元陸上選手で、世界選手権の男子400mハードル競技で日本人初のメダルを獲得した「侍ハードラー」こと為末大さんが『熟達論』(新潮社)という本を上梓した。
熟達という概念を「技能と自分が影響しあい、相互に高まること」と定義し、その過程を「遊、型、観、心、空」の5段階に分けて解説した、令和版『五輪書』とも言える名著である。
「走る哲学者」という異名を持つだけに、アスリートとして実践してきた暗黙知のトレーニング方法を懇切丁寧に語っている。アスリートのみならず、あらゆる職業にも応用できる方法論だ。
そこで、為末さん本人にお話をうかがい、その真髄に迫っていくことにしよう。
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―為末さんが「自分は足が速い」ということに気づいたのは、いつごろなんでしょう?
かなり早い時期ですね。幼稚園に通っていたころじゃなかったかな。
小学生になってからは3~4年生のときに地域の陸上クラブに入って、中学では陸上部に所属しました。その間、短距離走では負けたことがありませんでした。
―1993年には全国中学校選手権100m、200mで二冠を達成し、ジュニアオリンピックでは当時の日本新の記録を更新していますね?
現在活躍していても、選手によっては小さいころは足が速くなかったという人もいます。実際、中学生大会の優勝者でオリンピックに出場した選手は、ほとんどいないんですよ。
自分の場合、成長のピークが人より早かったんだと思います。その証拠に、高校生になると周りの選手の成長が追いついてきて、なかなか勝てないようになりました。
18歳のとき、400mハードル競技に軸を移したのは、それが原因です。
―陸上選手は、自分が得意とする種目を、どのように見極めていくんですか?
今ではそうではないかもしれませんが、私が中学生だった1990年代前半は、成長期の選手に対して漠然とした基準しかありませんでした。
例えば、足が速い子は100m、200mの短距離、長く走れる子は長距離、身体の大きな子は投擲(とうてき)、背が高い子は高跳びという具合。
私の場合、短距離から始めて、そこからいろいろな可能性を探っていくなかで400mハードルという競技に行き着いたんですね。
―短距離走と、ハードル走の違いって、何なんでしょう?
ひとことで言うと、「歩幅に制限がある」ということでしょうか。
100m走の場合、30歩で走ろうが50歩で走ろうが関係ないんですが、400mハードル走ではスタートから45mのところに置かれたハードルが以降35m間隔で10台設置されていますので、自分で決めた歩数で走ることが求められるんです。私の場合は13歩でした。
ただ、室外のグラウンドでは、風の影響を受けますから、歩幅は数cm単位で狂っていきます。トップハードラーになるためには、そのズレを敏感に感じとりながら微調整して、いつもと同じ位置で踏みきる正確さが問われることになります。
―そのような競技に為末さんは向いていたというわけですね?
そうですね。トップスプリンターと言える人は、100m走において1秒で5回近く足を回転させることができます。この回転数を「ピッチ」といいますが、私の場合、4回半ほどでピッチの遅い選手でした。
中学生まではそれでも充分に闘えましたが、年齢を重ねるにつれ、通用しなくなっていきました。
ただ、400mハードルでは、この「ピッチが出せない」という弱点を「ストライド(歩幅)が出せる」という利点に変えることができたんです。少ない歩数で走れるほうが、タイムが縮む傾向にあるんですね。そのことに私自身、とても驚いたのをよく覚えています。
―18歳で400mハードルに軸足を移した為末さんは、法政大学に進みますが、これはなぜでしょう?
当時、法政大学が、他に比べて自由度の高い大学だったんです。
技能の伝達には「コーチング」と「ティーチング」という2つの手法があるといわれています。コーチングでは、答えを与えずに選手自身が考えて訓練するのを支援することを目的としていますが、ティーチングでは明確な答えがあって、それを選手に伝えることを重視します。
どちらにもいい面と悪い面がありますが、ティーチングの場合、伝統的なトレーニング方法がかっちりと決まっていて、選手自身が考える自由度が低いんです。
当時、多くの大学がティーチング的な指導に偏る傾向があった反面、法政大学はコーチングを重視していました。ですから大学では、コーチをつけずに自分で自分のトレーニングを決めて、競技に臨んでいました。
―為末さんは、大学卒業後に実業団の選手として入社した大阪ガスを24歳のときに退社し、日本でも数少なかったプロの陸上選手になりましたが、これは大学時代のような我流のトレーニングにこだわったからなんでしょうか?
実は、実業団スポーツというのは日本にしかないもので、世界中の多くの陸上選手からうらやましがられるシステムなんです。
というのも、グローバルな環境で競技生活をしているプロ選手は、世界中で年間約100試合ほど行われているレース出場の賞金とスポンサー収入などで生計を立てています。ひとたびケガなどで出場できなくなれば、収入を失って活動ができなくなります。
その一方、実業団の選手は企業に所属しているので収入を失うことはありません。
さらに、引退した後も、そのまま正社員として働くことができ、生活は保証されています。おそらく、日本の大企業の終身雇用制度をベースに確立されてきたシステムなんでしょう。
―そのような世界がうらやむシステムから自ら望んで飛び出したのは、なぜなんですか?
0コンマ数秒を争う陸上競技の勝負の世界では、実業団のようなリスクの少ない環境がマイナスに働くのではないかと感じたからです。
ジャマイカは人口300万人に満たない小さな国ですが、数々のオリンピックにおいて、その100倍以上の人口を誇るアメリカ合衆国と同じくらいのメダルを獲得しています。
で、ジャマイカ人とアメリカの黒人の筋力や身体の形状を測定した科学データを見てみると、その能力にたいした変わりはないということがわかっています。
そのことを知ったときに思い出したのは、ジャマイカの競技場を見たときの印象です。グラウンドは日本の田舎の整備の行き届いていないグラウンドのようにボコボコにへこんでいたりして、決して理想的な環境ではありませんでした。
でも、ウサイン・ボルトはそのような環境でトレーニングして、前人未到の世界記録を次々と樹立していったんです。
―つまり、理想的な環境がアスリートの超人的な記録を生み出すわけではない、ということですね?
そうなんです。結局のところ、現状に満足せず、ヒリヒリとした勝負で結果を出す要素として、ハングリー精神が重要なんじゃないかと考えたわけです。
―その選択は為末さんにとって、その後の人生を左右する大きな決断だったと思いますか?
それは間違いないですね。私はそこそこ社交性のあるタイプですから、実業団で競技し続けることにはまったくストレスがなかったし、そのまま引退まで過ごしていれば、今とはまったく違った、安定した人生があったと思います。
でも、引退から10年を経た今に至るまで、その選択を後悔したことは一度もありません。
若気の至り、という面もあったと思いますが、当時はそれが一択のように感じていました。今思えば、その後の人生を決定づける重要な選択だったと思います。
―書著『熟達論』で為末さんは、熟達という概念を「技能と自分が影響しあい、相互に高まること」と定義し、その過程を「遊、型、観、心、空」の5段階に分けて解説しています。これは、選手生活のなかでコーチをつけず、自分なりの流儀で自分を鍛え、自ら望む方角に道を切り拓いていった結果に生まれた方法論なのでしょうね?
そうだと思います。引退して10年経って、自分がどのように競技に向き合っていたのかを形にしておきたいと思ったんですね。
―スポーツだけではなく、何かの技術を習得しようとするとき、まずは「型」を身につけることが一般的だと思うんですが、その前に「遊」がくるのは非常にユニークですね。
「遊」というのは、こうしたらどうなるんだろうという好奇心やいたずら心にまかせて、思わずやってしまうようなことを指します。
もちろん、「型」も重要で、そこから全体の構造を理解する「観」、中心をつかむ「心」へと進んでいくわけですけど、そこで伸び止まってしまう選手の特徴を分析してみると、最初に「型」から始めた選手が多いんですね。
つまり、行き詰まった末に「型」に戻ったとしても、また同じサイクルにはまって伸び止まってしまうのです。
―なるほど。行き詰まったときこそ、無心で遊ぶような感覚に戻ることが大切なんですね。
その通りです。実は私自身、競技人生で初めてメダルを獲得したとき、次の目標を見失ってスランプに陥ったことがありました。
さらなる目標を立て、それに向けた計画も立てるんだけど、どうしても気力が湧いてこない。身体も思ったように動かせなくなって、燃料がからっぽになったような状態になってしまいました。
そこで、目標や計画などで未来を見るのではなく、今の自分の心を見るようにしたんです。具体的には「面白い」と感じることを優先して、計画を自分の心の状態に合わせて変えていくことで行き詰まった状況から脱することができたわけです。
―では、「型」の重要性とは、どんなことでしょう?
「型」とは、それなくして他の技術が成り立たなくなるもの。だから、シンプルで、無意識で実行できるということが重要です。
それから、歴史的な検証を経て最善なものにアップデートしていくことも重要です。
例えばかつて、速く走るには足首を使って地面をキックするのが有効だとされていた時代がありましたが、今では足首は固定したほうが速く走れるということがわかっています。
1991年の世界陸上競技選手権大会・東京大会で、カール・ルイス選手が100m走で当時の世界記録となる9秒86をマークして優勝しましたね。このとき、初めて科学班が入って彼の走りを分析したところ、足首がまったく動いてなかったことがわかったんです。
―それをきっかけに「型」がアップデートされたわけですね。
ただ、中学生のころから足首を使う走りをしてきた選手にとって、そのクセを抜くのは容易ではありませんでした。
実際、日本人選手が100m走で9秒台の記録を出せるようになったのは、桐生祥秀選手や山縣亮太選手、サニブラウン選手など、新しい「型」から身につけた世代の選手でした。
―「型」の次なる段階の「観」には、どんなポイントがありますか?
「型」が身につくと、基本的な行為を無意識にできるようになって、行為を深く観察する余裕ができてきます。
そのときのポイントは、行為を部分に分けて、その部分と部分の関係性を把握するということ。
地面を踏むという行為を例にしてみると、地面に足が触れ始めたところ、少し体重が乗り始めたところ、地面に体重がいちばんかかっているところ、地面から力が返ってきているところ、足が地面から離れるところ、という具合に行為の局面を意識できるようになります。
―アスリートは、そんな細かいところまで意識しているんですか!
先ほどトップスプリンターのピッチ(回転数)が1秒間で5回だと言いましたが、それだけ速く回転していると細かい部分を意識するのはむずかしくなりますが、「型」を身につけることで、それが見えてくるんですね。
―細かい部分を意識することができると、弱い部分を調整できるようになるんですね。
そうです。大学時代、コーチにつかずにトレーニングしていたせいか、成績が伸びずに苦しんだ時期がありました。
そのとき、日本代表の合宿で出会った短距離コーチの高野進さんに悩みを打ちあけたところ、「足を三角に回しなさい」と言われたんです。
高野さんは私の走りを見て、足が後ろに流れる癖を見抜いて、そうアドバイスしてくれたんですね。『熟達論』でも丁寧に触れておきましたが、おかげで走るときの意識がガラリと変わり、スランプから抜け出ることができました。
―「心」というのは、どんな段階なんでしょう?
無意識に丸呑みしていた「型」が漠然としたまとまりではなく、部分と部分の構造として見えるようになる「観」の段階を洗練させていくと、不必要な部分の力が抜けていきます。それが「心」の段階で起きることです。
何かに力を入れようとする意識を持たなくても、中心をイメージするだけですべてがうまく連動する状態です。
―パフォーマンスを最大限に引き出すには、力を「出す」のではなく、「抜く」ことを意識すべきなんですね?
自然に、無理をせず、力みがない状態を「自然体」といいますが、実はそういう状態をつくるのは難しいんです。
例えば、立った状態ですべての力を抜くと、全身が崩れて倒れてしまいます。ですから、立位の姿勢を保つための最低限の力は必要です。
つまり、姿勢維持に必要な部分のみに力を入れ、それ以外の力を抜くこと。それができれば、中心から末端に揺さぶるだけで力を増幅させることができるんです。
舞台に立つ俳優が台本通りではなく、完全に役になりきって自在にアドリブのセリフをしゃべるようなものかもしれません。
―最終段階の「空」については、為末さん自身の印象的な体験が語られています。2001年の世界陸上カナダ・エドモントン大会の400mハードル決勝で起こったことを教えてください。
私にとっては初めての世界大会の決勝です。レースでは、スタートラインに立つまでは余計な雑念が浮かばないようにするのが私のやり方でした。
その日も1台目のハードルを越えるイメージを、壊れたビデオテープのように繰り返し頭に思い描いていたんですが、いつもより集中できているという感覚がありました。
やがて雑念が完全に消え、ゴールの向こう側まで自分が行ってしまった感覚になりました。そのときのことは、よく覚えていません。数万人の観客の声が静かに聞こえるだけで、自分の足音だけが身体に響いていました。身体が勝手に動いて、それをぼんやりと眺めているようでした。
気がついたら300m地点にいて、私は先頭を走っていました。残りの100mを必死でもがいて3位でゴールインして、銅メダルを獲得しました。
―不思議な体験ですね。アスリートはよく、「ゾーンに入る」といいますが、自分で意識的にその境地へ行こうとしていたのでしょうか?
特別なことをしたつもりはありません。
いつもと同じように、自分の身体を自らの支配下において完全にコントロールすることを目指していましたが、従えるはずの身体が主役になって、コントロールする側の自我が消えてしまったんです。
―卓球の水谷隼選手が試合中、会場が無音になって相手選手と自分しかいない空間にいる感覚を味わったという話を聞いたことがあります。似たような例は他にもありますか?
有名なのは、読売ジャイアンツの川上哲治さんの「ボールが止まって見えた」という発言ですね。
何も考えなくても身体が勝手に動くというのは、「遊」「型」「観」「心」に至る修練の積み重ねがなければたどり着けない境地なのだと思います。
そして、「空」の先には次のターンの「遊」があって、そこからまた「型」「観」「心」へと進むプロセスに向かっていくんです。
―2001年のエドモントン大会で日本人初のメダルを獲得した為末さんは、2005年のヘルシンキ大会でも銅メダルを獲得し、7年後の2012年に34歳で引退しています。引退を決意したのは、何がきっかけだったんですか?
多くの陸上選手は、オリンピックの時期とともに「来季は出場できるのか?」と自分に問いかけます。そして、「できる」と思えばそのまま選手続行、「できない」と思ったときが引退ということになります。
私の場合、2008年の北京オリンピックに出場した後、その決断に迫られました。
結果的に続行という形をとって2012年まで続けましたが、その途中の段階で「オリンピックに出場するのは無理だ」ということがわかりました。
―なぜ、それがわかったんですか?
スタートから1台目のハードルにたどりつくまでのタイムが、私はある時期まで世界でいちばん速かったんですが、これがズレ始めたんです。
いつも通りの感覚で、5秒7だと思ったのに、実際は5秒8だったりして、「あれ?」と思うことが増えて、自分のなかの調整感がおかしくなっていった。
それが、引退の1年前くらいの出来事で、2012年の日本選手権で1台目のハードルを越えられずに転倒して、最下位でゴールしたことで気持ちに区切りがつきました。
―アスリートにとって「引退」は、必ずやってくる人生の岐路だと思いますが、その後の生活をどのように計画していましたか?
実は、明確に意識して計画したことはあまりなくて、最初はコメンテーターの仕事など、想定外の仕事をこなしていくうちに日々が過ぎていったという印象です。
ただ、そうやって周囲の流れに乗って生きているうち、「これでいいのかな」と悩むようになって、本当の意味で未来に向けて一歩を踏み出せたんじゃないかなと思えるようになったのは、ここ2~3年のことです。
―どんな未来が見えてきたんですか?
ひとことで言えば、「自分のためだけではなく、誰かのために生きる」ということです。
中学生のころから選手として競技に向き合ってきたなかで、自分を鍛えて数多くのライバルとの勝負で勝つことをつねに考えてきました。
その20数年の積み重ねはあまりに重くて、物事に取り組むとき、「オレがオレが」という発想が染みついているのに気づいたんです。
―心にはまだアスリートだったころの発想が残っていて、それを拭い去るのがむずかしかったわけですね?
そうです。アスリートの試合を見るときでも、どこかで「自分ならこうするだろうな」と、現役時代の自分と比較してしまうようなところがあって。
ところが、そういう気持ちが自分のなかから完全に消えたのがわかったのが、2021年に開催された東京2020オリンピックでした。
コロナの影響で開催が1年間も延び、アスリートにとっては大変な調整を求められた大会だったこともあると思うんですが、このときは純粋な気持ちで「がんばれ!」と選手たちを応援することができました。
もうひとつは、現在小学生の息子が産まれたことも大きく影響していると思います。人の親になったことで、自分の人生は自分だけのものじゃないということを実感することができましたから。
―『熟達論』の本の帯には羽生善治さんの「アスリートの暗黙知を言語化できる稀有な存在──それが為末さんです」という言葉が書かれています。この本を書いたのは、為末さん自身にしかわからないことを人に伝えることで「誰かのためになる」ことを目指したのではないですか?
そうですね、そうかもしれません。これからの人生は、「勝ち負け」にこだわることではなく、「人の役に立つ」ことを目標に生きていきたいと思います。
だって、人に必要とされることって、すごく幸せなことじゃないですか。
撮影/八木虎造
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。