五木寛之という名は私にとって、「ベストセラー作家」「流行作家」の代名詞だった。
直木賞受賞作の『蒼ざめた馬を見よ』(文春文庫)や大河小説『青春の門』(講談社文庫)といった代表作はもちろんだが、昭和41年生まれの私には翻訳を手掛けたリチャード・バックの『かもめのジョナサン』(新潮文庫)や烏丸せつ子主演で映画化された『四季・奈津子』(集英社文庫)のイメージが強い。
どの作品も、出版と同時に話題となり、風にたなびく長髪、サングラス、タートルネックのセーターにジャケット姿の「著者近影」の写真パネルが書店の平積みされた新刊の棚に飾られていたものだった。
その、あまりのハマりっぷりに、まだ七三分けで『笑っていいとも!』に出ていたタモリが、名古屋弁をしゃべる人や週末ゴルフに興じる俗物たちと同列に「深刻がって気取っている」とやり玉に挙げて腐していた記憶がある。
その五木寛之氏が2010年代に入って、親鸞の生涯を綴る大河小説『親鸞』(講談社文庫)という大著を手掛けたことを知ったときは、「どうして?」という、ちょっとした違和感があった。
浄土真宗の宗祖であり、「他力本願」、「悪人正機」などの思想を後世にもたらした親鸞聖人と、カッコいい「流行作家」としての五木寛之氏のイメージが結びつかなかったのである。
なぜ、五木寛之は親鸞に関心を持ったのか?
実は本書は、89歳になった五木氏が、その質問に全力で答えた書のような気がする。その秘密について考えながらレビューしていこう。
まずは冒頭の文章を引用する。
「そもそも、どうして五木さんは浄土真宗に関心を?」
以前、上智大学で宗教学者の島薗進さんと対談させていただいた際、鳥さんにそう聞かれましたが、べつに理由というほどのものはないのです。ただ、物心ついたときには家に仏壇があり、その前で両親が時々お勤めをしていた。そのとき両親が唱えていたのが「正信偈(しょうしんげ)」で、はやく亡くなった母親にこう言われたこともありました。
「ヒロちゃんがね、まだ三つか四つぐらいの頃、私たちが正信偈をリズムをつけて唱えると、後ろでそれに合わせてタコ踊りみたいな踊りを踊ってたのよ」
「正信偈」とは、親鸞の主著『教行信証』のなかの一節で、浄土真宗の門徒が朝晩の勤行でよく読む偈(詩)文のこと。
つまり、島薗氏の質問に「生まれた家が浄土真宗の檀家だったから」と答えたのだが、どうもそれだけではないような気がする。
というのも、私は幸運なことに昨年の3月、89歳の五木氏にインタビューする機会をいただき、島薗氏と同じ質問をしてみたところ、上記とは別の答えが返ってきたからだ。
そのときの答えは、この本でも触れられている。
私が金沢に住んでいた三~四十年ぐらい前は、金沢の至るところに「一向一揆の跡」という札が立てられていたものです。
たとえば、枯木橋という橋のたもとには、「一向一揆のとき、この辺りは戦火に巻かれて全ての家が焼失した。その家々の柱が枯れ木のように残っていたので、枯木橋と呼ぶようになった」などという説明が立て札に出ていたものです。
金沢は妻・玲子さんの郷里で、金沢を舞台にした小説もたくさん書いている五木氏だが、そこに住んでいる間に史跡を見つけて興味を持ったというのがその答えだった。
五木氏は「なぜ親鸞に興味を?」という質問に答えるのが嫌で、わざとバラバラの返答をして質問者を煙に巻いているのか? いや、そういう感じではなかった。少なくとも私はそう感じた。要するにこの質問は五木氏にとって、簡単に答えられる種類の質問ではないようなのだ。
代わりに五木氏が語るのは、12歳のときの朝鮮半島からの引き揚げ体験だ。
政府からの援助はなく、戦争が終わっても北朝鮮の平壌(ピョンヤン)に抑留されるような形で暮らしていた五木氏の一家は、結局、徒歩で三十八度線を越えて開城(ケソン)付近にあった米軍の難民キャンプに逃げのびたのだが、「その過程を通じた一年から二年間のうちに体験したことは、できることなら思い出したくないことばかり」だと語る。
たとえば、国境線を越えるトラックに、「あと二人乗れるよ」と言われて、何人かが先を争って荷台によじ登ろうとします。すると先に上った二人は、後から乗ろうとする仲間を足で落とし、あるいは突き落として車を出してしまうしかない。
つまり、他人の命を犠牲にして生き残った自分は、悪人である。許されざる者である。つねにそういう意識があったと五木氏は告白する。
そして、30歳を過ぎた頃、親鸞の考え方や教えに触れて「ああ、ひょっとすると、この人の考え方によって自分は救われるかも」という感覚を得たという。
おそらくこれが、「なぜ親鸞に関心を持ったのか?」という質問に対する、五木氏の心の芯に近い部分から出た答えなのではないか。
だが、この告白には続きがある。
親鸞についての多くの本を読み、寺にも通い、一時は休筆して龍谷大学の聴講生にもなったりもして、大河小説『親鸞』(講談社文庫)をものにしても、30代のときに感動した親鸞の像がどんどん向こうへ遠ざかっていって、まぼろしのようにしか見えなくなってしまったのだという。
なぜ親鸞は、学ぼうとすればするほど遠ざかってしまうのか? 五木氏は自問する。そして、次のような結論を得るのである。
吉本隆明さんや梅原猛さんをはじめ、これまで親鸞に関しては多くの知識人による高度な思索が繰り返されてきました。それらの本は気軽に書店で買うこともできます。
しかし、「二人いて喜ぶ時は、その一人は親鸞だと思え。三人いて喜べば、その中の一人は親鸞だと思え」という親鸞の言葉、お遍路さんの「同行二人」のように、自分のそばで支えてくれて、後ろから肩を抱いてくれるような存在。そんな親鸞像がにわかに雲の上の高みに持ち上げられて、人々はそれをふりあおがなければならない、そんな存在に変わった感じがします。
別のところでは、こんな風にも説明している。
おかしな言い方ですが、「まぼろしの親鸞」というのは、抽象化された親鸞、ということですね。親鸞が生きた人の姿で、こちらの肩に手を置いて語りかけてくるような存在として 考えられるのではなくて、観念として、あるいは一つの思想としてのシンボルのように感じられてしまう。それが今の親鸞学の問題点だろうと私は思うのです。
私たちは、親鸞の生の声を聞きたい。生の表情を想像したい。そういうものが伝わってく るようなものを知りたい。けれども現実には研究すればするほど、分析すればするほど、人 間の実体から遠ざかっていくような傾向があるのではないでしょうか。
本書では、五木氏が「生身の親鸞を知りたい」という欲求に従って、隠れ念仏の里を訪ねたり、弟子の唯円が晩年の親鸞の言葉をまとめたと言われる『歎異抄』を読み解いたりした、さまざまな経験が語られるのである。
最初に断っておくべきだったかもしれないが、本書は少人数の聴衆のために語りおろした話を文章にしたものに、その他の場所で書いたものを加えてまとめたものだという。
そのため、五木氏自身、「読み返してみると、まことに粗雑な感じがします」とか、「乱暴で非常識な発言も少なくありません」などと批評している。
いや、語りおろしなんだから、謙遜したんじゃないかと思う人もいるかもしれないが、確かに読んでみると、「粗雑」「乱暴」という言葉を否定できないレベルで全体的に散漫な印象を受けるのだ。
決して読みにくいわけではないが、話がとりとめもなく別の話に飛んだかと思うと、同じ話が2度出てきたりして、どうにも落ち着かない。
例えば、『歎異抄』のなかの「親鸞は弟子一人も持たず候」という言葉の引用は、私が数えた限りで本書に3回も出てくる。
実際には親鸞には多くの弟子がいて、京都での晩年の親鸞の生活を支えていた。最初の引用では、そのことについて、次のような説明がつく。
ですから、弟子一人も持たず、とは弟子は現実にはいるかもしれないが、自分は弟子だとは思っていない。つまり御同朋(ごどうぼう)、同じ仏の道を極めていく対等な仲間であるのだと言っているわけです。これは心がけ、心もちであって、現実との落差をどう埋めていくのかという、大きな問題だと思います。
3回目の引用では1回目の趣旨と違って、次のように語っている。
私はこの「弟子一人も持たず候」という言葉を読んだとき、そこに親鸞の深い孤独感、寂寥感のようなものを感じて、ため息をつきました。親鸞を師とあおぎ、遠方から難路をこえてその教えを乞うためにやってくる念仏者も少なくない。
しかし、どれほど親鸞が言葉をつくしても、その真意を底まで理解する弟子は少ない。いや、いないのではないか。それは当然です。親鸞は信仰において、学識において、その思索の深さにおいて、屹立した存在でした。
このふたつの引用を比較してみると、それは単なる繰り返しなのではなく、ひとつの言葉を角度を変えて何度も見つめ直しているのだということがわかる。
そう考えてみると、本書の「粗雑」で「乱暴」な文体は、五木氏が「できることなら思い出したくない」と語る「引き揚げ体験」にも関係しているようにも思う。
第一章で語られた引き揚げの話は、最終章の最後の最後で再び語られ、オチにつながるわけでもなく、ふと終わる。この不格好な形が、五木氏が語ったことの真実性を物語っているのではないか。とにかく私は、ズシンとした読後感を味わった。
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