ブックレビュー
元陸上選手で、世界選手権の男子400mハードル競技で日本人初のメダルを獲得した「侍ハードラー」こと為末大さんが『熟達論』(新潮社)という本を上梓した。 熟達という概念を「技能と自分が影響しあい、相互に高まること」と定義し、その過程を「遊、型、観、心、空」の5段階に分けて解説した、令和版『五輪書』とも言える名著である。 「走る哲学者」という異名を持つだけに、アスリートとして実践してきた暗黙知のトレーニング方法を懇切丁寧に語っている。アスリートのみならず、あらゆる職業にも応用できる方法論だ。 そこで、為末さん本人にお話をうかがい、その真髄に迫っていくことにしよう。 『熟達論』 著者:為末大 発行:新潮社 定価:1800円(税別) 短距離走のジュニアチャンピオンから400mハードル走の「侍ハードラー」に転向した理由 ―為末さんが「自分は足が速い」ということに気づいたのは、いつごろなんでしょう? かなり早い時期ですね。幼稚園に通っていたころじゃなかったかな。小学生になってからは3~4年生のときに地域の陸上クラブに入って、中学では陸上部に所属しました。その間、短距離走では負けたことがありませんでした。 ―1993年には全国中学校選手権100m、200mで二冠を達成し、ジュニアオリンピックでは当時の日本新の記録を更新していますね? 現在活躍していても、選手によっては小さいころは足が速くなかったという人もいます。実際、中学生大会の優勝者でオリンピックに出場した選手は、ほとんどいないんですよ。自分の場合、成長のピークが人より早かったんだと思います。その証拠に、高校生になると周りの選手の成長が追いついてきて、なかなか勝てないようになりました。18歳のとき、400mハードル競技に軸を移したのは、それが原因です。 ―陸上選手は、自分が得意とする種目を、どのように見極めていくんですか? 今ではそうではないかもしれませんが、私が中学生だった1990年代前半は、成長期の選手に対して漠然とした基準しかありませんでした。例えば、足が速い子は100m、200mの短距離、長く走れる子は長距離、身体の大きな子は投擲(とうてき)、背が高い子は高跳びという具合。私の場合、短距離から始めて、そこからいろいろな可能性を探っていくなかで400mハードルという競技に行き着いたんですね。 ―短距離走と、ハードル走の違いって、何なんでしょう? ひとことで言うと、「歩幅に制限がある」ということでしょうか。100m走の場合、30歩で走ろうが50歩で走ろうが関係ないんですが、400mハードル走ではスタートから45mのところに置かれたハードルが以降35m間隔で10台設置されていますので、自分で決めた歩数で走ることが求められるんです。私の場合は13歩でした。ただ、室外のグラウンドでは、風の影響を受けますから、歩幅は数cm単位で狂っていきます。トップハードラーになるためには、そのズレを敏感に感じとりながら微調整して、いつもと同じ位置で踏みきる正確さが問われることになります。 ―そのような競技に為末さんは向いていたというわけですね? そうですね。トップスプリンターと言える人は、100m走において1秒で5回近く足を回転させることができます。この回転数を「ピッチ」といいますが、私の場合、4回半ほどでピッチの遅い選手でした。中学生まではそれでも充分に闘えましたが、年齢を重ねるにつれ、通用しなくなっていきました。ただ、400mハードルでは、この「ピッチが出せない」という弱点を「ストライド(歩幅)が出せる」という利点に変えることができたんです。少ない歩数で走れるほうが、タイムが縮む傾向にあるんですね。そのことに私自身、とても驚いたのをよく覚えています。 コーチにつかず、実業団にも所属せず、自分ひとりで自らを鍛える道を選んできた ―18歳で400mハードルに軸足を移した為末さんは、法政大学に進みますが、これはなぜでしょう? 当時、法政大学が、他に比べて自由度の高い大学だったんです。技能の伝達には「コーチング」と「ティーチング」という2つの手法があるといわれています。コーチングでは、答えを与えずに選手自身が考えて訓練するのを支援することを目的としていますが、ティーチングでは明確な答えがあって、それを選手に伝えることを重視します。どちらにもいい面と悪い面がありますが、ティーチングの場合、伝統的なトレーニング方法がかっちりと決まっていて、選手自身が考える自由度が低いんです。当時、多くの大学がティーチング的な指導に偏る傾向があった反面、法政大学はコーチングを重視していました。ですから大学では、コーチをつけずに自分で自分のトレーニングを決めて、競技に臨んでいました。 ―為末さんは、大学卒業後に実業団の選手として入社した大阪ガスを24歳のときに退社し、日本でも数少なかったプロの陸上選手になりましたが、これは大学時代のような我流のトレーニングにこだわったからなんでしょうか? 実は、実業団スポーツというのは日本にしかないもので、世界中の多くの陸上選手からうらやましがられるシステムなんです。というのも、グローバルな環境で競技生活をしているプロ選手は、世界中で年間約100試合ほど行われているレース出場の賞金とスポンサー収入などで生計を立てています。ひとたびケガなどで出場できなくなれば、収入を失って活動ができなくなります。その一方、実業団の選手は企業に所属しているので収入を失うことはありません。さらに、引退した後も、そのまま正社員として働くことができ、生活は保証されています。おそらく、日本の大企業の終身雇用制度をベースに確立されてきたシステムなんでしょう。 ―そのような世界がうらやむシステムから自ら望んで飛び出したのは、なぜなんですか? 0コンマ数秒を争う陸上競技の勝負の世界では、実業団のようなリスクの少ない環境がマイナスに働くのではないかと感じたからです。ジャマイカは人口300万人に満たない小さな国ですが、数々のオリンピックにおいて、その100倍以上の人口を誇るアメリカ合衆国と同じくらいのメダルを獲得しています。で、ジャマイカ人とアメリカの黒人の筋力や身体の形状を測定した科学データを見てみると、その能力にたいした変わりはないということがわかっています。そのことを知ったときに思い出したのは、ジャマイカの競技場を見たときの印象です。グラウンドは日本の田舎の整備の行き届いていないグラウンドのようにボコボコにへこんでいたりして、決して理想的な環境ではありませんでした。でも、ウサイン・ボルトはそのような環境でトレーニングして、前人未到の世界記録を次々と樹立していったんです。 ―つまり、理想的な環境がアスリートの超人的な記録を生み出すわけではない、ということですね? そうなんです。結局のところ、現状に満足せず、ヒリヒリとした勝負で結果を出す要素として、ハングリー精神が重要なんじゃないかと考えたわけです。 ―その選択は為末さんにとって、その後の人生を左右する大きな決断だったと思いますか? それは間違いないですね。私はそこそこ社交性のあるタイプですから、実業団で競技し続けることにはまったくストレスがなかったし、そのまま引退まで過ごしていれば、今とはまったく違った、安定した人生があったと思います。でも、引退から10年を経た今に至るまで、その選択を後悔したことは一度もありません。若気の至り、という面もあったと思いますが、当時はそれが一択のように感じていました。今思えば、その後の人生を決定づける重要な選択だったと思います。 「型」よりも「遊」から始めることで、行き詰まったときの軌道修正が容易になる ―書著『熟達論』で為末さんは、熟達という概念を「技能と自分が影響しあい、相互に高まること」と定義し、その過程を「遊、型、観、心、空」の5段階に分けて解説しています。これは、選手生活のなかでコーチをつけず、自分なりの流儀で自分を鍛え、自ら望む方角に道を切り拓いていった結果に生まれた方法論なのでしょうね? そうだと思います。引退して10年経って、自分がどのように競技に向き合っていたのかを形にしておきたいと思ったんですね。 ―スポーツだけではなく、何かの技術を習得しようとするとき、まずは「型」を身につけることが一般的だと思うんですが、その前に「遊」がくるのは非常にユニークですね。 「遊」というのは、こうしたらどうなるんだろうという好奇心やいたずら心にまかせて、思わずやってしまうようなことを指します。もちろん、「型」も重要で、そこから全体の構造を理解する「観」、中心をつかむ「心」へと進んでいくわけですけど、そこで伸び止まってしまう選手の特徴を分析してみると、最初に「型」から始めた選手が多いんですね。つまり、行き詰まった末に「型」に戻ったとしても、また同じサイクルにはまって伸び止まってしまうのです。 ―なるほど。行き詰まったときこそ、無心で遊ぶような感覚に戻ることが大切なんですね。 その通りです。実は私自身、競技人生で初めてメダルを獲得したとき、次の目標を見失ってスランプに陥ったことがありました。さらなる目標を立て、それに向けた計画も立てるんだけど、どうしても気力が湧いてこない。身体も思ったように動かせなくなって、燃料がからっぽになったような状態になってしまいました。そこで、目標や計画などで未来を見るのではなく、今の自分の心を見るようにしたんです。具体的には「面白い」と感じることを優先して、計画を自分の心の状態に合わせて変えていくことで行き詰まった状況から脱することができたわけです。 ―では、「型」の重要性とは、どんなことでしょう? 「型」とは、それなくして他の技術が成り立たなくなるもの。だから、シンプルで、無意識で実行できるということが重要です。それから、歴史的な検証を経て最善なものにアップデートしていくことも重要です。例えばかつて、速く走るには足首を使って地面をキックするのが有効だとされていた時代がありましたが、今では足首は固定したほうが速く走れるということがわかっています。1991年の世界陸上競技選手権大会・東京大会で、カール・ルイス選手が100m走で当時の世界記録となる9秒86をマークして優勝しましたね。このとき、初めて科学班が入って彼の走りを分析したところ、足首がまったく動いてなかったことがわかったんです。 ―それをきっかけに「型」がアップデートされたわけですね。 ただ、中学生のころから足首を使う走りをしてきた選手にとって、そのクセを抜くのは容易ではありませんでした。実際、日本人選手が100m走で9秒台の記録を出せるようになったのは、桐生祥秀選手や山縣亮太選手、サニブラウン選手など、新しい「型」から身につけた世代の選手でした。 「型」の構造を把握するのが「観」。その先の中心をつかむのが「心」の段階 ―「型」の次なる段階の「観」には、どんなポイントがありますか? 「型」が身につくと、基本的な行為を無意識にできるようになって、行為を深く観察する余裕ができてきます。そのときのポイントは、行為を部分に分けて、その部分と部分の関係性を把握するということ。地面を踏むという行為を例にしてみると、地面に足が触れ始めたところ、少し体重が乗り始めたところ、地面に体重がいちばんかかっているところ、地面から力が返ってきているところ、足が地面から離れるところ、という具合に行為の局面を意識できるようになります。 ―アスリートは、そんな細かいところまで意識しているんですか! 先ほどトップスプリンターのピッチ(回転数)が1秒間で5回だと言いましたが、それだけ速く回転していると細かい部分を意識するのはむずかしくなりますが、「型」を身につけることで、それが見えてくるんですね。 ―細かい部分を意識することができると、弱い部分を調整できるようになるんですね。 そうです。大学時代、コーチにつかずにトレーニングしていたせいか、成績が伸びずに苦しんだ時期がありました。そのとき、日本代表の合宿で出会った短距離コーチの高野進さんに悩みを打ちあけたところ、「足を三角に回しなさい」と言われたんです。高野さんは私の走りを見て、足が後ろに流れる癖を見抜いて、そうアドバイスしてくれたんですね。『熟達論』でも丁寧に触れておきましたが、おかげで走るときの意識がガラリと変わり、スランプから抜け出ることができました。 ―「心」というのは、どんな段階なんでしょう? 無意識に丸呑みしていた「型」が漠然としたまとまりではなく、部分と部分の構造として見えるようになる「観」の段階を洗練させていくと、不必要な部分の力が抜けていきます。それが「心」の段階で起きることです。何かに力を入れようとする意識を持たなくても、中心をイメージするだけですべてがうまく連動する状態です。 ―パフォーマンスを最大限に引き出すには、力を「出す」のではなく、「抜く」ことを意識すべきなんですね? 自然に、無理をせず、力みがない状態を「自然体」といいますが、実はそういう状態をつくるのは難しいんです。例えば、立った状態ですべての力を抜くと、全身が崩れて倒れてしまいます。ですから、立位の姿勢を保つための最低限の力は必要です。つまり、姿勢維持に必要な部分のみに力を入れ、それ以外の力を抜くこと。それができれば、中心から末端に揺さぶるだけで力を増幅させることができるんです。舞台に立つ俳優が台本通りではなく、完全に役になりきって自在にアドリブのセリフをしゃべるようなものかもしれません。 「空」の局面では自我が消え、コントロールすべき身体が主役になる ―最終段階の「空」については、為末さん自身の印象的な体験が語られています。2001年の世界陸上カナダ・エドモントン大会の400mハードル決勝で起こったことを教えてください。 私にとっては初めての世界大会の決勝です。レースでは、スタートラインに立つまでは余計な雑念が浮かばないようにするのが私のやり方でした。その日も1台目のハードルを越えるイメージを、壊れたビデオテープのように繰り返し頭に思い描いていたんですが、いつもより集中できているという感覚がありました。やがて雑念が完全に消え、ゴールの向こう側まで自分が行ってしまった感覚になりました。そのときのことは、よく覚えていません。数万人の観客の声が静かに聞こえるだけで、自分の足音だけが身体に響いていました。身体が勝手に動いて、それをぼんやりと眺めているようでした。気がついたら300m地点にいて、私は先頭を走っていました。残りの100mを必死でもがいて3位でゴールインして、銅メダルを獲得しました。 ―不思議な体験ですね。アスリートはよく、「ゾーンに入る」といいますが、自分で意識的にその境地へ行こうとしていたのでしょうか? 特別なことをしたつもりはありません。いつもと同じように、自分の身体を自らの支配下において完全にコントロールすることを目指していましたが、従えるはずの身体が主役になって、コントロールする側の自我が消えてしまったんです。 ―卓球の水谷隼選手が試合中、会場が無音になって相手選手と自分しかいない空間にいる感覚を味わったという話を聞いたことがあります。似たような例は他にもありますか? 有名なのは、読売ジャイアンツの川上哲治さんの「ボールが止まって見えた」という発言ですね。何も考えなくても身体が勝手に動くというのは、「遊」「型」「観」「心」に至る修練の積み重ねがなければたどり着けない境地なのだと思います。そして、「空」の先には次のターンの「遊」があって、そこからまた「型」「観」「心」へと進むプロセスに向かっていくんです。 引退後、現役時代の「オレがオレが」という発想から脱するのにかなりの時間を要した ―2001年のエドモントン大会で日本人初のメダルを獲得した為末さんは、2005年のヘルシンキ大会でも銅メダルを獲得し、7年後の2012年に34歳で引退しています。引退を決意したのは、何がきっかけだったんですか? 多くの陸上選手は、オリンピックの時期とともに「来季は出場できるのか?」と自分に問いかけます。そして、「できる」と思えばそのまま選手続行、「できない」と思ったときが引退ということになります。私の場合、2008年の北京オリンピックに出場した後、その決断に迫られました。結果的に続行という形をとって2012年まで続けましたが、その途中の段階で「オリンピックに出場するのは無理だ」ということがわかりました。 ―なぜ、それがわかったんですか? スタートから1台目のハードルにたどりつくまでのタイムが、私はある時期まで世界でいちばん速かったんですが、これがズレ始めたんです。いつも通りの感覚で、5秒7だと思ったのに、実際は5秒8だったりして、「あれ?」と思うことが増えて、自分のなかの調整感がおかしくなっていった。それが、引退の1年前くらいの出来事で、2012年の日本選手権で1台目のハードルを越えられずに転倒して、最下位でゴールしたことで気持ちに区切りがつきました。 ―アスリートにとって「引退」は、必ずやってくる人生の岐路だと思いますが、その後の生活をどのように計画していましたか? 実は、明確に意識して計画したことはあまりなくて、最初はコメンテーターの仕事など、想定外の仕事をこなしていくうちに日々が過ぎていったという印象です。ただ、そうやって周囲の流れに乗って生きているうち、「これでいいのかな」と悩むようになって、本当の意味で未来に向けて一歩を踏み出せたんじゃないかなと思えるようになったのは、ここ2~3年のことです。 ―どんな未来が見えてきたんですか? ひとことで言えば、「自分のためだけではなく、誰かのために生きる」ということです。中学生のころから選手として競技に向き合ってきたなかで、自分を鍛えて数多くのライバルとの勝負で勝つことをつねに考えてきました。その20数年の積み重ねはあまりに重くて、物事に取り組むとき、「オレがオレが」という発想が染みついているのに気づいたんです。 ―心にはまだアスリートだったころの発想が残っていて、それを拭い去るのがむずかしかったわけですね? そうです。アスリートの試合を見るときでも、どこかで「自分ならこうするだろうな」と、現役時代の自分と比較してしまうようなところがあって。ところが、そういう気持ちが自分のなかから完全に消えたのがわかったのが、2021年に開催された東京2020オリンピックでした。コロナの影響で開催が1年間も延び、アスリートにとっては大変な調整を求められた大会だったこともあると思うんですが、このときは純粋な気持ちで「がんばれ!」と選手たちを応援することができました。もうひとつは、現在小学生の息子が産まれたことも大きく影響していると思います。人の親になったことで、自分の人生は自分だけのものじゃないということを実感することができましたから。 ―『熟達論』の本の帯には羽生善治さんの「アスリートの暗黙知を言語化できる稀有な存在──それが為末さんです」という言葉が書かれています。この本を書いたのは、為末さん自身にしかわからないことを人に伝えることで「誰かのためになる」ことを目指したのではないですか? そうですね、そうかもしれません。これからの人生は、「勝ち負け」にこだわることではなく、「人の役に立つ」ことを目標に生きていきたいと思います。だって、人に必要とされることって、すごく幸せなことじゃないですか。 撮影/八木虎造
2023/11/06
漫才師・ナイツの塙宣之さんが、『静夫さんと僕』(徳間書店)という本を上梓した。2014年から同居を始めた、義理の父の静夫さんとのハチャメチャな二世帯暮らしを描いた爆笑エッセイだ。 家のなかに雑草を持ち込む、耳が遠いのに補聴器を嫌がる、ラーメンの袋麺しか食べたがらないなど、超マイペースな生活をしている静夫さんに翻弄される塙さんの様子がおもしろおかしく語られている。この本を読んでわかるのは、塙さんが「変なお爺ちゃん」との付きあい方の達人だということだ。 ただ、漫才師としてデビューしてからの話を聞いてみると、そのスキルは持って生まれた才能なのではなく、さまざまな葛藤を抱えるなかで少しずつ身につけていったのだということがわかってきた。 果たして、「変なお爺ちゃん」と付き合うには、どんな心構えが必要なのか? 塙さんにじっくり聞いてみよう。 『静夫さんと僕』 著者:ナイツ 塙宣之 発行:徳間書店 定価:1600円(税別) マイナスをプラスに変える、圧倒的なお笑いパワーとは? ―まずは、塙さんがお笑い芸人を目指したきっかけからお聞きしていいですか? きっかけですか。ルーツをさかのぼれば、幼稚園に通っていたころになっちゃうんですけどね。たぶん、3月生まれだったことが大きいと思うんですけど、まわりの子と比べて僕は、理解力がないというか、そうとうトロい子どもだったんです。幼稚園のトイレの小便器が家の便器と違うので戸惑ってしまい、床に出っ張ったところにウンチをしてしまったりね。昼寝の時間もよくおねしょをしていたので、僕だけ途中で起こされてトイレに行かされてましたし、みんながいる前でウンチをもらしてしまったこともあります。 ―自分でも「僕はダメな子だ」という自覚はあったんでしょうか? ありました。小学生になっても幼稚園時代に僕が粗相をしたことを知ってる友だちがいて、「ウンコ、ウンコ」とからかわれたりするので、ますます自信を失って引っ込み思案でおとなしい子どもになっていました。小学4年生のときまでは、ずっとそんな感じでした。 ―小4のとき、何が起こったんですか? 志村けんさんか加藤茶さんだったと思うんですけど、家ではこのおふたりがテレビで「ウンコ」とか「チンチン」をネタにしたコントを見て大笑いしたんです。ある日、それを真似して「ウンコの歌」という曲を作ったんですよ。そして、友だちが「ウンコ」のことでからかってきたとき、勇気を出してその歌を大声で歌ったんです。すると、クラスは大爆笑。人前で初めてウケた瞬間であり、同時に笑いというもののすごいパワーを思い知った出来事でした。その1年後、僕ら家族は佐賀県に移って、そこで8年ほど暮らすんですけど、転校先では「千葉にいたころは、ウンコの歌をうたってクラスの人気者でした」と自己紹介して大ウケし、お笑い好きの明るい子に大変身していました。 ―高校2年生のとき、塙さんは『激辛!? お笑いめんたい子』(テレビ西日本)というオーディション番組に出場して優勝したそうですが、このときの原体験が大きく影響しているんでしょうね。 そうですね。それは間違いないことだと思います。 浅草の師匠たちとの衝撃的な出会い ―話は少し先に飛んでしまいますが、土屋伸之さんとナイツを結成した塙さんは、2002年に漫才協会に所属して、寄席で活動するようになります。これにはどんないきさつがあったんですか? マセキ芸能社の社長の「浅草からスターを出したい」という考えがあって、その対象者に選ばれてしまったんですね。嫌だったんですけど、僕らにそれを拒否する権利は与えられていませんでした。おかげで最初のころは、いろいろな苦労がありました。昼間は寄席で高齢者を相手にし、夜は小さなライブハウスで若い人を相手にするわけですが、お客さんの求めるものにギャップがあり過ぎて、テンポもネタもいっこうに定まりません。その結果、どちらの舞台に立ってもウケなくなるという悪循環にハマっていた時期もありました。 ―若手のころから高齢者を相手に漫才をするというのは、かなりツラいことですよね? でも、居心地がいいのは、寄席のほうだったんですよ。若手のライブハウスに行くと、先輩といっても年の近い人たちがたくさんいて、向こうもこちらをライバルだと思っているところがあるから、いつもピリピリした雰囲気だったんです。なかには自分より年下なのに、キャリアが1~2年くらい長いだけで先輩ヅラをしてくる人もいて、こっちにもプライドがありますから、そういう先輩にペコペコと頭を下げるのもおもしろくないわけです。その一方、「浅草の師匠」たちは70代、80代の人が中心ですから、孫の世代にあたる僕のような若者にやさしく接してくれるんです。コンクールのようなものに出場させて、「ライバルを蹴落としていかないと生き残れないぞ」なんてプレッシャーをかけてくる人は、一人もいません。 ―具体的には、どんなふうに接してくれたんでしょう? 当時、漫才協会には専属の事務員がいなくて、理事をつとめるチャンス青木という師匠が僕ら若手の入会手続きとか、面倒を見てくれていたんです。だからてっきり、僕は師匠のことを漫才協会の事務員さんだと勘違いしていたんだけど、ある日、その事務のお爺さんだと思っていた人がラメ入りのスーツを着て舞台にあがって漫談をし始めたので、もうビックリして。こうした「浅草の師匠」たちは、テレビに出ているわけではないから、あわてて浅草ROXの本屋さんで芸人名鑑みたいな本を買ってきました。だけど、そこに載ってるプロフィール写真がずいぶん昔に撮った若いころの写真だったりして、師匠たちの顔と名前を覚えるのにエライ苦労をしました。 師匠へのリスペクトの気持ちが芽生えて、世界が変わった ―そのほか、印象に残っているのは、どんな師匠ですか? 最初に度肝を抜かれたのは、東寿美・日の本光子師匠のお婆ちゃんコンビです。光子師匠は、すごく声が大きな人なんですけど、その反対に東師匠の声がすごく小さいんです。それで、客席から「ババア、聞こえねぇぞ」とヤジが飛んだのを袖から見たときは、すごいところに来ちゃったなと思いました。当時の浅草は、つくばエクスプレスもまだ開通していない、寂れた街だったので、東洋館の客席はいつもガラガラでした。しかも、数少ないお客さんも特別にお笑い好きというわけではなく、ただ涼みに来ている人もいれば、お酒を飲んでいたりして、漫才を真剣に聞いている人なんて、ほとんどいなかったように思われました。ある日、イビキをかいて寝ているお客さんがいて、漫才の途中、そのイビキが止まっちゃって、客席が「大丈夫?」みたいな感じでザワザワし出したりしたこともありました。そんなふうに浅草では、毎日がカルチャーショックでしたね。 ―そのころの塙さんの心のなかには、「いつか浅草を飛び出してテレビで売れてやる」みたいな野心はあったんですか? 最初に言った通り、浅草は自分にとって居心地のいい場所だったので、そこから飛び出してやろうという気持ちはあんまりありませんでした。そもそも、浅草の師匠たちというのは若いころ、コンクールで優勝したり、いい結果を残した実績のある人たちなんです。つまり、師匠たちは70代、80代になるまで惰性で舞台に立っているわけでは決してなくて、それほど長い間、芸人を続けていくにはよほどの実力を持った人でなければ無理なんですね。はじめは、加齢によるポンコツエピソードを笑いのネタにしていた僕も、そういうことに気づいていくと、なんの実績もない自分のほうがちっぽけな人間に思えてきました。自分なんて、師匠たちの足下にも及ばない存在じゃないかと。M-1グランプリに挑戦して、結果を残すことに本気で取り組むようになったのは、そのときの気づきが大きく影響していると思います。 ―実際のところ、浅草の師匠たちから塙さんは、どんなことを学びましたか? 例えば、年をとると「入れ歯の噛みあわせが悪くてカツゼツが悪い」といったハンデがあったりしますよね。テレビ向きの芸をするなら、歯の治療とかリハビリとかをしてベストなパフォーマンスをする努力をすると思うんですけど、浅草の師匠たちはそのまんまの状態で舞台に出るんです。で、声の音量がふたりで合っていなくても、お客さんから「ババア、聞こえねぇぞ」とヤジられるところで笑いが生まれたりするんです。ネタのおもしろさとか、構成力とかを超えて、「人間味」のようなもので笑いをとっているんですね。それは、僕がクラスメートの前で勇気を出して「ウンコの歌」をうたうことで幼稚園時代のトラウマを克服したときのカタルシスに通じるものがあると思うんです。つまり、「笑い」には「老い」のようなネガティブな状況をもエネルギーにすることができる、絶大なパワーがあるってことですよ。僕はそのことを、漫才協会の師匠たちと接することによって、再確認することができました。 内海桂子師匠からもらった大事な教え ―ナイツのおふたりは、漫才協会に所属すると同時に、内海桂子さんに師事し、2022年8月に師匠が97歳で亡くなるまでの18年間をお弟子さんとして過ごしています。どんな18年間でしたか? 漫才協会に所属することと同じく、桂子師匠に弟子入りしたのは自分たちの希望ではなく、マセキ芸能社の社長が決めたことだったので、最初はピンときませんでした。芸人の弟子というと、師匠の家に住みこんで身のまわりの世話や、寄席通いのカバン持ちをしたりするイメージがありますが、そのような義務はいっさいなく、桂子師匠自身が「アンタたち、あたしの弟子なんだってね?」と聞き返してくるくらいでしたから、師匠のほうでも僕ら以上にピンときてなかったんじゃないでしょうか。 ―でも、寄席の楽屋では、師匠の着物をたたんだりはするわけでしょ? 着物のたたみ方についてはいちおう、先輩に教えてもらってはいたんですけど、桂子師匠は家から着物姿で寄席にやってきますから、たたむ機会なんてないんです(笑)。だから、最初の1~2年は、師弟らしい交流はありませんでした。ただその後、師匠が僕らに目をかけてくれるようになって、営業先に同行させてもらうようになると、地獄のような日々が始まりました。 ―地獄のような日々、というと? 僕らは芸人として師匠と営業先に行くわけですから、前座でお客さんに漫才を披露することになります。すると、「あなたたちのやってるのは漫才じゃない」とか、「こういうのはぞんざい(物事をいいかげんにする様)ですから」といった数々のダメ出しをされるんです。これ、舞台を降りた場でやってくれる分にはありがたいんですが、お客さんの前でそのままやられちゃうんですよ。一度、「言葉で絵を描きなさい」と言われて、意味がまったくわからなくて絶句したこともありました。 ―お客さんの前で恥をかかされるというのは、新人の芸人さんにとってはツラいことかもしれませんね。 実際、僕らの漫才はスベりにスベっていましたから、お客さんの前でのダメ出しは、傷口に塩を塗るようなものです。このころは、師匠に恨みのような感情を煮えたぎらせていましたね。ただ、先ほど言った、僕らがM-1グランプリに挑戦して、テレビに少しずつ出られるようになって自信をつけ始めたころ、勇気を出して師匠のダメ出しに「うるせぇ、このクソババァ!」と突っ込んだことがあるんです。すると、間髪入れずに「誰がババァだ!」と師匠から返ってきて、それからはマシンガンのような言葉の応酬。それで客席はドッカンドッカンとウケたんです。そのとき一瞬、師匠がうれしそうな表情を浮かべたのを今でも鮮明に覚えています。師匠もずっと、こういうことを僕らとしたいと待ち構えていたんだと思います。当時はその真意を理解できませんでしたけど、ここ最近になってみるとわかります。そう思うと、師匠には感謝してもしきれないなぁと思いますね。 今も心に響く、師匠の言葉 ―桂子師匠の教えで印象的なものを挙げていただくとすれば、何でしょうか? 師匠がよく言っていたのは、「いろんな経験を積みなさい。それが漫才に生きるんだから」ということ。なんてことのない言葉なんだけど、僕は漫才というものの本質を突いた言葉だと思っています。というのも、若いうちはお客さんにウケたネタも、年をとるとできなくなっていくものなんです。例えば、結婚して家庭を持てば、「女の子にモテたい」とか、「彼女がほしい」というネタはやれなくなります。俳優さんなら独身でモテない男の役を演じられるんだけど、漫才師の場合、それが成立しないんです。 ―つまり、漫才師は、自分の生き様をそのままネタにしていくしかないわけですね? そうです、そうです。だから、2018年に『警視庁・捜査一課長』(テレビ朝日系)という連続ドラマの出演オファーをいただいたとき、「漫才師の自分がドラマに出ても、うまい演技なんてできるわけない」と思って躊躇したんですけど、師匠の教えを思い出してお受けすることにしたんです。その結果、僕の「棒読み演技」がいろんなところでいじられることになったわけですけど、それがまた漫才の要素として生かされるわけですよ。僕は今、ニッポン放送の月曜から木曜日の『ナイツ・ザ・ラジオショー』と『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』の木曜レギュラー、それからTBSラジオでは毎週土曜の『ナイツのちゃきちゃき大放送』と、週に5日間はラジオに出演しているんですけど、もし僕が漫才しかやらない人間だったら、しゃべるネタはとっくに尽きてしまったはずです。だから、師匠の「いろんな経験を積みなさい」という言葉は、僕の中でますます重い意味を持ってきています。 「変なお爺さん」のありのままを受け入れるということ ―今回、同居している奥さんのお父さんとの交流を描いたエッセイ『静夫さんと僕』を出版されたわけですが、この話も聞かせてください。同居のきっかけは、どんなことだったのですか? 2014年に最初の子どもが生まれることになって、広い家に引っ越したいという話を夫婦でしていたんですね。ちょうどそのころ、奥さんのお父さん、すなわち静夫さんが脳梗塞を患い、足腰を悪くしたこともあって、一緒に住んだらお世話もできるし、ちょうどいいんじゃないかという話になったんです。それまで、静夫さん夫婦はエレベータのない団地の4階に住んでいて、奥さんの妹ふたりの家族が集まったりすると、ギュウギュウ詰めになってしまうような環境でしたし。 ―いざ同居をはじめてみると、超マイペースな静夫さんの生活に振りまわされていく様子がおもしろおかしく書かれていますが、これを実際に体験する本人にとっては、かなりのストレスだったんじゃないですか? それまで静夫さんの近くに住んでいて、いろいろ世話をしていた奥さんの妹ふたりからは「静夫さんと付き合うのは大変だよ」と言われていたんですが、最初のころはそんなふうに思ったことはありませんでした。静夫さんは自然が好きで、野生で生えてる雑草を見ると、家に持ち込んで飾る、という癖があるんですけど、その雑草に家がちょっとずつ浸食されていって、半年も経つと家中がジャングルのようになっていました。 ―「家のなかが汚くなるからやめてほしい」と言っても、聞いてもらえないんですか? そうなんです。とにかく性格は頑固。そして、しつこい。自分の言いたいこと、やりたいことを誰が嫌がろうが押しつけてくるんです。例えば、宇宙の話。静夫さんはサイエンスが大好きで、日ごろから専門書をたくさん読んで、「宇宙の構造は、どうなっているか知ってるか?」と質問してくるんですけど、難解な上に、あっちこっちに話が飛ぶので同じ話がループしたりするんです。そもそも、耳が遠いので、「その話、もう聞きましたよ」と言ってもおかまいなし。補聴器をつければいいんじゃないかと薦めても、つけるのを嫌がるんですね。 ―いろいろな点で、矛盾したところがあるようですね。 それで結局、静夫さんにこっちのペースに合わせてもらうことを途中からあきらめました。コントロールしようとすればするほど、静夫さんは頑固に我を通してくるので、かえってストレスが増してしまうんです。要するに、「静夫さんは、そういう人なんだ」ということを受け入れるってことです。 お年寄りと接するときに大事なのは、リスペクトの気持ち ―高齢者施設だと、食事の時間とか、起床と消灯時間とかが決められてしまいますが、おそらく静夫さんは、そういう生活を受け入れてくれないでしょうね? 絶対に無理ですね。静夫さんは、超がつくほどの偏食家。サッポロ一番の醤油味の袋麺が大好きで、毎日そればかり食べています。家には大量の空き袋が散乱しているので、僕らはそれを「ポロイチ」と呼んでいます。睡眠時間も、いつ寝ているかわからないほど変則的です。おそらく昔、タクシーの運転手をしていたころからの習慣だと思うんですけど、基本的に夕方の3時とか4時ごろに寝て、深夜の2時ごろに起きてくるみたいです。ある日、朝の飛行機に乗らなきゃいけない日があって、早朝4時に身支度をして玄関に行ったとき、靴箱の隣の椅子に座った静夫さんが無表情でボーッとしているのに出くわして、「うわっ!」と声をあげてしまったこともあります。 ―そういう静夫さんの生活のすべてを、受け入れていく姿勢が大事なんですね。 その通りです。もしかすると、漫才協会の数々の個性的なお爺ちゃんとの接し方が上手くなった点があるとすれば、そのスキルは静夫さんとの生活のなかで、少しずつ磨かれていったのかもしれません。例えば僕は、漫才協会の師匠に向かって、「何度も同じネタをやるんじゃなくて、新作を作ってください」なんてことは、口が裂けても言えません。なぜなら、今、僕らが寄席で漫才を披露できているのは、師匠たちがずっとその場所を守り続けてきてくれたおかげなんですから。お年寄りに対しては、そういうリスペクトの気持ちが大事だと思うんです。もし静夫さんがいなければ、僕は奥さんと出会って家庭を持つこともできなかったわけで、そう思ってみれば、静夫さんを邪魔者扱いするほうが間違っているということがよくわかりますよね。 ―ところで、静夫さんは本になった『静夫さんと僕』を読んで、どんな感想をおっしゃっていましたか? 「おもしろかったよ」って、言ってくれました。静夫さんとのエピソードは、ラジオのトークのネタにもさせてもらったし、こうして本にすることもできて、僕にとって静夫さんはとてもありがたい存在なんですけど、そんな静夫さんに喜んでもらえたことは、素直にうれしかったです。それと、書いてみてわかりましたけど、日常生活のエピソードって、時間が経つと忘れていくじゃないですか。でも、こうして文章にしておくと、いつでも思い出すことができます。そういう意味で、この本を書くことができて、本当によかったと思っています。 65歳で引退して、その後は自由に生きてみたい ―最後に、塙さん自身の老後の話をお聞かせください。漫才師には定年がありませんが、塙さんは何歳まで漫才を続けたいと思っていますか? 「生涯現役」って言葉がありますよね。しかも、そのことをポジティブなことのように語られることが多いと思いますが、意味がわからない。だって、人間は誰しも、自分の寿命が何年あるかを知ることはできないわけですから、「生涯現役」というのは、とても曖昧な目標のように思えるんです。それよりも、「65歳になったら引退する」と決めておいたほうが、張りのある毎日をおくれるんじゃないかと思うんですよね。 ―でも、現代は人生100年時代だと言われます。65歳で引退すると、その後の20年、30年を持て余してしまうのではないですか? いや、そんなことはないと思います。これまで世間からずっと、「ナイツの塙」として見られてきただけに、「塙宣之」というイチお爺ちゃんになったときの世界を、きっと新鮮に受け入れられるはずです。そうなれば、静夫さんのように自分の言いたいこと、やりたいことを素直にやるだけの日々をおくりたいですね。今までできなかったプライベート旅行とか、いろんな遊びを試してみたい。そう思うと、今からワクワクするじゃないですか。やろうと思えば、自分の人生を思い通りに生きるって、きっとできることだと思うんですよ。そう思いません? 撮影/八木虎造
2023/09/20
片岡鶴太郎さんは、つねに新しいことにチャレンジし続けている「挑戦者」である。 芸人として売れっ子の道を歩んでいた30代に突如、ボクシングに挑戦してプロライセンスを取得。それと同時に、仕事の比重を芸人から俳優へと移していった。かと思えば40代からは絵の道に手を広げ、個展をひらくほどの人気を博すように。 さらには50代後半でヨガを始め、インド政府公認のヨガインストラクターになるほど道を究めた。2017年6月、インストラクター就任の発表記者会見で体重43キロの痩身で現れた彼の姿を見て、衝撃を受けた人は多いだろう。 そんなふうに1度だけの人生を、5回分、6回分も楽しんでいるように見えるのが鶴太郎さんという人である。 そんな鶴太郎さんが上梓した『老いては「好き」にしたがえ!』(幻冬舎新書)には、人生100年時代を生き抜くヒントに満ちている。この本を読むと、人生の節目、節目で彼がもがき苦しみながら「新しいことへのチャレンジ」をしていった経緯がわかる。 2023年の12月21日で69歳になる鶴太郎さんのこれまでの人生をふり返っていただくと共に、70代以降の生き方についてのビジョンをうかがってみよう。 『老いては「好き」にしたがえ!』 著者:片岡鶴太郎 発行:幻冬舎新書 定価:900円(税別) 人として売れるには、「弟子入り」という道しかなかった ―鶴太郎さんが芸人を志したきっかけは、何だったのですか? 最初は、芸能界に対する漠然とした憧れがあって、はっきりと形になったものではありませんでした。実際に行動を起こしたのは高校卒業後のことなんですが、女優の清川虹子さんのご自宅に押しかけて門前払いをくらったり、俳優の松村達雄さんのもとを訪ねたりしました。いずれも「弟子入り」をお願いしたんですが、松村さんには「演劇の世界に弟子をとるという制度はないからね。もし俳優になりたいのであれば劇団に入りなさい」と諭されてしまいました。「弟子入り」にこだわったのは、1日24時間365日、芸能の水に浸りたかったからです。今のように各芸能プロダクションがいろんな養成所を構えていて、プロになるための道を作ってくれるような時代じゃなかった。誰かの弟子になって、その道に進んでいくのが唯一の方法だったんです。結果的に私の希望に応えてくれたのが、声帯模写を得意とする片岡鶴八師匠で、これをきっかけにものまね芸人としての道を歩むことになりました。 ―でも、そこから売れっ子の芸人になるには、かなりの紆余曲折があったようですね。 そうですねぇ。鶴八師匠の弟子として過ごしたのは、3年ほどでした。住み込みの弟子として師匠の身のまわりの世話からカバン持ちをする生活を期待していたんですが、師匠からは「うちは狭いからそういうのは面倒だ。通いで来てくれ」と言われてしまいました。その後は、隼ジュンとガンリーズというコントグループの一員になったり、四国の大衆演劇一座の舞台に立ったり、文字通りの紆余曲折です。隼ジュンとガンリーズは「キャバレーの王様」という異名があるほど、キャバレーやホテルの巡業で絶大な人気を誇るグループでした。 ―ここでようやく“人気”という言葉が出てきましたが……。 でも、テレビで売れる芸人を目指していた自分には違和感があって、2年ほどたったころに逃げ出すような形で脱退してしまったんです。そこで東京にはいられなくなって、四国の大衆演劇一座のお世話にすがったわけです。その一座とは半年でお別れして、東京に戻って芸能プロダクションに所属することができたんですが、主な舞台は錦糸町のサパークラブ。深夜0時から朝5時まで営業していて、キャバレーやクラブで働くホステスさんがアフターで利用するようなお店で、そこのステージで司会をしたり、ものまね芸を披露する仕事です。 ―やっぱり「売れる」道筋が、なかなか見えてきませんね……。 自分でもそう思って、一念発起して挑戦したのが、「東宝名人会」のオーディションです。1934年から2005年まで1200回以上、開催された演芸公演で、この舞台を踏むことは、芸能の世界で名前を認めてもらう重要なステップだったんです。 一夜にして売れっ子に。そうなるまで9年かかった ―結果的に鶴太郎さんはこのオーディションに合格して、テレビにも出演するような芸人の道を歩むことになるわけですね。 そうです。24歳のとき、フジテレビのお笑い番組からお声がかかりました。『お笑い大集合』という番組で、タモリさん司会の『笑っていいとも!』の前身にあたる番組です。この番組のプロデューサーをつとめた横澤彪さんは若いころ、同じくフジテレビの『しろうと寄席』のアシスタントディレクターをつとめていたんですが、実は私、小学5年生のときにこの番組に出演したことがあるんです。横澤さんはそのときのことを覚えてくださっていて、「鶴太郎って、あのときの荻野くん(私の本名です)でしょ?」と声をかけてくれたんです。 ―横澤彪さんというと、1980年に『THE MANZAI』を起ちあげて、ツービートや島田紳助・松本竜介、ザ・ぼんち、B&Bといったスターを世に出す漫才ブームの立役者として有名ですね。 すごかったですよねぇ、漫才ブーム。ただ、ブームのメインストリームにいたのは漫才師の人たちですから、私のようなものまねの「ピン芸人」は、ブームの端っこのところで指をくわえて見ているしかありませんでした。ただ、その1年後の1981年に『オレたちひょうきん族』がスタートするんです。漫才ブームでブレイクしたコンビをバラして、みんながピンになってコントやパロディを演じるスタイルのバラエティ番組です。この「コンビをバラしてピンにする」というのは非常に画期的な試みで、私のような芸人にもテレビのメインストリームで活躍する場が与えられたんです。 ―鶴太郎さんご自身、「売れた」と実感したのは、いつごろですか? それに関しては明確な記憶がありまして、それが番組内の「ひょうきんベストテン」というコーナーで、マッチ(近藤真彦さん)に扮してゲスト出演したときです。後に番組内で「ビビンバ」の愛称で知られることになるディレクターの荻野繁さんに持ちかけられたネタで、近藤真彦さんのものまねは、私のレパートリーにはありませんでした。でも、「似てる似てないなんて関係ないから。マッチは元気がいいから、元気がよすぎてセットを壊しながら暴れに暴れて最後に死ぬ。これで行こう」という無茶苦茶なノリで生まれたネタです。ですから、やっている本人も「本当におもしろいんだろうか」と半信半疑でした。 ―でも、そのネタが見事にハネるわけですね。 そのことを実感したのは、そのマッチのネタが放送されて数日後、『笑ってる場合ですよ!』というお昼の生放送のバラエティ番組に出演したときでした。この番組は、先ほど述べた『お笑い大集合』と同様、『笑っていいとも!』の前身にあたる番組で、エンディングで5分くらいのゲストコーナーがあるんです。私は1カ月に1度くらいのペースでこのコーナーに呼ばれていたんですが、マッチ放送後に出たときの反響には、すさまじいものがありました。それまでは、「鶴ちゃーん」という声援もまばらにかかる程度だったんですが、このときは客席から「キャー!マッチ!!」という怒濤のようなどよめきが起こったんです。 ―アイドル並みの騒ぎですね。 サブコントロールルームから、横澤さんが駆け下りてきて、「鶴ちゃん来てるよ!来てるよこれ!絶対逃しちゃダメだよ」と興奮ぎみに語ってくれたのを覚えています。自分の感覚としては、一夜にしてまわりの世界が一変してしまったような感じでした。テレビの影響力のすごさを実感しましたね。このとき、私は27歳。鶴八師匠に弟子入りして、9年の月日が経ってました。 ポッチャリ型の芸人からスリムなボクサー体型に肉体改造 ―30代前半の鶴太郎さんはレギュラー番組を10本も抱え、文字通り、全国区に名前を知られる売れっ子になるわけですが、32歳のとき、突如としてプロボクサーのライセンス取得に挑戦しています。これには、どんなきっかけがあったのでしょう? 周囲の人たちにとっては「突如として」と見えていたかもしれませんが、自分としてはちゃんとした理由があるんです。テレビで売れたことへのうれしさはありましたが、レギュラー番組が10本になると寝る間もないほどの忙しさに追われて、ストレスが溜まっていきます。でも、充分な休養をとる暇もないので、すき間の時間で好きなものをお腹いっぱい食べ、酒を飲み、女性と遊ぶという毎日で、不健康そのもの。おかげで、身長161センチにして体重65キロの、ブクブクとむくんだ体型になっていました。ちょうどそのころ、明石家さんまさん主演の恋愛群像ドラマ『男女7人夏物語』(TBS系)に出演する機会をいただいて、俳優という仕事に魅力を感じていた時期でもありました。 ―いわゆる“転機”、ですね。 でも、当時の私のポッチャリ体型では、似たような役のオファーしか来なくて、「いろんな役を演じられる俳優になるには、肉体改造をするしかない」と思っていました。その数年前に見た映画『レイジング・ブル』で、主演のロバート・デ・ニーロが鍛え上げられた現役時代のプロボクサーと、引退後の27キロも太った姿を同時に演じるという俳優魂に触れて、「海外の一流の俳優は、そこまでやるのか!」と衝撃を受けたことも大きかったですね。ボクサーはお笑い芸人と同様、子どものころからの憧れの存在でしたから、そのプロライセンス取得に挑戦することは、それまでの自堕落な生活をリセットしてくれる、絶好なチャンスだと思ったんですね。 ―でも、ボクシングのプロライセンスに挑戦するには、売れっ子芸人としての多忙な仕事を大幅にセーブしなければ不可能ですよね。周囲から反対はありませんでしたか? 実際、所属事務所からは「2年先までスケジュールが埋まっているんだよ。なぜ、その仕事をセーブしてまでボクシングに専念しなければいけないの?」と問い詰められました。それでも私は「2年先まで仕事があったとしても、3年先の保証はありませんよね。ボクシングのプロライセンスの取得には年齢制限があります。今、挑戦しないと、チャンスはもうやって来ないんです」と主張して、思い通りにさせてくれるように頼んだのです。現在、プロボクサーのライセンスの受験資格は32歳なんですが、当時の規定では33歳でした。私がボクシングへの挑戦を始めたのは32歳のときでしたから、1年しか準備期間がなかったわけですが、役者とボクシングのダブルチャレンジというのは私にとって、挑み甲斐のある挑戦だと思いました。 人生に行き詰まった40代を救ってくれたのは絵を描くことだった ―ボクシングのプロテストに合格すると同時に、ものまね芸人から俳優へ仕事の比重を移すことに成功した鶴太郎さん。大きな人生の転機だったと思いますが、その後、絵画という新しいことへのチャレンジが始まります。どんなきっかけがあったのでしょう? 33歳でボクシングのライセンスをとり、世界チャンピオンの鬼塚勝也選手のセコンドについて二人三脚で防衛戦に臨む日々は、充実していました。ところが1994年、鬼塚選手は6度目の防衛戦で世界タイトルを失い、以前から網膜剥離であったことを明かして現役を引退したんです。それと時を同じくして、私の俳優としての仕事にも変化がありました。長く主演をつとめていた金田一耕助シリーズ、海岸物語シリーズが終了して、潮目が変わっていくのを感じたんです。では、次に何をするべきか、いろいろ考えてみるんだけど、答えが見つからない。間もなく40歳の不惑の年をむかえるというのに、惑ってばかりの日々が始まりました。 ―その惑いのなかから、「絵を描く」という道に行き着くわけですね? 半年くらい、ジタバタした結果ですけどね。周囲にいる40代の人に「不惑の年ってどうですか?」と聞いてみたり、京都のお寺に坐禅を組みに行ったりしても、答えは見つかりませんでした。そうこうするうち、2月のある寒い日、早朝5時に仕事に出かけようと自宅を出たとき、隣家の庭に植えられた木に咲いた、赤い花が目に留まったんです。それまで植物に興味を持ったことなんて一度もないのに、そのときはなぜかその花の存在が気になったのです。以来、前を通りがかるたびにその花を観察するうち、その家の奥様と立ち話をする機会があって、ヤブツバキという椿の花だということを知りました。それと同時に、その感動を何かで表現したいと思って、絵に描くことを思いついたんです。 ―それまで絵を描いた経験は、あったんですか? いえ、まったくありません。それどころか、美術館で絵を鑑賞したこともありませんでした。でも、「椿の花を描けるようになりたい」という気持ちが心のなかから消えることはありませんでした。私は、こうした心の印を「シード(種)」と呼んでいます。普段は潜在意識のなかにあって、その存在に気づかないけれど、ふとした瞬間に「発芽したい」というサインを送ってくるんです。こういうときは、サインが示すままに行動するのがいちばんです。なぜならそれは、「自分が本当にやりたいと思っていること」であり、「魂の歓喜」につながることだからです。 ―なぜ、椿の花にそれほど惹かれたのでしょう? さぁ、どうなんでしょう。誰に見られることもなく、健気に咲いているところに心動かされたのかもしれません。本当の美しさというのは、そういうことなんじゃないかと。それに比べて自分は、人の目ばかりを気にして、人に見られていないと何もできない。そんな自分の非力を感じて、椿の花に憧れの気持ちを持ったのではないでしょうか。そこで、隣家の奥様に1本の椿の花をいただいて、目の前にかざしながら絵を描いてみました。 心のなかの「シード(種)」が絵を描くことで発芽した ―実際に絵を描いてみて、すぐに手応えはありましたか? とんでもない!最初に描いた絵は、目を覆いたくなるほどのひどい出来でした。その後も何枚も何枚も別の紙に書き直すんだけど、最初に花を見たときの感動に近づいていく感じが少しもしないんです。そこで、花を描くことはいったんあきらめて、サンマやイワシとかの魚を描くことにしました。私は、何かの技術を身につけるには「反復練習」がいちばんの近道だと思ってきました。最初のうちはうまくできなくても、毎日毎日繰り返して取り組むことで、何かが見えてくるようになる。ボクシングを始めたときも、そうでした。それまで運動らしいことをしてこなかったものだから、縄跳びすらまともに跳べませんでした。トレーナーにコツを聞くと、「鶴太郎さん、縄跳びにコツなんてありません。ひたすら跳ぶしかないんです。跳んでいるうちに、何かが見えてきますから」と言われて、ひたすら反復練習をしました。その「何かが見えてくる」という手応えは、1か月後にやってきました。絵を描くのも、これと同じ方法でいくしかないと思ったんです。 ―反復練習をするにしても、上達が遅ければ途中で心が折れてしまいます。鶴太郎さんは、それでもなぜ、絵を描き続けることができたんですか? このときは、「自分には絵の才能なんてないんだ」とあきらめたとしても、またもとの鬱々とした日々に逆戻りするしかないという焦燥感がありました。無謀な挑戦に思えても、それにしがみつくしかないという状況だったのです。その一方で、絵を描くことで、自分の心のなかのシードから確実に芽が育っているという実感もありました。絵を描いている間は心が躍って、好きな酒を飲むことも忘れて作業に没頭することができましたからね。 暗中模索のなか、独学で絵を描く喜びに目覚めていった ―絵の対象を花から魚に変えたことで、どんなことが起こりましたか? とりあえず絵の道具をそろえようと画材屋さんに行ったとき、「油とか水彩とか、いろいろありますが、どうしますか?」と聞かれて、私は直感的に「墨がいい」と答えていました。「バターと醤油とどっちがいい?」と聞かれて、醤油を選んだような感覚です。その時点で、写真のように見たままそっくりの絵を描くのではなく、見る人の想像力をうながすような味のある絵を目指していたのがわかります。例えばサンマは、お腹のところがメタリックに光っていて、背中には鮮やかな濃紺で彩られています。それでもじーっと眼をこらしてサンマを見てみると、肉眼で見た色とは別の色が見えてくるんです。ある意味で、心の眼とでもいうんでしょうか、ああ、ここは朱色だな、とか、ここには緑が見えるな、という具合。そんなふうに見た目にはない色を絵に加えたりすることに、最初のころは抵抗感がありました。絵についてアカデミックな教育を受けたわけでもない私がそんなことをするのは、とんでもない間違いなんじゃないかと。でも、これを自分の満足のいく形に表現してみないと先に行けないなと思って試してみると、何となく自分の思い描いていた「味のある絵」に近づいていく手応えがあったんです。 ―心のなかのシードから、芽が吹いた実感が得られたわけですね。 そうですね。ただ、そうやって私が描いた絵が、多くの人に評価されるかどうかはわからないまま、正直に自分の感じるままの絵を描き続けていました。そんなある日、ある百貨店の美術部長という肩書きの名刺を持った方がやってきて、絵を見てくれる機会がありました。内心、びくびくしながら「こういうのは、絵として反則なんでしょうか?」と聞いてみると、こんな答えが返ってきました。「この絵は、鶴太郎さんにしか描けないオリジナリティのある作品です。このまま描き続けていただいて、個展を開きましょう」と。その言葉を聞いた途端、目の前に立ちはだかっていた戸がパーンと開けるような気がしました。 ―初の個展「とんぼのように」は1995年、鶴太郎さんが40歳のときに開催されました。百貨店主催の個展というと、絵の販売が前提となるので事実上、鶴太郎さんの画家としてのプロデビューの年となりますが、そのことについてどう思いましたか? 個展の開催が決まってからは、ドラマの収録の現場にも画材を持ち込んで、1年間で120枚の作品を描き続けました。それはプロの画家になるための努力ではなくて、それまで暗闇のなかで半信半疑で描いてきた絵を白日のもとで自由に表現できるんだという喜びのためやっていたことだと思っています。初めての個展は、おかげさまで大成功。売り出した絵はすべて完売しましたが、その後、自分の絵を売ることにはあまり積極的ではないんです。幸いなことに、私の絵を非売品として展示してくれる美術館を建ててくれるというお申し出を受けて、現在では不定期での個展を開催するかたわら、美術館に展示する作品を制作するに至っています。 片岡鶴太郎作品を扱う美術館の一覧はこちら 50代でやってきた「男の更年期」。救ってくれたのは……? ―40代は画家としての活動を開花した年代でしたが、今回の著書『老いては「好き」にしたがえ!』によると、50代前半は「男の更年期」に入り、鬱々とした日々を過ごしていたそうですね。 ええ、そうなんです。絵を描くようになって10年も経つと、「鶴太郎さんは絵を描く人なんだね」というイメージが世間に浸透していて、注目度は低くなっていきます。役者としても、自分にしか演じられないような役にチャレンジしようにも、そういう役に挑戦できるチャンスがなかなかやってこない。50代というのは、そういう中途半端な年齢なんですね。そんな八方ふさがりな状況のなかで、自分の立ち位置がわからなくなって、ふとした隙に心の袋小路に入ってしまったように思い詰めている自分に気づきました。「やばい、やばい」と思い直して、再びボクシングジムに通って身体を動かして、ぐっすり眠れるような生活サイクルを作ろうとしたんだけど、あらゆる透き間で「やっぱりダメだ」というサイクルに入っていく。今思えば、「男の更年期」だったんでしょうね。心身のバランスが崩れて、何をしてもネガティブな方向に心が向いていくんです。そんな状態が2年も続きました。 ―どうやってそれを克服されたんですか? ある日、「昭和29年生まれの午年の会を作りたいと思っているんだけど、参加しませんか?」というお誘いをいただいたんです。会のメンバーは、当時の小泉政権下で自民党の幹事長をしていた安部晋三さん、今は神奈川県知事ですが元フジテレビのニュースキャスターだった黒岩祐治さん、一般の方では銀行の頭取の方など、年は一緒だけど生まれも育ちも職業も違う、バラエティ豊かな集まりでした。大勢が集まる場は苦手だったので最初は抵抗がありましたが、自己紹介のあとにいろんな話を聞くと、自分と同じような悩みや葛藤を抱えている方が多くて驚きました。組織のなかで、上にはまだ活躍する世代が大勢いて、下には勢いのある若者が突き上げてくる、そんな状態にあって自分の立場に行き詰まりを感じていた。そうした悩みを打ちあけ合うなかで、「そうか、悩んでいるのは自分だけじゃなかったんだ」と気づけたのは本当にありがたかった。救いになりました。鬱々としている時期というのは、閉じこもりがちになりますが、私の場合、積極的に外へ出ていって人と会ったことが良かったと思っています。 ヨガと出会って、新たな心の「シード」が芽吹くのがわかった ―57歳のときには、ヨガを始められています。これにはどんなきっかけがあったんですか? 先輩の秋野大作さんと仕事でご一緒する機会があって、「最近、セリフ覚えが悪くなって……」と悩みを打ちあけたところ、「瞑想がいいよ」というアドバイスをいただいたんです。まずは1日6時間を2日間かけて基本的な考え方や修法を学んだあと、20分の瞑想を実践していくんだけど、最初のうちは、まったくできませんでした。身体が痛くなって集中できないし、それに慣れたあとも途中で眠ってしまったりして、ただの二度寝で終わってしまうこともしばしばでした。だからこれも、得意の反復練習で取り組むしかないと思って、根気よく続けていくことにしました。ヨガの境地というものを体験してみたい、その先にはきっと「魂の歓喜」があるはずだという予感がありました。 ―その手応えを感じられるようになったのは、いつごろのことでしょう? 始めて2か月くらい経ったときでしょうか、瞑想中にすごい体験がありました。自分が床にあぐらをかいているという身体感覚がなくなっていって、背中のあたりから気持ちのいい感覚が滾々(こんこん)と湧いてきたんです。おそらく、医学的に分析すれば、脳から大量のドーパミンが分泌されているような状態だったのでしょう、全身が幸せに包まれたかのような多幸感がありました。なんて幸せなんだろう、と。 ―すごい手応えですね。 もう一度、あの感覚を味わいたいと翌日、翌々日と試してみても、二度目の体験はなかなかやってきませんでした。それでもずっと続けていくうちに、すーっとその境地入るスイッチのようなものを見つけることができました。そこまで達するのに、数カ月かかったでしょうか。 何事も始めるに遅いということはない ―ヨガに目覚めたことで、鶴太郎さんの生活にどんな変化がありましたか? ボクシングは52キロ級でしたから、1日2食で体重を維持していましたが、ヨガと出会ってからは1日1食になって、体重も43キロになりました。1日のルーティーンには9時間をかけています。そうするとどうなるかというと、仕事の始まる9時間前に目覚めるように就寝時間を調節する必要があるんです。例えば、ドラマの撮影が朝5時からだとすると、前日の夜8時が私の起床時間ということになります。 ―9時間もかけて、どんなルーティーンをこなすんですか? 目覚めてすぐは、ドラマや映画の撮影中ならセリフの反復練習をします。寝起きだから口がまわらなかったりするんだけど、これをベストな状態でできるようになるまで続けます。その後は、歯磨きに20分くらいかけて口を洗浄し、あとは掃除や花に水をやるなどの雑用をして、やおらヨガの体制に入ります。まずは、ストレッチとマッサージを組み合わせた準備運動に1時間から2時間かけます。特にマッサージは、手と足の指を中心に入念に行います。指先というのは末梢神経と毛細血管が密集していますから、マッサージで血行をよくすることでヨガの質があがるんです。毎日これをやっているから、手はジジイの手とは思えないほど、ツヤツヤしています。足の裏も、赤ちゃんみたいにキレイです。 そこまでやって、ようやくヨガの本番。これが、3時間くらい。最後はだいたい2時間半かけて朝食を食べて、ルーティーンが終わります。そんな生活をもう、10年以上続けていますが、そのおかげで完璧な健康と、充実した毎日を送っています。 ―最後に質問です。鶴太郎さんは2023年12月で69歳になります。70代を目前にした今、心のなかにまだ芽生えていないシードは、あると思いますか? こればかりは、今の自分にはわかりません。ボクシング、絵、ヨガ、この3つはどれも自分の意思で始めたことですけど、「向こうからやってくる」というパターンもあるからです。例えば、2022年のNHK朝ドラ『ちむどんどん』に出演したときのことです。三線を演奏するシーンがあって、しかも、テンポの速い「唐船(とうしん)ドーイ」という曲を弾かなければならなかったんです。楽器をやったことなど一度もない、60代の私に対する要求としては、ムチャぶりに近いんですが、「やってみよう」と取り組みました。例によって、反復練習で何とか弾けるレベルまで修得しましたが、そこまでやって辞めるのはもったいないと思って、今も弾き続けています。 ―60代になっても、まだ新しいことに挑戦できるんですね。 私はそう思っています。始めるのにもう遅い、なんて年齢はないんだと。まったく弾けなかった曲ができるようになったときの喜びには、他では得られない喜びです。くじけそうになったときや、ちょっとは弾けてうれしかったときなど、それまで積み重ねてきた感情がイッキに歓喜に変わるんです。だから、ちょっとくらいムチャぶりだと思っても、「やってみよう」と挑戦することは大事なことだと思うんです。もちろん、ちょっと試してみて、「やっぱり合わなかった」と思えばやめてもいい。人生100年時代と言われている今、そんな試行錯誤をする時間の余裕は、たっぷりあるのではないでしょうか。 撮影/八木虎造
2023/08/31
銀座は表通りの広々とした歩道を散歩するのもいいけれど、ちょっと横道にそれるとホッとする。西五番街、みゆき通り、交詢社通り、タテヨコの静かな道を歩いていると、なんとなく銀座の通人になった気分になれるものだ」 泉麻人さんの近著『銀ぶら百年』(文藝春秋)からの一節だ。 これまで「東京」をテーマにした本を多く書いてきた泉さんだが、銀座というひとつの町にテーマを限定した本は、これが初めてだという。 そこで今回は、街歩きの愉しみについて語っていただきながら、今年の4月で67歳になる「老いの心境」についてもじっくり話を聞いていこう。 『銀ぶら百年』 著者:泉麻人 発行:文藝春秋 定価:2000円(税別) 80年代の東京には、イジリ甲斐のある個性があった ―『銀ぶら百年』(文藝春秋)のあとがきで泉さんは「『東京』と銘打った本は、これまでいくつも書いてきた(20冊くらいはあるのではないか?)」と書いています。そんな泉さんにとって、東京とはどんな存在なのでしょう? 生まれ育ったのが新宿区の端っこの落合というところで、子どもの頃から東京の地図を見て細かいところを調べたり、知っているバス停を書き入れたりするのが好きでした。小学生の低学年の頃は、自転車で行ける範囲を探検してましたけど、学年が上がっていくとバスとか地下鉄といった公共交通機関を使っていろいろ行くようになりました。よく覚えているのが1969年、中1の夏に都営三田線の巣鴨と志村(その後、高島平に改名)の間が開通して、初日を狙って乗りに行ったことです。高島平団地はまだできてなくて、駅を降りると田んぼをつぶして造成した、だだっ広い土地が広がっていて、成増あたりの丘が見えたのを覚えています。 ―そのような趣味を活かして東京についての文章を書き始めたのは、いつ頃ですか? 1980年くらいに流行通信社(現・INFASパブリケーションズ)の「スタジオボイス」という雑誌に泉麻人というペンネームを使って初めて書いたのが東京についての文章だったし、マガジンハウスの「POPEYE」では、後に本にもなった『街のオキテ』(新潮文庫)という企画を連載しました。1回目のネタが、「東京23区の偉い順」というランキング遊び。そのほか、「喫茶店でウンコをした場合の正しい言い訳」とか「ゲロのカッコイイ吐き方」と、モヤモヤとした街の約束事について書いていくうちに主婦の友社の編集者が声をかけてくれて『東京23区物語』を書くことになりました。 ―『東京23区物語』は1985年に単行本になって、その16年後の2001年には改訂版となる『新・東京23区物語』(ともに新潮文庫)を書くことになりますね。 最初の本を書いた頃は、日本がまだ景気のよかった時代で東京自体、地域によっていろんな個性を持ってました。そこで「隅田川をわたると住民のパンチパーマ占有率が高くなる」とか、「練馬、杉並、中野は水原弘・由美かおる看板の残存率が高い」なんて、その違いをちゃかして書いたんです。ところが、2001年にその新版を書いた頃は東京の平板化が進んでいて、以前のような個性が薄れていました。僕自身、ギャグっぽい文章を書くのに飽きていたこともあるけど、新版では東京の変化をマジメに記録しようという意識で書いた覚えがあります。その後、自転車に乗って東京を探訪した『東京自転車日記』(新潮文庫)、路線バスの乗り歩きエッセー『大東京バス案内』(講談社文庫)、知る人ぞ知る宿に泊まって町歩きを愉しむ『東京ディープな宿』(中公文庫)、喫茶店探しにポイントを置いた『東京ふつうの喫茶店』(平凡社)、七福神巡りに特化した『東京・七福神の町あるき』(淡交社)と、手を変え品を変えて東京についての本を書いてきました。 僕にとって銀座は「近くて遠い都会」だった ―『銀ぶら百年』(文藝春秋)もそうした東京本のひとつだと思いますが、ひとつの街をテーマにした本は初めてだったそうですね? 銀座の商店会が中心となって運営している「GINZA OFFICIAL」というWebサイトに書いた連載コラムが元になっているのでそうなったんですけどね。「銀ぶら」という言葉が生まれたといわれている大正4、5年から現在に至る約100年の歴史をふまえつつ、銀座の魅力を再考する内容にしてほしい、といわれても、銀座は数えきれないほどの老舗がある街だし、これを網羅的に取りあげるのはむずかしい。そこで、銀座のなかでも自分との関わりのある店やスポットから取りあげていくことにしました。 ―泉さんが最初に銀座と関わりをもったのは、いつ頃なんでしょう? 幼稚園児の頃、母に連れられて銀座のデパートに買い物に来たとき、数寄屋橋の不二家でプリンやチョコレートパフェなんかをおねだりして食べた思い出が強く残っていますね。買い物といっても、ショッピングだけが目的なんじゃなくて、「銀座に行く」こと自体が今思えば一種の娯楽のようなものでした。というのも、僕みたいな山手線の外側の落合という場所に住んでいる者にとって、銀座という街には「近くて遠い都会」というイメージがあったんです。地下鉄に乗れば30~40分くらいで着いてしまうんだけど、駅から降りて見た都会の風景はまったくの別世界。「ビル」と呼ばれる建物がザーッと並んでいる街並みは、落合界隈では絶対に見られない景色でした。 ―銀座が今でいう、テーマパークのように見えていたんですね。 実際、銀座には生まれて初めて見るものがあふれていました。今、ティファニー銀座本店がある場所にはかつて、「オリンピック」という洋食レストランがあって、店の片隅に見たこともないような大きなオーブンがありました。母はこれを日本式に天火(てんぴ)と呼んでましたけど、そこに皿ごと入れて焼いたアツアツのマカロニグラタンの焦げ皮の味は忘れられないものがあります。そういう記憶のなかの空気感を足掛かりにして、銀座の魅力をひもといていこうとしたわけです。 衝撃的な出会い!マクドナルドのハンバーガー ―中学生になって、慶應義塾中等部に進学した泉さんにとって、銀座は学校帰りの寄り道スポットになるわけですよね? そうですね。慶應の中等部というのは、前身が商工学校だったこともあって、人形町や浅草で商店を営む家に生まれた子が多かったんです。僕はサッカー部に入っていたんだけど、チームメイトにはカバン屋さん、靴屋さん、ハンカチ屋さんの子がいました。で、そういう下町育ちの子は、出入りの職人さんから小遣いをもらっていたりして日銭を持っているので、買い食いにも慣れているんです。1971年に銀座三越の1階に開業したマクドナルドに行っても、平気な顔でビッグマックなんかを食べているわけ。 ―1971年というと、泉さんが中学3年生のときですね。 当時の僕にとってハンバーガーは、未知の食べ物でした。たまに三笠会館などのレストランに連れていってもらったとき、普通に作ったハンバーグをパンではさんだ分厚いサンドイッチ風のものを見たことはあったんだけど、アメコミの『ポパイ』でウィンピーおじさんが食べているハンバーガーとはほど遠いものでした。だから、マクドナルドに行って初めてハンバーガーを見たときは強い印象を受けました。薄いバンズにはさまれていて、なるほど、こんなにおいしいものならウィンピーおじさんが好物にするのも納得できるなと、腑に落ちました。 ―日本初出店のマクドナルドは、日本人にハンバーガーの味を知らしめた存在だったんですね。 ハンバーガーのほかには、シェイクも衝撃的でした。ジュースともアイスクリームとも違う、太いストローを挿して思いきり吸い込む、新しいスタイルの飲み物。ちなみに、マクドナルドが開店した前年の1970年は銀座を始めとする繁華街で「歩行者天国」が始まった年でもあるんですが、いつもはクルマが通っている道路を友だち連中と歩きながら、マックシェイクの早飲み競争をしたものです。歩行者天国といえば、マクドナルドが開店した同年に日清食品がカップヌードルの実演販売をした場所としても有名です。当時の銀座は、それまで日本になかった新商品の市場調査をするマーケティングの場でもあったんですね。 「変わっていく」ことそのものが東京の特色 ―その後は、どんな風に銀座と関わりを持っていったのですか? 高校時代は、銀座に行った記憶はそんなにないんだけど、大学時代の後半には「コピーライター養成講座」の夜間コースに週1~2回ほど通い始めて、その会場が銀座2丁目にある横長の中小企業会館ビルにありました。その後、東京ニュース通信社に就職して『週刊TVガイド』の記者になってからは、社屋が築地にあったので銀座は近い存在でしたね。それから、会社に内緒でライターの副業をやるようになってからは、東銀座のマガジンハウスにも足繁く通うようになりました。当時、駆け出しのライターにはFAXで原稿を送ることなんか許されていなくて、編集者に原稿を手渡ししていたんです。東銀座の周辺にはまだ老舗旅館がいくつも残っていて、そこの大広間を貸し切って編集者とライターが特集の記事づくりをしたりしていました。こうしてふり返ってみると、僕は人生のいろいろな場面で銀座と関わってきたことになりますね。 ―『銀ぶら百年』で紹介されたお店のなかには、本の出版後に閉店してしまったお店がありますね。 アイビールックの牽引役だった「テイメン(テイジンメンズショップ)」が、本の発売から2カ月後に閉店してしまったのにはショックを受けましたね。それから、銀座4丁目交差点で「和光」と並んでシンボリックな建物だった「三愛」の円筒形ビルも今朝(2023年3月14日)の新聞を読んでいたら老朽化で建て壊しになるという記事が載ってました。本で紹介したときは、婦人服の三愛はすでに撤退していて、創業者の会社のリコーの歴代カメラが展示されている様子を書きました。ビルは銀座のランドマークとして残されていくんだろうな思っていたけど、なくなっちゃうんだね。 ―そのように銀座が、東京が、めまぐるしく変わっていくことについて、泉さんはどう思っていますか? ヨーロッパだと、100年以上も経つ建物が普通に立ちならんでいる街が当たり前だけど、日本の場合、そのへんの考え方が根本的に違うみたいですね。銀座は明治5年の大火、大正12年の関東大震災、昭和20年の空襲と、3度にわたって壊滅的な被害を受けたにもかかわらず、その度に復興してきました。でも、なかには三愛ビルのように、そういう人災や災害とは関係なしに変わっちゃう建物もたくさんあります。ということは、「変わっていく」というのが銀座とか東京の特色なんじゃないかなぁ、とも思います。 ―東京が変わっていくことは、「いいこと」でも「悪いこと」でもない、ということですか? そうだと思います。だって、人々の記憶のなかにはその街の風景が残り続けるわけだから。最近、書店に行くと、昔の街並みを写真とか絵葉書とかで再現している写真集をよく見かけるようになりましたよね。東京は変化のサイクルが早いだけに、なくなってしまった風景を記憶のなかから掘り起こす愉しみがあるとも言える。 ―そういえば、介護の現場では「回想法」といって、昔の街並みの写真を見ながら会話をすることで認知症の予防やリハビリにつなげる手法を導入している施設があるそうです。 97歳になった僕の母は、家から300~400メートル先のサービス付き高齢者向け住宅で暮らしているんだけど、血圧の薬とか飲まなきゃならないから毎朝、訪ねていくのが日課なんです。もう年相応にぼけてはいるんだけど、僕が幼稚園児や小学生だったりする頃の話をすると、元気に言葉をかえしてくれます。閉店してしまった銀座の洋食レストラン「オリンピック」の話や、実家のまわりの風景の変わり方まで、話題は豊富にあります。こういう話ができるのは、変化の激しい東京ならではですよね。 年寄りを笑ってた自分が「笑われる年寄り」になっちゃった ―2015年に泉さんは『還暦シェアハウス』(中公文庫)を出版しました。60歳の還暦を1年後に控えたフリーライターの松木を主人公にしたこの小説は、泉さんが「老い」というテーマに初めて向き合った本だと思うんですが、いかがでしょう? 僕は文章を書くとき、自分と同じ年代の人たちをつねに意識してきました。20代のときは20代の人たちに向けて、30代では30代の人たちに向けて。40歳になったときには、『新中年手帳』(幻冬舎)という本を書いています。音楽のほうでも、自分の年齢にこだわらず、普遍的なラブソングをつくり続けているユーミン(松任谷由実)みたいな人もいれば、竹内まりやさんのように子育てとかの人生経験を曲づくりに生かしている人もいますよね。僕の場合、竹内さんと同じスタイルだといえるのかもしれない。 ―『還暦シェアハウス』も、還暦前後の自分と同じ年代の人を意識して書いたものなんですね? そう。だから、必ずしも「老い」をテーマとして描こうとしていたわけではないんです。でも、結果的には「老い」のリアルな実態を描かざるを得ませんでした。同窓会とかで昔の友人と会って近況報告をすると、その半分は病院通いしている話だったり、持病の話です。『還暦シェアハウス』の冒頭で主人公が前立腺炎にかかって渋谷の泌尿器科に通うシーンから始まるのは、そのときの話から発想したんじゃないのかな。あと、主人公たちが後半で山登りをするシーンでは、糖尿病を持病に持つ同行者がインシュリン切れになって大騒ぎになるシーンもあります。最初に『街のオキテ』の話をしたけど、ネタのなかには「オシッコのシミの隠し方」なんてのがあって、20代の僕は尿漏れする年代の人をちゃかしたりしていたけど、自分自身が若いときの自分に笑われる対象になっていたわけです。 50代の老いはショックだったけど60代の老いは自然に受け入れられた ―泉さんが自身の「老い」を実感するようになったのは、何がきっかけですか? やはり、老眼でしょうね。40代後半で、職業柄、普通の人より早く来たんじゃないかと思います。徹夜で原稿を書く、なんてこともできなくなりました。ただ、年をとっても趣味の町歩きを続けたいと思って、40歳を過ぎた頃から週1でジムに通ってトレーニングを続けたおかげで、足腰の衰えを防ぐことができたのは幸いでした。それで、中高とサッカー部だった体育会魂がぶり返して、フットサルを始めたりね。若い頃、バンドを組んでいたオヤジがエレキを買い直すようなノリです。ただ、数年前、試合中にふくらはぎが肉離れを起こしたのをきっかけにフットサルはやめちゃったんだけど。 ―さすがに還暦を過ぎてフットサルというのは、ハードかもしれませんね。 自分自身の「老い」というものをふり返ってみると、50代で老眼がいよいよ進んだ頃はショックを受けたけど、60代になったときは自分の体の衰えをナイーブに考えるのではなく、自然に受け入れるような気持ちになっていたように思います。 ―『還暦シェアハウス』が明るい雰囲気の冒険小説になっているのは、60代をむかえた泉さんのそんな心境が反映されているからなのかもしれませんね。 ええ、そうですね。 「記憶をめぐる旅」は年をとればとるほどおもしろくなる ―『還暦シェアハウス』の主人公の松木は、国会図書館に行って新聞縮刷版を読むのを趣味にしていますが、これは泉さんご自身の趣味を反映しているのでしょうか? そうです。『銀ぶら百年』を書くときも、国会図書館の新聞資料室にはだいぶお世話になりました。新聞縮刷版は、仕事のために読むというより、純粋な愉しみとして読むこともよくあります。原紙やマイクロフィルムとして所蔵されているのもあるんだけど、縮刷版は年代順に並べて開架されているから、パラパラめくって読みたい記事を探しやすいんです。複写する場所がけっこう離れてて、資料室と複写カウンターとのあいだを行ったり来たりするのにけっこうな体力を要するのが玉にキズなんだけどね。 ―松木は、気まぐれにある年の縮刷版を取り出して、その時代の気分にひたることを「時代トリップ」と呼んでいますね。 年をとると、1面を飾るニュースとか社会面だけじゃなくて、スポーツ欄やテレビ番組表なんかにも目がいくようになります。思い出がたくさん蓄積されているだけに、何気ない広告ひとつで新鮮な記憶がよみがえってくることがある。こういう愉しみは、年をとることのポジティブな一面なんじゃないのかな。 ―「時代トリップ」をするには、昔の写真や新聞縮刷版以外にも方法がありますか? 日記をつけてると、だいぶいいんですけどね。僕は小学4年生のときに担任の先生から「日記をつけなさい」と言われて、中学生の頃まで毎日書いていたんだけど、子どもの頃のエピソードを思い出す資料になりますよね。あと、『銀ぶら百年』の第1回目の記事は、銀座2丁目の「銀座・伊東屋」という文具店の紹介から始めていますが、それは僕がこの店で毎年、スケジュール帳を買いに銀座散歩をしているからなんです。いちばん古いのは、1986年のもの。5年勤めた会社を辞めて、フリーのライターになって2年目の30歳のときの手帳です。 今日は、この場に持ってきてあるので開いてみましょう。えんぴつで書き入れているので、だいぶかすれていますが、1ヵ月のあいだに3つも結婚式の予定が入っている月があったりします。そんなの忘れていたけど、1986年は長女が生まれた年だから、まわりが結婚適齢期だったのは不思議ではありません。 ―お葬式の予定とかもわかるんですか? たぶん、その後の30数冊のスケジュール帳を見てみれば、書き込みしているはずです。お葬式というと、40代後半までは友だちの親が多いんだけど、50代後半になると友だち本人のお葬式に参列するようになる。日記だと、後で読むことを想定して書くから記述が具体的になりますよね。でも、スケジュール帳だと、その日に予定している行動が素っ気ない単語で書かれているだけだから、記憶の圧縮率が日記より高いんです。なかには、日記では思い出せなかったような記憶が出てくることもありますよね。 ―お葬式の話が出たところで最後に質問です。「死」は誰にも平等にやってきますが、泉さんはどのようにそのときを迎えたいですか? そういうことについては、あんまり考えたことがないなぁ。でも、やっぱり長年、馴染んだ環境で普通に死にたいですね。「子どもの頃の思い出のある実家で死にたい」と思ったところで、昔の建物がそのまま残っているわけではないし、ましてや「海を見ながら死にたい」なんて思ったりはしないでしょう。強いていえば、いつも寝ているベッドの上で静かに眠りながら死んでいくのが理想といえるでしょうか。最近、つげ義春さんの日記や漫画作品を読み返したりして、僕のなかでちょっとした「つげブーム」が起こっているんですが、初期の若い頃の作品を読んでもつげさんは「死」について、いろんなことを語っているんです。でも、ご本人は85歳を過ぎた今も、元気にご存命でしょ?こういう大先輩の存在は大きな励みになりますよね。 ―とても楽しいお話、どうもありがとうございます。 撮影/八木虎造
2023/03/24
三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)が話題を呼んでいる。発売から3カ月で、そろそろ10万部を突破する勢いだという。 2022年12月にシェフが「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店したのと同時出版という絶妙なタイミングが働いてのことだと思うが、本の内容も実に素晴らしい。 北海道の増毛という漁師町に生まれたシェフが、極貧生活のなかからたったひとつの選択肢をたぐり寄せて料理人になる道を進む、感動的なサクセスストーリーである。 『三流シェフ』には、フレディ・ジラルデ、トロワグロ兄弟、アラン・シャペルといった一流シェフの店での武者修行がイキイキと語られているが、後編のインタビューでは、帰国したシェフが「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店したいきさつ、そして2022年12月に同店を閉店した理由について、じっくり語っていただくことにしよう。 前編もぜひご覧ください! 『三流シェフ』 著者:三國清三 発行:幻冬舎 定価:1500円(税別) 「ホテルの時代」から「オーナーシェフの時代」に ―1982年12月、ヨーロッパ修行を終えて、三國さんが28歳で日本に帰国したときの日本は、どんな状況だったのでしょう? ぼくがヨーロッパに渡る前、帝国ホテルで必死に鍋磨きをしていたころの日本のフランス料理界が「ホテルの時代」だったことはさっき言いましたよね(※前編に掲載)。ホテルに正社員として就職するというのが、一人前のフランス料理人になる唯一の道だったんです。 でも、ヨーロッパでの8年間の修行を終えて帰国したときの日本では、東京の街場のフランス料理店が脚光を浴びていました。鎌田昭男さんの「オー・シュヴァル・ブラン」、石鍋裕さんの「ビストロ・ロテュース」、井上旭さんの「ドゥ・ロアンヌ」。この3人の先輩シェフたちがブイブイ言わせていました。 そう、時代は「ホテルの時代」から「オーナーシェフの時代」に移っていたんです。村上さんの「10年経ったら君たちの時代が来ます」という予言は当たったんですね。 だから、その村上さんに帰国のあいさつに行ったとき、ホテルの仕事を紹介されても、「ありがとうございます。でも、街場のレストランで腕試しをしたいんです」と言って、お断りしました。もちろん、村上さんは「そうか。頑張れよ」と激励してくれましたよ。 ―最初は「ビストロ・サカナザ」というお店で、雇われシェフとしてスタートしたんですね? ぼくがフランスで修行していたころから「3つ星店の厨房で日本人が働いている」という噂が日本で流れていたようです。それを聞きつけたオーナーが、わざわざフランスまでやって来て「東京のビストロでシェフをやらないか」とスカウトしてくれたんです。 当時のぼくは、村上さんの言いつけを守って、収入のすべてを自己投資に費やしていましたから、貯金はゼロ。渡りに船のお誘いだったわけです。 もうひとつ、村上さんの「10年修行しなさい」という言葉もぼくは忘れていなかった。海外での修行は8年で切りあげて帰国したから、それに2年を足して、30歳になった年に自分の店を持とうと思ってました。 そうして、その決意の通りに開店したのが、「オテル・ドゥ・ミクニ」。1985年3月のことです。 開店して半年は閑古鳥。借金地獄の日々だった ―「オテル・ドゥ・ミクニ」は迎賓館赤坂離宮にほど近い住宅街に立地しています。フランス料理店と言えばアクセスのいい繁華街に開店するイメージがありますが、なぜあえてその場所を選んだのでしょう? ガヤガヤとうるさい繁華街ではなく、静かで落ちついた雰囲気の場所にあるのがヨーロッパのフランス料理店のスタンダードだったからです。 ぼくが最初に修行したフレディ・ジラルデの店は、スイスのローザンヌから車で20分のところにあるクリシエ村というところにありました。 そんな不便なところでも、予約が途切れることはありませんでした。お客さんは静かな場所で、時間を気にせず料理を楽しめる。トロワグロさんの店も、アラン・シャベルさんの店もそうでした。他に何もない田舎の村にポツンとある。 だけど、友人たちは「そんなところに店を出したらお客さんが来なくなるぞ」と口をそろえて言いました。 実際、開店して最初の半年間は、その通りになりました。開店当時、あいかわらず貯金はゼロだったから、内装も厨房設備も食器も、みんな借金して揃えたんだけど、返済するどころか毎月赤字続きで借金はどんどん膨らむばかり。もう、年をまたがずに年内で潰れてしまうだろうと頭を抱えました。 そうやって地獄のような半年が過ぎたとき、日本に「一億総グルメブーム」の風が吹いてきたんです。「グルメ」というのは本来、「美食家」「食通」と呼ばれてきた、金に糸目をつけずに食を追求するごく一部の人たちを指す言葉なんだけど、日本のバブル景気がそれを一般名詞にしたんです。 それに加えて、日本テレビの『若き天才シェフ 三國清三』というドキュメント番組が高視聴率になって、ぼくの名が知られるようになると、「オテル・ドゥ・ミクニ」は数カ月先も予約でいっぱいになる店になっていた。 ―当時、三國さんが出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙の写真を見ると、挑戦的で、尖っていた様子が感じられますね。 だって、鎌田、石鍋、井上のフレンチ三羽ガラスに対抗するには、ヒール役に徹するしかないじゃない。プロレスのザ・デストロイヤーとか、ボボ・ブラジルみたいな憎らしいヒール役。ダンディでクールな彼らのキャラクターを真似するのではなく、逆をいったわけです。案の定、見事にバズったよね(笑)。 料理のスタイルにしてもそうです。味噌も醤油も米も、平気で使ったし、天ぷらや茶碗蒸し、焼き鳥なんかの技も取り入れました。 評論家には評判が悪くて「あんなのフランス料理じゃない」「デタラメだ」なんて書かれたけど、「お前らにおれの料理がわかってたまるか」と突っぱねて、日々、お店にやって来るお客さんだけを意識して、自分のスタイルを貫いた。 そんな調子だったから、2007年にミシュランの東京版が創刊されたとき、ぼくの店には星が1個もつきませんでした。 三國シェフの30歳のときの著書『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)。世界中のシェフの愛読書となっている。 「自分のため」より「人のため」。そのほうが限りなく頑張れるんです ―1985年3月に席数30席でオープンした「オテル・ドゥ・ミクニ」は、やがて80席のグラン・メゾンになり、世界各地の高級ホテルに呼ばれて行なったミクニ・フェスティバルも大成功。三國さんの名は「世界のミクニ」として知られるようになります。そんな三國さんは2022年12月、「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉店して周囲を驚かせました。その背景には、何があったのでしょう? 開店から37年間、「オテル・ドゥ・ミクニ」はいろんなことを経験してきました。いいことばかりじゃありません。バブル崩壊、リーマン・ショック、3.11……といった危機にも直面したけれど、その都度、危機を乗りこえて成長してきた。 ただ、コロナの緊急事態宣言からの2か月間は、初めて「店を閉める」ということを経験したんです。 空いた時間を使って、YouTubeチャンネルを始めたりしましたけど、それと同時にこれまでのこと、これからのことをじっくり考えるきっかけにもなりました。 そうしてみると、これまでの人生でやり残してきたことがあることに気づいたんです。それは、「小さな店で、自分ひとりでお客さんと向き合い、料理を作る」ということ。 席数はカウンターのみで8席。メニューは決めない。豊洲でその日に仕入れた食材を、お客さんと相談しながら料理する。 そんな店を作りたいという思いが数年前からあって、でも、「無理だよなぁ。来世に持ち越しかもなぁ」と打ち消してきたけど、コロナ禍でそのことを考えたとき、今ならやれるかもしれない、そう思えた。 「あと3年で40周年だから、それまでやったらどうですか」というアドバイスもたくさん受けたけど、3年後のぼくは70歳になっている。そこから始めるよりも、まだまだ元気な今のうちに準備をしておきたい。 そう決めてからは、長年の立ち仕事で痛めたヒザを手術してリハビリを始めたし、我流で身につけたフランス語を基礎から学び直そうと日仏学院に通うことにしました。それから筋トレと、食事に気を遣うことで体重を70キロ台まで絞ろうとしています。マンスールといって、ダイエットとは違った方法でカロリーと栄養バランスを考え、質の高い素材と調理法で食事をするんです。 ―70歳からの再スタートをきるには、「健康であること」は必須条件なんですね。 年をとれば、人は誰だって老いていきます。プロの料理人であっても、味覚の衰えには逆らえないし、体力も減退します。だけどその一方で、「心の健康」は、自分の心がけ次第で維持していくことができます。 ―「心の健康」は、どうすれば維持できるんでしょう? いい料理店になるには、料理のクオリティを高めるだけではダメで、サービス面のホスピタリティを充実させる必要があります。クオリティとホスピタリティの両輪がなければ「いい店」はできません。 ホスピタリティとは何かというと、「お客さんに料理を楽しんでほしい」というモチベーションです。 これまで生きてきて、つくづく感じるのは「自分のため」に頑張る力には限界があるということ。どんなに頑張っても、「もうこれ以上はできない」という壁にぶち当たる。でも、自分以外の誰かのため、そう、例えば、お客さんのため、家族のため、先輩後輩や同僚のため、社会のためを考えると、人の努力は限界を超えるんです。 ぼくは、そんな努力が「心の健康」につながっているんじゃないかと思う。2024年の8月10日、ぼくは70歳になります。そのときを迎えるのが、今から楽しみ。久しぶりに充実した日々を過ごしていますよ。 ―とても楽しいお話、ありがとうございました! 撮影/八木虎造
2023/03/10
三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)は、彼のジェットコースター人生を、素直に赤裸々に語った感動の一冊。映像関係のプロデューサーに出会ったら、ドラマ化、映画化を提案したくなるようなドラマチックな本だ。 表紙がまた、いい。三國シェフは照れ笑いして「そんなにいいとは思わない」と言っていたが、客観的な目で見れば、「男の生き様」を表現した見事な表紙である。 左半分の写真は、彼が1985年に30歳で四谷の住宅街、新宿区若葉に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店した翌年に出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙に使われた、森川昇氏の撮影による写真。フランス料理界の異端児として、ギラギラした目をして尖っていたころの挑戦的な表情である。 対する右半分の写真は、ここ数年の写真で、人生経験を経て、年輪を重ねてきた人物特有のいぶし銀のような表情がよく表われている(幻冬舎の『GOETHE』の2020年2月号での古谷利幸氏の撮影)。 そこで今回は、本に書かれたことをシェフと一緒におさらいしながら、店を閉店するまでのいきさつ、70歳以降に計画している新たな夢などについて話を聞いていこう。 『三流シェフ』 著者:三國清三 発行:幻冬舎 定価:1500円(税別) 貧しい家に生まれたぼくには少ない選択肢しかなかった ―三國さんの著書『三流シェフ』には、貧しさから中卒以上の学歴しか得られなかったにもかかわらず、わずかなチャンスをたぐり寄せるようにして札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きとして雇われ、その後、18歳で日本のレストランの頂点である帝国ホテルの洗い場のパートタイマーになる様子が描かれています。その情熱は、どこから湧いてきたのでしょう? 情熱も何も、ぼくにとってはそれが普通のことでした。自分の家が貧しいことは子ども心にわかっていたけど、そのことで親を恨んだりすることはなかったし、学校を休んで働かなくて済むような生活をしている友だちをうらやむこともありませんでした。とにかく、選択肢がすごく少なかったんです。コックになろうと思っても、中卒の学歴しかないぼくはホテルに就職できません。ならば、どこかにスキマが空いてないかを探して、そこに入り込むしかない。そんなぼくが、パートタイマーとはいえ、帝国ホテルのレストランの洗い場で働けるようになったのは、今思えば奇跡のようなことです。ぼくができることは、皿や鍋を洗うことだけ。だから、誰よりも早く、誰よりも綺麗に洗うことがぼくに課された唯一の選択肢でした。洗って、洗って、洗うものがなくなったら、厨房を見渡して忙しそうにしている人を手伝って他の仕事を覚えた。 ―選択肢が少なかったからこそ、それを一所懸命にやった、ということなんですね。 一所懸命にやったのは、皿洗いだけじゃありません。当時、帝国ホテルにはレストランが18店舗もあって、そこで520人ほどの料理人がいました。その頂点に君臨しているのが、総料理長の村上信夫さんです。ぼくにとっては雲の上のような人で、札幌グランドホテルの総料理長の紹介状を持って面接してもらったときから数えて2回くらいしか会ったことがない。その村上さんの目にとまって社員にしてもらうために、ぼくは奥の手を使いました。村上さんのオフィスは中2階にあって、18店舗のすべての店を巡回するのが毎朝の習慣なんです。その様子を観察していると、すべての店を巡回したあと、最後に同じ中2階にある、ぼくが働いていた「グリル」という店に顔を出して、トイレに立ち寄ることがわかりました。そこで、村上さんがトイレに入るたび、洗い場を抜けだして隣に立つんです。「あ、総料理長、おはようございます」って、偶然を装ってあいさつをする。「おう、君か。元気にやってるか」「はい」会話はそれだけなんだけど、そんなことをして、少しでも自分の存在をアピールしようとしたんですね。当時、帝国ホテルの製菓部長をしていた加藤信さんという方がいるんだけど、数年前にお会いしたときにこの思い出話をすると、「知ってたよ」と言われました。誰にも見られずにこっそりやっていたつもりが、見え見えだったんだね。先輩たちは、ぼくの涙ぐましい努力を知っていながら、見て見ぬふりをしてくれていたというわけ。 人生始まって以来の「20歳の挫折」 ―ただ、そうした努力もむなしく、2年後に三國さんは「正規の社員にはなれない」ことを告げられてしまいますね? そうなんだよね。帝国ホテルには、パートタイマーから社員になる制度がなかったわけではないんだけど、同じ洗い場で働いていたシノハラ君という同僚が社員になったあとに、その制度がなくなっちゃったんです。シノハラ君は27番目に履歴書を提出していた人で、ぼくは28番目。あと一歩のところで、チャンスを逃してしまった。そのことを知って、札幌を立つ前の晩に先輩たちが送別会を開いてくれたときのことを思い出しました。ぼくの上京はすでに決まっていることなのに、「札幌グランドホテルは天皇陛下も宿泊する格式高いホテルだ。お前はせっかくそのホテルの社員になれたのに、チャンスを無駄にするのか」と最後の最後までぼくを引き留める先輩がいました。「東京では、お前みたいな田舎者は米の飯も食わせてもらえないぞ」とか、「外国人にさらわれてどこかの国に売られてしまうぞ」なんて、脅し文句も使ってね。そんな先輩たちの言うことを振りきって上京してきたんだから、札幌に戻って「すみません、また社員にしてください」なんて頼むわけにはいきません。当時の日本のフランス料理界は「ホテルの時代」でしたから、一人前のフランス料理の料理人になろうと思ったら、ホテルに就職する道しかなかったんです。ホテル以外では、銀座のソニービルの地下3階にある「マキシム・ド・パリ」というレストランがあって、それが唯一の道だったけれども、丁重な断りの手紙がきて、あきらめがつきました。それまで必死になってしがみついてきた選択肢が断たれたわけです。そこで、振り出しに戻ったつもりで、故郷の増毛に帰ろう、そう決心しました。そのとき、ぼくは20歳になったばかりで、それが人生で初めての挫折でした。 ―で、それからどうなったんですか? 故郷に帰ることを決めたのが、20歳の誕生日の8月で、その年の12月に帰ることにしました。退職まで3カ月あったから、洗い場の仕事が終わる18時から、ホテル内の18店舗ある店を訪ねて「鍋磨きをさせてください」と頼んでまわりました。少しでも爪痕を残しておきたかったんです。料理人になる夢をあきらめたことの証拠としてね。とにかく、ピカピカになるまで毎日、何十個もの鍋を磨いて、磨きました。鍋磨きをはじめて3カ月くらいが経ったとき、総料理長室から呼び出しがかかりました。いよいよ引導を渡されるんだなと思うと同時に、村上シェフに「これまでお世話になりました。ありがとうございました」とお礼を言えるいい機会だと思って、シェフの前に立ったんです。すると、村上シェフは驚きの言葉を口にしたんです。「三國君、ジュネーブに行きなさい。君を在外大使館の料理人に推薦しました」と。 村上シェフが渡してくれた、起死回生の片道切符 ―ジュネーブと聞いて、そこがスイスの都市であることを知っていましたか? いや、知りませんでした。まったく。でもそのとき、貧しい漁師町の増毛の風景が頭に浮かんで、「あそこに戻るよりは見知らぬ土地のほうがいいだろう」と、咄嗟に頭が切り替わりました。実際、村上シェフも「やってみる気はないか」という誘い口調ではなく、「君に決めたから」と命令口調でした。断るという選択肢は、ありませんでした。ジュネーブに赴任する大使というのは、小木曽本雄さんという人。普通の大使ではなく、ジュネーブの軍縮会議日本政府代表部に派遣された特命全権大使でした。そんなすごい仕事をしている大使の料理人になるということは、どういうことなのか? 最初のうちは、何もわかっていませんでした。事の重大さに気づかされたのは、ジュネーブの大使公邸で小木曽大使夫妻にあいさつをしたときのことです。大使からこう言われたんです。「アメリカの大使を招いて正式な晩餐会を開きます。人数は12名です。そのディナーの準備をしてください」と。おそるおそる、それがいつなのか聞くと「1週間後です」と大使は答えました。上辺では平気を装っていましたが、「これはとんでもないことになったぞ」と冷や冷やものでした。大使公邸で働く料理人は、ぼくひとりです。しかも、フランス料理のフルコースなんて作ったこともなければ、食べたことさえない。そんなぼくに、大使が招いた賓客をもてなす料理がつくれるのか?ぼくは、頭をフル回転させて、1週間後のディナーまでに何ができるのかを考えました。幸いだったのは、大使公邸には通訳として現地採用された山田さんという世話役の人がいたことです。ぼくは山田さんに頼んで、アメリカ大使がスイス滞在中によく通っているレストランを調べてもらうことにしました。そして、「長旅の疲れもあるし、厨房の整理もあるから、3日だけお暇をください」と大使に嘘のお願いして、山田さんに教わったレストランで研修させてもらうことにしたんです。それは、「リオン・ドール」という、レマン湖の近くのジュネーブの一等地に建っているレストランでした。 ―研修のお願いなんかして、「はい、どうぞ」と引き受けてもらえるものですか? 日本にいたころのぼくは料理人としてまったくの無名だったけど、このときのぼくには「日本の在外大使館のコック長」という肩書きがありました。電話一本で、すぐに引き受けてくれましたよ。しかも、アメリカ大使が好んで食べているコース料理の材料から仕入れ先、料理法に至るまで、包み隠さず教えてくれました。まるでVIP待遇です。「大使館の料理人」という肩書きがこんなに尊重されるのかと驚きました。それもそのはず、大使公邸で開かれる晩餐会というのは大使にとって、とても重要な場なんです。軍縮会議は、核兵器の不拡散などの国際的な枠組みを決める大事な会議ですが、それぞれの国にはそれぞれの思惑があるから公的な場での話し合いではなかなか結論が出ません。そこで、各国の代表は水面下で非公式な場で話をして根回しをしたり、交渉したりします。その舞台となるのが、大使館で開かれる晩餐会やレストランでの会食の場なんです。 恩師・村上シェフから授かった「3つの約束」 ―ものすごい大役を任されたわけですね。で、1週間後のディナーは、どうなったんですか? 「リオン・ドール」で教わった料理を完璧にコピーして臨んだけど、最後のデザートまで、すべての料理を出し終えたときは、フラフラの放心状態でした。それでも力を振りしぼって戦場のようになった厨房を片づけていると、小木曽大使がふらりと顔を出しました。何かやらかしたか?と一瞬ヒヤリとしたけど、大使は笑顔でこう言いました。「ありがとう、三國君。上出来だったよ」と。そして、愉快そうな口調でこう言いました。「アメリカ大使が不思議な顔をしていたよ。『あなたの料理人は1週間前にあなたと一緒に日本から来たんだろう? それなのに、どうして私の好きな料理を知っているんだ?』とね」このときはまだ、はっきりとは気づいていなかったけど、実は、大使館の料理人には大きな役得があるんです。レストランで働く料理人は、その店がどんな高級店であっても材料費というコストがかかります。でも、大使館の料理人にはそのことを考える必要はありません。賓客をもてなすのが最大の目的だから、与えられた予算のほとんどを材料費につぎ込むことができる。実際、このときのメインディッシュは、マスタードソースを添えたウサギ料理でしたが、「リオン・ドール」で出しているウサギより、質の高いものでした。 ―大使館では、どれくらいの期間、働いたんですか? 最初の契約期間は2年だったけど、大使の仕事が伸びて、契約を延長してくれないかと頼まれました。「君のような料理人はいない。私は鼻が高い」なんて、身に余るお褒めのお言葉をいただいて。それで結果的には3年と8カ月、大使がジュネーブでの任期を終えるまで料理人をつとめました。大使館での最後の仕事が終わったとき、ぼくは小木曽夫妻に呼ばれて、奥様からこんな話を聞きました。「帝国ホテルの村上さんに『あなたの厨房でいちばん腕の立つ料理人を紹介してください』と頼んだのに、息子と同じ年のあなたがやってきて、あまりに頼りなく感じてお断りを入れたんです。すると、村上さんは『あの若者なら大丈夫です。私を信用してください』とおっしゃるので断れなくなりました。三國さん、あなたは村上料理長の恩を一生忘れてはいけませんよ」と。目頭が熱くなって、しばらく下げた頭をあげられませんでした。実は、在外大使館の料理人を経験し、帰国してさらに出世するというのは、帝国ホテルの伝統的なエリートコースなんです。ぼくは中卒であることを恨んだりしたけど、両親を早くに亡くされた村上さんは小学校の卒業証書さえもらっていません。帝国ホテルに見習いとして入社したのがぼくと同じ18歳のときで、それから戦争をはさんで復職後にヨーロッパに渡り、ベルギーの日本大使館で料理長になりました。村上さんは、自分がたどってきた道と同じ道に至る片道切符を、ぼくに渡してくれたんですね。村上さんはぼくをヨーロッパに送り出すとき、3つのことを守りなさいと言いました。ひとつは、10年修行してくること。「10年後には、必ず君たちの時代が来ます」と言われました。もうひとつは、働いて得た収入で美術館や劇場に行って、ヨーロッパの文化を学ぶ自己投資にまわすこと。3つめが何より大切で、それは、いいレストランで食事をすること、でした。もしかすると、ぼくが大使館でヘマをして、首になることも村上さんは想定していたかもしれない。そうなったらそうなったで、体はジュネーブにあるんだから、そこからヨーロッパのレストランでの仕事探しもできる。つまり、村上さんが渡してくれた選択肢は、一人前の料理人になるための最良の道だったわけです。そのことへの感謝の気持ちを、ぼくは一生忘れないでしょう。 ―興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、「オテル・ドゥ・ミクニ」の開店のいきさつ、そして、2022年12月に同店を閉店した理由などについて、お聞きしていきたいと思います。 三國シェフの生涯の愛読書は、松下幸之助の『道をひらく』(PHP)。「人生のなかで、壁にぶつかるたびにこの本を開くと、不思議にそれを解決するヒントになるページにたどり着いた」という。 撮影/八木虎造 後編をお読みになりたい方はこちら
2023/03/08
落語家にして、総著作数20作を超える著述家でもある立川談慶さん。おまけに趣味の筋トレを活かしてベンチプレス大会に出場するなど、マッチョな一面を持つ「異能の人」である。 そんな談慶さんが、師匠・立川談志との20年間に及ぶ交流を通じて学んだことを記した『武器としての落語』(方丈社)を上梓した。 天才談志と過ごした日々のこと、自らの人生をいかに生きていくのかということ、そんなあれこれについて聞いてみよう。 『武器としての落語 天才談志が教えてくれた人生の闘い方 』 著者:立川談慶 発行:方丈社 定価:1600円(税別) 入門して最初に言われたのが「おれを快適にしろ」という言葉でした ―『武器としての落語』は冒頭、1991年に談慶さんが七代目立川談志に弟子入りするところから話が始まります。談志師匠が最初に発した、「おれを快適にしろ」という言葉に翻弄されて、数々のしくじりを重ねたそうですね。なぜでしょう? 天才談志に弟子入り志願をするような人間は、何も私に限らず、自分に対して大なり小なり自負を持っているものです。「自分はおもしろいんだ」「談志の弟子になりさえすれば大成できる」とね。 実際、その前年には志の輔師匠が異例の早さで真打ちになっていました。志の輔師匠が広告代理店でバリバリ仕事をしていた社会人経験を経て、談志に入門したのが28歳のとき。当時、25歳だった私は志の輔師匠と同じく、3年間のサラリーマン経験がありましたから、同じ道を通れば、すんなり一人前になれると高をくくっていたんです。 「おれを快適にしろ」という談志のひとことは、そんな私の鼻をへし折るつもりで発した言葉だったのかもしれません。 師匠を快適にするとは、どういうことか? 頭をひねった私は、師匠の荷物を全部ひとりで持って、汗びっしょりになって働きました。ところが、これが大間違いでした。 師匠が弟子に重い荷物を持たせて威張っているという構図を周囲にさらすのは、談志がいちばん嫌うことだったんです。エレベーターに早く師匠を案内しようと、人混みをかき分けたりするのも大間違い。どちらもかえって師匠を不快にさせてしまい、どやされるわけです。 しくじった挙げ句に言われたのが、「おれに殉じてみろ」という言葉 ―落語家には前座、二ツ目、真打という3つの階級があって、二ツ目に昇進すると師匠の身のまわりの世話から解放されて、紋付きの着物と袴を着て高座にあがることを許されるといいます。通常、3~5年で二ツ目になる人が多いそうですが、談慶さんは9年半という異例の長さだったそうですね? はい、その通りです。談志は昇進の条件を、「二ツ目は古典落語50席、真打は100席おぼえる」と明確にして、著書にも書いたりしていたんですが、途中から「都々逸、長唄、かっぽれなどの歌舞音曲の修得」という条件が付加されたんです。古典落語は大学の落研時代からすでに30席ほどのレパートリーがありましたから、「あと20席おぼえたら二ツ目昇進」と思っていた自分としては、大いに不服でした。100メートル走を必死に駆け抜けてゴールしたのに、「今度はハードルだ、長距離だ」と別の競技を足されるようなもんですからね。ちなみに歌舞音曲の課題に関しても、私は盛大な勘違いをしています。談志に認めてもらうからには本式にやらねばと、テープやCDを聴いたり、小唄を教えてくれる教室に通ったりして唄をおぼえるわけですけど、「おれが求めているのはそういうのとは違うんだ」と、ことごとく否定されました。つまり、「唄をうまくうたえるようになれというんじゃない。落語の登場人物が酔っ払ってうたう調子でいいんだ」というわけです。そんな調子でしたから、談志の前座をつとめて5年目、私より2年遅れて入門してきた談笑が二ツ目に昇進して、弟弟子に追い越されてしまうようなことになるんです。ある日、そんな私に談志は言いました。「おまえ、そこまで不器用か。ならば、おれに殉(じゅん)じてみろ」と。 悩んだり、迷った末に気づいた、「倍返し」の境地 ―「おれに殉じてみろ」とは、すごい言葉ですね。 今の私なら、この「談志語」を自分なりに翻訳することができます。おそらく、「そこまで不器用なら、不器用に徹してみろ。その不器用さを活かして、おれを真似てみろ」という意味だったのではないでしょうか。その後も、自分がおぼえたことを談志に披露し、そのことごとくを否定される日々が続きました。気持ちが折れそうになった何度目かに、ふと気づくことがありました。それは、「迷っているのは自分のほうで、師匠がおれを迷わせているのではない」ということです。例え話で説明しましょう。鏡で自分の姿を見たとき、ネクタイが曲がってたら、まっすぐになるように直しますよね。普通なら、自分の首元に巻いてあるネクタイをずらして直しますけど、当時の私は、鏡に映っているほうのネクタイを直そうとしていたんです。これはもう、とんでもない勘違いです。いくら鏡をいじろうとも、曲がったネクタイは直りませんからね。結局のところ、師匠が提示してくる昇進基準を「無茶ぶり」ととらえて、ただこなしているのではダメで、自分から進んでアクションを起こしていかなければならないということに気づいたんです。そうなると、談志から「踊りを5つおぼえろ」と言われたら、10おぼえる。「唄を10曲おぼえろ」と言われれば20曲おぼえるという具合に、先回りして「倍返し」していくようになりました。そこからは、技芸を身につけていくことが嘘のように楽しめるようになりました。 天才談志はプロデュースの名人だった ―二ツ目昇進まで、普通の人の倍以上の9年半をかけた談慶さんですが、そこから真打に昇進したのは5年弱です。「二ツ目は通常、約10年」といいますから、かなりスムーズだったんですね? 本当は、二ツ目になって3年たったとき、「おまえ、真打になっていいぞ」と師匠から言われていたんですが、自分なりにまだ真打になるほどの器ではないと返事をズルズルと先延ばしにしていたんです。そんなある日、たまたま自宅の近くで独演会を開催した春風亭小朝師匠とお会いする機会があって、相談してみました。そのとき、「談志師匠がそう言ってくれているなら、早く真打になるほうが恩返しになりますよ」という言葉を聞いて、真打になる決心をしたんです。みなさん、ご存知だと思いますが、談志は頭にバンダナを巻いて高座にあがったり、サングラスをかけてみたり、髪の毛を染めてみたり、それまでの落語家がやらなかったことをやりました。メディアに伝えられるキャラクターとしても、「毒舌家」「破天荒」の落語家というイメージを多くの人が持っていると思います。でも、前座として9年半もの長い年月、前座として一緒に生活してきた私は、師匠が家族を心から愛するマイホームパパだったことを知っています。そのおかげで、男女ふたりのお子さんは、まっすぐに育った好人物ですし、師匠の「愛情を惜しげなくつぎ込む」という子育て哲学は、私もずっとお手本にしてきました。 ―もしかすると談志師匠は、落語の名人だっただけではなく、自己プロデュースの達人だったのかもしれませんね? 本当に、そう思います。今思えば、9年半という長期間、私を前座の身に据え置いていたことさえ、ある種の計算があったのではないかと思えてきます。 生前、談志は弟子たちに「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」と言っていましたが、私が落語家としては異例の20冊以上の書籍を執筆できているのは、談志が「異例の長さの前座修行をした男」という経歴をつけてくれたおかげだと思うんです。 談志は自らの「老い」を人一倍、恐れていた ―談慶さんが談志師匠に弟子入りしたのは25歳のときですが、当時の談志師匠はちょうど30歳年上の55歳。どんな様子でしたか? そりゃもう、エネルギッシュでしたよ。朝から肉料理をガツガツ食べて、映画の試写会に行った足でプロデューサーと打ち合わせをしたり、メディアの取材を受けたり、そうかと思えばパーティに顔を出してジョークを言ったり。そばについてるだけでクタクタになるほどでしたが、師匠は一日中しゃべっていてもつねに元気でした。 落語家は年をとったら味が出る、なんてよく言われます。でも、談志は「そんなのは嘘だ」と否定していました。 談志の豪快磊落、天衣無縫な落語は、実は「落語は業の肯定である」という定義のうえに組立てられた緻密な計算があって成り立っていました。豪快さと繊細さ、その両面を備えた緻密な落語を表現するには、人並み外れた胆力と体力が必要です。 ですから談志は、自分が老いるということに対して、人一倍の恐怖心を持っていたと思います。 実際、62歳で食道がんになったとき、記者会見でタバコを吸って見せたりしたのは一種のやせ我慢的なポーズで、これをきっかけに自分の健康を維持することに大変、気を遣うようになりました。 ―さすがの談志師匠も、年には勝てないということですか? 談志が得意としていた古典落語の演目のひとつに「野ざらし」があります。おっちょこちょいな八五郎という主人公がサイサイ節という唄をうたいながら河原で釣りをする見せ場があって、演じるのにかなりの体力を要するんですが、そういうネタをだんだんやらなくなりました。 そうかと思えば「落語はイリュージョンだ」と定義替えをしたり、落語の途中に解説ふうの話を入れたり、時事ネタを放り込んでみたりして自分の落語観をアップデートしていきました。 今思えばそれは、「老い」への抵抗だったのかもしれません。つまり、若いころは剛速球で馴らした投手が、ピークを越えて変化球投手に鞍替えするようなものです。 私が真打ちになったのは、談志が70歳になった年で、私は40歳になってましたが、そのトライアルの席で談志はこんなことを言いました。「お前もいつか、わざと落語を下手にやりたくなる日が来る。その日が来なかったら、嘘だと思え」と。 芸の道というのは途轍もなく奥深いもので、「わざと下手にやる」なんて境地が本当にあるのかと首をひねりたくなりますが、このころの談志は、ただお客さんを楽しませるだけでは満足できない域に達してしまったのかもしれません。 ちなみに晩年は、「イリュージョン」から「江戸の風」と言っていました。 人生を丸ごとつぎ込まねば学べないことがある ―談慶さんにとって、談志師匠の落語のピークはどのあたりだと思いますか? そりゃ、何といっても2007年12月18日、72歳の談志がよみうりホールでやった「芝浜」でしょうね。 多くの人から「伝説的名演」と評価されているだけでなく、談志自身、「あれは神様がやらせてくれた最後の噺だったのかもしれない」と語ったほどですから。 そこから先は、「老い」に身を任せてソフトランディングしていくような感じだったと思います。 74歳で咽頭がんを患って、その翌年に声帯摘出手術を受けるまでの最晩年の高座は、兄弟子の談春兄さんいわく、「落語と一席ずつお別れしているようだった」といいます。 ―師匠と過ごした20年間をふり返って、天才談志の「人生の去り際」は談慶さんの目にどのように映っていますか? 談志は、最後の最後まで落語家だったと思います。そして、その手本となる生き方を身をもって私に教えてくれました。 人は誰だって「老い」には逆らえないし、人生の最後には必ず「死」がやってきます。そう考えてみると「介護」というのは、ただ老いた人を手助けすることを指すのではなく、老いた人から人生の仕舞い方を教えてもらう「予習」のような場なのかもしれませんね。 数年前、83歳で亡くなった父のときも、同じようなことを感じました。葬儀を終えたとき、思春期の入り口である反抗期を迎えたばかりの長男と次男に目をやると、ふたりとも泣きじゃくっていたんです。「親父は、亡くなることで孫に情操教育をしてくれたんだな」と感じて、私ももらい泣きしてしまいました。 以前、寿司職人が「飯炊き3年、握り8年」で、一人前になるには最低10年かかるという話を「バカバカしい」とSNSで批判した人がいましたね。その人にとっては、落語家の修業も同じように見えるのだと思いますが、厳しい徒弟制度に自分の人生を丸ごとつぎ込むような形ではないと学べないこと、伝えられないことが私はきっとあると思うんです。 「老い」に対抗する唯一の手段は、自分の体の声に敏感になること ―ところで談慶さんは、筋トレが趣味で、57歳になっても「ベンチプレス100㎏以上を上げる落語家」として有名ですが、これは談慶さんなりの「老い」に対する抵抗なのでしょうか? そうかもしれません。筋トレをはじめたきっかけは41歳のとき、頸椎ヘルニアになってしまったことでした。幸いなことに、カイロプラティックの名医と出会って痛みは治まったんですが、「今回の処置は、あくまで応急処置です。再発しないようにするには、背中の僧帽筋を鍛えて筋肉でガードするしかありません」と言われてジムに通うようになったんです。以来、休まずにジム通いを続けられているのは、筋トレが生活のメトロノームのようになっているからです。朝早くに、ジムに行って、ひと眠りしたあと午後の2時から仕事をすれば、時計の針が深夜の12時にまわる前から眠くなります。爆睡して目覚めてみれば、疲労から完全に回復しているから、また筋トレをしたくなる。そんなふうに筋トレが生活のリズムを整えてくれるんですね。 ―では、談慶さんはまだ「老い」を意識することは少ないんでしょうね? いえ、そんなことはありません。50代なかばを過ぎると、体のいろんなところにガタがくるようになりました。 この間、肩の関節をやっちゃって痛みがしばらく残ってますし、古傷のヒザの半月板も痛むようになってきました。「筋肉は裏切らない。鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」というのが私の口癖でしたけど、「関節」は平気で裏切ってきますね(笑)。 あと、私は2022年の1月にコロナに感染しましたけど、これも「老い」と関連があると思ってます。 実は、前兆があったんですよ。筋トレしたあと2日続けて体に寒気が走ったんです。「あれ?」と思ったけど、「まぁ、大丈夫だろう」と油断して放置してしまったのがいけなかったんですね。3日目に発熱して、陽性であることがわかりました。 要するに「老い」のせいで無理が利かなくなってきたってことです。ですから、これからは体の声に敏感になって、感受性を高めなければならないと思っています。 年をとるというのはネガティブなことばかりじゃない ―新型コロナウイルスの感染拡大は、落語家としてのキャリアに重大なダメージを与える出来事ですよね? もちろんです。それ以前に予定していた落語会はすべてキャンセルになり、スケジュール帳はまっ白になりました。落語家にとって「三密」を禁じられるというのは、鳥がツバサをもがれるようなものです。というのも、音楽のコンサートや演劇以上に、落語の表現形態は演者とお客さんとの距離が近いんです。もちろん、ミュージシャンや演劇人より、落語家のほうが被害が大きいと言うつもりはありませんが、落語家の表現の環境がコロナ前に戻るには、他ジャンルよりも長くかかるんじゃないかと思っています。ただ、泣き言ばかりいって、コロナを恨んでみたところで、何にもなりません。そこで、暇になった時間を本の執筆に振り分けるようにしました。それまで忙しくて断っていた企画も引き受けて、表現の場を高座から紙の上に移し変えたんです。もともと、コロナになる前から10冊以上の著書を持っていましたので、頭の切り換えは早かったんです。おかげでこの3年間で11冊の本を出すことができたし、そのうちの1冊、『花は咲けども 噺せども 神様がくれた高座』(PHP文芸文庫)では小説家デビューすることもできました。まぁ、寝る間を惜しんで執筆に時間を割いたせいで、ストレスが溜まってコロナにもかかってしまったわけですが、それだって「これからは体の感受性を磨いていこう」という教えを与えてくれたわけですから、ポジティブに働いた経験だったとみることもできます。 ―談慶さんのその「転んでもただでは起きぬ」という発想、素晴らしいです。 自分の「老い」との向き合い方にも、その発想は使えると思いますよ。 最初に、談志に弟子入りしたばかりの私が「おれを快適にしろ」という談志語を理解できずにしくじった話をしましたよね。 でも、年をとることで「こういう意味だったのか」と、その言葉の真意に気づくことができます。そして、その教えをネタにして、作家として表現の場が与えられている。「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」という談志の生前の予言は、まさに的中しているんです。 そう考えてみると、年をとるのは決してネガティブなことばかりじゃなくて、ポジティブな面も多分にあるっていうことがよくわかります。 ありがたいことに、落語家には「定年」というものがありません。師匠である談志が見せてくれたように「生涯現役」の生き方をお手本にして、これからも頑張っていきたいですね。 撮影/八木虎造
2023/01/27
1937年生まれ、御年85歳になっても旺盛な執筆活動を行っている養老孟司先生。新型コロナウイルスの感染拡大で、世の中の動きが停滞ぎみになっても、その勢いは止まらない。 2020年の自身の大病、そして愛猫の死という出来事を経験して、ますます舌鋒するどくなっているのだ。そこで今回は、先生の3冊の著書を材料にして、今という時代を生きるヒントを探ってみよう。 あと一歩というところで命拾いをしました ──中川恵一先生との共著『養老先生、病院へ行く』(X-Knowledge)には2020年の6月、大の病院嫌いだった先生が古巣の東大病院に入院した顛末が書かれています。どんな前兆があったのですか? 1年間で体重が15キロ減ったんです。あとはなんだか調子が悪い、元気が出ないといった不定愁訴です。そこで過去に対談をした経験のある、大学の後輩の中川さんに頼んで検査を受けることにしました。受診日の3日前はやたらと眠くて、猫のようにほとんど寝てばかりいました。私が病院を嫌いな理由は、現代の医療システムに巻き込まれたくないからです。このシステムに巻き込まれたら最後、タバコをやめなさいとか、甘いものは控えなさいとか、自分の行動が制限されてしまう。 ──にもかかわらず、病院に行くことにしたわけですね? このときは家内が心配するので、診てもらうことにしました。自分だけで生きているわけではないので、家族に無用な心配をかけるわけにはいきません。私は以前から、「死は二人称の死でしかない」と言ってきました。一人称の死は「私」の死です。死んだときには私はいないのだから、現実にはないのと同じです。三人称の死は「誰か」の死。コロナで連日「本日の死者数は何人です」と報道されていますが、そういう類いのもの。有名人の死も同じですね。二人称の死は「あなた」、つまり知っている人の死です。これだけは無視することができない。身内だろうが、嫌いなヤツだろうが、どうしたって人に影響を与えます。病気も死と同じで、心配をかけたり、迷惑になったりすることがある。だから家内の言葉に従って、病院に行くことにしたんです。 ──そこで、大変な病気が発見されたわけですね? そうです。中川さんは体重減少の原因を糖尿病かがんだと思っていたそうだけど、機転を利かせてくれて心電図をとったんです。そこで心筋梗塞が見つかりました。待合室で家内と秘書たちと「このあとは天ぷらを食べて帰ろうか」なんて呑気な相談をしていると、中川さんが血相を変えて「心筋梗塞です。ここを動かないでください」と言いました。それでそのまま集中治療室(ICU)に2日ほど入って、手術、そして入院と、計2週間も病院のなかで過ごしました。心筋梗塞は、動脈が詰まって心臓に血液が届かなくなる病気です。私の場合、左右の冠動脈2本のうち、左冠動脈の枝の末梢が閉塞していた。処置が数日遅れていたら、冠動脈の主要部分が詰まっていた可能性もあるそうで、紙一重で命拾いをしたわけです。 写真提供/まるすたぐらむ 自分が心筋梗塞になるなんて実に意外だった ──患者の視点で見た「現代の医療システム」は、どんな印象でしたか? 思ったよりも楽でした。あまり、苦痛を感じるようなことがなかった。タバコを吸えなかったのは辛かったけど、飛行機に乗っているようなものだと思えば我慢できました。ただ、病院食については、思った通りでおいしくなかったですね。でも、そのおかげで自分の食生活を見直すきっかけになりました。青木厚さんという医師が1日のうち16時間は何も食べない、あとは自由に飲み食いしていいという 「16時間断食」を提唱しています。内臓を働かせ過ぎないで休ませなさい、ということ。実験的にやってみると、体調が良くなりました。戦中、戦後の食糧難のとき、「お腹がすく」という体験を嫌というほどやってきましたが、実に久しぶりの空腹体験でした。 ──起床時間、食事の時間、消灯時間を病院側の都合で決められてしまうのは、ストレスではなかったですか? 病院にいること自体がストレスですから、順応してしまえば何てことはないです。私はそういうところが意外に素直にできてまして、刑務所に入っても順応してしまうと思いますよ(笑)。 ──心筋梗塞は発症すると胸に激痛が走るそうですが、先生の場合、糖尿病の神経障害で痛みを感じなかったそうですね。 自分が心筋梗塞になったのは意外でした。というのも、「心筋梗塞にかかるのは、上昇志向のある人に多い」と若いころに習ったことがあるからです。オーストラリアのメルボルン大学に留学したときのことです。政治家がその典型ですね。私はこれまで、政治に関心を持ったことは一度もありません。それから、タクシーの運転手さんと学校の教師も心筋梗塞になりやすいという話もありましたが、それは欧米のアングロサクソン系の人種の人たちに言えることで、日本のタクシー運転手と学校の教師は胃潰瘍になりやすいんです。社会の違いによって、ストレスのかかり方が違うんですね。 『養老先生、病院へ行く』 著者:養老孟司、中川恵一(共著) 発行:X-Knowledge 定価:1400円(税別) 在宅死は大変。病院死も悪くない ──『ヒトの壁』(新潮新書)によると、ICUに入っているとき、目の前に5体のお地蔵さんが現れたそうですね。 部屋の中央にモニターが置いてあって、磨崖仏のような砂色のお地蔵さんが5人ほど並んでいました。後で思ったことですが、「お迎え」が来たんだなと思いました。つまり、それはお地蔵さんではなくて、阿弥陀様だというわけです。阿弥陀様は、来迎図などを見ると極彩色に描かれているけれども、今の時代に合わせて「お迎え」も質素なリモート式になったのかなと。 ──それは、一種の神秘体験のようなものですか? いや、違いますね。単なる幻覚です。ICUのベッドに寝かされているんだから、そういう連想をするのは無理もない話です。脳が実際には存在しないものを表出させるというのは、よくあることです。 ──『ヒトの壁』には、「私は在宅死が望ましいと思っていたが、家族と医療スタッフのみの世界で他界するのも悪くないと感じるようになった」とも書いていますね。どうしてですか? 在宅死は、いろいろ大変ですよ。家族がね。さっきも言ったけど、死んだときには私はもういないんだから、二人称の死の影響はできるだけ小さいほうがいい。こういうことは、なかなか具体的に実感する機会がないことですが、今回、命の縁に立ってみて、「このまま死んだら面倒はないだろう」とシミュレーションしたわけです。 写真提供/まるすたぐらむ 患者には治療法を選ぶ権利があります ──入院中、大腸の内視鏡検査をしたら、ポリープが見つかったそうですね。 そうです。血液検査では、胃がんの原因であるピロリ菌が陽性でしたが、ポリープもピロリ菌も放置することにしました。ポリープはがん化する可能性がありますから、中川さんが「できる限りとりましょう」と言ってくる医者だったら、困ったことになっていたかもしれませんね。がん化したとして、家族に説得されれば放射線治療くらいはやるかもしれませんが、手術や抗がん剤治療はストレスが大きいので選ばないでしょう。患者には治療法を選ぶ権利があります。中川さんが、もう治療はここまでという私に対して、「じゃあ、このくらいにして、あとは様子を見ましょう」と言ってくれる医者で助かりました。医者との相性は、非常に重要だと思いますね。 ──退院後、タバコは辞められたのですか? いえ、吸ってます。ただ、糖尿病の薬は、言われるがままに飲んでます。医者には逆らわないほうがいいと思ってね。白内障の手術を薦められたときも、素直にお願いすることにしました。おかげでメガネなしで本を読めるようになって助かっています。病院嫌いの私が再び入院して、白内障の手術を受けたことで、中川さんは私の医療に対する考えが変わったのではないかと言ってましたが、実は何も変わっていません。今後は「身体の声」に耳を傾けて、具合が悪ければ医療に関わるでしょうし、そうでないときは医療と距離をとりながら生きていくことになるでしょう。 『ヒトの壁』 著者:養老孟司 発行:新潮新書 ...
2022/12/12
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。