ブックレビュー
少子化問題、若者の雇用問題、ワークライフバランスなど、社会をよりよくするための提言活動をはじめ、ITやテクノロジーを駆使したライフハック術の伝道者として活躍している勝間和代さん。 2023年3月に上梓した『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』(KADOKAWA)では、「人生100歳時代」に対応した、右肩上がりの人生戦略を提案している。 そこで今回は、「勝間和代はいかにして勝間和代になったのか?」というテーマを足掛かりにして、今後の新しい時代をしなやかに生き抜く方法について、じっくり話をうかがった。 不確実性に満ちた現代の迷い子たちの目を覚ます、渾身のインタビューだ! 『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』 著者:勝間和代 発行:KADOKAWA 定価:1550円(税別) 公認会計士資格は、志望したなかでいちばんコスパのいい資格だった ―勝間さんは少女時代、どんな子だったんですか? 普通におとなしい子だったと思いますよ。折り紙とかお絵かきとか読書をするのが好きで、ゲームも人並みにやってました。 両親を含め、親族も製造業などの堅い仕事に就いていましたから、一攫千金を狙うような大それた夢を抱くでもなく、自分も周囲と同じような堅実な仕事に就くのだなと漠然と考えていました。 ―当時、最年少の19歳で国家資格である公認会計士試験の第一次、および第二次に合格して会計士補の資格を得たのは、そのことに関係があるんですか? 会計士のほかにイメージしていたのは、医師、教師、弁護士の3つ。そのなかで会計士を選んだのは、勉強時間、合格率、合格後の収入の確保のしやすさといった点でいちばんコストパフォーマンスのいい資格だと思ったからです。 医師と教師は、コスパで言えば対極にあるものですよね。資格取得のコストは医師が重く、教師は軽い。でも、医師の仕事は基本的にハードワークだし、教師はやり甲斐はあるけど低賃金で働かなくてはならないイメージがありました。弁護士については、最難関と言われる司法試験に挑むほどのモチベーションがなかったというのが正直なところです。 その一方、公認会計士の資格試験については、数学のスキルに関する問題が多かったので、私には向いている資格だと思いました。簿記や原価計算など、企業財務に関する理解力を問う問題は、数学が得意だった私にはさほどの苦もなく解けてしまうんですよ。私のまわりの理系の人でも、公認会計士の試験に合格している人はけっこう多かった印象があります。 日本企業に就職するつもりはなく、外資系一択でした ―その後、勝間さんは大学在学中に結婚して、なおかつ、お子さんを出産されています。そのころの大学生にとって「ワーキングマザーである」という状況は、就職するうえでかなり不利に働いたと思いますが、どうでしたか? 日本の企業で働こうと思ったら、おそらくそうなっていたでしょうね。だけど私は会計士の資格を持っていたのでその選択肢はなく、外資系企業に就職することだけを考えて、ゼミの教授が推薦してくれた会社に就職しました。 外資系企業というと、今では多くの学生が就職を希望しますが、当時は日本に進出して間もないころで規模も小さく、日本の一流企業に就職できない、二流以下の学生の就職先と見られていました。 でも、そのおかげで、新人にも責任のある仕事をまかせてくれるので、いい経験を積むことができました。能力が認められればスキルアップも容易だったし、ワーキングマザーへの待遇も寛容でした。「子どもが熱を出したので早退させてください」なんて、日本企業で正社員として働くなら、間違っても言えない空気があったと思いますが、外資系企業では、ごく当然のことのように認めてくれましたからね。 ―外資系企業で働くには、英語のスキルが必須だったと思うんですが、どうだったんですか? 私は中学から附属校に通っていたので、大学受験を経験していないんです。おかげで学生時代のTOEICの点数は、当時の大学生の平均点より少しだけ上の420点でした。さすがにこれでは働く上で支障が出るだろうと、1年半くらい、真面目に勉強して900点くらい取れるようになりました。実際、仕事の上で本格的に英語を使うようになるのは、3回におよぶ転職のなかで経営コンサルタントや証券アナリストなど、顧客と接する機会を得てからのことですけどね。 今はどうかわかりませんが、スキルを磨くための教材や研修費用など、外資系企業は気前よく負担してくれましたので、私自身はお金をほとんどかけずにいろいろな勉強をすることができました。 ―勝間さんの社会人としてのすべり出しは、非常にコスパのよい、順調なものだったんですね。 ええ、そうですね。そうかもしれません。 少数派だったワーキングマザー仲間には多くのものを学んだ ―勝間さんは1997年、ワーキングマザー向けウェブサイト「ムギ畑」を設立し、子育てしながら働く女性を支援する活動をはじめます。どんなきっかけがあったんですか? これも今の人には信じられないことかもしれませんが、インターネットが普及する前、パソコンを通じてテキスト情報を共有する「パソコン通信」というサービスがありまして、私はそこで、子育てしながら働く女性の掲示板に参加していたんです。 仕事で出張するとき、子ども預けるのに安心なベビーシッターさんの情報とか、転職先選びの情報などを交換したりして、今でいうSNSのような交流をしていたんです。 すると、いつしか専用の掲示板が欲しいという話になりました。パソコン通信というのは、電話回線を使って「1分10円」くらいの利用料でアクセスしていたんですが、それより費用をかけずに集まれる場が欲しい、と。そこで、プログラムを書くスキルのあった私が運営者を引き受けることになったんですね。 当初、会員は2~30人くらいでしたが、2019年に役目を終えてサイトを閉鎖したときの会員数は4500人を超えていました。 ―男女雇用機会均等法が改正されて、雇用や昇進などに男女差をつけることが禁止されたのが1999年のこと。当時はワーキングマザーの人数も少なかったでしょうから、とても貴重な交流の場だったんですね。 ええ、「ムギ畑」の初期のメンバーは私より年上の方が多く、教えられることが多かったですね。 例えば、旦那さんと死別されて、4人の子育てをしている方がいて、「旦那の生命保険の保険金がおりたので、アメリカに移住して留学する」という話を聞いたときは「すごいなぁ」と感心しました。 「私も3人の子どもがいるけど、日本の大学院なら通えるかも」と触発されて、早稲田大学大学院に通ってファイナンス研究科を修了しました。あのママさんとの出会いがなければ、大学院に挑戦することはなかったと思います。 初期のメンバーには、今では名だたる企業の社外取締役をされていたり、評論家やアドバイザーとしてメディアに出ている方など、パワフルで有能な女性がたくさんいて、いろいろな面で影響を受けましたね。 1日の労働時間は、8時間制から6時間制に移行できる ―勝間さんは、政府に請われてワーク・ライフ・バランスなどの政策決定のアドバイザーをつとめられています。ワーキングマザーの待遇改善は2000年以降、ずいぶん進んだと思いますが、勝間さんはどう評価していますか? 確かに改善した点は多々ありますが、まだまだ改善しきっていないなというのが正直な印象です。特に、企業で働く人たちの長時間労働には、改善の余地がたくさん残されていると思います。私は、人間らしい生活を送るには「1日の労働時間は通勤時間を合わせて6時間」だと思っているんですが、世間には相変わらず「8時間労働、残業アリ」の企業が多いですよね。 ―でも、「1日6時間」というのは、短すぎませんか? そんなことはないですよ。現にフィンランドやノルウェーなどの国では、すでに1日6時間制が根づいています。 スマートフォンやリモートツールなどを駆使して能率をあげれば、1日6時間でも今の生産性を充分維持することができると思います。 ある研究によると、顧客や市場のニーズを満たし、社会の価値につながる仕事をするのに必要な労働時間は、週に12~15時間だということがわかっています。もし、それが本当なら、1日8時間で週40時間働いている人は、その半分以上の時間を無駄に過ごしていることになります。 長年、培ってきた文化を人は容易に捨てられない ―長時間労働は、少子化の原因のひとつとも言われていますね。 その通りです。政府は少子化対策として、子育て世帯に給付金を支給したりしていますが、的外れな政策だと思いますね。少子化は、お金の問題ではなくて、時間の問題なんです。 もうひとつ、私が少子化の原因だと思うのは、子どもと親を分離して考えない、日本をはじめとする東アジア特有の考え方です。 ―子どもと親を分離して考えない、とはどういうことですか? 本来、親が子どもに対して負っている扶養義務は、成人するまで衣食住の保証をすることで、子どもが社会人になれるほど成長したあとは、子育ての責任から解放されてしかるべきなんです。 でも、子どもが不祥事を起こしたりすると、親も一緒に謝罪するのが日本社会なんです。つい最近も、首相がメディアの前で謝罪している場面がありましたよね? ただこれは、日本の文化である家父長制が根っこにあるからで、一概にいいとか悪いとか言えないことでもあります。 ―時代は変化しているのに、人々がその変化に合わせて考え方を変えられないのはなぜでしょう? 家父長制にメリットを感じている人も多くいるので、なかなか捨てられないということがあるのでしょう。 ただ、私は今の日本の未来について、あまり悲観していません。2022年に入って、海外の物価があがって日本は円安になっています。バブル崩壊後の「失われた20年」の最大の原因は円高でしたので、この状態が続けば出生率は上がっていくと思っています。 雇用が拡大して賃金があがるということが大きなポイントで、これがうまく進めば少子化に歯止めをかける有力な材料のひとつになると思います。 投資は予測ではなく、時間を味方にして儲ける ―さて、勝間さんの近著『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』(KADOKAWA)について、お話をうかがいましょう。これまで見てきた通り、時代の変化に合わせて従来の生き方、考え方を捨てて、人生100歳時代に向けてアップデートするのはむずかしいことだと思いますが、その際に何が大事だと思いますか? 人はお金や仕事に困っていたり、人間関係のトラブルや健康不安などを抱えているとき、ひとつの答えや解決策を求めてしまう傾向があります。怪しげな人の口車に乗せられて騙されてしまうのは、そういうときです。新型コロナウィルスのパンデミックを前にして、全世界の多くの人たちがそういう状態に陥りましたよね。 そうならないためには、物事の多くは簡単に答えが出るわけではなくて、世界は抽象的なものだと認識することが大切です。こうした不確実性を受け入れる能力を「ネガティブ・ケイパビリティ」といいます。 ―物事をポジティブな面だけでなく、ネガティブな面からも見ることが大事ということですね。勝間さんというと、ポジティブ志向な人というイメージがありますので、なんだか意外に感じます。 私は以前から、ポジティブ志向は好きではないんですよ。 世の中の出来事にはいい面と悪い面があって、もし悪い局面に出来事が傾いたとき、いかに対処するかを2案、3案とあらかじめ考えておく必要があります。 お金についても、私は長年一貫して、収入の2割で毎月、投資信託を購入し続ける「ドルコスト平均法」という中長期運用を推奨していますが、これも一緒の「ネガティブ・ケイパビリティ」です。 収入の2割は黙っていても溜まっていきますから、購入期間が長ければ長いほど、「転ばぬ先の杖」としての効果は高くなります。 ―銀行預金ではなく、投資信託の積み立てにあてるというのがミソですね。 そうです。仮に月々5万円を積み立てるとして、銀行預金なら1年で60万円、10年で600万円にしかなりませんが、ドルコスト平均法による運用なら10年で1200万円になります。さらに言うと、20年で4倍、30年で8倍と、複利式に増えていくんです。実際、私も30代なかばくらいから始めた積み立てが、50代なかばの現在、ちゃんと4倍になっています。このように、時間を味方につければ、株に手を出したことのない一般人でも、容易にお金を殖やすことができます。 ―個別株を購入して儲けようとする必要は、ないんですか? 素人が相場を読もうとしてはいけません。なぜなら、相場は読めないからです。 そのことは、株式アナリストとして働いていた私の経験からも言えることです。個別株に投資するというのは、宝くじやパチンコなどのギャンブルよりはマシだけど、お金をドブに捨てるような行為に等しいと思ったほうがいいです。 「それでもやりたい」というのであれば、趣味の範囲で投資をするのがいいですね。もちろん、積み立て分の収入の2割に手をつけるというのは、絶対にやってはいけません。 ―となると、デイトレードのような短期売買についても、同様のことが言えますか? もちろん、デイトレードで数億円単位を儲けている人を私は知っていますが、1日中、パソコンに張りついていなければ儲けを挙げられません。言ってしまえば、パチプロのようなもの。人生には、もっと有効な時間の使い方があるんじゃないかと思いますね。 友だち付き合いは、最高の娯楽。資産として大事にすべき ―人生100年時代に向けて、「お金」以外に大事なものはなんですか? 私は「コミュニティ」、すなわち友だち付き合いだと思います。私が特にお薦めしたいのが、自分より年下の友だちをつくることです。 理由は、ふたつあります。ひとつは、新しい情報とか、新しいアイデアというのは若い人が持っているということ。年をとると、自分でも気がつかないうちに考え方が保守的になっていき、新しい時代に柔軟に対応するのがむずかしくなりますよね。 ―もうひとつは… 年上や同年配の友だちは、いずれ人数が減っていくということ。寿命が長くなったからといって、高齢者から亡くなっていくのが常ですから、友だちがたくさんいてもメンバーが高齢者ばかりなら、そのサークルは縮小均衡に陥っていきます。 私は、友だち付き合いは最高の娯楽だと思っています。なぜかというと、友だちには利害関係がないから。仕事の付き合いにはお金がからんできますし、夫婦や親子関係などのつながりにも縁を切らないことを前提とする縛りがあるので意外と利害関係にあるものです。 それに比べて友だち付き合いは、そうした利害とは無縁なので気楽です。つかず離れずのほどよい距離感で20年、30年でも仲良くしていられるから、最高の娯楽になるんです。 ―そのような友だちをつくるには、どんな手段がありますか? 趣味を足掛かりにすると、手っとり早いですね。私の場合、ゴルフや麻雀、ゲームに自転車など、大好きな趣味をするなかで交友関係を広げています。 利害関係がないのが友だちの良いところですから、お金の貸し借りと、仕事の紹介はしないほうがいいですね。 こうした友だちとの関係は、お金で買うことができませんので、自らいろいろなところへ顔を出してコツコツと人脈を築いていくしかありません。人生100歳時代において友だちは、必要不可欠の財産だと言ってもいいでしょう。 何が何でも「健康ファースト」。健康はお金で買えない ―お金で買えないもの、という意味では「健康」にも同じことが言えそうですね。 その通りです。高齢者になったとき、お金はたくさんあるけど健康じゃない人と、お金は普通にあるけどめちゃくちゃ健康な人のどちらが幸せかと言えば、間違いなく後者ですよね。健康は、日々の積み重ねの賜物ですから、運動と食事、睡眠の質を高める努力が欠かせません。それに加えて、自分なりの健康阻害リスクを把握しておくのも大事なことです。例えば私の場合、50歳を超えてから「痩せない」ことを意識するようになりました。女性は男性に比べて骨粗鬆症になるリスクが高く、そのほかにも自己免疫疾患やがんのリスクにも気を遣う必要があります。そのためにも、ポピュラー・サイエンス本などを読んで最新の医学の知識を仕入れています。なかには怪しい本もありますが、100冊以上も読めば、そこに書いてあることを信じていいかどうかを判断できる批評眼が養われてくるものです。 ―健康を維持するには、「続けること」が重要だと思いますが、つい3日坊主になってしまう人も多いと思います。何か工夫はありませんか? 健康に気をつけることを習慣化するのがいちばんですね。 その意味で私は、スポーツジムについては懐疑派なんです。「続ける」というのは厳密に言うと「死ぬまで続ける」ということですから、ジムで筋トレしたり、身体を鍛えたりすることは、その範疇に入りません。 フェイスリフトなどの美容整形も、それと同じこと。頬のたるみやシワを取ることは「健康」には結びつかないことなので、興味がないんです。 ―健康維持には、「頑張り過ぎない」というのが大事なようですね。 そうですね。「健康」というのは、どれだけ頑張っても死に近づくにつれて少しずつ目減りしていくものなので、その目減りのペースを遅くしていくしかないんです。 テクノロジーの手を借りるというのも、ひとつの手段として有効です。私はスマートウォッチを使って日々の睡眠時間や睡眠の質を計っていますが、アプリには睡眠中の呼吸や身体の動きを検知してくれたり、いびきを録音して睡眠時無呼吸症の有無を確認できるものもあるので、いろいろ試してみるといいですね。 とにかく「健康」は、国が保障してくれるわけでも、医師が提供してくれるものでもありません。一緒に暮らしている家族だって、できることには限界があります。つまり、「健康」を維持するために何かをできるのは自分だけですから、これも貴重な財産だと思って大事にすべきだと思います。 金銭的報酬と精神的報酬のベストバランスを考えよう ―「働き方」についても、人生100年時代に向けたアップデートが必要そうですね。 人生80年が一般的だった時代は「20年学んで、40年働き、20年休む」というのが人生のモデルケースでした。でも、人生100年時代には「20年休む」が「40年休む」になるんです。 そうなると、貯金が充分にあって、年金だけで楽に生活していけるとしても、単に「安心な暮らし」を意味するのではなく、「膨大なヒマをいかに過ごすか」という難題に立ち向かわねばならない状態ということになります。 ですから、「40年働く」を念頭に、気力・体力が許す範囲でできるだけ長く伸ばしていくことをお薦めします。 ―悠々自適な生活というのは、簡単に実践できるものではないんですね…。 仕事を辞めると、認知機能が低下するスピードが速まって、物覚えが悪くなったり、怒りっぽくなると言われています。その意味では、仕事は最高の脳トレであり、アンチエイジングなんです。 これは趣味についても同じことが言えますが、80歳、90歳になっても続けられそうな仕事は何だろうと、考えながら働くことをお薦めします。 ―80歳、90歳になっても続けられる仕事というと、どんなものがあると思いますか? コロナ禍以降、在宅ワークがすっかり定着しましたが、自宅でできる仕事は年をとっても続けやすいでしょう。 ただ、1日中、誰ともコミュニケーションをとらない仕事は、あまりお薦めできません。人と話すという行為は、声を出すことと一緒に呼吸を深くすることにもつながりますので体力維持に役立ちます。表情筋のトレーニングにもなるので、顔のたるみやシワの予防にもなります。 あと、大事なのは自分が働くことで誰かを喜ばすことができるということを実感できる仕事を選ぶということ。 私は報酬には、「金銭的報酬」だけでなくて「精神的報酬」という面があって、自分にとってのベストバランスがあると考えています。 精神的報酬とは、自分が社会のためになるモノやサービスを提供して、利用するお客さんに喜ばれたり、やり甲斐を実感するようなこと。金銭的報酬がそれほど多くない仕事でも、精神的報酬が充分に得られる仕事なら、続けるモチベーションにつながります。 一方、金銭的報酬がいくら高くても、精神的報酬が低ければストレスが溜まりやすく、長く続けていける仕事にはならないのです。ちなみに、私は会社員時代はずっと金融業界で働いてきましたが、ここでの仕事は「金銭的報酬は多いけど、精神的報酬は少ない仕事」の典型だと思います。 ―「好きなことを仕事にする」というのが実現できれば、理想的なんでしょうね。 おっしゃる通りですね。「ワーケーション」という言葉がありますよね。ワークとバケーションを組み合わせた造語で、バケーションを楽しみながら同時に仕事をするという意味です。 「仕事」と「遊び」は別物で、一緒にすべきではないと考える人もいるかもしれませんが、2つを融合させてどっちも楽しめる環境を作るのは不可能ではないと私は思っています。 例えば、私が好きなのが「温泉ワーケーション」です。大好きな温泉に入ったあと、リモートで取材を受けたり、執筆などの仕事をして、ちょっと疲れたらまた温泉に入る、ということを繰り返すんです。温泉地では滞在時間がある程度長くなると、ヒマを持て余しぎみになりますが、仕事がうまい具合にスパイスになって両方を楽しめるようになるんです。 「明日死んでも後悔しない生き方」こそが最大の準備 ―勝間さんは15年後には70歳に、25年後には80歳になります。どんな生活を送っていると思いますか? 不確実性の時代ですから、15年後、25年後といったら、今では想像もつかない世の中になっているのは当然だと思います。 例えば「お金」にしても、ある時点で紙の紙幣や硬貨がなくなって、仮想空間にしか存在しないものになっているかもしれません。 私はベーシック・インカム(すべての国民や市民に一律の金額を恒久的に支給する基本生活保障制度)は、早かれ遅かれ、日本社会を維持していくために導入しなければならない制度だと思っていますが、これが実現すれば「生活保護」という言葉はなくなっているでしょうし、「仕事」という言葉の意味も、今とは大きく変わっているでしょう。 ―総務省の通信利用動向調査によると、スマートフォンの世帯保有率は10年前の2010年には9.7%に過ぎませんでしたが、2020年には86.8%になったといいます。我々はすでに10年後の未来を想像できない「一寸先は闇」の世界に生きているのですね。 本当にそうですね。ただ、いろいろなことが目まぐるしく変化していっても、それでも変わらない普遍的なものというのは存在するものだと思っています。 例えば私は、これまで生きてきた人生で得られた知見を世界に向けて発信する仕事をしています。その発信の手段は、「ムギ畑」を運用していたパソコン通信からはじまって、地上波のテレビやブログ、そして今はYouTubeやオンラインサロンなどのSNSに移っていますが、やっていることの本質は、それほど変わっていないように思います。 ふり返ってみると、書籍は2007年に出版した『無理なく続けられる年収10倍アップ勉強法』(ディスカヴァー21)が初めてのベストセラーになって以降、ずっと続けている発信ツールです。今回の『100歳時代の勝間式 人生戦略ハック100』が何冊目の著書なのか、もはや私本人にもわかりませんが、全著作の累計発行部数はとうに500万部を超えています。 ―勝間さんにとって、世界に向けて情報発信するということは、「好きなこと」のひとつなのでしょうか? かつて地上波のテレビによく出演していたころは、スポンサーの意向に合わせて内容を替えなければならなかったり、言いたいことが言えなかったりしてストレスを感じることがありましたが、今はそういうストレスは皆無です。言いたいことを適切なツールを選んで発信できるので、何も問題はありません。その意味で、今の仕事は「好きなこと」のひとつだと断言できますね。ある面では、「誰かがやらなければならない」という使命感のようなものが支えになっていることもありますけど、できることなら、80歳、90歳になっても、この仕事を続けていきたいですね。そのためにも「お金」や「友だち付き合い」「健康」「働き方」などについて、時代の変化に対応する柔軟な考え方を持っていたいものです。ただ、ちゃぶ台を返すようですが、未来に向けてどれだけ周到に準備をしていても、「2年後に突然死」する可能性はゼロではありません。死を前にしたとき、「ああすればよかった、こうすればよかった」と後悔することのないよう、今を充実して生きるのも大事なことだと思っています。結局のところ、「明日死んでも後悔しない生き方」こそが最大の準備なのかもしれませんね。 ―興味深いお話、どうもありがとうございました!
2023/07/06
戦争や災害といったショッキングな状況におかれて国民が思考停止になった隙を突いて、過激な新自由主義政策を猛スピードで導入する手法のことを「ショック・ドクトリン」と言う。 2007年に出版されたカナダの女性ジャーナリスト、ナオミ・クラインの著書は、20023年6月からNHK Eテレ「100分de名著」にて特集される。そして、その指南役をつとめるのは、『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)などの著者として知られる堤未果さんだ。 そこで今回は、堤さんの最新刊『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬舎新書)の内容をもとに、日本政府およびグローバル企業がコロナ禍で日本社会に種を撒いた「ショック・ドクトリン」の正体を探ってみよう。 『堤未果のショック・ドクトリン 政府のやりたい放題から身を守る方法』 著者:堤未果 発行:幻冬舎新書 定価:900円(税別) どんなに立派な理想も、お金がなければ実現できない ―まずは堤さんとアメリカという国との出会いのきっかけについて、お話してくださいませんか? 母方の祖母が日系アメリカ人と結婚したこともあって、アメリカにはたくさんの親類縁者が住んでいるんです。1ドル340円だったころから度々遊びにいっていて、子どものころからフライドポテトとコーンフレークが大好物でした(笑)。 カリフォルニアの大学に進学したのは、演劇を学びたかったからなんですが、そこでの日々があまりに楽しくて、勉強はそっちのけに。西海岸の開放的な風土が私をそうさせているのかもしれないと思いなおして、ニューヨーク市立大学の大学院に編入して国際関係論学科を専攻したんです。それがきっかけで、卒業後は国際連合(国連)の婦人開発基金(UNIFEM)で働くことになりました。 ―なぜ、最初の就職口を国連にしたんですか? あの頃、世界を戦争のない場所にしたいという理想に燃えていて、国連が憧れだったんです。刺激的な多文化暮らしが好きだったので、アメリカで永住権を取得して日本には一生戻らないつもりでいました。 国連というと、世界の国を結ぶ国際機構ですから、とてつもなく大きな組織をイメージしがちだと思いますが、そこでの仕事の印象は、ひと言でいえば「お役所的」。 人の名前を書いたり、呼んだりするとき、ドクター(博士)という肩書きを省略するだけで大喧嘩が起こったり、目に見えないルールがたくさんあるのを感じました。しかも、何か物事を決めようとすると、メンバーである国同士の利害が衝突して、なかなか前に進ない。もちろん、仕事そのものは人権を守ったり、飢餓や戦争に苦しむ人たちを救う意義のある仕事なので、やりがいがあることは確かなんですが、お役所的なルールに縛られるたびにストレスを感じていました。 ―そこで、非政府組織(NGO)のアムネスティインターナショナルに転職するわけですね? そうです。NGOだから、国の政治的利害に関係なく人を救う仕事ができるに違いないと思ったんですが、またもや壁にぶつかってしまいました。それは、「お金」の壁です。 活動資金があまりに少なくて、コピー機が古くなっても「修理して使い続けるか、それとも新調するか?」で長い議論が始まるんです。その間、世界中で命の危機にさらされている人が大勢いるというのに。 世界は「お金」の論理で動いている。その事実を突きつけられて、理想とのギャップに悩まされていた頃、タイミングよく米国野村證券に転職するチャンスがめぐってきたんです。 私の運命を変えた、9.11の同時多発テロ事件 ―国連からNGOを経て、ウォール街で働くようになったわけですね。後に堤さんはウォール街を、「今だけカネだけ自分だけ」という論理が支配する場として批判することになるわけですが、そこでの仕事は、いかがでしたか? 仕事が進まないストレスは、なくなりましたね。ウォール街は、理想と現実のギャップが皆無な世界だったんです。ここでは、「お金」がすべての価値の基準で、儲かることが「善」で、損をすることが「悪」。白黒がはっきりしているんです。だから、物事が動いていくスピードがすごく速くて、なんて働きやすいところなんだろうと感心しました。 構成メンバーのヒエラルキーも、はっきりしていました。上層階にいる人は最前線でお金を動かしているエリートたちで美男美女、高級なスーツに身を包んでいつもスタイリッシュです。一方、下の階のバックオフィスには、甘いもの大好きなとても太っている人や、年をとった人が多く、上階のトレーダー達に「イケてない階」などと呼ばれていました。 当時の同僚たちには、「40歳まで必死で働いてお金を貯めて、その後はリタイアして悠々自適に暮らす」ということを目標にしている人たちが多くいました。そんな彼らの勢いに押され、おいていかれないよう懸命に働き始めた矢先に9.11同時多発テロが起きたんです。 テロによってアメリカ社会は大きく変わった ―米国野村證券のオフィスは、テロで崩壊したワールドトレードセンターの隣のビルにあったそうですね。どんな状況だったんですか? 私のデスクは、窓からちょうどワールドトレードセンターが見える位置でした。航空機が突っ込んだ瞬間はものすごい音がして、その後、震度6くらいの地震かと思うくらいに建物が揺れて、ハイヒールで立っていられずに床に投げ出されたのを覚えています。 証券会社の四方の壁には、株価を表示する液晶TVのモニターがついているんですが、この時、全部の画面がいっせいに消えて、部屋が急に暗くなりました。とんでもないことが起こっている、ということはわかるんだけど、その全貌を把握するだけの情報がまったくありません。毎日、秒単位で情報を手に入れる職場で、情報が遮断されるとすごく怖いんです。同僚たちも同じ状態で、皆パニックを起こして階段に殺到し、悲鳴が上がっていました。 ―テロ発生後のアメリカ社会には、どんな変化がありましたか? それはもう、一夜にして恐ろしい変化でした。テレビをつけると、どのチャンネルも画面の下に「アメリカは負けない。テロリストになど屈しない」「対テロ戦争!」などという不気味な言葉がつねに表示され、人々の恐怖感を鎮めるよりも、逆にテロの恐怖を煽り、敵に対して団結させるような、怖い報道が、連日流され続けたのです。 最初のころは、「テロとの闘い」に疑問を投げかけるキャスターやコメンテーターもいたんです。でも、そういう人たちが次々と降板になり、「武器評論家」なる専門家が何人も登場し、「テロリストが次に狙うのはニューヨーク、ニュージャージー、コネチカットの3州だ」などと、根拠のない憶測をもとに、毎日のようにアメリカ国民を脅していました。 会社のIT部門の同僚がこっそり教えてくれたことによると、ネットの世界も同じような状況だったようです。「テロとかきわどい単語を検索したり、政府の方針と異なる意見を書き込みしたりすると、アカウントを凍結される事例が発生している」とのことでした。 大好きだった恋人の、邪悪なウラの顔を見てしまった ―まるで戦時下のような情報統制が行われたのですね? はい。私はテロのPTSDも出て、不安でいっぱいの毎日でした。そしてアメリカ議会で「愛国者法(Patriot. Act)」が可決したニュースを見た時、恐怖がピークに達したのです。 この法律は簡単に言えば、国民の通話記録の収集をはじめ、当局に治安を理由に国内のすみずみまで監視する権限を与える法律です。かつて大正時代の日本で、左翼勢力を押さえ込むために制定された「治安維持法」を思わせる内容に、ゾッとしました。 この法律ができてからたった数ヶ月で、私が住んでいたニューヨーク市内に2000台、全米で3000万台の監視カメラが、瞬く間に設置されてしまったんです。 ―今では自宅のまわりに「防災カメラ」を設置したり、「ドライブレコーダー」を搭載した自動車が人気を呼んでいますが、「監視カメラ」はそれとは別の目的で設置されたのですね? 自宅の防犯カメラのように、こちらが他者を監視するのではなく、この監視カメラは政府が私たち住民をチェックするのです。ニューヨークの街路には、5メートルおきにカメラが設置されましたし、ニューヨーク市警察(NYPD)の警察官が制服の胸に掲げている星形の紋章にも「監視カメラ」が埋め込まれたのです。「治安を守る」という言葉の下に、プライバシーという言葉は消滅しました。 当時の政府発表では、こうした動きはテロリストから国民を防衛するためとされ、テレビに不安を煽られていた私たちも疑問を持たなかったのですが、実は監視されているのはテロリストよりアメリカ国民の方だったことを知るのは、それからずっと後のことでした。 ―そんなアメリカ社会の恐ろしい変化を知って、堤さんはどう感じましたか? 大好きだった恋人の、邪悪なウラの顔を見てしまったような気分でした。自分自身のことさえ信用できなくなり、先が見えなくなって、泣く泣く日本に帰る決意をしました。 「ショック・ドクトリン」は、日本でも起こっている ―9.11をきっかけにジャーナリストになることは堤さんにとって、自然な流れだったんですね。 そうですね。メディアが横並びに戦争を煽る報道しかしなくなり、みな監視を恐れて自由にモノを言わなくなった時、真実を知るには待っていてもダメだ、自分の足で出かけて行って、当事者に話を聞くしかない、と思ったからです。 2002年、ブッシュ政権が「落ちこぼれゼロ法(No Child Left Behind Act)」という法律を可決しました。この法律は、表向きは教育改革ですが、内容を読むとさりげなくこんな一項があるんです。「全米すべての高校は、生徒の個人情報を軍のリクルーターに提出すること。もし拒否したら助成金をカットする」 ひどいでしょう?そこで私は、学校から個人情報を手に入れた軍からリクルートされた高校生たちや、軍のリクルーター側にも会って話を聞きました。 そのなかには、血も涙もない悪魔のような人はひとりもいませんでした。かわりに見えてきたのは、「民営化された戦争」という国家レベルの貧困ビジネスと、それを回してゆくために社会の底辺に落とされた人間が大量に消費される、世にも恐ろしい「経済徴兵制」という仕組みでした。 ―弱者が食いものにされ、一部の強者が富を独占していくというアメリカ社会の闇を告発した堤さんの初期の著作『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)には、そのときのことが克明に書かれていますね。 はい。私がその本を書いたのは2007年ですが、同じ年、ナオミ・クラインというカナダ人の女性ジャーナリストが『ショック・ドクトリン』という本を出版したんです。 ショック・ドクトリンとは、テロや戦争、自然災害、金融危機、それから感染症のパンデミックといったショッキングなことが起きて国民が思考停止になった隙を突き、普通なら炎上しかねない新自由主義政策(規制緩和、民営化、社会保障切り捨ての3本柱)を猛スピードでねじ込み、政府とお友だち企業を大儲けさせるドクトリン(基本原則)のこと。 ―9.11でも、政府と企業はショック・ドクトリンを用いて、アメリカ社会を都合のいいように作り替えたわけですね? はい。ショック・ドクトリンは、「猛スピードですばやく実行する」が大前提。国民がショックから醒めてその恐ろしい仕組みに気づく前に、法律を変えてしまうのです。 そう考えてみると、9.11のときにあらゆる情報が統制され、ショックを煽りたてるような報道一色になった状況も辻褄が合いました。 「愛国者法」の法案は、プリントアウトすると何ページになると思いますか? なんと342ページという凄まじい分量だったのです。アメリカの国会議員、特に下院議員は党議拘束がなく、投票してくれた選挙区にマイナスになる法案を通せば、政治家生命が危うくなる。だから通常法案の賛否はよく読んで慎重に決めるのですが、さすがに電話帳並の厚さの書類を1日で検証するのは不可能です。だからこそ政府はそれを計算にいれて、大量の法案を配布して、即採決を迫ったのです。 元民主党議員のデニス・ジョン・クシニッチ氏は、このときのことをふり返って、こう言っていました。「あのときの議会にはいつもと違う空気が充満していた。この法案に賛成しない? ならばお前もテロリストだ、と言わんばかりの空気がね」と。 ―ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』という本は、そうした恐ろしい仕組みを堤さんに教えてくれたわけですね。 9.11以降、「何かおかしいぞ」と思っていたことの点と点が結びつき、それらがひとつの線になって全体像が見えてきた。それまで気づかなかった、全く新しい視点でした。 『ショック・ドクトリン』の原著がアメリカで出版されたのは2007年でしたが、その4年後の2011年9月に日本語訳『ショック・ドクトリン――惨事便乗型資本主義の正体を暴く』(岩波書店)が出版されました。 岩波書店にその帯の推薦文を依頼された私は、躊躇なくこう書いたのです。「3.11以後の日本は、確実に次の標的になる」と。 そう、ショック・ドクトリンは海外だけで起こっていることではなく、日本でも起こっているのです。 ショック・ドクトリンを読み解くカギは「お金と人事」 ―3.11で行われたショック・ドクトリンは、どのようなものだったのですか? 3.11の日本で起きたのは、地震・津波に加え、人類史上最悪の原発事故というまさにダブルショックでした。 自然災害は標的になりやすい。あの時被災した宮城県の復興推進メンバーを見ると、政権与党で規制改革の旗を振る大学教授や外資系シンクタンク、大企業トップがズラリと顔を揃えていましたね。あれはどう見ても復興というより、「ショック・ドクトリン実行委員会」でした。 このように、組織の中心にショック・ドクトリンを実行するメンバーを送り込む手法は「回転ドア」と呼ばれます。政策決定の内部に入り込み、自分の関係企業に都合の良い計画にして、受注してからまたドアを潜って元の職場に戻って出世する。こうやって「お金と人事」をチェックすると、ショック・ドクトリンの輪郭がはっきりと見えてくるのです。 彼らの手によって、漁業や水道や空港の民営化を始め、外国企業の誘致といった、平時には反発が起きるような過激な政策の数々が、障害もなくスピーディに行われてゆきました。 2021年に日本で初めて上水道、下水道、工業用水の9事業をまとめた運営権が県から企業に売却されましたが、この動きは3.11のショック・ドクトリンがなければ成立しなかったでしょう。海を使う漁業権も外資に解放されて、外国企業がどんどん参入しています。 ―お、恐ろしいですね…。 私が特に問題視したのは、再生可能エネルギー制度の強引な導入です。 通常の電気の4倍も高い買い取り価格を設定した結果、再エネ市場に国内外からドッと参入者がやってきました。初期の高い報酬はずっと変わらない上に、コストは私たちが払う電気代に上乗せされるので、環境保護よりむしろ美味しい投資商品になってしまっています。 それから、発電量1000キロワットの「メガソーラー」と呼ばれる巨大パネル事業は、あちこちで大雨のたびに土砂崩れなどの深刻な防災リスクと環境問題を引き起こしています。本来、環境を守るために行ったはずの再エネ事業が、命の危険や環境破壊を引き起こしているという、なんともおかしな状況になっているのです。 つけ加えるなら、2012年に消費税率を5%から10%に引きあげる関連法案が成立したのも、2013年に環太平洋パートナーシップ(TPP)への加盟が決定したのも、あの大震災の衝撃下が続くどさくさの中、情報も知らされずまともな国会審議もないままに速やかに行われた、日本版ショック・ドクトリンだったと言えるでしょう。 選択肢が狭められたとき、ショック・ドクトリンを疑え ―先ほど、「お金と人事」をチェックするとショック・ドクトリンの輪郭が見えてくるという話がありましたが、ジャーナリズムの素人にはむずかしそうです。ほかに方法はありませんか? 確かに「あれ? おかしいぞ」と気づくには、たくさんの情報を集めて、それを客観的な目で精査する必要がありますよね。にもかかわらず、「政府は悪いに違いない」という結論ありきで情報を見てしまうと、根拠のない陰謀論に陥って、誤った判断に導かれてしまうので、注意が必要です。 そうならないためには、「二元論でものを見ない」ということが重要です。二元論とは、白か黒か? 善か悪か? という論理で物事を理解しようとする見方です。 何故なら私が9.11のときに経験したように、善と悪は為政者の都合で簡単に入れ替わることがあるからです。 ―具体的には、どんな風に物事を見ればいいのですか? 政府の方針や、世の中の流れが「こちらかこちらのどちらか一つ」と、二者択一で判断を急かしてくる時が、まさに「おかしいぞ?」のポイントなんです。 例えば、コロナ禍においては、「学校は閉鎖するか、それともリモート授業にするか、選択肢はどちらか一つだけ」という空気がありました。でも、よくよく考えてみれば、密を防ぎながら野外の校庭で授業をする選択肢だって、ありましたよね? 「これからの自動車はEV車のみにする」という世の中の流れにも、疑問を持つべきです。EV車はCMを見ると何だか環境に優しそう。でも実は太陽光パネルと同様に廃棄する時に環境を汚染するし、製造の過程ではガソリン車と同じように多くのCO2を排出するのです。 ―選択肢が少ないときほど、「あれ? おかしいぞ」と疑問を持つことの重要性がよくわかるような気がします。 にもかかわらず、今の世の中は「分断」が進んでいます。リベラルと保守、右と左の二極化が進み、かつてどちらの勢力側にもいた「中道派」と呼ばれる層が薄くなっています。 つまり白と黒の間のグレーの部分が見えにくくなっているのが、今の世の中なんです。 これはすごく危ないことで、ショック・ドクトリンを仕掛けやすい環境になってしまっている。知らぬ間に大事なものを奪われないためには、差し出された2択から選ばずに、一旦立ち止まって注意深く物事を判断するようにしましょう。 コロナ禍に乗じて強化されたマンナンバー制度 ―堤さんの最新刊『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬舎新書)は、2015年10月に住民票を持つすべての日本国民に番号が通知され、2016年1月から始まった特定個人識別番号(マイナンバー)制度の危うさについて、多くのページを割いています。あらためて解説していただけませんか? そもそもこの制度は、2002年に導入された住民基本台帳ネットワークシステム(住基ネット)の利権を引き継ぐ形で導入されたものです。その名目は、「住民情報を全国市区町村で共有することで行政サービスを便利に届ける」というものでした。 住基ネットがその後、14年間で2000億円もの税金が投入されながら、普及率はたった5.5%に終わったことを覚えている人が、果たしてどれだけいるでしょう? ただし、2016年にマイナンバーと名前を変えても、国民には不評でした。特に便利になるわけでもなく、当時の世論調査では78%の国民が「不安を感じる」と回答し、やはり普及は進まなかったのです。 そんななかやってきたのが2020年に中国の武漢市で最初に報告され、またたく間に世界に広がった新型コロナウイルスのパンデミックショックです。 ―このときもまた、ショック・ドクトリンが仕掛けられたのですね? そうなんです。世界規模のショックですからまさにどさくさの中で不評だった政策を捩じ込んでしまうチャンスでした。2021年9月に、5000億円近い巨額な予算をつけたデジタル庁が、よくわからないままに発足したことを思い出してください。 その翌月10月には、河野太郎デジタル大臣が「2024年秋に紙の健康保険証を原則撤廃して、マイナンバーカードに一本化する」と発表し、お医者様たちを筆頭に日本中が「そんなこと聞いてない!」と激震しましたよね? そもそもマイナンバーカードは、「身分証明書やワクチン接種証明書として使える」、「コンビニで住民票の写しや戸籍証明書が簡単に取れる」、「給付金の振り込みも早くなる」といったメリットが強調されて登場したものでした。 でもコロナのどさくさで、「あったら便利」だったものが、「ないと生活できません」に、するりと入れ替わってしまった。まさに、国民から選択肢を奪う施策が実行されたのです。 個人情報を守る唯一の方法「情報をひとつにまとめるな」 ―厚生労働省は5月12日、マイナカードと保険証を一体化した「マイナ保険証」をめぐり、別人の情報を間違って本人の情報に紐づける「誤登録」が見つかったと発表しました。その数は、2021年10月から2022年11月までの1年2カ月間に7000件以上に及ぶといいます。「マイナ保険証」には、かなりの問題がありそうですね。 最重要個人情報が入るマイナンバーが他人の口座と紐づけられるなど、ありえないミスです。そもそも私たちの大事なデータを守る最大の対策は、ITの専門家でなくても、ちょっと考えればわかりますよね。私も学生時代から、母にいつも言われていました。 それは、大事な情報を、決して1ヵ所にまとめないことです。 日本には納税者番号があり、健康保険証があり、運転免許証があり、今のままで特に不自由はありません。セキュリティの脆弱性と必要性のなさを考えると、ここまでしてマイナカードを国民に作らせなければならない理由は何なのか、と疑問を感じませんか? ショック・ドクトリンを読み解くときには、「それがあるとできること」ではなく、「それがないとできないことに」目を向けてみてください。 マイナンバーがないと、行政ができないことは何か?それは、国民の情報をリアルタイムで把握すること、です。 身分証明書と保険証がマイナンバーカード一本になれば、銀行の口座開設だけでなく、不動産や株式の売買、病院で診察を受けるときにはマイナンバーカードの提示が必要になります。こうして国民の金融資産や健康状態などの情報を把握すれば、色々な意味で国民をコントロールすることが簡単にできるようになります。 中国では、たとえば赤信号を渡った瞬間個人の評価が下がる「信用スコア」制度があり、総合点が低くなると公共交通に乗れなくなったり、ホテルの予約もできなくなりますが、日本も他人事ではありません。 政府はすでに、スマートフォンにマイナンバー機能を搭載した「マイナスマホ」を普及させようとしていますが、これが実現すれば、買い物や公共交通機関など、国民の日常の行動も政府が把握できるようになるからです。 ―「マイナ保険証」が法律で義務化されれば、私たち国民は抵抗できなくなるのでしょうか? そんなことはありません。そもそも「マイナ保険の義務化」は、国民の生存権を定めた憲法25条に反することですから、完全に義務化するのは不可能です。 その証拠に、政府はマイナンバーカードを持たない人でも保険診療を受けられ制度を設けています。「資格確認書」という書類を取得すれば、それが保険証の代わりとなるのです。 当初は有料化も検討されましたが、「懲罰的にお金を取るのはおかしい」との反対の声が上がって無料で発行されることになりました。今の政府なら、大事な個人情報を預けても安心!という人はいいですが、ちょっとまだ不安なら、少なくとも安心できるようになるまでは、ポイントに釣られて飛び付かず、様子見でもう少し待つことをお勧めします。 個人の小さな行動も、束になれば大きな力を持つ ―『堤未果のショック・ドクトリン』には、こんな一文があります。「デジタルとアナログ、キャッシュレスと現金、紙の保険証とお薬手帳は選択制にして、個人情報という大事な資産についてのコントロール権を手放さないことが大事です」と。リスクを分散することは、現代社会を生きる上でますます重要になってきそうですね。 はい。まさにその通りです。実は、日本のマイナンバーのような、ここまで多くの個人情報が一元化された制度は、他の先進国にはないんです。アメリカにも共通番号制度はありますが、取得するかどうかは個人の自由。どこの国もなりすましやハッキングに悩まされ、一進一退の状況なんですね。だから日本も、焦って進めることはないんですよ。 9.11のショック・ドクトリンの後でも、こんなことが起こりました。猛スピードで国中に監視体制が敷かれるなか、調子に乗ったブッシュ政権は、国民共通番号に他の多くの情報と紐づけた上に、顔写真つきの運転免許証と一体化させる「個人IDカード法」を強行しようとしたのです。 ―日本の「マイナ保険証」によく似た施策ですね? 当然、「政府に管理されること=共産主義」というアレルギー意識の強いアメリカ国民は、これに猛反発しました。 高速道路の出入り口で、運転免許証の代わりに個人IDカードを提示するという指示を無視して、それまで通り運転免許証を出したのです。1人、2人ならまだしも、10人、20人とみんなが同じことをしたので、罰金をとろうにも警察の手が足りずに取り締まることができなくなったのです。 結局、「個人IDカード法」は法律として成立したものの、塩漬けにされたままになってしまいました。 ―選挙で一票を投じる以外にも、国民が政府にNOを突きつけることはできるのですね。 はい、もちろんです。一人ひとりの小さな行動はささやかに見えても、どんどん増えて束になってうねりになってゆくと、いつの間にか大きな力になるんですよ。 マイナンバーカードについても、同じことが言えます。繰り返しますが、マイナンバーのセキュリティ体制や個人情報保護、透明性がしっかりするまで、カードを作らない、使わないという行動は、立派な意志表示になるからです。 ちなみに、デジタル庁は行政手続きのオンライン窓口として「マイポータル」というサービスを提供していますが、その利用規約の一項目にこんな文章があるのをご存知ですか? (免責事項) 第26条 マイナポータルの利用に当たり、利用者本人又は第三者が被った損害について、デジタル庁の故意又は重過失によるものである場合を除き、デジタル庁は責任を負わないものとします。 出処:マイナポータル利用規約 わかりますか? あなたが被害に遭っても、誰も責任は取ってくれません。こんな免責事項があるうちは、マイナンバーカードを使うのは危険過ぎますよね。 ―興味深いお話、ありがとうございます。最後にこの記事を読んでいる人たちにメッセージをいただけませんか? 世界全体を動かしているシステムの前で、個人の力はあまりにも小さく思えるかもしれませんが、私たち1人ひとりが、何が起こっているかを知り、守るべきものを決め、ゲームのルールを知ったら必ず変わります。自分の頭で考え、意志を持つ国民は簡単に騙せないからです。自分や家族、子供たちを守りましょう。私の本を読み「未来はまだ自分たちで選べる」と一人でも多くの読者が思ってくれたら、こんなに嬉しいことはありません。 撮影/桑原克典(TFK)
2023/05/26
今回取りあげるのは、稲田豊史氏の最新刊。『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ――コンテンツ消費の現在形』(光文社新書)で新書大賞2023第2位を獲得した著者である。 「日本においてポテトチップスは、スナック菓子売り場でもっとも良い場所に陳列されていて、その種類は目移りするほど豊富だ」と語るポテチが、いかにして「日本人の国民食」となっていったかを丁寧に追った労作だ。 『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』 著者:稲田豊史 発行:朝日新書 定価:950円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ じゃがいもは、人々に好まれる食べ物ではなかった 本書の冒頭で明かされるのは、ポテチの原料であるじゃがいもが、世界において蔑視される食材だったという意外な事実である。 16世紀頃、原産地の南米アンデス山脈からヨーロッパに渡ったジャガイモは、生産効率が高く、栽培もしやすいことからまたたく間に各地へ広がったが、その地位は低かったという。その理由は、次のように説明される。 なぜなら当時のヨーロッパでは、人間が食すことのできる植物はすべて種から育てるものであり、「雌雄が受精によって結ばれ実を結ぶのではなく、種芋が自己増殖する」という“異常な性質”がキリスト教的に“不潔” である、とする考え方があったからだ。(中略)英語圏においてはジャガイモ (potato) はネガティブな言い回しとして使用されている。 「hot potato」 は「誰も責任を取ろうとしない企画」、「meat-and-potatoes man」 は 「単純な味覚の持ち主の男性」、「potato head」 は ...
2023/05/19
文化人類学はおもしろい、という確信があった。 「奥地」とか、「秘境」と呼ばれる土地に学者が分け入って、西洋を中心に築かれてきた文明・文化とは異なる環境で生きてきた人たちの生き方を垣間見させてくれる。「多様性」という今の時代のキーワードを語る上で、重要なヒントをもたらしてくれる学問だ。 そんなこともあって、「これからの時代を生き抜くため」と「文化人類学入門」というふたつの言葉の結びつきは一見、違和感がありそうで、実は納得感があるように見えた。 だが、この本の冒頭で、西洋の文明・文化と異なる人々の生活を「未開」ととらえ、西洋が発展してきた進化の「途上」にあるとする考えのもとに構築してきた文化人類学が、その成り立ちを反省して「マルチスピーシーズ人類学」という分野に発展していることを改めて知らされた。 マルチ(複数)なスピーシーズ(種)を扱う「マルチスピーシーズ人類学」は、「これからの時代を生き抜くため」に大いに有効な知見を与えてくれる考え方と言えるだろう。その入門書として、本書は非常に有益な書である。 『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』 著者:奥野克巳 発行:辰巳出版 定価:1600円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 2010年以降に新たに登場した「マルチスピーシーズ人類学」とは? 著者の奥野克巳氏は、立教大学で2008年に全国に先駆けて新設された異文化コミュニケーション学部の教授をつとめる人類学者。東南アジアのボルネオ島の狩猟民プナンのフィールドワークを通じて著した『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)などの著書で知られている人だ。 まず、第1章の「文化人類学とは何か」で語られるのは、15世紀以降、未知の世界とその文化を知るという欲望から生まれたこの学問が、19世紀になって西洋列強国による植民地主義を正当化することに利用されてきた文化人類学の歴史だ。 ダーウィンによる生物進化論の影響を受けて、文化や文明もまた進化するという考え方のもと、西洋文化が進化の頂点にあると位置づけられ、それ以外の劣った文化・文明を持つ人々を教え導き、啓蒙することを使命とすることが目的化されたのだという。 その流れは、20世紀になって大きく変貌する。人類学者のブラニスラウ・マリノフスキらが現地の生活に浸りきって、その社会の全貌を内側から解明しようとするフィールドワーク(参与観察)という手法を取り入れることで。 20世紀の文化人類学は、異なる文化を同じ地平に置き、その優劣を問わず、いずれの文化も固有の価値を有しているということを認めて、その多様なあり方を描き出すという新しい視点を手に入れたのだ。 というのが、第1章の大まかな内容だが、その結論として第5章で紹介されるのが、2010年以降に新たに登場した「マルチスピーシーズ人類学」という考え方だ。引用しよう。 マルチスピーシーズ人類学がもくろんでいるのは、人間だけが地球上で主人公として君臨するのではなく、人間を含み、人間以外の存在から構成される世界がまずあって、その一部として人間が生き、死んでいくという考え方を重視することです。そして、そのような考え方に基づいていかに世界を見ることが可能かを、民族誌をつうじて探求することにあります。 つまり、人間は単独で生きているのではなく、他の動物や植物、微生物、ウイルス、森や山河といった自然物などとともにこの世界を作りながら生きてきたという視点から物事を理解しようというのである。 「西洋文化とそれ以外の文化」の垣根を乗りこえたのが20世紀だったとするなら、21世紀は「人間とそれ以外の自然」の垣根をぶちこわそうというわけだ。 文化人類学がそんなことになっているなんて知らなかった。驚きである。 プナン語に「ありがとう」という言葉がない理由 というわけで、ダイバーシティ(多様性)からマルチスピーシーズ(複数種性)に生まれ変わった文化人類学の「入門書」として、本書では他の研究をふまえたさまざまな成果が語られるが、やはり魅力を感じるのは奥野氏自身がフィールドワークをしたボルネオ島の狩猟民プナンについての記述だ。 例えば、プナンの人たちには「けちであってはいけない」という強固な社会規範があるというが、そのことを説明するうえで、次のようなエピソードが語られる。 私が春夏の年2回のペースでプナンの居住地を訪れる際には、世話になっている受け入れ先(ホスト)の男性の家族に時計やポーチバッグなどの土産物を持っていきます。しかし、私の贈り物はすぐに、それらを欲しがる別の誰かの手に渡ります。珍しい物を見て、人から欲しいと乞われて分け与えることもありますが、何も言われなくとも人に分け与えることもあります。そして、それを受け取った人はさらに、また別の人に分け与えるのです。 おもしろいのは、プナンの人たちのこうした気前のよさは、自然発生的な感情ではなく、実は独占したいという感情との葛藤から生み出されているということだ。 というのも、奥野氏がある日、1人のプナンの子どもに飴玉を与えたところ、その子どもは飴玉を握りしめ、他の子どもに与えず独占しようとしたという。すると、その様子を見た母親が「分け与えられた食べ物を独り占めしてはいけないよ。隣にいる誰かに分け与えなさい」と諭したというのだ。 プナンの人たちの間でこうした社会規範が生まれた理由を奥野氏は次のように説明する。 「いま」分け与えておくと、「あと」で手元に何もない時に分け与えてもらうことができます。そのように決めておけば、お互いに支え合って、みんなで生き延びることができるでしょう。それは、個人所有を前提として、貸すとか借りるというのではありません。プナンの心には、あるものはみんなで分かち合うという「シェアリング」の理念が、植えつけられ、育まれているのです。 その結果として、プナン語には、何かをもらったときに相手にかける「ありがとう」に相当する感謝の言葉がないのだという。その代わりにプナンの人たちが使うのは、「ジアン・クネップ」という日本語に訳すと「よい心がけ」という意味になる言葉だ。 つまり、もの分け与えた人に気前のよさを讃える言葉しかないというのだ。 プナンの人たちが「けちであってはいけない」という社会規範を持っていることについて、奥野氏は次のように感想を述べている。 個人所有を奨励する私たちの社会と、個人所有を否定するプナンの社会を、「進歩」という歴史観で並べてみると、個人所有に重きを置かないプナンたちは「遅れている」とみなされてしまうでょう。実際のところ、そのどちらに優劣があるのかを決めることは不可能です。しかし、現代日本の社会の歪みを考えた時には逆に、プナンの社会はなんと豊かなのかと感じることもしばしばあるのです。 「ありがとう」がない代わりに「心の病」もない社会 私たちの社会にはあって、プナンの人たちにないものは、「ありがとう」という言葉の他にもたくさん紹介されている。 例えば、トイレ。 プナンの居住地には州政府が衛生政策と称して作ったトイレはあるが、そこは狩りに使う吹き矢やライフル銃などの物置になっていて、彼らはもっぱら居住地から少し離れた森のなかの「糞場」で用を足すのだという。 プナンは、糞場を通り過ぎる時、これは、昨日食べ過ぎた誰某(だれそれ)のものであるとか、腹を下している誰某のものであると意見を述べ合うことがあります。「あれだけ猪肉を食ったのに、熊の肉のようにひどいにおいだ」などと、誰かの糞便を品評するのです。(中略)そのようにして、居住空間の近くにまき散らされた糞便は、他の狩猟キャンプのメンバーの目にさらされ、品評の対象となるのです。糞便のにおいや色つやは、メンバーの食と健康の指標なのです。 こうした社会を、「息の詰まる窮屈な社会」と解釈することもできるが、「人と人が支え合って充足している社会」とも解釈できる。それが奥野氏の言う、「優劣で測ることのできない」ということだ。 プナンにはまた、精神病や心の病といった言葉も存在しないという。 プナンは、独りで思い悩んだり、あれこれ考えあぐねたりするようなことがありません。そうしたプライバシーが保たれた時間も空間もないのだと言えます。のべつ誰かがそばにいますし、誰かが自分のことを気にかけています。思い悩む暇がないほど、個が集団に溶け込んでいるとも言えます。ヒゲイノシシが獲れたら、真夜中の3時であろうが叩き起こされ、食事をするように強いられます。そうした点が、ことによると心の病が「ない」ということに関係しているのかもしれません。 プナンは狩猟採集民だが、私たちが何となく持っているイメージに照らし合わせると、彼らが常に食料不足に怯え、あくせくと森に入って獲物を探しているように想像してしまうだろう。「進化」的な歴史観では、狩猟採集のあとに農耕や牧畜が始まり、飢えに苦しむ心配のない、安心・安全で「高度」な社会になったと見てしまうのだが、それは大きな間違いだということも説明される。 マーシャル・サーリンズというアメリカの人類学者が明らかにしたことですが、実は狩猟採集民が狩りや採集を行うのは、非常にごくわずかで、それ以外の時間は休んだり、ゆったりと過ごします。ところが、農耕や牧畜になると四六時中、作物や家畜の世話をしなければならなくなり、むしろ忙しいのです。狩猟採集のほうがその都度、必要な摂取カロリーを満たす分の獲物を手に入れればいいわけですから、そんなに働く必要がないわけです。サーリンズは狩猟採集で暮らした石器人こそ、「原初の豊かな社会」を生きていたと唱えて、私たちの認識を逆転させました。 目のウロコが何枚あっても足りないほど、この本は新たな知見に満ちた本だった。まさに「これからの時代を生き抜くため」に必読の書と言えるだろう。
2023/01/17
認知症とは、認知機能が衰える症状のことで、認知症という病気があるわけではない、という話をかつて老年行動学の先生から聞いたことがある。 体の寿命は延びたのに、脳の機能がそれに追いついていない状態というわけだ。だから、「認知症患者」という言葉は、厳密に言えばあり得ないということになる。 高齢化が進み、高齢者の5人に1人が認知症になるという時代、認知症になっても希望を持って日常生活を過ごせる社会を作っていかなくてはならない。 今回は、2冊の本から、その処方箋となるヒントを探ってみよう。 当事者の世界を疑似体験できる『認知症世界の歩き方』 「アルキタイヒルズ」…など、絶妙なネーミングで語られる認知症の症状 表紙からして目立つ本である。 書店の棚に平積みされた本の帯には「はやくも15万部突破!!!」の文字が躍っている。奥付を見ると、第15刷とある。サイクルの早い書店の流通システムで生き残っていくには、それだけ売れ続けなければならないというわけか(2022年12月時点では16刷16万部に達しているようだ)。 この本の特色は、冒頭の一文によく現れている。引用しよう。 これまでに出版された本やインターネットで見つかる情報は、どれも症状を医療従事者や介護者視点の難しい言葉で説明したものばかり。肝心の「ご本人」の視点から、その気持ちや困りごとがまとめられた情報が、ほとんど見つからないのです。そこでわたしたちは、ご本人にインタビューを重ね、「語り」を蓄積することから始めました。それをもとに、認知症のある方が経験する出来事を「旅のスケッチ」と「旅行記」の形式にまとめ、だれもがわかりやすく身近に感じ、楽しみながら学べるストーリーをつくることにしました。 ここで言う「わたしたち」とは、この本を制作したNPO法人イシュープラスデザイン、および代表の筧氏、それから監修者である認知症未来共生ハブの人たちで、「インタビュー」した認知症の人は、約100人にのぼるという。 というわけで、認知症の症状である「BPSD」などという専門用語はこの本ではいっさい使われていないし、その内容となる「せん妄」とか「失行」とか「仮性作業」とか「弄便」といった言葉も出てこない。かわりに使われているのが、次のような言葉だ。 乗るとだんだん記憶をなくす「ミステリーバス」 だれもがタイムスリップしてしまう住宅街「アルキタイヒルズ」 イケメンも美女も、見た目が関係ない社会「顔無し族の村」 熱湯、ヌルッ、冷水、ビリリ。入浴するたび変わるお湯「七変化温泉」 時計の針が一定のリズムでは刻まれない「トキシラズ宮殿」 一本道なのになかなか出口にたどり着かない「服ノ袖トンネル」 ヒソヒソ話が全部聞こえて疲れてしまう「カクテルバーDANBO」 こんな調子で認知症の症状が、ダジャレや絶妙な比喩で表現されている。そのネーミングセンスに舌を巻く。 あくまで認知症の本人が感じている世界が示されている 本を開いて、その「認知症世界」を旅してみよう。例えば、「アルキタイヒルズ」。ここで紹介されている「旅人の声」では、自分の家を他人の家だと思って帰ろうとしてしまうケースが紹介されている。 おもしろいのは、そうした行動の理由は、一つではないということ。「過去に住んでいた自宅の記憶が強く想起されて、現在の自宅の記憶にオーバーラップしてしまうため」という理由もあれば、「空間や人の顔などを認識する機能に障害が起き、その場所を自宅だとわからなくなるから」かもしれず、はたまた「ストレスが『落ちつくことのできる自宅に帰りたい』という気持ちを誘発している」こともあり得るという。 とはいえこの本では、「だから認知症の介護をする人はこうしてください」というアドバイスはいっさいない。ただ、認知症の人が見たり、聞いたり、感じたりしている世界を示すのみである。 だが、かえってそのことがこの本の美点であると私は思う。単なる介護マニュアルになっては、おもしろさが半減、いや、全減しかねないのではないか。認知症世界のガイドブックであることがこの本の神髄なのだ。 本の後半は、認知症になった人に向けて「認知症とともに生きるための知恵を学ぶ旅のガイド」になっている。 ガイドの仕方も懇切丁寧だ。「今の自分の心身の状態を知る」、「専門職に相談する」、「だれかに打ち明ける」、「頼れる仲間をつくる」、「当事者とつながる」、「混乱を生むモノ・コトを生活空間から取り除く」、「スマートフォンを使って生活を楽にする」など、具体的なステップを示して認知症になっても楽に暮らせる道に誘導していく。 新時代のQRコードの使い方を提示 驚いたのは、要所要所にQRコードがあって、スマートフォンでそれを読み込むと、認知症未来共創ハブの特設サイトに飛んで、さらにくわしい情報に触れることができる点である。 例えば「スマートフォンの活用術」のQRコードを読み込むと、鍵を使わずに玄関などのドアの施錠を管理できるアプリ(認知症の人はたびたび自分が自宅の家の鍵を閉めたことを忘れる)や、しゃべりかけた音声を認識して文字化してくれる機能などの情報にアクセスできる。 むむむ。その手があったか、と感心させられた。 この手法を小説などのエンターテインメント分野などに転用するなら、「この部分はこのBGMを聴きながら読んでください」と指定する、QRコード小説が登場するのではないか? といった夢想も想起させられた。田中康夫が1980年に発表した小説『なんとなく、クリスタル』が「注釈小説」として脚光を浴びた昭和からの読書好きとしては、令和のデジタル時代ならではの「QRコード小説」も読みたいものだ。長生きするのは損ばかりではなく、得もあるのである。 医療や介護従事者向けに、高齢者の擬似体験ができるツールが開発されていて、私も30代だったころ、雑誌の取材を通じて体験させてもらったことがある。ヘッドフォンや特殊眼鏡をかけたり、手足に重りを巻いて、筋力、視力、聴力などの低下を擬似的に体験するのだ。階段を登ったり、風呂の浴槽に入ったりといった何気ない日常行為が、とんでもない重労働に変わった(56歳現在、その違和感には多少慣れてはいるが)。 この本を読めば、それに近い体験ができるのではないか。あなたも、認知症世界を旅してみませんか? 『認知症世界の歩き方』 著者:筧裕介 監修:認知症未来共創ハブほか 発行:ライツ社 定価:1900円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 専門医が当事者として語る『ボクはやっと認知症のことがわかった』 「長谷川式スケール」の開発者が認知症に 続いて読んだのは、認知症介護研究の第一人者で、認知症診断の物差しである「長谷川式簡易知能評価スケール」(長谷川式スケール)を開発した長谷川和夫先生のこの本だ。 先生は2021年11月13日、92歳で老衰で亡くなったが、その5年前から認知症になったことを公表した。この本は、読売新聞社の猪熊律子氏の協力のもと、先生が当事者の目で認知症を語った興味深い本である。 冒頭は、次のようなショッキングな文章で始まる。引用しよう。 どうもおかしい。前に行ったことがある場所だから当然たどり着けるはずなのに、行き着かない。今日が何月何日で、どんな予定があったのかがわからない。どうやら自分は認知症になったのではないかと思いはじめたのは、2016年ごろだったと思います。 認知症の人が自宅を出てどこかへ出かけるとき、鍵をかけたかどうかわからなくなって何度も家に戻ってしまうことはよく知られている。先生にも、そうした症状があらわれたのだ。 記憶というのは「記銘→保持→想起」というプロセスを経ておこなうが、どれか一つに障害が起こると、自分のやった行動を思い出すことができなくなる。「自宅の鍵をかけた」という経験を記憶しておく機能がうまく働かなくなるのだ。 長谷川式スケールは、「お歳はおいくつですか?」、「私たちが今いるところはどこですか?」、「100から順に7を引いてください」といった質問項目があるが、1974年に公表された初期バージョンの最初の質問は「今日は何月何日ですか?(または)何曜日ですか?」というものだった。先生はそのことを、テーブルの上の新聞に印刷された日付を見ないと答えられなくなってしまったのだ。 このときの心境を、先生は次のように語っている。 ボク自身で言えば、認知症になったのはしょうがない。年をとったんだから。長生きすれば誰でもなるのだから、それは当たり前のこと。ショックじゃなかったといえば嘘になるけれど、なったものは仕方ない。これが正直な感想でした。 そのように自分の認知症を受け入れることができた背景には、キリスト教の信仰があったことも大きいと先生は言う。「神様が信仰を与えてくださり、守ってくださっているという感覚があるから、割り切って、ありのままを受け入れるという感じになったのかもしれません」と。 痴呆から認知症へと変わった経緯が興味深い この本では、「長谷川式スケール」の開発秘話も語られる。きっかけは、恩師の新福尚武先生に「長谷川君、見立てが昨日と今日とで違ってはいけない。診断の物差しをつくりなさい」と言われたことだという。 精神科医にヒアリングをし、彼らが診断のために行っていた質問項目を書き出すところから始めたそうだが、そのなかから「できるだけ短時間で行えること(最大限でも20分以内)」、「数値化できるもの」を絞り込んだのだという。 最初の公表から17年後の1991年には、改訂版が公表され、11項目あった質問を削ったり、入れ替えたりして9項目になった。その理由は、質問が時代にそぐわないところが出てきたのと(「大東亜戦争が終わったのはいつですか?」、「日本の総理大臣の名前は?」という質問は削除された)、海外の診断法との比較研究に整合性を持たせるためだったとか。 それから、長谷川先生は2004年、それまでの「痴呆」から「認知症」に用語を変更した際の厚生労働省の委員をつとめたことでも有名だ。このネーミングは先生自身のものではなく、公募により6000件もの提案を受けたなかで選んだものだったそうだ。 もっとも多かった応募は「認知障害」。次いで「認知症」、「記憶障害」、「アルツハイマー(病)」、「もの忘れ症」、「記憶症」の6つが候補にあがった。先生は「3文字が覚えやすくていい」と思っていたというが、最終的にはさまざまな専門医、研究者の意見を取り入れて「認知症」となった。 死ぬまで研究者だった長谷川博士 さて、第三章「認知症になってわかったこと」は、認知症の臨床や研究を半世紀にわたって続けてきた先生が、認知症の当事者になって初めてわかったことが語られる。この本の核心部分だ。 先生はそこで、認知症が「連続している」ことと、「固定されたものではない」ということを指摘する。 普通のときとの連続性があります。ボクの場合、朝起きたときが、いちばん調子がよい。それがだいたい、午後1時ごろまで続きます。午後1時を過ぎると、自分がどこにいるのか、何をしているのか、わからなくなってくる。だんだん疲れてきて、負荷がかかってくるわけです。それで、とんでもないことが起こったりします。 そして、「何かを決めるときに、ボクたち抜きに物事を決めないでほしい」、「認知症の人の言うことをよく聴いてほしい」、「すべての役割を奪わないでほしい」と当事者の立場から健常者に対して望みを伝えている。 ちなみに、先生は当初、自身の認知症をアルツハイマー型認知症と考えていたそうだが、専門病院でMRIなどの画像検査や心理士による神経心理検査を受けた結果、「嗜銀顆粒性(しぎんかりゅうせい)認知症」と診断された。80代など高齢期になってから現れやすい、進行が緩やかなタイプの認知症である。 そんな先生が、1年後に2回目の検査を受け、2年後に3回目の検査を受けたのは、「年をとれば認知症が悪くなっていく一方ではなく、多少はよくなっている部分もあるのではないか」と考えたからだという。自ら実験台になったわけだ。そして、「海馬の萎縮や記憶力、判断力の低下などは見られるにせよ、全体として、進行は非常に緩やか」という診断を受けている。 まさに先生は、人生の最後の最後まで認知症の研究者であり続けた人であり、生涯をその研究に捧げた人だったのではないか。 今回、この2冊の本を読むことで、「認知症とともに生きる社会」の輪郭が、少しは見えてきたような気がする。 『ボクはやっと認知症のことがわかった』 著者:長谷川和夫 ...
2022/12/02
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。