― コントグループ「シティボーイズ」としてデビューし、数々の映画やドラマにも出演されているので、斉木さんを俳優と認識されている方が多いと思います。ご自身ではどうですか?
僕はコメディアンです。それを誇りに思っていますし、そうあり続けたいと思っています。
映画やドラマでは、なかなかコメディをやらせてもらえないけれど、舞台では真面目な役柄はほとんどやっていませんよ。
― 意外でした。高校時代は演劇部、早稲田大学中退後は養成所で役者の修行をされていたので、もともとは役者志望だったのかと思っていました。
いや、役者を目指そうとは思っていなかったんですよ。確かに早稲田を選んだのは大学の中で一番劇団が多かったからではあるんですけどね。
入学式の日、演劇サークルの稽古場にふらっと行ったら先輩に「おまえ、これに名前を書け」って言われて。
― それが劇団に入るための申し込み書類だったわけですね。
そうなんですよ。「じゃあ、とりあえず」と。僕は何かを目指したことがなくて、行く先々で導かれると言うか…。
― 導かれるままに、現在までたどり着いた、と。
努力して自分の道を選ぶ人がいる一方で、そんなに努力しているつもりはないけれど、自分が決めた道に進める人がいる。
自分の適正というのは、何か進むべき道を決める時に「面白いな」と思えて、そのことのためなら全然苦にならないってことだと思うんです。
― 「面白い」と感じられるかどうかで、進む道を決めてきたわけですね。
そうですね。養成所を中退後、大竹まことやきたろうと一緒に自分たちで劇団を結成しました。
そのメンバーには今も仲の良い風間杜夫もいて、いろいろなオーディションに行ったけれど、誰も受からないって時が続きましたね。
― オーディションに落ち続けた理由はあったんですか?
当時のプロデューサーに「君たちはまだ顔ができていない」とか、訳のわからないことを言われてましたよ(笑)。
結局、4〜5年で風間は、つかこうへいさんの劇団に移って、すぐに売れて、僕らは僕らで「シティボーイズ」を結成して劇団活動から離れました。
― 「シティボーイズ」を結成されたのは30歳の時ですよね? 世間一般で言うと微妙な年齢だと思うのですが。
今はどうか知らないですけど、僕たちの時代、男の30歳は大きな岐路。当時は終身雇用制だったので、辞めるか、続けるかを考えるわけですよね。その頃、僕はもう結婚していて子どももいましたから。
― 若い時に結婚されたんですね。
そう、僕らの時代はね、ちゃんとした職に就いてからとかじゃなくて、とにかく結婚しちゃう。事実が先なの(笑)。
― いまとは逆ですね。
ある人に言われたんです、「子どもは米櫃背負って生まれてくるんだよ」と。
つまり、子どものために頑張ろうという気になれば自然とお金が入ってくるという例えなんだろうけど、僕には「わからない将来のことを考えて物事を決めんじゃない」という言葉に思えた。
― 後戻りできない年齢になっていたこともあり、やりたいことに向かって突き進む決心をされたということでしょうか?
そういうことなんです。それまで劇団でやっていた芝居は常にお笑い、喜劇だったので大竹まことが「コント、やろうか?」と言い出してね。
― それが「シティボーイズ」の始まりですか?
当時、ツービートのたけしさんたちが少し名を上げて来た頃で、「今、お笑い界であまり目立っている人がいない。俺たちがやっている世界観の方が面白い。俺たちはもっと面白いことができる」と。
― 強い想いがあったわけですね。
今考えると本当に傲慢ですけどね(笑)。でも、その想いだけが唯一の拠り所でもありました。
斉木しげる
1949年11月18日生まれ、静岡県出身。1979年、劇団仲間だった大竹まこと、きたろうと共にコントグループ「シティボーイズ」を結成。1981年に「お笑いスター誕生」(日本テレビ系)でグランプリに輝き、一躍人気グループに。俳優としては、1989年に「魔法少女ちゅうかなぱいぱい!」(フジテレビ系)でテレビドラマに初のレギュラー出演。以後、NHK大河ドラマ「元禄繚乱」「篤姫」「龍馬伝」など数多くのドラマをはじめ、2014年「土竜の唄 潜入捜査官REIJI」、2016年「サブイボマスク」、2018年「人魚の眠る家」など映画にも多数出演。現在もバイプレイヤーとして多くの映像作品に出演する一方、文化放送で毎週土曜19時~「SAYONARAシティボーイズ」、YouTube「斉木しげるチャンネル」、トークショー「しげるの素」など多方面で活躍中。
▶斉木しげるさんのインタビュー後編もぜひご覧ください!
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