特集
三國清三(みくに・きよみ)シェフの自伝『三流シェフ』(幻冬舎)は、彼のジェットコースター人生を、素直に赤裸々に語った感動の一冊。映像関係のプロデューサーに出会ったら、ドラマ化、映画化を提案したくなるようなドラマチックな本だ。 表紙がまた、いい。三國シェフは照れ笑いして「そんなにいいとは思わない」と言っていたが、客観的な目で見れば、「男の生き様」を表現した見事な表紙である。 左半分の写真は、彼が1985年に30歳で四谷の住宅街、新宿区若葉に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開店した翌年に出版した『皿の上に、僕がある。』(柴田書店)の表紙に使われた、森川昇氏の撮影による写真。フランス料理界の異端児として、ギラギラした目をして尖っていたころの挑戦的な表情である。 対する右半分の写真は、ここ数年の写真で、人生経験を経て、年輪を重ねてきた人物特有のいぶし銀のような表情がよく表われている(幻冬舎の『GOETHE』の2020年2月号での古谷利幸氏の撮影)。 そこで今回は、本に書かれたことをシェフと一緒におさらいしながら、店を閉店するまでのいきさつ、70歳以降に計画している新たな夢などについて話を聞いていこう。 『三流シェフ』 著者:三國清三 発行:幻冬舎 定価:1500円(税別) 貧しい家に生まれたぼくには少ない選択肢しかなかった ―三國さんの著書『三流シェフ』には、貧しさから中卒以上の学歴しか得られなかったにもかかわらず、わずかなチャンスをたぐり寄せるようにして札幌グランドホテルの社員食堂の飯炊きとして雇われ、その後、18歳で日本のレストランの頂点である帝国ホテルの洗い場のパートタイマーになる様子が描かれています。その情熱は、どこから湧いてきたのでしょう? 情熱も何も、ぼくにとってはそれが普通のことでした。自分の家が貧しいことは子ども心にわかっていたけど、そのことで親を恨んだりすることはなかったし、学校を休んで働かなくて済むような生活をしている友だちをうらやむこともありませんでした。とにかく、選択肢がすごく少なかったんです。コックになろうと思っても、中卒の学歴しかないぼくはホテルに就職できません。ならば、どこかにスキマが空いてないかを探して、そこに入り込むしかない。そんなぼくが、パートタイマーとはいえ、帝国ホテルのレストランの洗い場で働けるようになったのは、今思えば奇跡のようなことです。ぼくができることは、皿や鍋を洗うことだけ。だから、誰よりも早く、誰よりも綺麗に洗うことがぼくに課された唯一の選択肢でした。洗って、洗って、洗うものがなくなったら、厨房を見渡して忙しそうにしている人を手伝って他の仕事を覚えた。 ―選択肢が少なかったからこそ、それを一所懸命にやった、ということなんですね。 一所懸命にやったのは、皿洗いだけじゃありません。当時、帝国ホテルにはレストランが18店舗もあって、そこで520人ほどの料理人がいました。その頂点に君臨しているのが、総料理長の村上信夫さんです。ぼくにとっては雲の上のような人で、札幌グランドホテルの総料理長の紹介状を持って面接してもらったときから数えて2回くらいしか会ったことがない。その村上さんの目にとまって社員にしてもらうために、ぼくは奥の手を使いました。村上さんのオフィスは中2階にあって、18店舗のすべての店を巡回するのが毎朝の習慣なんです。その様子を観察していると、すべての店を巡回したあと、最後に同じ中2階にある、ぼくが働いていた「グリル」という店に顔を出して、トイレに立ち寄ることがわかりました。そこで、村上さんがトイレに入るたび、洗い場を抜けだして隣に立つんです。「あ、総料理長、おはようございます」って、偶然を装ってあいさつをする。「おう、君か。元気にやってるか」「はい」会話はそれだけなんだけど、そんなことをして、少しでも自分の存在をアピールしようとしたんですね。当時、帝国ホテルの製菓部長をしていた加藤信さんという方がいるんだけど、数年前にお会いしたときにこの思い出話をすると、「知ってたよ」と言われました。誰にも見られずにこっそりやっていたつもりが、見え見えだったんだね。先輩たちは、ぼくの涙ぐましい努力を知っていながら、見て見ぬふりをしてくれていたというわけ。 人生始まって以来の「20歳の挫折」 ―ただ、そうした努力もむなしく、2年後に三國さんは「正規の社員にはなれない」ことを告げられてしまいますね? そうなんだよね。帝国ホテルには、パートタイマーから社員になる制度がなかったわけではないんだけど、同じ洗い場で働いていたシノハラ君という同僚が社員になったあとに、その制度がなくなっちゃったんです。シノハラ君は27番目に履歴書を提出していた人で、ぼくは28番目。あと一歩のところで、チャンスを逃してしまった。そのことを知って、札幌を立つ前の晩に先輩たちが送別会を開いてくれたときのことを思い出しました。ぼくの上京はすでに決まっていることなのに、「札幌グランドホテルは天皇陛下も宿泊する格式高いホテルだ。お前はせっかくそのホテルの社員になれたのに、チャンスを無駄にするのか」と最後の最後までぼくを引き留める先輩がいました。「東京では、お前みたいな田舎者は米の飯も食わせてもらえないぞ」とか、「外国人にさらわれてどこかの国に売られてしまうぞ」なんて、脅し文句も使ってね。そんな先輩たちの言うことを振りきって上京してきたんだから、札幌に戻って「すみません、また社員にしてください」なんて頼むわけにはいきません。当時の日本のフランス料理界は「ホテルの時代」でしたから、一人前のフランス料理の料理人になろうと思ったら、ホテルに就職する道しかなかったんです。ホテル以外では、銀座のソニービルの地下3階にある「マキシム・ド・パリ」というレストランがあって、それが唯一の道だったけれども、丁重な断りの手紙がきて、あきらめがつきました。それまで必死になってしがみついてきた選択肢が断たれたわけです。そこで、振り出しに戻ったつもりで、故郷の増毛に帰ろう、そう決心しました。そのとき、ぼくは20歳になったばかりで、それが人生で初めての挫折でした。 ―で、それからどうなったんですか? 故郷に帰ることを決めたのが、20歳の誕生日の8月で、その年の12月に帰ることにしました。退職まで3カ月あったから、洗い場の仕事が終わる18時から、ホテル内の18店舗ある店を訪ねて「鍋磨きをさせてください」と頼んでまわりました。少しでも爪痕を残しておきたかったんです。料理人になる夢をあきらめたことの証拠としてね。とにかく、ピカピカになるまで毎日、何十個もの鍋を磨いて、磨きました。鍋磨きをはじめて3カ月くらいが経ったとき、総料理長室から呼び出しがかかりました。いよいよ引導を渡されるんだなと思うと同時に、村上シェフに「これまでお世話になりました。ありがとうございました」とお礼を言えるいい機会だと思って、シェフの前に立ったんです。すると、村上シェフは驚きの言葉を口にしたんです。「三國君、ジュネーブに行きなさい。君を在外大使館の料理人に推薦しました」と。 村上シェフが渡してくれた、起死回生の片道切符 ―ジュネーブと聞いて、そこがスイスの都市であることを知っていましたか? いや、知りませんでした。まったく。でもそのとき、貧しい漁師町の増毛の風景が頭に浮かんで、「あそこに戻るよりは見知らぬ土地のほうがいいだろう」と、咄嗟に頭が切り替わりました。実際、村上シェフも「やってみる気はないか」という誘い口調ではなく、「君に決めたから」と命令口調でした。断るという選択肢は、ありませんでした。ジュネーブに赴任する大使というのは、小木曽本雄さんという人。普通の大使ではなく、ジュネーブの軍縮会議日本政府代表部に派遣された特命全権大使でした。そんなすごい仕事をしている大使の料理人になるということは、どういうことなのか? 最初のうちは、何もわかっていませんでした。事の重大さに気づかされたのは、ジュネーブの大使公邸で小木曽大使夫妻にあいさつをしたときのことです。大使からこう言われたんです。「アメリカの大使を招いて正式な晩餐会を開きます。人数は12名です。そのディナーの準備をしてください」と。おそるおそる、それがいつなのか聞くと「1週間後です」と大使は答えました。上辺では平気を装っていましたが、「これはとんでもないことになったぞ」と冷や冷やものでした。大使公邸で働く料理人は、ぼくひとりです。しかも、フランス料理のフルコースなんて作ったこともなければ、食べたことさえない。そんなぼくに、大使が招いた賓客をもてなす料理がつくれるのか?ぼくは、頭をフル回転させて、1週間後のディナーまでに何ができるのかを考えました。幸いだったのは、大使公邸には通訳として現地採用された山田さんという世話役の人がいたことです。ぼくは山田さんに頼んで、アメリカ大使がスイス滞在中によく通っているレストランを調べてもらうことにしました。そして、「長旅の疲れもあるし、厨房の整理もあるから、3日だけお暇をください」と大使に嘘のお願いして、山田さんに教わったレストランで研修させてもらうことにしたんです。それは、「リオン・ドール」という、レマン湖の近くのジュネーブの一等地に建っているレストランでした。 ―研修のお願いなんかして、「はい、どうぞ」と引き受けてもらえるものですか? 日本にいたころのぼくは料理人としてまったくの無名だったけど、このときのぼくには「日本の在外大使館のコック長」という肩書きがありました。電話一本で、すぐに引き受けてくれましたよ。しかも、アメリカ大使が好んで食べているコース料理の材料から仕入れ先、料理法に至るまで、包み隠さず教えてくれました。まるでVIP待遇です。「大使館の料理人」という肩書きがこんなに尊重されるのかと驚きました。それもそのはず、大使公邸で開かれる晩餐会というのは大使にとって、とても重要な場なんです。軍縮会議は、核兵器の不拡散などの国際的な枠組みを決める大事な会議ですが、それぞれの国にはそれぞれの思惑があるから公的な場での話し合いではなかなか結論が出ません。そこで、各国の代表は水面下で非公式な場で話をして根回しをしたり、交渉したりします。その舞台となるのが、大使館で開かれる晩餐会やレストランでの会食の場なんです。 恩師・村上シェフから授かった「3つの約束」 ―ものすごい大役を任されたわけですね。で、1週間後のディナーは、どうなったんですか? 「リオン・ドール」で教わった料理を完璧にコピーして臨んだけど、最後のデザートまで、すべての料理を出し終えたときは、フラフラの放心状態でした。それでも力を振りしぼって戦場のようになった厨房を片づけていると、小木曽大使がふらりと顔を出しました。何かやらかしたか?と一瞬ヒヤリとしたけど、大使は笑顔でこう言いました。「ありがとう、三國君。上出来だったよ」と。そして、愉快そうな口調でこう言いました。「アメリカ大使が不思議な顔をしていたよ。『あなたの料理人は1週間前にあなたと一緒に日本から来たんだろう? それなのに、どうして私の好きな料理を知っているんだ?』とね」このときはまだ、はっきりとは気づいていなかったけど、実は、大使館の料理人には大きな役得があるんです。レストランで働く料理人は、その店がどんな高級店であっても材料費というコストがかかります。でも、大使館の料理人にはそのことを考える必要はありません。賓客をもてなすのが最大の目的だから、与えられた予算のほとんどを材料費につぎ込むことができる。実際、このときのメインディッシュは、マスタードソースを添えたウサギ料理でしたが、「リオン・ドール」で出しているウサギより、質の高いものでした。 ―大使館では、どれくらいの期間、働いたんですか? 最初の契約期間は2年だったけど、大使の仕事が伸びて、契約を延長してくれないかと頼まれました。「君のような料理人はいない。私は鼻が高い」なんて、身に余るお褒めのお言葉をいただいて。それで結果的には3年と8カ月、大使がジュネーブでの任期を終えるまで料理人をつとめました。大使館での最後の仕事が終わったとき、ぼくは小木曽夫妻に呼ばれて、奥様からこんな話を聞きました。「帝国ホテルの村上さんに『あなたの厨房でいちばん腕の立つ料理人を紹介してください』と頼んだのに、息子と同じ年のあなたがやってきて、あまりに頼りなく感じてお断りを入れたんです。すると、村上さんは『あの若者なら大丈夫です。私を信用してください』とおっしゃるので断れなくなりました。三國さん、あなたは村上料理長の恩を一生忘れてはいけませんよ」と。目頭が熱くなって、しばらく下げた頭をあげられませんでした。実は、在外大使館の料理人を経験し、帰国してさらに出世するというのは、帝国ホテルの伝統的なエリートコースなんです。ぼくは中卒であることを恨んだりしたけど、両親を早くに亡くされた村上さんは小学校の卒業証書さえもらっていません。帝国ホテルに見習いとして入社したのがぼくと同じ18歳のときで、それから戦争をはさんで復職後にヨーロッパに渡り、ベルギーの日本大使館で料理長になりました。村上さんは、自分がたどってきた道と同じ道に至る片道切符を、ぼくに渡してくれたんですね。村上さんはぼくをヨーロッパに送り出すとき、3つのことを守りなさいと言いました。ひとつは、10年修行してくること。「10年後には、必ず君たちの時代が来ます」と言われました。もうひとつは、働いて得た収入で美術館や劇場に行って、ヨーロッパの文化を学ぶ自己投資にまわすこと。3つめが何より大切で、それは、いいレストランで食事をすること、でした。もしかすると、ぼくが大使館でヘマをして、首になることも村上さんは想定していたかもしれない。そうなったらそうなったで、体はジュネーブにあるんだから、そこからヨーロッパのレストランでの仕事探しもできる。つまり、村上さんが渡してくれた選択肢は、一人前の料理人になるための最良の道だったわけです。そのことへの感謝の気持ちを、ぼくは一生忘れないでしょう。 ―興味深いお話、ありがとうございます。後編のインタビューでは、「オテル・ドゥ・ミクニ」の開店のいきさつ、そして、2022年12月に同店を閉店した理由などについて、お聞きしていきたいと思います。 三國シェフの生涯の愛読書は、松下幸之助の『道をひらく』(PHP)。「人生のなかで、壁にぶつかるたびにこの本を開くと、不思議にそれを解決するヒントになるページにたどり着いた」という。 撮影/八木虎造 後編をお読みになりたい方はこちら
2023/03/08
元医者、あるいは現役医師という経歴を持つ作家は多い。なぜか? 医者の書いた本は、売れるからである。 この本の著者の松永氏も、本書を含めて12冊の本を書いていて、これまで『運命の子・トリソミー』(小学館)で第20回小学館ノンフィクション大賞、『発達障害に生まれて』(中央公論新社)で第8回日本医学ジャーナリスト協会賞・大賞を受賞している、実力派の作家だ。 それ故だろうか、文章はよくこなれていて読みやすく、「開業医の本音」という話の内容もすこぶるおもしろい。文章のみで人を笑わせたり、泣かせたりするのは至難の業だが、この人はゴーストライターの手を借りたりせず、それをこなしているのである。これはすごい。 『患者が知らない開業医の本音』 著者:松永正訓 発行:新潮新書 定価:800円(税別) ボブ的オススメ度:★★★★☆ エリート医師が出世の道を外れて「開業医」になった理由とは? 松永氏が開業医になった動機は、実は積極的なものではない。 2006年、千葉市に「松永クリニック小児科・小児外科」を開業する前の松永氏は、母校の千葉大学医学部の付属病院小児外科の教室員(研究員)を19年間もつとめていた。 大学病院のスタッフの使命は、「臨床・研究・教育」で、少し立場があがると「管理・運営」が加わるというが、松永氏はすべてにおいて優秀な働きをしていたようだ。 控えめに書かれてはいるが、年間で約40例発生する子どもの肝がんのグループスタディのコーディネーターをつとめ、手術と抗がん剤による治療のプロトコール(手順)の素案を作ったそうだし、神経芽腫(がしゅ)という小児がんの研究から生まれたRNA診断技術が2004年に厚生労働省から「高度先進医療」に承認されたという。 自身の発病をきっかけに開業医の道へ そのまま大学病院に勤務していれば、「白い巨塔」のトップに立っていたかもしれない松永氏がそのレールを外れるきっかけは、解離性脳動脈瘤という病気を発症したことだった。 松永氏によれば、「通常の脳動脈瘤は球形に膨らむ」そうだが、「台形に近い形で不整形に膨らんでいた」ため、手術で取り除くにしても「右目の視力を失う」か、「半身不随になる」リスクがあったという。そのため、脳動脈瘤には手をつけず、降圧剤を服用しながら発症リスクの高いくも膜下出血を予防しながらの生活を選ばざるを得なくなった。 そのとき、千葉大の脳外科の教授が松永氏に宣告したのは、それまでのキャリアに引導を渡すに等しいものだった。引用しよう。 「ストレスを可能な限り減らしなさい。夜の勤務はダメ。週末も働いちゃダメ。グループスタディ? そんなのすぐ辞めなさい。え、学会の理事の仕事もしているの? すぐに辞めなさい。難しい手術に挑戦するのはやめて、普通の外科医になりなさい」 こうして、当時40歳の働き盛りだったはずの松阪氏は、住宅ローン返済と子どもの教育費を稼いでいくには、開業医になるしかないと結論するのである。 開業医。できるかもしれない。夜の勤務もないし、日曜日も休める。夜中に緊急手術で呼び出されることもない。この仕事なら、強いストレスはかからないかもしれない。 ただ、松永氏のすごいのは、消極的なままで開業医の道を選ぶのではなく、積極的な意味を見つけようとするところである。 というのも、小児科の開業医にとって外科の病気の診断をするのは相当むずかしいことらしく、紹介状を持って松永氏の前にやってくる子どもたちは症状をこじらせていたり、病気がかなり進行している子どもが多かったという。 だが、松永氏が開業医になれば、そうした外科疾患を早期に見つけられるはずだ。 つまり、ぼくは開業医となって、大学病院の小児外科のサテライト診療所みたいな位置付けになれないだろうか。大学病院を去るのはとても悲しいことなので、少しでもつながりを持てるならば、それはうれしい。 開業医は、周囲に利益をもたらす「鵜飼いの鵜」だった!? かくして松永氏の開業ストーリーが展開されるのだが、このあたりから果然、この本はおもしろくなっていく。 先輩の開業医のアドバイスによると、「資金調達が一番重要で、リース会社からお金を借りることが最優先」とのことで、さっそく利息が一番安いRリース会社に声をかけた松永氏。 やってきたのは、30歳くらいで快活でざっくばらんなGさんという営業マンだった。 大家さんにクリニックを建ててもらい、家賃を払いながら診察するという「建て貸し」なる方法を提案された松永氏は、自己資金が200万円しかないことをおそるおそる打ちあける。以下、そのときのやりとりである。 「で、でも、ぼく、お金が全然ないので。一応、弟から500万円くらいは借りられるんですが、自己資金はゼロみたいなものなんです」「あ、大丈夫です。貸します」「ぼくに貸して大丈夫なんですか? 潰れたら返済できませんよ」「あ、大丈夫です。開業して失敗した人、見たことありません」 そして、実際にGさんの言う通り、ホントに「大丈夫」だったのである。 「建て貸し」で開業医の関連業種すべてが潤う!? 「建て貸し」という方法で開業するには、クリニックを建ててくれる大家さん探しから始まって、家賃設定(業界的には建物面積1坪あたり1万円が相場なんだとか)、超音波検査器械やX線撮影装置などの医療器具の調達、税理士事務所との契約、門前薬局を探してお願いすることなど、実にさまざまな手順を踏まねばならないのだが、そのすべてをリース会社のGさんがやってくれたのだから。松永氏がやったことと言えば、看護師や事務スタッフの面接くらいだったという。 要するにGさんは、単にお金を貸すだけの人ではなく、世間知らずの医師の手を煩わさず、すべてをお膳立てしてくれる開業コンサルタントだったのだ。 そこで松永氏は初めてGさんの「あ、大丈夫です」の言葉の意を知ることになる。 そう、開業医が地域に根ざした診療を行えば、さまざまな人たちに利益がもたらされることになるのだ。 松永氏が開業医として診療を続けていけば、GさんのRリース会社のフトコロには借入金5000万円の返済(15年ローン)と年間1200万円のリース料が定期的に入ってくる。 大家さんにとっても、土地を遊ばせておくより、55坪のクリニックを建てて毎月55万円の家賃収入が得られるのはうれしい。 クリニックを建てるハウスメーカーも収益を上げるし、内装、備品から医療機器まで、関連する会社にもお金が入る。 クリニックにたくさん患者がくれば門前の薬局さんも潤うし、医療器具や薬剤をクリニックに卸す問屋さんも利益を上げられる。 そうか、ぼくは鵜飼いの鵜みたいなものか! この喩えを目にしたとき、思わず私は吹きだしてしまった。 開業医だからこそわかる「医療的ケア児」問題 とにかく、この本には「そんなことまで書いちゃって大丈夫?」と、こちらが心配になるほど、開業医の台所事情から、脳外科や耳鼻科といった他の開業医への苦言、医師会の内情などが赤裸々に書かれている。 ときにはニヤニヤと、ときにはクスクスと笑いながら読み進んでいくうち、私はあることについて、松永氏の見解を知りたくなった。 それは、医療の進歩と救われた命のケアの問題である。 現代の医療は「過去には救うことができなかった命を救えるようになる」という方向で進歩している。松永氏の専門分野である小児外科も、目覚ましく進歩してきたはずだ。 だが、その副作用として顕れてきた「救われた命のケア」が喫緊の課題になっている。 例えば、人工呼吸器や胃ろうによる経管栄養などの医療的ケアが必要な子どもを「医療的ケア児」というが、その人数は医療の進歩とともに増え続け、厚労相の推計によると全国に約1万8000人になるそうだ。 高齢者医療の未来を探る良書 実は、同じ事は高齢者医療についても言える。 65歳以上の認知症の人の数が2025年には約5人に1人に増加すると推計されている今の状況は、医療の進歩によって日本人の主な死因のがん、心疾患、脳卒中の治療が確立されてきたことが背景にあることは明らかだ。 もちろん、松永氏は私の期待に応えるかのように、本書の終盤を「医療的ケア児」についての記述に割いている。 そもそも松永氏は、医師になった1年目から、生命倫理について問題意識を持っていたという。だが、大学病院に勤務していた19年間は、「目の前の命を救うだけを考えて突っ走ってきた」だけで、「障害をもって生きるということはどういうことなのか」とか、「障害をもって生まれた子どもの家族がその子の障害をどう受けとめるのか」ということについては考えが及ばず、宿題のようになっていたのだという。 松永氏がその宿題に向き合う機会を得たのは、開業医になって6年目、総合病院の医師から「13トリソミー」という先天性染色体異常を持つ重い障害を持つ子の地元かかりつけ主治医になってほしいという依頼を受けたときだった。 小児外科医として松永氏が大学病院に勤務していたころ、その疾患は治療の対象になっておらず、短命に終わることが決まっていたが、生後7カ月の男の子は退院して自宅で過ごすことになったのだ。 その子は、視力も聴力もなく、飲み込むこともできない。心臓にも奇形がある。 その子の地元主治医を引き受けることは松永氏にとって、長年の宿題に取り組むようなものだった。こうして1年半にも及ぶ家族への聞きとりをもとに執筆した本が冒頭に紹介した、第20回小学館ノンフィクション大賞を受賞した『運命の子・トリソミー』(小学館)である。 また、ゴーシェ病・急性神経症という日本で40人くらいしかいない難病の9歳の男の子との出会いをきっかけにして、『呼吸器の子』(現代書館)という本を執筆している。 我が子の障害を受け入れ、呼吸器の管理法を学び、1歳6カ月から在宅での24時間365日のケアを始めた母親は、「最初は地獄の底に落ちたような心境だった」と思ったそうだが、5歳になったころから「今の生活が楽しい」と思えるようになったという。そのことについて、松永氏は次のような見解に達する。 つまり、人というのは自由な存在で、たとえ障害児を持っても人は自由に生きることができる。生き方の選択が不自由になるということは決してない。自分で選ぶことができる。障害児を育てるのは、確かに大変だし苦労もある。だからと言って、「障害」と「不幸」をイコールで結ぶことはできないし、結ぶ必要もない。自由に選択し、自分たちの生き方を決定する。これが家族の尊厳だと思う。 この言葉は、医師1年生のころからの宿題に対して、真摯に開業医として向き合ったからこその解答だったのではないか。 最初は気軽に笑って読んでいられたが、終盤では居住まいを正して読まねばならないという気持ちにさせられた。 本書は、開業医の赤裸々な告白に留まらず、医療というものの未来についても深く考えさせられる良書だった。文句なしの★4つ本である。
2023/02/17
住まいのことについて話をする際、必ず出てくるのが「賃貸が得か? 持ち家が得か?」という議論である。 前回紹介した『ほんとうの定年後』(講談社新書)では、老後の住居費負担が軽減するという理由で「持ち家は賃貸より良い選択」と断言していたが、その一方で、賃貸のほうが壮年期から老年期に移行するライフスタイルの変化に柔軟に対応できるというメリットを重く見る人もいる。 要するにこれは、決着のつかない議論なわけだが、今回紹介する日下部理絵氏の『60歳からのマンション学』(講談社α新書)を読めば、新たな視点で住まいというものを考えることができそうだ。 60歳を過ぎて、「終の棲家」をマンションにしようとする人が増えているというが、その選択はどれだけ有効なのか? ちょっと覗いてみることにしよう。 『60歳からのマンション学 』 著者:日下部理絵 発行:講談社α新書 定価:900円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 分譲マンションは果たして「終の棲家」にふさわしいのか? かつて日本には、賃貸アパートから始まって、分譲マンションを購入し、戸建てに買い換えてアガリとなる「住宅すごろく」と呼ばれるものが存在していた。 だが、著者の日下部氏は、その住宅すごろくが今の時代になって、常識と呼べるものではなくなったと指摘する。 それは、地価は必ず上昇し、転売するたびに資産を増やせるという「土地神話」が崩壊したからなのだが、その結果として、住宅すごろくの途中の分譲マンションをアガリとしたり、戸建てを売って分譲マンションに乗り換えようとする60代以降のシニア層が増えているというのだ。 子育て世代の人たちにとっては、子どもに部屋を提供できるような広い住まいが望ましいが、子どもが独立して家を出ていけば、広さはメリットにならない。掃除も楽にできてコンパクトに暮らせるマンションを「終の棲家にしたい」と考えるのは、確かに自然な選択のように思われる。 だが、本書を読んでみると、マンション住まいが60歳以降の人たちすべてに理想的かというと、そうでもないことがよくわかる。 安全・安心・快適な暮らしは、黙っていれば誰もが手に入れられるものではなく、マンション暮らしを選択した住民自身の努力でそれを勝ちとっていかねばならないのだ。 本書は8つの事例をもとに、理想的な暮らしを獲得する方法を探っていく。以下、その内容の一部を見ていくことにしよう。 マンションは、すべてが多数決で決まる民主主義の世界 まず、「事例1」で紹介されるのは、夫に先立たれ、終の棲家のつもりで購入した分譲マンションから賃貸マンションに住み替えようとしている73歳の和田信子さん(仮名)の事例だ。 住み替えの動機は、その分譲マンションが「ペット飼育不可」の物件だったからだ。 マンションは戸建てと違って、自分の都合でペットを飼える場所ではない。それでも住み替えをせずにペットを飼おうと思うなら、「ペット飼育不可」というルールを変更するしかないのだ。 それでも信子さんのマンションでは、「ペットを飼いたい」という意見は多く、都合のいいことに管理組合の理事会で検討中とのことで、信子さんは日ごろ参加していなかった総会に出席してみた。そこではこんな意見が交わされていた。引用しよう。 組合員1「いままで通り、ペット飼育不可がいいです。私の家族で重度のペットアレルギーを持つものがいるんです。わざわざ、ペット禁止だというから築古だけどこのマンションを購入したのに。お願いします。このままペット禁止がいいです」 組合員2「私はペット飼育に大賛成です。子供が飼いたいと言っており、子供の教育のためにも飼いたいです」 組合員3「私は外部に居住しており、賃貸に出しているのでどちらでもいいですが、正直なところ、ペット飼育可のほうが賃料が高くなり資産価値が上がると思います」 お互い、顔を合わせての意見のぶつかり合いとなると、かなりヒリヒリとする議論が交わされたことが想像される。 ペット飼育可にするには、管理規約の改正が必要で、組合員総数と議決権総数のそれぞれ4分の3以上の承認が必要なのだが、結果としてはペット飼育について「どちらでもいい」と思っていた組合員が家族にペットアレルギーを持つ人に対する同情票を投じて決議案は否決されてしまった。 そうなのだ。分譲マンションは、自分のものでありながら、すべてに自分の意見が通るわけではない。信子さんのようなひとり暮らしの高齢者だけでなく、子育て世帯や投資目的で物件を所有している人など、年齢や目的も異なる住民の合意形成が成立しなければ、何もできないのだ。 信子さんが「賃貸マンションに住み替える」という道を選ばざるを得なかったのは、そういうことが背景にあった。 60歳を過ぎるとますます借りにくくなる「年齢の壁」 本書を読んで初めて知ったが、ペット飼育可のマンションが主流になったのは2000年代以降で、それ以前に建てられたマンションのなかにはペット禁止のところも多いという。 現在ではほとんどの分譲マンションがペット飼育可だが、その背景には、1997年に国土交通省が中高層共同住宅標準管理規制の改正で、ペット飼育を「規約で定めるべき事項」と定めたことがある。 「ペット飼育」は、「生活音(騒音)」、「違法駐車・違法駐輪」に続いて「マンション三大トラブル」のひとつと言われているのだ。 ペット問題だけではない。住み替え先の賃貸マンションを探す際にも、信子さんの前に「年齢の壁」が立ちはだかった。 その問題は、気に入った物件の契約申込書を提出した際に露見した。その申込書を見た途端、不動産屋の担当者の顔色が変わるのが伝わってくる。 「お若く見えるので気が付きませんでしだが、正直申し上げますと65歳を超えますと賃貸マンションを探すのは一般的に困難を極めます。ただし、本物件は分譲賃貸ですのでオーナー様のご意向次第かと存じます」と言われ、オーナーの判断を待つことになった。 そして、「今回は見送りさせてください」という回答を受けとるのである。 国交省のデータによると、大家(オーナー)の約6割が60歳以上の高齢者に拒否感を持っていて、賃貸借契約の約97%において、何らかの保証を求めているという。 近年では連帯保証人を立てる代わりに、保証料を払って保証会社のサービスを利用するケースが増えているというが、賃貸保証料の相場は1カ月の家賃の50%だとされる。入居後も1~2年ごとに更新保証料が必要になるのでバカにならないコストである。 ただし、この本の美点は、ほとんどの事例を「悲劇の主人公」にしていたずらに不安をあおるのではなく、「自ら努力して困難を克服する人」として描き、トラブルを乗り越える方法を具体的に示している点にある。 信子さんの場合、UR賃貸という抜け道を見つけて「年齢の壁」を克服している。 事例を通じて、さまざまなトラブル克服法を解説してくれるのもこの本の特色だが、UR賃貸については、「民間の賃貸住宅に比べて物件数が少ないので選択肢が限られている」というデメリットも含めて次のように解説している。 その点、UR賃貸であれば、まず年齢だけで貸してくれないということはなく、本人確認のみで保証人や保証料は不要。礼金・仲介手数料なし、更新料も不要と、費用面での負担が少なく高齢者にとってありがたい物件である。また、特別募集住宅(住んでいた人が物件内で亡くなった住宅)なら入居から1年または2年間、家賃が半額に割り引かれることがある。 「成功者の証」タワマンの意外と気づかれていないデメリット ここで話はちょっと寄り道にそれるが、出版業界では本作りのテクニックとして、「本の冒頭にはもっとも引きの強いネタを置く」という手法がある。これは、「書店で立ち読みをして品定めをする人の多くは、最初の数ページを読んで購入するかどうかを判断する」という、迷信のような説によるものだが、本書について言えば、「事例1」の信子さん以外にも、読み応えのあるエピソードと解説が書かれていることは保証できる。 本書を読むことで、目から何枚もウロコがとれ、「マンション住まい」についての知識を改めさせられることも多かった。 例えば、一般的には「成功者の証」とした語られるタワーマンション(タワマン)だが、眺望のよさや資産価値の高さなどのメリットをはるかに上回るデメリットがあることを改めて知らされた。 確かにタワマンの眺望のよさは誰にも文句のつけられないものだが、早い人では「3日で飽きる」というし、全面ガラス張りの部屋は日射しが強烈で温室状態になるという(逆に階数が高くなるにつれて害虫がいない環境になり、窓を開けてすごせるというが、部屋によっては携帯電話の電波が届くにくくなるケースも)。 オール電化の物件だと、料理好きの人にはガスでの加熱ができずにレパートリーが少なくなるし、宅配ボックスが1階にしかなかったりすると5~10分待ちのエレベータの登り降りはかなりのストレスになる。 また、分譲マンションについてまわるのは、10~15年に1度の周期で行う大規模修繕があるが、タワマンの大規模修繕の事例はまだ少なく、建設を担当したゼネコンや、その子会社などの一部の業者しか選ぶことができず、安く施工してくれる業者を選ぶ余地もない。 大規模修繕は1回目より2回目、2回目より3回のほうが費用がかかるというが(3回目は2回目の約1.5倍かかるとか)、タワマンの場合、その負担は普通のマンションよりかなりの高コストとなるのだ。 日下部氏は、購入を薦めない金食いタワマンとして、次の特徴を挙げている。 ■細長いなど戸数が少ないタワマン →戸数が少ない分、管理費や大規模修繕費の積立金がかさむため ■デザイン性が高いなど歪な形状をしている →低層、中層、高層の異なるメンテナンス計画を用意する必要があり、費用がかさむ ■戸数の割に維持費がかかるスパやプール、カラオケ施設などがある →「食べ放題」サービス同様、元をとるのは意外に大変 ■タワー式などの機械式駐車場があり、しかも空きが多い →機械式駐車場はメンテが困難で、空きリスクの高い「金食い虫」 ■24時間有人管理でスタッフ数が多い →スタッフの人件費ほどバカにならないものはない とにかく、8つの事例紹介と「事例からわかること」の解説を通じてわかるのは、マンションを理想的な終の棲家にするには、待ち構えているトラブルの種をひとつ一つ除いていく胆力と正しい知識が必要だということだ。 本書は、さまざまなトラブルを未然に防ぎ、それを克服する方法を知る上での道しるべになってくれるだろう。
2023/02/10
「定年」というのは、ルーツをさかのぼれば江戸時代の隠居制度(家督を次代に譲って社会生活から遠ざかる)までいってしまうらしいが、1933(昭和8)年の内務省調査によると、その年齢は、50歳とする企業が60%弱、55歳とする企業が35%だったという(336社のうち140社がそのような定年制を採用していた)。 戦後の日本人の一般家庭を舞台にした『サザエさん』の波平さんが54歳なのは有名だが、これは「定年年齢にさしかかった、枯れた昭和のサラリーマン」を体現するための設定年齢だったのだろう。 ひるがえって、定年年齢が50代から60代までに伸びたのはいつごろからなのか? あらためて調べてみると、高年齢者雇用安定法(高齢法)の改正によって「60歳定年」が企業の努力義務になったのが1986(昭和61)年、「60歳未満の定年が禁止」されたのが1994(平成6)年。その流れの中で、一定の年齢に達した社員が、課長や部長などの役職から退く「役職定年制度」(一部では「やくてい」と呼ばれているらしい)が登場している。 そして、2013年の高齢法改正では「65歳までの雇用確保措置」が義務化した。雇用確保措置とは、「定年の65歳までの引上げ」「65歳までの継続雇用制度の導入」「定年制の廃止」のいずれかの措置を事業主に課すことをいう。 さらには、2020年の高齢法改正では、「70歳までの就業確保措置」が事業主の努力義務とされた。つい、3年前の出来事である。 つまり、「60代定年」の歴史はそれほど古くないのである。「70歳定年」の経験者については、まだ微々たる存在に過ぎない。その結果として、多くの人がその生活の実態をイメージできない、未知の存在になっているということになる。 最近、「定年」にまつわる本が多く出版されているのは、そんな定年後の生活の実態を可視化してほしいというニーズが高まっているからだろう。 そんななかで注目されている、坂本貴志氏の『ほんとうの定年後』をレビューしていこう。 『ほんとうの定年後「小さな仕事」が日本社会を救う 』 著者:坂本貴志 発行:講談社現代新書 定価:920円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 大多数の人の「定年」は、みんなが思ってる以上に豊か 最初に断っておくが、この本の文章は非常に読みづらい。論文調で、砂を噛むような退屈な文体である。その理由は、はっきりしている。というのもこの本は、リクルートワークス研究所のアナリストである坂本氏が同所の研究プロジェクトを通じて書いた論文がもとになっているからだ。論文調なのは、もともとが論文だからなのだ。 にもかかわらず、私がこの本をお薦めしたいのは、多くの人にとって未知の存在である「定年」の実状を誰にもわかりやすい形で提示してくれているからである。 しかも、本が始まって4ページ目に、ズバリ結論から述べている。引用しよう。 定年後の仕事の実態を丹念に調べていくと浮かび上がってくるのは、定年後の「小さな仕事」を通じて豊かな暮らしを手に入れている人々の姿である。さらに明らかになるのは、このような定年後の「小さな仕事」が必要不可欠なものとして人々の日々の暮らしの中に埋め込まれており、かつそれが実際に日本経済を支えているという事実である この本が語っている定年後の生活の「典型」は、これ以上でも以下でもない。 若いころからの投資の恩恵で働くことなく左手ウチワで暮らしている金持ち父さんでもなければ、年金だけでは食っていけず、低賃金労働に身を投じてぢっと手を見ている貧乏父さんでもない。 定年後の「典型」は案外、のんびりしていて、けっこう豊かであるという、夢のある話なのだ。素晴らしいではないか。 月収10万円でも案外、豊かに暮らしていける 坂本氏は、定年者の「典型」をあぶり出す手段として、ふたつの方法を用いている。 ひとつは、コロナ前の2019年の統計データを用いて定年後の実態を検証する「第1部 定年後の仕事『15の事実』」と、7人の定年者のインタビューを通じて個別事例を紹介する「第2部 「『小さな仕事』に確かな意義を感じるまで」である。 そして、「第3部 『小さな仕事』の積み上げ経済」では、第1部と第2部で明らかになった定年後の実態を前提として、少子高齢化が進む日本社会がどのように変わっていかねばならないかを提言している。 第1部で示される「15の事実」をここで列挙してみよう。 事実1/年収は300万円以下が大半 事実2/生活費は月30万円弱まで低下する 事実3/稼ぐべきは月60万円から月10万円に 事実4/減少する退職金、増加する早期退職 事実5/純貯蓄の中央値は1500万円 事実6/70歳男性就業率45.7%、働くことは「当たり前」 事実7/高齢化する企業、60代管理職はごく少数 事実8/多数派を占める非正規とフリーランス 事実9/厳しい50代の転職市場、転職しても賃金は減少 事実10/デスクワークから現場仕事へ 事実11/60代から能力の低下を認識する 事実12/負荷が下がり、ストレスから解放される 事実13/50代で就労観は一変する 事実14/6割が仕事に満足、幸せな定年後の生活 事実15/経済とは「小さな仕事の積み重ね」である 「事実1」で国税庁の民間給与実態統計調査のデータをもとに明らかにされるのは、「60歳以降の就業者の年収の中央値は280万円(平均値では357万円)で、60代後半には180万円まで下がる(平均値だと256万円)」ということ。 このことは、次に続く「事実2」、および「事実3」にもつながっている。 実は、人生のうちでもっとも生活費を必要とするのは、30代後半から50代前半にかけての年代である。家族の食費に子どもの教育費、住宅費、税・社会保障費と、とにかくお金がかかる。そのあたりは、現在56歳で3人の子どもを養育中の私にも納得できる話だ。 だが、50代後半以降は、そうしたお金がかからなくなり、「生活費は月30万円まで低下する」し、「稼ぐべきは月60万円から月10万円に」なるのである。 なるほど、でも、3人目の長女が20歳になるのは、私が60歳のときだから、月10万では辛いなぁと個人的には思ったりして。でも、バブル崩壊を経験し、これから定年を迎えるサラリーマンにはおおむね、2つの事実は納得できるものなのではないか。 興味深いのは、「年をとって収入が下がっても、使うお金も少なくなるので大丈夫」という状態を維持できているのが、悪名高い「年功序列」を基本として組み立てられている日本の雇用慣行にあると坂本氏が指摘していることだ。 データからは、特定の時期に個人が受け取る収入は、その時期に必要になる家計支出額に応じて決まることわかる。人生で最も稼ぎが必要な時期があって、それに応じて高い報酬が支払われる日本型の雇用慣行は、こうしてみると実によくできた仕組みともいえる。 理屈上、給与は各従業員の能力やパフォーマンスによって決まるべきであるが、実際の従業員の給与はそのように決まってはいないのである。 日本型雇用慣行は時代遅れだけど、実はよくできた仕組み 「年功序列」の悪名の高さは多くの人にとって、周知のことだろう。とにかくここ最近、これを擁護する人の声をトンと聞かない。 もちろん、坂本氏も「少子高齢化による中高年社員の増加、転職の一般化などから、日本型雇用慣行は制度疲労を起こしており、時代にそぐわないものになった」ということは認めている。 現代人が『サザエさん』の波平さんの設定年齢が54歳であることに対して、「えっ!?」と驚いてしまうのは、「年寄り」の概念が昔と今とでは大きく違ってきたからだ。 医療技術の進歩や食糧事情、生活環境などが昔から比べて大きく改善されて現代においては、60歳を過ぎても20代後半から40代の壮年世代と張りあえるほどのバイタリティを持っている人は多い。そんな社会にあって、「年齢」を一律の基準として50代後半に役職の座から引きずりおろし、有無を言わせず収入減を押しつけ、60代後半で会社から追い払うというのは、いかにも理不尽だ。 だが、坂本氏はこう反論するのである。 定年制など現行制度の功罪を考える際には、この制度によって何が達成されているかを考える必要がある。まず、組織で健全な新陳代謝が行われているのは、まぎれもなく定年制のおかげである。こうした仕組みを通じて現在の役職者の任が解かれた結果として、仕事において大きな責任を負い、社会に大きな影響を及ぼしたいという意欲あふれる次世代の人たちが実権を握れるようになる。強制力をもった制度があったからこそ、現役の役職者もまた、こうしたプロセスのなかで組織内における地位を築けてきたはずである。 そうして考えてみると、日本型雇用慣行のカウンターとして導入されたジョブ型「職務給」や、職務の難易度や責任の度合いを等級に分けて報酬を決める「職能給」、仕事による結果のみを評価する「成果給」が脚光を浴びながら、そんなに馴染んでいかなかった理由も理解できるような気がするのだ。 未知なる「定年」に怯える必要はない では、月10万円の稼ぎによってもたらされる「豊かな暮らし」というのは、どんなものなのか? 第2部で紹介される、7人の実例の特徴について、坂本氏はこうまとめている。 定年後の人々の状況は実に多様であり、定年前と全く変わらずに仕事ができる人もいれば、病気を患うなどして仕事をすることすらままならない人もいる。こうしたなか、あえて定年後のキャリアの平均的な姿を描けば、体力と気力を中心に仕事に関する能力が緩やかに低下し、これに合わせて仕事のサイズが小さくなる。しかし、そうしたなかでも、目の前にある小さな仕事に対して確かな意義を感じていく。このような姿がむしろ定年後のキャリアの典型なのである。 それでも「本当か?」と疑う人は、本を手にとってよく読んでほしい。少なくとも私は大いに納得した。 未知なる「定年」という未来に必要以上に怯えることはないし、かといって過大な期待も必要ない。そんな心構えを身につける書として、本書は格好の手引き書になるだろう。
2023/02/03
落語家にして、総著作数20作を超える著述家でもある立川談慶さん。おまけに趣味の筋トレを活かしてベンチプレス大会に出場するなど、マッチョな一面を持つ「異能の人」である。 そんな談慶さんが、師匠・立川談志との20年間に及ぶ交流を通じて学んだことを記した『武器としての落語』(方丈社)を上梓した。 天才談志と過ごした日々のこと、自らの人生をいかに生きていくのかということ、そんなあれこれについて聞いてみよう。 『武器としての落語 天才談志が教えてくれた人生の闘い方 』 著者:立川談慶 発行:方丈社 定価:1600円(税別) 入門して最初に言われたのが「おれを快適にしろ」という言葉でした ―『武器としての落語』は冒頭、1991年に談慶さんが七代目立川談志に弟子入りするところから話が始まります。談志師匠が最初に発した、「おれを快適にしろ」という言葉に翻弄されて、数々のしくじりを重ねたそうですね。なぜでしょう? 天才談志に弟子入り志願をするような人間は、何も私に限らず、自分に対して大なり小なり自負を持っているものです。「自分はおもしろいんだ」「談志の弟子になりさえすれば大成できる」とね。 実際、その前年には志の輔師匠が異例の早さで真打ちになっていました。志の輔師匠が広告代理店でバリバリ仕事をしていた社会人経験を経て、談志に入門したのが28歳のとき。当時、25歳だった私は志の輔師匠と同じく、3年間のサラリーマン経験がありましたから、同じ道を通れば、すんなり一人前になれると高をくくっていたんです。 「おれを快適にしろ」という談志のひとことは、そんな私の鼻をへし折るつもりで発した言葉だったのかもしれません。 師匠を快適にするとは、どういうことか? 頭をひねった私は、師匠の荷物を全部ひとりで持って、汗びっしょりになって働きました。ところが、これが大間違いでした。 師匠が弟子に重い荷物を持たせて威張っているという構図を周囲にさらすのは、談志がいちばん嫌うことだったんです。エレベーターに早く師匠を案内しようと、人混みをかき分けたりするのも大間違い。どちらもかえって師匠を不快にさせてしまい、どやされるわけです。 しくじった挙げ句に言われたのが、「おれに殉じてみろ」という言葉 ―落語家には前座、二ツ目、真打という3つの階級があって、二ツ目に昇進すると師匠の身のまわりの世話から解放されて、紋付きの着物と袴を着て高座にあがることを許されるといいます。通常、3~5年で二ツ目になる人が多いそうですが、談慶さんは9年半という異例の長さだったそうですね? はい、その通りです。談志は昇進の条件を、「二ツ目は古典落語50席、真打は100席おぼえる」と明確にして、著書にも書いたりしていたんですが、途中から「都々逸、長唄、かっぽれなどの歌舞音曲の修得」という条件が付加されたんです。古典落語は大学の落研時代からすでに30席ほどのレパートリーがありましたから、「あと20席おぼえたら二ツ目昇進」と思っていた自分としては、大いに不服でした。100メートル走を必死に駆け抜けてゴールしたのに、「今度はハードルだ、長距離だ」と別の競技を足されるようなもんですからね。ちなみに歌舞音曲の課題に関しても、私は盛大な勘違いをしています。談志に認めてもらうからには本式にやらねばと、テープやCDを聴いたり、小唄を教えてくれる教室に通ったりして唄をおぼえるわけですけど、「おれが求めているのはそういうのとは違うんだ」と、ことごとく否定されました。つまり、「唄をうまくうたえるようになれというんじゃない。落語の登場人物が酔っ払ってうたう調子でいいんだ」というわけです。そんな調子でしたから、談志の前座をつとめて5年目、私より2年遅れて入門してきた談笑が二ツ目に昇進して、弟弟子に追い越されてしまうようなことになるんです。ある日、そんな私に談志は言いました。「おまえ、そこまで不器用か。ならば、おれに殉(じゅん)じてみろ」と。 悩んだり、迷った末に気づいた、「倍返し」の境地 ―「おれに殉じてみろ」とは、すごい言葉ですね。 今の私なら、この「談志語」を自分なりに翻訳することができます。おそらく、「そこまで不器用なら、不器用に徹してみろ。その不器用さを活かして、おれを真似てみろ」という意味だったのではないでしょうか。その後も、自分がおぼえたことを談志に披露し、そのことごとくを否定される日々が続きました。気持ちが折れそうになった何度目かに、ふと気づくことがありました。それは、「迷っているのは自分のほうで、師匠がおれを迷わせているのではない」ということです。例え話で説明しましょう。鏡で自分の姿を見たとき、ネクタイが曲がってたら、まっすぐになるように直しますよね。普通なら、自分の首元に巻いてあるネクタイをずらして直しますけど、当時の私は、鏡に映っているほうのネクタイを直そうとしていたんです。これはもう、とんでもない勘違いです。いくら鏡をいじろうとも、曲がったネクタイは直りませんからね。結局のところ、師匠が提示してくる昇進基準を「無茶ぶり」ととらえて、ただこなしているのではダメで、自分から進んでアクションを起こしていかなければならないということに気づいたんです。そうなると、談志から「踊りを5つおぼえろ」と言われたら、10おぼえる。「唄を10曲おぼえろ」と言われれば20曲おぼえるという具合に、先回りして「倍返し」していくようになりました。そこからは、技芸を身につけていくことが嘘のように楽しめるようになりました。 天才談志はプロデュースの名人だった ―二ツ目昇進まで、普通の人の倍以上の9年半をかけた談慶さんですが、そこから真打に昇進したのは5年弱です。「二ツ目は通常、約10年」といいますから、かなりスムーズだったんですね? 本当は、二ツ目になって3年たったとき、「おまえ、真打になっていいぞ」と師匠から言われていたんですが、自分なりにまだ真打になるほどの器ではないと返事をズルズルと先延ばしにしていたんです。そんなある日、たまたま自宅の近くで独演会を開催した春風亭小朝師匠とお会いする機会があって、相談してみました。そのとき、「談志師匠がそう言ってくれているなら、早く真打になるほうが恩返しになりますよ」という言葉を聞いて、真打になる決心をしたんです。みなさん、ご存知だと思いますが、談志は頭にバンダナを巻いて高座にあがったり、サングラスをかけてみたり、髪の毛を染めてみたり、それまでの落語家がやらなかったことをやりました。メディアに伝えられるキャラクターとしても、「毒舌家」「破天荒」の落語家というイメージを多くの人が持っていると思います。でも、前座として9年半もの長い年月、前座として一緒に生活してきた私は、師匠が家族を心から愛するマイホームパパだったことを知っています。そのおかげで、男女ふたりのお子さんは、まっすぐに育った好人物ですし、師匠の「愛情を惜しげなくつぎ込む」という子育て哲学は、私もずっとお手本にしてきました。 ―もしかすると談志師匠は、落語の名人だっただけではなく、自己プロデュースの達人だったのかもしれませんね? 本当に、そう思います。今思えば、9年半という長期間、私を前座の身に据え置いていたことさえ、ある種の計算があったのではないかと思えてきます。 生前、談志は弟子たちに「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」と言っていましたが、私が落語家としては異例の20冊以上の書籍を執筆できているのは、談志が「異例の長さの前座修行をした男」という経歴をつけてくれたおかげだと思うんです。 談志は自らの「老い」を人一倍、恐れていた ―談慶さんが談志師匠に弟子入りしたのは25歳のときですが、当時の談志師匠はちょうど30歳年上の55歳。どんな様子でしたか? そりゃもう、エネルギッシュでしたよ。朝から肉料理をガツガツ食べて、映画の試写会に行った足でプロデューサーと打ち合わせをしたり、メディアの取材を受けたり、そうかと思えばパーティに顔を出してジョークを言ったり。そばについてるだけでクタクタになるほどでしたが、師匠は一日中しゃべっていてもつねに元気でした。 落語家は年をとったら味が出る、なんてよく言われます。でも、談志は「そんなのは嘘だ」と否定していました。 談志の豪快磊落、天衣無縫な落語は、実は「落語は業の肯定である」という定義のうえに組立てられた緻密な計算があって成り立っていました。豪快さと繊細さ、その両面を備えた緻密な落語を表現するには、人並み外れた胆力と体力が必要です。 ですから談志は、自分が老いるということに対して、人一倍の恐怖心を持っていたと思います。 実際、62歳で食道がんになったとき、記者会見でタバコを吸って見せたりしたのは一種のやせ我慢的なポーズで、これをきっかけに自分の健康を維持することに大変、気を遣うようになりました。 ―さすがの談志師匠も、年には勝てないということですか? 談志が得意としていた古典落語の演目のひとつに「野ざらし」があります。おっちょこちょいな八五郎という主人公がサイサイ節という唄をうたいながら河原で釣りをする見せ場があって、演じるのにかなりの体力を要するんですが、そういうネタをだんだんやらなくなりました。 そうかと思えば「落語はイリュージョンだ」と定義替えをしたり、落語の途中に解説ふうの話を入れたり、時事ネタを放り込んでみたりして自分の落語観をアップデートしていきました。 今思えばそれは、「老い」への抵抗だったのかもしれません。つまり、若いころは剛速球で馴らした投手が、ピークを越えて変化球投手に鞍替えするようなものです。 私が真打ちになったのは、談志が70歳になった年で、私は40歳になってましたが、そのトライアルの席で談志はこんなことを言いました。「お前もいつか、わざと落語を下手にやりたくなる日が来る。その日が来なかったら、嘘だと思え」と。 芸の道というのは途轍もなく奥深いもので、「わざと下手にやる」なんて境地が本当にあるのかと首をひねりたくなりますが、このころの談志は、ただお客さんを楽しませるだけでは満足できない域に達してしまったのかもしれません。 ちなみに晩年は、「イリュージョン」から「江戸の風」と言っていました。 人生を丸ごとつぎ込まねば学べないことがある ―談慶さんにとって、談志師匠の落語のピークはどのあたりだと思いますか? そりゃ、何といっても2007年12月18日、72歳の談志がよみうりホールでやった「芝浜」でしょうね。 多くの人から「伝説的名演」と評価されているだけでなく、談志自身、「あれは神様がやらせてくれた最後の噺だったのかもしれない」と語ったほどですから。 そこから先は、「老い」に身を任せてソフトランディングしていくような感じだったと思います。 74歳で咽頭がんを患って、その翌年に声帯摘出手術を受けるまでの最晩年の高座は、兄弟子の談春兄さんいわく、「落語と一席ずつお別れしているようだった」といいます。 ―師匠と過ごした20年間をふり返って、天才談志の「人生の去り際」は談慶さんの目にどのように映っていますか? 談志は、最後の最後まで落語家だったと思います。そして、その手本となる生き方を身をもって私に教えてくれました。 人は誰だって「老い」には逆らえないし、人生の最後には必ず「死」がやってきます。そう考えてみると「介護」というのは、ただ老いた人を手助けすることを指すのではなく、老いた人から人生の仕舞い方を教えてもらう「予習」のような場なのかもしれませんね。 数年前、83歳で亡くなった父のときも、同じようなことを感じました。葬儀を終えたとき、思春期の入り口である反抗期を迎えたばかりの長男と次男に目をやると、ふたりとも泣きじゃくっていたんです。「親父は、亡くなることで孫に情操教育をしてくれたんだな」と感じて、私ももらい泣きしてしまいました。 以前、寿司職人が「飯炊き3年、握り8年」で、一人前になるには最低10年かかるという話を「バカバカしい」とSNSで批判した人がいましたね。その人にとっては、落語家の修業も同じように見えるのだと思いますが、厳しい徒弟制度に自分の人生を丸ごとつぎ込むような形ではないと学べないこと、伝えられないことが私はきっとあると思うんです。 「老い」に対抗する唯一の手段は、自分の体の声に敏感になること ―ところで談慶さんは、筋トレが趣味で、57歳になっても「ベンチプレス100㎏以上を上げる落語家」として有名ですが、これは談慶さんなりの「老い」に対する抵抗なのでしょうか? そうかもしれません。筋トレをはじめたきっかけは41歳のとき、頸椎ヘルニアになってしまったことでした。幸いなことに、カイロプラティックの名医と出会って痛みは治まったんですが、「今回の処置は、あくまで応急処置です。再発しないようにするには、背中の僧帽筋を鍛えて筋肉でガードするしかありません」と言われてジムに通うようになったんです。以来、休まずにジム通いを続けられているのは、筋トレが生活のメトロノームのようになっているからです。朝早くに、ジムに行って、ひと眠りしたあと午後の2時から仕事をすれば、時計の針が深夜の12時にまわる前から眠くなります。爆睡して目覚めてみれば、疲労から完全に回復しているから、また筋トレをしたくなる。そんなふうに筋トレが生活のリズムを整えてくれるんですね。 ―では、談慶さんはまだ「老い」を意識することは少ないんでしょうね? いえ、そんなことはありません。50代なかばを過ぎると、体のいろんなところにガタがくるようになりました。 この間、肩の関節をやっちゃって痛みがしばらく残ってますし、古傷のヒザの半月板も痛むようになってきました。「筋肉は裏切らない。鍛えれば鍛えるほどたくましくなる」というのが私の口癖でしたけど、「関節」は平気で裏切ってきますね(笑)。 あと、私は2022年の1月にコロナに感染しましたけど、これも「老い」と関連があると思ってます。 実は、前兆があったんですよ。筋トレしたあと2日続けて体に寒気が走ったんです。「あれ?」と思ったけど、「まぁ、大丈夫だろう」と油断して放置してしまったのがいけなかったんですね。3日目に発熱して、陽性であることがわかりました。 要するに「老い」のせいで無理が利かなくなってきたってことです。ですから、これからは体の声に敏感になって、感受性を高めなければならないと思っています。 年をとるというのはネガティブなことばかりじゃない ―新型コロナウイルスの感染拡大は、落語家としてのキャリアに重大なダメージを与える出来事ですよね? もちろんです。それ以前に予定していた落語会はすべてキャンセルになり、スケジュール帳はまっ白になりました。落語家にとって「三密」を禁じられるというのは、鳥がツバサをもがれるようなものです。というのも、音楽のコンサートや演劇以上に、落語の表現形態は演者とお客さんとの距離が近いんです。もちろん、ミュージシャンや演劇人より、落語家のほうが被害が大きいと言うつもりはありませんが、落語家の表現の環境がコロナ前に戻るには、他ジャンルよりも長くかかるんじゃないかと思っています。ただ、泣き言ばかりいって、コロナを恨んでみたところで、何にもなりません。そこで、暇になった時間を本の執筆に振り分けるようにしました。それまで忙しくて断っていた企画も引き受けて、表現の場を高座から紙の上に移し変えたんです。もともと、コロナになる前から10冊以上の著書を持っていましたので、頭の切り換えは早かったんです。おかげでこの3年間で11冊の本を出すことができたし、そのうちの1冊、『花は咲けども 噺せども 神様がくれた高座』(PHP文芸文庫)では小説家デビューすることもできました。まぁ、寝る間を惜しんで執筆に時間を割いたせいで、ストレスが溜まってコロナにもかかってしまったわけですが、それだって「これからは体の感受性を磨いていこう」という教えを与えてくれたわけですから、ポジティブに働いた経験だったとみることもできます。 ―談慶さんのその「転んでもただでは起きぬ」という発想、素晴らしいです。 自分の「老い」との向き合い方にも、その発想は使えると思いますよ。 最初に、談志に弟子入りしたばかりの私が「おれを快適にしろ」という談志語を理解できずにしくじった話をしましたよね。 でも、年をとることで「こういう意味だったのか」と、その言葉の真意に気づくことができます。そして、その教えをネタにして、作家として表現の場が与えられている。「おれの悪口を喋っているだけで、おまえらずいぶん食っていけるだろう」という談志の生前の予言は、まさに的中しているんです。 そう考えてみると、年をとるのは決してネガティブなことばかりじゃなくて、ポジティブな面も多分にあるっていうことがよくわかります。 ありがたいことに、落語家には「定年」というものがありません。師匠である談志が見せてくれたように「生涯現役」の生き方をお手本にして、これからも頑張っていきたいですね。 撮影/八木虎造
2023/01/27
鈴木大介氏は、『最貧困女子』(幻冬舎新書)などの著書を通じて、社会的に発言の機会を与えられていない弱者を取材し、そうした人々の声なき声を代弁してきたルポライター。 そんな彼が41歳のときに脳梗塞を発症し、言語や記憶、感情のコントロールなどをつかさどる「高次脳機能」に障害を持つことになった。 取材対象者の話を聞いて、記事を作るという職業的ライターにとっては致命的な障害だが、彼は取材対象を自分自身に移し変え、『脳が壊れた』『脳は回復する』(ともに新潮新書)などの著書を通じて、高次脳機能障害の不自由さと苦しみに満ちた世界を脳内ルポしている。 本書はその鈴木大介氏が、1994年に日本で初めて高次脳機能障害専門の診療科を設けた東北大学病院に勤務し、同大学教授をつとめる鈴木匡子氏との対談を通じて、この障害の「理解」と「支援」の方法を模索する様子が語られている。 高次脳機能障害は、身体の麻痺などのように外見ですぐに分かるものではないため、「見えない障害」とも呼ばれ、医療従事者や家族などの支援者たちの「死角」になってきた。本書は、それを見事に可視化してくれる本だと思う。未知なるその世界を覗いてみることにしよう。 『壊れた脳と生きる――高次脳機能障害「名もなき苦しみ」の理解と支援 』 著者:鈴木大介/鈴木匡子 発行:ちくまプリマー新書 定価:920円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 目の前で話している人の言葉が、脳内から消えていってしまう状態とは? 冒頭の「はじめに」で大介氏が指摘するのは、高次脳機能障害を「分かりやすく言語化すること」のむずかしさだ。引用しよう。 身体の不調であれば「こっちに曲げると痛い」「ここを押すと痛い」のように容易に言語化できますが、高次脳機能障害はこの「痛い」に相当するような言葉がない苦しさや不自由があまりに多いのです。例えば病後の僕は、かなりの期間「他人(ひと)の話を上手に聞く」ことに不自由を感じ続けました。とはいえ、耳が聞こえないのではありません。相手の話は、決して難しくない日常会話です。日本語の意味だって分かる。文字を書くことも読むこともできます。ただ、相手の話に自分の理解が追いつかなかったのです。 このような不自由は、今聞いたばかり、見たばかりのことを脳にとどめておくことができないという「作業(作動)記憶」の低下から生じるもので、目の前で話している人の言葉が、リアルタイムで脳内から消えていってしまうのだという。 脳梗塞や脳出血などの脳卒中の治療は、発症から2週間までを急性期、6カ月までを回復期、それ以降を生活期(あるいは維持期)と呼ぶのだそうだが、生活期は退院して生活の場でリハビリテーションをおこなう。だが、大介氏は退院当日に行ったスーパーマーケットで手痛い洗礼を受ける。 照明はまぶしいし、商品が棚一面に陳列されているのを見るだけで心が一杯になって何もできなくなるし、音響もBGMから安売りの録音からずっと流れているし。おまけに駆け回っている子どもがいたりして。生まれたてのシカが内股をふるふるしながに立ってるような状態で、もうどうにもならなくなりました。 脳のスペックが極端に落ちてしまったことが原因だろうが、不思議なことに、自分にとって一番聞きたくない不快な音をピックアップして聞き取ってしまうという。 この現象について、聞き手の鈴木匡子氏(きょう子先生)はこう解説する。 注意の機能から説明できるかもしれません。注意には自分が必要とする情報を取れるように、目的とするものに向かって働く指向性があり、それ意外の情報は抑制する働きがあります。それがうまく働かなくなると、色々な刺激がどれも同じ強さで入ってしまう。さらに情動的な負荷の高いもの、大介さんの場合は自分にとって不快な声や音が聞こえると、自分の意図とは無関係にそちらに注意が向いてしまうという状況だったのかもしれませんね。 そんな状況において、大介氏は倒れてから10日後くらいに闘病記の企画書を版元に提出し、病院内で起こるさまざまな困りごとをメモしていったというからすごい。 読み返すと、最初は病棟内で、表情が作れない、うまく言葉が出てこない、話せない。あと視線がロックしてしまう、思考がロックしてしまう、早口で相手に一方的にしゃべってしまう。一方的にわーって話して、途中で何言ってるか分からなくなったり、話し終わって、その後もう何も続かないみたいなことがあって、コミュニケーションがおかしいとか。そういうことを逐一書き出してありますね。 支援者には、高次脳機能障害を見分けるプロの「山菜採り」になってほしい ところで、身体に麻痺が残らなかった大介氏の場合、リハビリはPT(理学療法士/Physical Therapist)ではなく、OT(作業療法士/Occupational Therapist)かST(言語聴覚士/Speech-Language-Hearing Therapist)が担当することになる。 ところが驚いたことに、そうした支援のプロたちのなかにも高次脳機能障害がどんなものかについて、くわしい知識を持っていない人がいたというのだ。 病後の僕が何より苦しかったのは、できないことを理解してもらえない、不自由を無いことにされてしまうことでしたから。STの先生に「話せない」と訴えているのに、「上手に話せていますよ」の一点張り。ユーチューブにある僕の病前の対談の音声を聞いてもらっても、「今と変わりませんよ」って言われたことすらあった。そういう相手には、心を閉ざすしかない。 STは、主に言語障害、音声障害、嚥下(えんげ)障害に対しての専門家で、合格率50~60%と言われる国家試験に合格しなければなれない専門職だ。しかも、このケースは大介氏がたまたま無能なSTに出会ってしまったわけでもないことが次の発言でわかる。 例えば、先ほど例を出した「鈴木さんお上手に話せていますよ」の残念なSTさんは、家庭内の環境とか夫婦関係の調整については、すごく短時間で問題を見抜いて、誰よりも具体的で実効性のあるアドバイスをしてくださった方でもあるんです。でも一方で、超元気で声が大きくて早口で、そうした点も心を閉ざした理由だったんです。 一方、大介氏の不自由さに配慮して、ゆっくり対応してくれる人からも、「麻痺が軽くてよかったですね」というキラーワードを言われてしまったという。「つらいです」と訴えているのに、「でも良かったですね」と返されてしまうと、絶望的な気分に追いやられてしまう。「無理解」は「攻撃」だ、と大介氏は訴える。 これに対して、きょう子先生はこう説明する。 高次脳機能障害の認知リハビリには、一般的なマニュアルはないのです。麻痺などの症状に対しては、おおよそ決まったリハビリの方法があって、こういう順番でこれをやるということがほぼ確立されていますが、認知リハビリにそういうものはありません。(中略)たとえマニュアルがあったとしても、その通りにやってもうまくいかないのではないかと思います。一人ひとりにどこかしら合わない部分が必ず出てくる。大量生産の既製服ではなくて、仕立てるように、個々の症状に向き合ってきちんと合わせていかなければ、体に合ったものはできない気がします。 こうした課題を解決する糸口は、ふたりの次の会話から示唆される。 きょう子先生 観察することの前提として、症状に関する知識が必要です。基礎的な知識を持ったうえで見ないと見えないことが山ほどありますので。たとえて言うと、山菜採りに山へ行って、山菜採りの名人は、あ、そこにワラビかずある、とすぐに見える。私たちは同じ風景を見ていても、え? どこにワラビがあるの? と分からない。高次脳機能障害の症状もそれに似ています。こういう症状が出るだろう、こういうことが起こり得るだろうと知識や経験から予測してみると、見えてくるところがあるのです。大介 その喩え、すごくよく分かります。現場の人は全員、山菜採りのプロになってほしい。とりあえずその山にある山菜は全種類知っておいてほしいと、切に願います。 高次脳機能障害は、医療の進歩が作り出した「副作用」なのか? 本書は高次脳機能障害になった大介氏の不自由さと苦しさについての記述がこれでもかという量で語り尽くされているが、それでも読んで不快にならないのは、ふたりの会話が高次脳機能障害の「理解」と「支援」に向けて、建設的に議論を進めているからだろう。 何より、大介氏の症状が年月を経て、少しずつ回復している点には大きな希望を感じさせられる。 僕もいろんなことができなくなって、それこそ死んでしまいたいと思うような日も数え切れぬほどありました。けれど、実は元に戻って一番うれしかったのは、すごく些細なことだったんです。それは、人の話を聞きながら相づちを打ったり、にやっとしたり、ツッコミを入りたりすること。3年近くかかりました。生活や仕事の上ではもっと深刻なことでいっぱい困っているし、いまも困り続けていることがあるけれど、自分の回復目標に「ツッコミが入れられること」は普通設定しませんよね。なので当事者によって、何を目標にするのかについては、実は本人にも誰にも正確に定められないもののように感じなくもないです。 脳血管疾患は、1位のがん、2位の心疾患に次いで3番目に多い日本人の死因だが、昭和40年代まではダントツの1位だった。 これは医療の進歩による成果と言えるだろう。現在の医療は、基本的に「過去には救えなかった命が救えるようになる」という方向で道を歩んでいる。CTやMRIなどの検査技術をはじめ、手術にロボット技術が採用されるようなイノベーションが起こり、その進歩は加速度的に早くなっている。 だが、それによってある種の「副作用」というものが生じてきているのも事実である。それは、「高度な医療によって救われた命の予後のケア」が新たに必要になったことだ。 高次脳機能障害の現状を知るにあたり、その副作用の解消は喫緊の課題だろう。同じようなことは、産まれながらに人工呼吸器や心肺装置を必要とする障害児童が増えているケースにも言えることだし、医療の進歩と長寿化によって生じた認知症についても言える。 本書は、そうした現代の課題を見事に「可視化」してくれる、ためになる本だった。
2023/01/25
文化人類学はおもしろい、という確信があった。 「奥地」とか、「秘境」と呼ばれる土地に学者が分け入って、西洋を中心に築かれてきた文明・文化とは異なる環境で生きてきた人たちの生き方を垣間見させてくれる。「多様性」という今の時代のキーワードを語る上で、重要なヒントをもたらしてくれる学問だ。 そんなこともあって、「これからの時代を生き抜くため」と「文化人類学入門」というふたつの言葉の結びつきは一見、違和感がありそうで、実は納得感があるように見えた。 だが、この本の冒頭で、西洋の文明・文化と異なる人々の生活を「未開」ととらえ、西洋が発展してきた進化の「途上」にあるとする考えのもとに構築してきた文化人類学が、その成り立ちを反省して「マルチスピーシーズ人類学」という分野に発展していることを改めて知らされた。 マルチ(複数)なスピーシーズ(種)を扱う「マルチスピーシーズ人類学」は、「これからの時代を生き抜くため」に大いに有効な知見を与えてくれる考え方と言えるだろう。その入門書として、本書は非常に有益な書である。 『これからの時代を生き抜くための文化人類学入門』 著者:奥野克巳 発行:辰巳出版 定価:1600円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 2010年以降に新たに登場した「マルチスピーシーズ人類学」とは? 著者の奥野克巳氏は、立教大学で2008年に全国に先駆けて新設された異文化コミュニケーション学部の教授をつとめる人類学者。東南アジアのボルネオ島の狩猟民プナンのフィールドワークを通じて著した『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』(亜紀書房)などの著書で知られている人だ。 まず、第1章の「文化人類学とは何か」で語られるのは、15世紀以降、未知の世界とその文化を知るという欲望から生まれたこの学問が、19世紀になって西洋列強国による植民地主義を正当化することに利用されてきた文化人類学の歴史だ。 ダーウィンによる生物進化論の影響を受けて、文化や文明もまた進化するという考え方のもと、西洋文化が進化の頂点にあると位置づけられ、それ以外の劣った文化・文明を持つ人々を教え導き、啓蒙することを使命とすることが目的化されたのだという。 その流れは、20世紀になって大きく変貌する。人類学者のブラニスラウ・マリノフスキらが現地の生活に浸りきって、その社会の全貌を内側から解明しようとするフィールドワーク(参与観察)という手法を取り入れることで。 20世紀の文化人類学は、異なる文化を同じ地平に置き、その優劣を問わず、いずれの文化も固有の価値を有しているということを認めて、その多様なあり方を描き出すという新しい視点を手に入れたのだ。 というのが、第1章の大まかな内容だが、その結論として第5章で紹介されるのが、2010年以降に新たに登場した「マルチスピーシーズ人類学」という考え方だ。引用しよう。 マルチスピーシーズ人類学がもくろんでいるのは、人間だけが地球上で主人公として君臨するのではなく、人間を含み、人間以外の存在から構成される世界がまずあって、その一部として人間が生き、死んでいくという考え方を重視することです。そして、そのような考え方に基づいていかに世界を見ることが可能かを、民族誌をつうじて探求することにあります。 つまり、人間は単独で生きているのではなく、他の動物や植物、微生物、ウイルス、森や山河といった自然物などとともにこの世界を作りながら生きてきたという視点から物事を理解しようというのである。 「西洋文化とそれ以外の文化」の垣根を乗りこえたのが20世紀だったとするなら、21世紀は「人間とそれ以外の自然」の垣根をぶちこわそうというわけだ。 文化人類学がそんなことになっているなんて知らなかった。驚きである。 プナン語に「ありがとう」という言葉がない理由 というわけで、ダイバーシティ(多様性)からマルチスピーシーズ(複数種性)に生まれ変わった文化人類学の「入門書」として、本書では他の研究をふまえたさまざまな成果が語られるが、やはり魅力を感じるのは奥野氏自身がフィールドワークをしたボルネオ島の狩猟民プナンについての記述だ。 例えば、プナンの人たちには「けちであってはいけない」という強固な社会規範があるというが、そのことを説明するうえで、次のようなエピソードが語られる。 私が春夏の年2回のペースでプナンの居住地を訪れる際には、世話になっている受け入れ先(ホスト)の男性の家族に時計やポーチバッグなどの土産物を持っていきます。しかし、私の贈り物はすぐに、それらを欲しがる別の誰かの手に渡ります。珍しい物を見て、人から欲しいと乞われて分け与えることもありますが、何も言われなくとも人に分け与えることもあります。そして、それを受け取った人はさらに、また別の人に分け与えるのです。 おもしろいのは、プナンの人たちのこうした気前のよさは、自然発生的な感情ではなく、実は独占したいという感情との葛藤から生み出されているということだ。 というのも、奥野氏がある日、1人のプナンの子どもに飴玉を与えたところ、その子どもは飴玉を握りしめ、他の子どもに与えず独占しようとしたという。すると、その様子を見た母親が「分け与えられた食べ物を独り占めしてはいけないよ。隣にいる誰かに分け与えなさい」と諭したというのだ。 プナンの人たちの間でこうした社会規範が生まれた理由を奥野氏は次のように説明する。 「いま」分け与えておくと、「あと」で手元に何もない時に分け与えてもらうことができます。そのように決めておけば、お互いに支え合って、みんなで生き延びることができるでしょう。それは、個人所有を前提として、貸すとか借りるというのではありません。プナンの心には、あるものはみんなで分かち合うという「シェアリング」の理念が、植えつけられ、育まれているのです。 その結果として、プナン語には、何かをもらったときに相手にかける「ありがとう」に相当する感謝の言葉がないのだという。その代わりにプナンの人たちが使うのは、「ジアン・クネップ」という日本語に訳すと「よい心がけ」という意味になる言葉だ。 つまり、もの分け与えた人に気前のよさを讃える言葉しかないというのだ。 プナンの人たちが「けちであってはいけない」という社会規範を持っていることについて、奥野氏は次のように感想を述べている。 個人所有を奨励する私たちの社会と、個人所有を否定するプナンの社会を、「進歩」という歴史観で並べてみると、個人所有に重きを置かないプナンたちは「遅れている」とみなされてしまうでょう。実際のところ、そのどちらに優劣があるのかを決めることは不可能です。しかし、現代日本の社会の歪みを考えた時には逆に、プナンの社会はなんと豊かなのかと感じることもしばしばあるのです。 「ありがとう」がない代わりに「心の病」もない社会 私たちの社会にはあって、プナンの人たちにないものは、「ありがとう」という言葉の他にもたくさん紹介されている。 例えば、トイレ。 プナンの居住地には州政府が衛生政策と称して作ったトイレはあるが、そこは狩りに使う吹き矢やライフル銃などの物置になっていて、彼らはもっぱら居住地から少し離れた森のなかの「糞場」で用を足すのだという。 プナンは、糞場を通り過ぎる時、これは、昨日食べ過ぎた誰某(だれそれ)のものであるとか、腹を下している誰某のものであると意見を述べ合うことがあります。「あれだけ猪肉を食ったのに、熊の肉のようにひどいにおいだ」などと、誰かの糞便を品評するのです。(中略)そのようにして、居住空間の近くにまき散らされた糞便は、他の狩猟キャンプのメンバーの目にさらされ、品評の対象となるのです。糞便のにおいや色つやは、メンバーの食と健康の指標なのです。 こうした社会を、「息の詰まる窮屈な社会」と解釈することもできるが、「人と人が支え合って充足している社会」とも解釈できる。それが奥野氏の言う、「優劣で測ることのできない」ということだ。 プナンにはまた、精神病や心の病といった言葉も存在しないという。 プナンは、独りで思い悩んだり、あれこれ考えあぐねたりするようなことがありません。そうしたプライバシーが保たれた時間も空間もないのだと言えます。のべつ誰かがそばにいますし、誰かが自分のことを気にかけています。思い悩む暇がないほど、個が集団に溶け込んでいるとも言えます。ヒゲイノシシが獲れたら、真夜中の3時であろうが叩き起こされ、食事をするように強いられます。そうした点が、ことによると心の病が「ない」ということに関係しているのかもしれません。 プナンは狩猟採集民だが、私たちが何となく持っているイメージに照らし合わせると、彼らが常に食料不足に怯え、あくせくと森に入って獲物を探しているように想像してしまうだろう。「進化」的な歴史観では、狩猟採集のあとに農耕や牧畜が始まり、飢えに苦しむ心配のない、安心・安全で「高度」な社会になったと見てしまうのだが、それは大きな間違いだということも説明される。 マーシャル・サーリンズというアメリカの人類学者が明らかにしたことですが、実は狩猟採集民が狩りや採集を行うのは、非常にごくわずかで、それ以外の時間は休んだり、ゆったりと過ごします。ところが、農耕や牧畜になると四六時中、作物や家畜の世話をしなければならなくなり、むしろ忙しいのです。狩猟採集のほうがその都度、必要な摂取カロリーを満たす分の獲物を手に入れればいいわけですから、そんなに働く必要がないわけです。サーリンズは狩猟採集で暮らした石器人こそ、「原初の豊かな社会」を生きていたと唱えて、私たちの認識を逆転させました。 目のウロコが何枚あっても足りないほど、この本は新たな知見に満ちた本だった。まさに「これからの時代を生き抜くため」に必読の書と言えるだろう。
2023/01/17
世界のクロサワこと映画監督の黒澤明は、「うまいもののわからないやつは想像力に欠ける」と言って、88歳で亡くなる直前まで好物の牛肉ステーキをモリモリ食べていたという。 「年をとると食が細る」というのは、56歳の私でさえ、日々実感している既存の事実だが、このまま細るにまかせてよいものかと不安を感じている人も多いだろう。 そんな不安を払拭してくれるのが、今回紹介する『60歳から食事を変えなさい』である。高齢者の食事について、これまで抱いていた常識が次々と覆される“目からウロコ本”だ。 60歳を過ぎてもずっと元気でいたければ、この本を読んで知識をアップデートすることを強くお薦めする。 『ずっと元気でいたければ60歳から食事を変えなさい』 著者:森由香子 発行:青春出版社 定価:1000円(税別) ボブ的オススメ度:★★★☆☆ 高齢者になったら食にわがままになるべし 著者の森由香子氏は、管理栄養士として2005年より東京・千代田区のクリニックに勤務し、入院・外来患者に栄養指導などをしてきた人。ホームページのプロフィール写真を見ると若々しい印象だが、本書の前書きには「そろそろ60歳になり、定年を迎え」るのだそうで、自らアンチエイジングを実践している人だということがうかがえる。 「年をとったら食が細るのは自然なこと」という世の中の常識を根底から覆す主張は、本書のなかで随所に見られるが、印象的なのが次のフレーズだ。引用しよう。 多くの方が勘違いされているのですが、望ましい栄養摂取量は、高齢者も若者もほとんど同じです。年齢が上がるにつれて活動量が低下、代謝も低下するため、食べる回数や量が減るのは自然なことと思われがちですが、同時に栄養を消化吸収する機能が低下してくるため、若い頃とあまり変わらない栄養補給が必要なのです。 近年の研究では、中高年期に幅広い食品を摂取することは、認知機能の低下リスクを軽減することにつながるという。また、中高年期の肥満は認知症リスクを上げるが、高齢期の肥満は逆にリスクを下げるのだとか。 その根拠のひとつとして森氏が指摘するのは、肉や魚など良質なたんぱく質の元になるアルブミンだ。 これは、血漿たんぱく質のひとつで、アミノ酸、遊離脂肪酸、ホルモンなどと結合して体内の組織に運搬されるのだが、アルブミンが少ない人は、そうでない人に比べて短命の傾向があり、認知機能の低下を引き起こすリスクが2倍にもなるという。 というわけで、以下のような結論が得られるわけである。 後期高齢者になったら、食事の面で固定観念にとらわれる必要はありません。もっとわがままに、自分中心の食事で栄養不足を防ぎましょう。たとえば、1回に食べられる量が少なくなってきたら、1日3食ではなく、5食にしてもよいですし、おやつを充実させるのもよいでしょう。とにかく、いろいろな食材を食べて、幅広く栄養をとっていただきたいと思います。 よく食べ、よく飲む。それが高齢者の食の新常識 いやはや、読むだけで胃がもたれてきそうな内容にも思われるが、キチンと理屈だてて述べられているので納得させられてしまうのだ。 年をとると食が細くなる原因についても、説得力のある説明がある。 森氏によると、人の味覚は老化によって衰えていくという。なかでも衰えが著しいのが甘味と塩味を感じる味覚だ。高齢者のなかには、物足りないからといって醤油や塩をかけたりする人が多いそうだが、舌にある味蕾の数が減っているのが原因だ。 味蕾の数は若い人ほど多いが、高齢になると赤ちゃんの半分から3分の1ほどに減ってしまうのだという。 さらには唾液の減少や舌苔(舌に付く細菌のかたまり)の増加、味細胞を作るのに必要な亜鉛の不足といった原因もかかわってくる。 高齢者のなかには高血圧症と診断されて降圧剤を飲んでいたり、心不全を防ぐ目的で利尿剤を服用していたりする人が多くいるが、これらの薬には副作用として味覚障害を起こすものがあるという。 森氏によれば、人間の体は、特に何もしていなくても、皮膚や呼気からの蒸発によって1日約1リットル、便で200~300ミリグラム、尿で1~1.5リットル、合計で2.2~2.8リットルが体外へ出ていく。従って、体内の代謝で作られる水が1日200~300ミリリットルであれば、食事で1リットル、飲み物で1~1.5リットルの水分を補給すべきだという。 合い言葉は「朝ごはんにたんぱく質!」 モリモリ食べ、ガブガブ飲むだけでは足りない。筋力をつけるというのも重要な要素だ。 骨格に沿ってついている筋肉を骨格筋といって、その収縮によって身体を支え、動かすという重要な機能を持っている。この筋肉は、20歳代をピークに少しずつ低下していって、80歳を過ぎると約30~40%の骨格筋量が失われ、いわゆる「サルコペニア」といった状態になるという。 サルコペニアによって足腰の筋肉が落ちてくると、出歩くのがおっくうになり、家にこもりがちになる。その結果として、気分がうつうつとして、食欲もなくなる。さらに栄養不足になって筋力が落ちるという負のスパイラルに入ってしまうのだ。 なかでもハッとしたのは、次の指摘だ。 筋力というと、つい足腰や腕力を思い浮かべがちですが、筋力の低下で盲点となるのが、あご周辺の筋肉量の低下です。年を重ねると、足腰だけでなく、舌や首周辺の筋肉もやせるので、食べ物を咀嚼して嚥下する機能も低下して、うまく食事ができなくなったり、おっくうになったりすることがあるのです。 高齢者がよく起こすと言われる「誤嚥性肺炎」には、こういうところにも原因があるのかと気づかされた。単に食が細くなって低栄養からサルコペニアになる人もいれば、低栄養の前にあごの筋力の低下が始まってサルコペニアになる人もいるのだ。 そこで森氏が提唱しているのが、「朝ごはんにたんぱく質!」という合い言葉だ。 たんぱく質は、基本的に3食しっかりととっていただきたいのですが、中でも重要なのが朝ごはん。からだがもっともたんぱく質を必要としている朝にたんぱく質をとることで、筋肉の分解を抑えることができるからです。 筋肉は、つねに合成と分解を繰り返しているが、合成の際に必要なのが、食事でとったたんぱく質から分解・吸収されるアミノ酸だ。 アミノ酸は寝ている間も消費されているため、朝ごはんでしっかりとたんぱく質を摂取することで吸収効率も高くなるというわけだ。たんぱく質は、できるだけ毎食20グラムをとることが重要だという。 次々と覆される食の常識 そのほかにも、食にまつわるさまざまな常識が覆される。 例えば、寝つきがよくなるからと、就寝前にホットミルクや飲むヨーグルトを飲んだりする人も多いと思うが、それは「逆効果」なのだという。 乳製品には脂肪分が含まれていて、すぐには消化されないため、ベッドに入ってからも胃腸は消化活動をすることになる。脳が寝ようとしていても、胃腸が活動しているため、かえって睡眠の質を落とす結果になるのだ。 ぐっすり眠りたかったら、「就寝の3時間前は何も口にしない」が鉄則なのだ。 それから、年をとると肌のたるみが気になって、牛すじやフカヒレスープといったコラーゲン食品を食べたり、サプリメントを飲んだりする人がいるが、森氏に言わせると、これも間違い。というのも、口から摂取したコラーゲンは体内で一度、アミノ酸に分解されてしまうため、あまり意味がないという説が最近では有力なのだという。 実は、肌の老化はコラーゲンの減少や保湿力の低下だけが原因ではない。 ある研究報告によれば、各年代の男女の頭蓋骨をMRIで撮影してみたところ、年齢が上がるほど頭蓋骨が下に向かって崩れてしまっているとのこと。同時に眼窩(目が位置する穴のこと)も年齢とともに広がっていく傾向にあるそうです。 つまり、年齢による骨密度の低下が「肌の老化」の原因になっていることもあるのだ。骨の老化を防ぐためには、カルシウムはもちろん、葉酸、ビタミンK、ビタミンD、そしてたんぱく質をしっかり摂取することが重要だ(なかでも魚料理がおすすめめだとか)。 政府のデータによると、70歳以上の日本人の総人口の割合は、前年から0.4ポイント上昇23.0%なのだという。 これまで誰も経験したことのない高齢化社会になったということは、過去の常識や経験が通用しなくなったということを意味している。高齢化は2042年のピークまで続くそうだから、今のうちからアップデートしておくほうが良さそうだ。
2023/01/06
現代は、飽食の時代である。 『火垂るの墓』で描かれているような命にかかわるレベルの食糧難を経験している人は、すでに80歳を超えていて、もはや多くの日本人にとって「おとぎ話」の域に達しつつある。 そんななか、さまざまな方面から日本人の「食の危機」を訴える本が次々と出版されている。なかでも目を引いたのが、久松達央氏の『農家はもっと減っていい』である。 著者の久松氏は農家の出身ではなく、都市部に住むサラリーマン家庭に生まれた人。大手繊維メーカー勤務を経て、1998年に農業に新規参入。現在、茨城県土浦市を拠点にしている久松農園では、年間100種類以上の野菜を有機栽培し、卸売業者や小売店を経由せずに個人消費者や飲食店に直接販売するという、型破りな形態の農業を実践している。 「農業の『常識』はウソだらけ」という副題にある通り、現状の日本の農業のいびつな構造をあぶり出し、大淘汰時代に入った市場を生き残る「小さくて強い農業」を提唱している。 今回は、この本をきっかけにして、日本、ひいては世界の農業がどんなことになっているのかを見ていくことにしよう。 『農家はもっと減っていい』 著者:久松達央 発行:光文社新書 定価:1040円(税別) ボブ的オススメ度:★★★★☆ 日本の農家の8割は、農業で食っていけない零細農家 農林水産業が5年ごとにおこなっている大規模調査を農林業センサスというが、本書の冒頭で久松氏は、このデータから「販売農家107万戸のうち、8割が売上500万円以下の零細農家」という事実を指摘している。 500万円以下というのは「利益」ではなく、「売上」なので、そこから農業生産にかかるさまざまなコスト(種苗費、肥料費、農機具費など)を差し引けば、金額はもっと少なくなる。つまり、こうした農家のほとんどは他に主収入のある兼業農家か、高齢者だけでほそぼそと農業を続けている家、なのだ。 明らかに赤字経営の零細農家が、それでも農業を続けているのはなぜか? 久松氏はその理由を「惰性」と表現する。引用しよう。 零細な家族経営は、個人の資産形成と不可分の設備で運営されています。先代が建てた納屋で、助成金を使って購入した古い機械を大事に使いながら、食う分だけの田んぼを年金補填で続けている、といったケースが山ほどあります。街場で言えば、家賃のかからない「軒先商売」を何となく続けている小さなお店に似ているかもしれません。能動的に続けているというよりは、辞めるきっかけを持てないでいる、という消極的な選択です。 日本の農家、特にコメを作っている稲作農家が、政府からの助成金や補助金をもらっているおかげで「儲かる農業」への経営意欲を失っているという話は、いろいろなところでよく聞く話だ。 また、久松氏によれば、耕作者が安定して農業を続ける権利を保護するために設けられた農地法が、農業をしていない「農家」の「特権」になってしまっているという。 その人たちは、もし子供が地元に帰ってきたら家を建てるかもしれないし、そうでなかったら誰かに宅地として売ればいい、という「出口戦略」を持っています。いざとなれば宅地に化ける権利があるがゆえに、農地が農業の生産手段として有効に利用されずに塩漬けになることを制度が後押ししてしまったわけです。 後継者不足で耕作放棄地が増えていく現状を嘆く声をよく聞くが、そもそも日本の農地は計画的に開発されたものではなく、農業に向いていない場所を無理やり開発した土地だった、ということも珍しくないのだという。つまり、「農地ももっと減っていい」のだ。 さて、こうしたことが久松氏の『農家はもっと減っていい』の主張の背景にある「日本の農業」の現状である。赤字経営の零細農家を多数抱えた日本の農業は、年齢層のピークが70代に達しており、「大量離農時代」がすぐにもやってくることが予想されているが、久松氏はそうした状況を「当たり前のこと」としてシニカルな目線で眺めているように見える。 ひと握りの3.8%の上位層が日本の農業の53%を稼いでいる ただ、『農家はもっと減っていい』は、単に古くて時代の変化の流れにのれない日本の農業を批判するだけの本ではない。そこのところは、落語でいう「まくら」に過ぎず、農家の「大淘汰時代」のよそで起こっている、もうひとつの重要な潮流について語っている。実はそこからの部分が本題なのだ。 その潮流とは、圧倒的多数の零細農家のそばで登場してきた、ひと握りの大規模農家の存在である。 ひと握りの大規模農家については、前出の農林業センサスのデータに照らし合わせると、次のような事実がある。 2015年から5年間で全農家数は2割減っているが、売上3000万円以上の上位層3.8%の数は増えている。 売上3000万円以上の上位層3.8%の農業産出額は、全体の53%を占めている。 まるで、グローバリズムを語る文脈のなかで「スーパーリッチと呼ばれる1%の超裕福層が、その他69億人の富の2倍以上を保有している」などと語られる言いまわしを連想してしまうが、久松氏は「黒船のようにやって来た大規模農業の脅威」を批判する人に対して、こう反論している。 知っておいていただきたいのは、批判する人たちが「大規模農家」と呼んで一方的に敵視する経営体の多くは、売上高1億円から数億円程度の、一般の世界では中小零細と呼ばれる小さな経営体だということです。稲作を例に取ると、メガファームと呼ばれる100haの大面積をこなす農業法人は栽培技術においても経営マネージメントにおいても、農業界のJリーガーのようなトッププレイヤーです。それでも、業界内でのチャレンジの大きさとは裏腹に、売上はたったの1億円しかありません。 つまり、地域の支えや政府からの助成金や補助金に頼ることなく、リスクを背負いながら次代に向けた経営に取り組む農業者の挑戦を評価することなく、闇雲に批判するのは欺瞞である、というのだ。 久松農園の型破りな経営戦略「小さくて強い農業」とは? おもしろいのは、「リスク覚悟で未来を切り拓く経営者」という点で久松氏は「大規模農家」と共通しているが、あえて同じ道を目指すのではなく、「小さくて強い農業」という独自の路線を追求していることだ。久松農園の年間売上は5000万円程度というから、「たったの1億円」の大規模農家の半分に過ぎない。 本書で語られる久松農園の特色をピックアップしてみよう。 久松農園を例に取ると、美味しい品種を旬の時期だけつくり、鮮度良くお客さんに届ける、という美味しい野菜づくりのロジックがあります。季節ごとに移り変わる多品目の野菜をシーズンに少量ずつつくる、という家庭菜園のような農業をしています。 久松農園では、多くの人に売れそうなもの、をつくるのではなく、まず自分たちが食べたい野菜をつくり、それをお客さんにおすそわけする、という順番でつくるものを選びます。 マーケット業界では、顧客のニーズを優先することなく、つくり手がいいと思うものをつくって売るという考え方を「プロダクトアウト」というが、これからの時代は顧客が望むもの、売れるものだけを作り、提供するという「マーケットイン」型のビジネスモデルにシフトしている。 もちろん、これまで圧倒的にプロダクトアウト型だった農業も、マーケットイン型になっていかないと産業としての未来はない、ということはよく言われていることだ。 にもかかわらず、久松農園はそのような流れと逆行する、古くさいように見える「プロダクトアウト」戦略を採用しているのだ。 これから農業を始めようとする人は必読の「秘伝書」 もちろん、そこには久松氏独自の計算がある。「価格競争の土壌に乗らない」、「皆がいいと思うものに手を出さない」、「セールスポイントを曖昧にする」など、久松氏はアクロバティックな奇策を惜しげもなく開陳し、「小さくて強い農業」の可能性を指摘している。 ここではくわしく紹介できないが、これから農業に参入しようと思っている人にとっては「秘伝書」とも言える価値のあることが書かれている。 とにかく感心するのは、その熱量である。 第6章「新規就農者はなぜ失敗するのか」では、現状の日本の農業がいかに新規参入に不利なのかを指摘し、脱落していく新規就農者の実例を紹介しながらその難しさを語る。そして、最後の第9章「自分を『栽培』できない農業者たち」では、異業種から新規参入した自身の失敗談を赤裸々に語っている。 第4章「難しいから面白い ものづくりとしての有機農業」と、第7章の「『オーガニック』というボタンの掛け違い」については、世間の多くの人が抱いている「有機栽培」というもののイメージを覆させられる考えが表明されていて、目が開かれた。 新書というと200ページ前後が標準というイメージがあるが、本書は375ページの分量で、しかも隅々まで濃い内容がつぎ込まれている。著者の久松氏が、現在の知見のすべてをつぎ込もうと、渾身の力を込めて執筆したのであろうことが伝わってくる良書だった。
2022/12/28
今回は「人体」を真正面からテーマにした2冊を読んでいこう。 2021年のほぼ同時期に刊行された『すばらしい人体』(ダイヤモンド社)と『人体大全』(新潮社)だ。前者は日本の若き外科医が書き、後者は米国生まれでイギリス在住のノンフィクションライターが書いたもの。いずれも、★4つをつけられるオススメ本だ。 国籍、年齢、職業ともに立場を異にしているふたりだが、飽くなき探究心で「人体」の神秘について、情熱をこめて語っている。 「書店で見かけたけれど、分厚くて敬遠した」という人も多いだろうが、うさんくさくて薄っぺらい健康本やダイエット本を読むより数倍、いや数十倍は有益な2冊である。 ここでは、その魅力のごく一部しか紹介できないが、興味が湧いた人は、是非とも目を留めていただきたい。 人体の神秘を解き明かす『すばらしい人体』と『人体大全』 まずは、両書の著者の来歴を紹介しておこう。 2021年8月に刊行された『すばらしい人体』の著者は、2010年に京都大学医学部を卒業した若き消化器外科専門医の山本健人氏(SNSなどでは「外科医けいゆう」として知られている)。彼が開設した医療情報サイト「外科医の視点」は3年間で1000万ページビューを超えるという。 同じ年の9月に刊行された『人体大全』の著者のビル・ブライソン氏は、米国アイオワ州出身でイギリス在住のノンフィクションライター。これまでに『人類が知っていることすべての短い歴史』(新潮文庫)などの著書が翻訳され、日本で出版されている。 私は『人体大全』のほうを先に読んでいて(刊行されて2か月後の2021年11月)、それより2週間ほど前に刊行された『すばらしい人体』は2022年12月、7刷16万部のベストセラーになってから読んだ。 一般的な書籍の場合、「ヒット」と呼べるのは数1000部以上が売れた場合で、「大ヒット」は2万部以上、「ベストセラー」は10万部以上が目安と言われている。 よって、読後1年ほど経ってしまっている『人体大全』に何が書いてあったか、おぼろげにしか覚えていない状態で、『すばらしい人体』を読んだわけだ。 1年前に読んだ本の内容をほぼ忘れているというのは、『人体大全』に限って言えば、仕方のない面がある。総ページが参考文献リストも入れて512ページもあり、「人体」の臓器別、症状別に分かれた23章の内容は、5~10行くらいの、「人体に関するウンチク話」を膨大に積み重ねた構成になっているからだ(長い話でも、せいぜい1~2ページくらい)。 小説を読んで、1年後に登場人物の名前を覚えていないことはよくあることだろうが、全体のストーリーや、自分がそれを読んだとき、どんな感想を持ったかは、容易に思い出せるはずだ。だが、こと『人体大全』のような小ネタ満載のノンフィクション本になると、そうはいかない。 というわけで、今回のブックレビューは、山本氏の『すばらしい人体』を読んで「へぇ~」と思った部分と呼応するネタをブライソン氏の『人体大全』に探してみるという、ちょっと変わった読書法を試してみることにした。 『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』 著者:山本健人 発行:ダイヤモンド社 定価:1700円(税別) ボブ的オススメ度:★★★★☆ 『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』 著者:ビル・ブライソン ...
2022/12/16
介護施設への入居について、地域に特化した専門相談員が電話・WEB・対面などさまざまな方法でアドバイス。東証プライム上場の鎌倉新書の100%子会社である株式会社エイジプラスが運営する信頼のサービスです。