ないんでしょうね? いえ、そんなことはありません。50代なかばを過ぎると、体のいろんなところにガタがくるようになりました。 この間、肩の関節をやっちゃって痛みがしばらく残ってますし、古傷のヒザの半月板も痛むようになってきました。「筋肉は裏切らない。鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」というのが私の口癖でしたけど、「関節」は平気で裏切ってきますね(笑)。 あと、私は2022年の1月にコロナに感染しましたけど、これも「老い」と関連があると思ってます。 実は、前兆があったんですよ。筋トレしたあと2日続けて体に寒気が走ったんです。「あれ?」と思ったけど、「まぁ、大丈夫だろう」と油断して放置してしまったのがいけなかったんですね。3日目に発熱して、陽性であることがわかりました。 要するに「老い」のせいで無理が利かなくなってきたってことです。ですから、これからは体の声に敏感になって、感受性を高めなければならないと思っています。 年をとるというのはネガティブなことばかりじゃない ―新型コロナウイルスの感染拡大は、落語家としてのキャリアに重大なダメージを与える出来事ですよね? もちろんです。それ以前に予定していた落語会はすべてキャンセルになり、スケジュール帳はまっ白になりました。落語家にとって「三密」を禁じられるというのは、鳥がツバサをもがれるようなものです。というのも、音楽のコンサートや演劇以上に、落語の表現形態は演者とお客さんとの距離が近いんです。もちろん、ミュージシャンや演劇人より、落語家のほうが被害が大きいと言うつもりはありませんが、落語家の表現の環境がコロナ前に戻るには、他ジャンルよりも長くかかるんじゃないかと思っています。ただ、泣き言ばかりいって、コロナを恨んでみたところで、何にもなりません。そこで、暇になった時間を本の執筆に振り分けるようにしました。それまで忙しくて断っていた企画も引き受けて、表現の場を高座から紙の上に移し変えたんです。もともと、コロナになる前から10冊以上の著書を持っていましたので、頭の切り換えは早かったんです。おかげでこの3年間で11冊の本を出すことができたし、そのうちの1冊、『花は咲けども 噺せども 神様がくれた高座』(PHP文芸文庫)では小説家デビューすることもできました。まぁ、寝る間を惜しんで執筆に時間を割いたせいで、ストレスが溜まってコロナにもかかってしまったわけですが、それだって「これからは体の感受性を磨いていこう」という教えを与えてくれたわけですから、ポジティブに働いた経験だったとみることもできます。 ―談慶さんのその「転んでもただでは起きぬ」という発想、素晴らしいです。 自分の「老い」との向き合い方にも、その発想は使えると思いますよ。 最初に、談志に弟子入りしたばかりの私が「おれを快適にしろ」という談志語を理解できずにしくじった話をしましたよね。 でも、年をとることで「こういう意味だったのか」と、その言葉の真意に気づくことができます。そして、その教えをネタにして、作家として表現の場が与えられている。「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」という談志の生前の予言は、まさに的中しているんです。 そう考えてみると、年をとるのは決してネガティブなことばかりじゃなくて、ポジティブな面も多分にあるっていうことがよくわかります。 ありがたいことに、落語家には「定年」というものがありません。師匠である談志が見せてくれたように「生涯現役」の生き方をお手本にして、これからも頑張っていきたいですね。 撮影/八木虎造

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