三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)が話題を呼んでいる。発売から3カ月で、そろそろ10万部を突破する勢いだという。
2022年12月にシェフが「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店したのと同時出版という絶妙なタイミングが働いてのことだと思うが、本の内容も実に素晴らしい。
北海道の増毛という漁師町に生まれたシェフが、極貧生活のなかからたったひとつの選択肢をたぐり寄せて料理人になる道を進む、感動的なサクセスストーリーである。
『三流シェフ』には、フレディ・ジラルデ、トロワグロ兄弟、アラン・シャペルといった一流シェフの店での武者修行がイキイキと語られているが、後編のインタビューでは、帰国したシェフが「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店したいきさつ、そして2022年12月に同店を閉店した理由について、じっくり語っていただくことにしよう。
―1982年12月、ヨーロッパ修行を終えて、三國さんが28歳で日本に帰国したときの日本は、どんな状況だったのでしょう?
ぼくがヨーロッパに渡る前、帝国ホテルで必死に鍋磨きをしていたころの日本のフランス料理界が「ホテルの時代」だったことはさっき言いましたよね(※前編に掲載)。ホテルに正社員として就職するというのが、一人前のフランス料理人になる唯一の道だったんです。
でも、ヨーロッパでの8年間の修行を終えて帰国したときの日本では、東京の街場のフランス料理店が脚光を浴びていました。
鎌田昭男さんの「オー・シュヴァル・ブラン」、石鍋裕さんの「ビストロ・ロテュース」、井上旭さんの「ドゥ・ロアンヌ」。この3人の先輩シェフたちがブイブイ言わせていました。
そう、時代は「ホテルの時代」から「オーナーシェフの時代」に移っていたんです。村上さんの「10年経ったら君たちの時代が来ます」という予言は当たったんですね。
だから、その村上さんに帰国のあいさつに行ったとき、ホテルの仕事を紹介されても、「ありがとうございます。でも、街場のレストランで腕試しをしたいんです」と言って、お断りしました。もちろん、村上さんは「そうか。頑張れよ」と激励してくれましたよ。
―最初は「ビストロ・サカナザ」というお店で、雇われシェフとしてスタートしたんですね?
ぼくがフランスで修行していたころから「3つ星店の厨房で日本人が働いている」という噂が日本で流れていたようです。それを聞きつけたオーナーが、わざわざフランスまでやって来て「東京のビストロでシェフをやらないか」とスカウトしてくれたんです。
当時のぼくは、村上さんの言いつけを守って、収入のすべてを自己投資に費やしていましたから、貯金はゼロ。渡りに船のお誘いだったわけです。
もうひとつ、村上さんの「10年修行しなさい」という言葉もぼくは忘れていなかった。海外での修行は8年で切りあげて帰国したから、それに2年を足して、30歳になった年に自分の店を持とうと思ってました。
そうして、その決意の通りに開店したのが、「オテル・ドゥ・ミクニ」。1985年3月のことです。
―「オテル・ドゥ・ミクニ」は迎賓館赤坂離宮にほど近い住宅街に立地しています。フランス料理店と言えばアクセスのいい繁華街に開店するイメージがありますが、なぜあえてその場所を選んだのでしょう?
ガヤガヤとうるさい繁華街ではなく、静かで落ちついた雰囲気の場所にあるのがヨーロッパのフランス料理店のスタンダードだったからです。
ぼくが最初に修行したフレディ・ジラルデの店は、スイスのローザンヌから車で20分のところにあるクリシエ村というところにありました。
そんな不便なところでも、予約が途切れることはありませんでした。お客さんは静かな場所で、時間を気にせず料理を楽しめる。トロワグロさんの店も、アラン・シャベルさんの店もそうでした。他に何もない田舎の村にポツンとある。
だけど、友人たちは「そんなところに店を出したらお客さんが来なくなるぞ」と口をそろえて言いました。
実際、開店して最初の半年間は、その通りになりました。開店当時、あいかわらず貯金はゼロだったから、内装も厨房設備も食器も、みんな借金して揃えたんだけど、返済するどころか毎月赤字続きで借金はどんどん膨らむばかり。もう、年をまたがずに年内で潰れてしまうだろうと頭を抱えました。
そうやって地獄のような半年が過ぎたとき、日本に「一億総グルメブーム」の風が吹いてきたんです。
「グルメ」というのは本来、「美食家」「食通」と呼ばれてきた、金に糸目をつけずに食を追求するごく一部の人たちを指す言葉なんだけど、日本のバブル景気がそれを一般名詞にしたんです。
それに加えて、日本テレビの『若き天才シェフ 三國清三』というドキュメント番組が高視聴率になって、ぼくの名が知られるようになると、「オテル・ドゥ・ミクニ」は数カ月先も予約でいっぱいになる店になっていた。
―当時、三國さんが出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙の写真を見ると、挑戦的で、尖っていた様子が感じられますね。
だって、鎌田、石鍋、井上のフレンチ三羽ガラスに対抗するには、ヒール役に徹するしかないじゃない。プロレスのザ・デストロイヤーとか、ボボ・ブラジルみたいな憎らしいヒール役。ダンディでクールな彼らのキャラクターを真似するのではなく、逆をいったわけです。案の定、見事にバズったよね(笑)。
料理のスタイルにしてもそうです。味噌も醤油も米も、平気で使ったし、天ぷらや茶碗蒸し、焼き鳥なんかの技も取り入れました。
評論家には評判が悪くて「あんなのフランス料理じゃない」「デタラメだ」なんて書かれたけど、「お前らにおれの料理がわかってたまるか」と突っぱねて、日々、お店にやって来るお客さんだけを意識して、自分のスタイルを貫いた。
そんな調子だったから、2007年にミシュランの東京版が創刊されたとき、ぼくの店には星が1個もつきませんでした。
―1985年3月に席数30席でオープンした「オテル・ドゥ・ミクニ」は、やがて80席のグラン・メゾンになり、世界各地の高級ホテルに呼ばれて行なったミクニ・フェスティバルも大成功。三國さんの名は「世界のミクニ」として知られるようになります。そんな三國さんは2022年12月、「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店して周囲を驚かせました。その背景には、何があったのでしょう?
開店から37年間、「オテル・ドゥ・ミクニ」はいろんなことを経験してきました。いいことばかりじゃありません。バブル崩壊、リーマン・ショック、3.11……といった危機にも直面したけれど、その都度、危機を乗りこえて成長してきた。
ただ、コロナの緊急事態宣言からの2か月間は、初めて「店を閉める」ということを経験したんです。
空いた時間を使って、YouTubeチャンネルを始めたりしましたけど、それと同時にこれまでのこと、これからのことをじっくり考えるきっかけにもなりました。
そうしてみると、これまでの人生でやり残してきたことがあることに気づいたんです。それは、「小さな店で、自分ひとりでお客さんと向き合い、料理を作る」ということ。
席数はカウンターのみで8席。メニューは決めない。豊洲でその日に仕入れた食材を、お客さんと相談しながら料理する。
そんな店を作りたいという思いが数年前からあって、でも、「無理だよなぁ。来世に持ち越しかもなぁ」と打ち消してきたけど、コロナ禍でそのことを考えたとき、今ならやれるかもしれない、そう思えた。
「あと3年で40周年だから、それまでやったらどうですか」というアドバイスもたくさん受けたけど、3年後のぼくは70歳になっている。そこから始めるよりも、まだまだ元気な今のうちに準備をしておきたい。
そう決めてからは、長年の立ち仕事で痛めたヒザを手術してリハビリを始めたし、我流で身につけたフランス語を基礎から学び直そうと日仏学院に通うことにしました。
それから筋トレと、食事に気を遣うことで体重を70キロ台まで絞ろうとしています。マンスールといって、ダイエットとは違った方法でカロリーと栄養バランスを考え、質の高い素材と調理法で食事をするんです。
―70歳からの再スタートをきるには、「健康であること」は必須条件なんですね。
年をとれば、人は誰だって老いていきます。プロの料理人であっても、味覚の衰えには逆らえないし、体力も減退します。
だけどその一方で、「心の健康」は、自分の心がけ次第で維持していくことができます。
―「心の健康」は、どうすれば維持できるんでしょう?
いい料理店になるには、料理のクオリティを高めるだけではダメで、サービス面のホスピタリティを充実させる必要があります。クオリティとホスピタリティの両輪がなければ「いい店」はできません。
ホスピタリティとは何かというと、「お客さんに料理を楽しんでほしい」というモチベーションです。
これまで生きてきて、つくづく感じるのは「自分のため」に頑張る力には限界があるということ。どんなに頑張っても、「もうこれ以上はできない」という壁にぶち当たる。でも、自分以外の誰かのため、そう、例えば、お客さんのため、家族のため、先輩後輩や同僚のため、社会のためを考えると、人の努力は限界を超えるんです。
ぼくは、そんな努力が「心の健康」につながっているんじゃないかと思う。2024年の8月10日、ぼくは70歳になります。そのときを迎えるのが、今から楽しみ。久しぶりに充実した日々を過ごしていますよ。
―とても楽しいお話、ありがとうございました!
撮影/八木虎造
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。